次回作「もしなる2」

「もしなる2」プロローグ
「今日で辞めるわ、ここも」
「! ・・・」
心臓がドクンと脈打った。隣の菜純ちゃんも、思わず手で口を塞いだ。
「もちろん、由璃ネエには感謝しとるで。会えてよかったと思うとる。でもうち、所詮無理やってん、英語を話すなんて。だって英語がそんなに得意な由璃ネエでさえ、話せんのやろ? そんなん、うちにできるわけあらへん。単語も文法もできんヤツは、英会話のステージにまで、辿り着けるわけないねん」
「でっ、でも!」
「授業料のことやろ? 安心せえ。踏み倒したりはせえへん。溜まっとったものやったら、ATMから毎月、振り込むわ。もうここには、来づらいからな。あっ、ちなみに今月分は、今日までにしといてもらうこと、できるか?」
「ちっ、違うの! お金のことじゃなくて、」
「すまんな由璃ネエ、出来の悪い生徒で。今までえらい迷惑かけてもうたわ。70点も取れへんで、ホンマにすまん。あんだけ補講もしてもろうたのに、申し訳なくて、もう合わす顔すらないわ。ホンマ、うちがアホすぎたねん。ほんで、なずもすまんかったな、ずっと勉強の邪魔してきて。うちと喋っとったら、アホが移るから、一緒におらん方がええねん。これからは、授業中、由璃ネエにもっと色々聞き。まあ、恋愛相談だけは、違う先生にしたほうがええけどな」
カッカッカッと笑って、四葉はガタッと立ち上がった。
「四葉!」
「よっちゃん!」
恐らくだが、この子は授業の初めに、こう切り出すことを、ずっと決めていたのだろう。今の謝罪の言葉だって、ずっと考えてきたに違いない。でも、なかなか踏ん切りが付かなかったので、きっと授業にも遅れてきたのだ。
しかし、違うのだ。私はこの子に、こんなことを言わせたいんじゃないのだ。そう、この子に言わせたいのは、「由璃ネエのおかげで、英語が話せるようになったわ。ありがとうな」なのだ。
「手続的なことはこれでええか? それとも何か、やっぱり書かなあかんのか?」
無造作に、ポケットからペンを取り出した四葉に、
「ねえ・・・諦めるの、四葉?」
「はあ?」
「たかが一年やってダメだったからって、もう諦めちゃうの?」
「だからええって、もう。英会話の本の著者とか見てみいや。みんな東大卒とかハーバード卒とか、ええとこの大学ばっかりや。うちとスペックが、もともとちゃうねん。うちなんて、英語はいつも1か2や。ハナから無理ゲーやん、そんなん。そういや、前にエリートにも言われたわ。もしもお前が英語話せるようになるんなら、犬や猫も会話し始めるわって」
グッと私は、拳を握った。たとえ冗談だとしても、それはない。そうやって、心のない言葉を掛け続けることで、この子は自分のことをバカだ、英語は無理だ、と思い込んでしまったのだ。
「言葉って、本当に怖いんですよ。時には、事実すら曲げてしまうことがありますからね。つまり、『暗示効果』です」
やはり、有紀さんの言葉を思い出した。そう、この「暗示」は私が解かないと。
「それに将来、完璧な翻訳機もできるんやし、だったらもうそれでええやん。今、英語真剣に勉強したって、青春の無駄使いやわ(笑)」
その瞬間、だ。ふと私の体に「何か」がすうっと、乗り移ったような気がした。
「ねえ・・・心は、あるのかな? 翻訳機に」
「はあ?」
「四葉は確か、将来英語を使って、人と分かり合いたい、とか言ってなかったっけ? 世界中に友達を作るんじゃなかったっけ?」
「何や、どうしたんや、いきなり。真面目な顔して」
「機械を通して伝わったものって、心がないでしょう? ただ、文字を変換しただけみたいな。声だって、機械音じゃない? そんな翻訳機に頼って、本当の友達ができるの? 四葉だって、日本に来た外国人が日本語を覚えようとしなくて、ずっと翻訳機に頼っていたら、やっぱり嫌じゃない? こいつとは別にもういいやってならない?」
「な・・・何やねん、由璃ネエ。なんか、いつもとちゃうやん」
四葉は眉間に皺を寄せて、「この後、友達と遊ぶ約束しとるから、もう帰ってええか?」とぶっきらぼうに言った。
いや、ダメだ。ここで今、真剣に向き合ってあげないと。そうしないと、この子は一生を台無しにしてしまう。この子の将来に手を差し伸べられるのは、世界で「私だけ」だ。
「ねえ、四葉はさっきから、自分の頭が悪いから、英語が話せるようにならないって何回も言うけど、だったら英語圏の人はみんな頭がいいわけ?」
「はあ?」
「だって、向こうは誰でも英語を話せるよね? それこそ、小さい子供でも。ってことは、『頭のいい悪い』は関係ないんじゃないかな、『英語を話せる』って」
「・・・」
私は自分の人差し指を見せて、
「例えばこれ、何? 日本語で」
「なんや。人差し指がどうしてん?」
「ねえ、どうして四葉は『人差し指』って言葉を言えるの? 頭がいいから? 『人差し指』って漢字が書けるから? 国語の成績が4や5だから? 英語でその名称を知っているから?」
「はあ? ちゃうやろ。そんなん、誰でも知っとるやん(笑)」
「じゃあ、どうやって覚えた? 人差し指は」
「そんなん・・・忘れたわ。でも、誰かが言うとってんの、聞いて真似したんやろ、どうせ」
「でしょ? ノートに漢字を書いて、勉強したんじゃないよね?」
「・・・」
「でね、この指はね、『index finger』っていうの、英語だったら」
四葉は再び眉間に皺を寄せた。
「さあ、私に続いて、言ってみて。『index finger, index finger, index finger,』」
「はあ? 何でやねん」
「言って、ほら。『index finger』って。ほら、『index finger, index finger,』」
「嫌や。そんなん、アホらしい。もううち、帰んねん。英語なんてもう、大っ嫌いなんや」
食いさがる私に、かなり苛立っているのが、見て分かった。こうなると、四葉はますます頑固になる性格だ。どうすれば私の言うことを、聞いてくれるだろう。
しかし、その時だった。背後から、可愛い声で「インデックスフィンガー、インデックスフィンガー」という声が聞こえてきた。ハッと振り返ると、菜純ちゃんが、自分の人差し指を見ながら「インデックスフィンガー、インデックスフィンガー」と繰り返していた。その目が、涙で盛り上がっている。
「な、菜純ちゃん・・・」
「ねえ、よっちゃんも私と一緒に言おう? ほら、インデックスフィンガー、インデックスフィンガー」
「なず・・・」
その姿を見て、さすがの四葉も申し訳なくなったのか、「わーったよ」と言って、私の人差し指を見ながら、「index finger, index finger,」とぶっきらぼうに、20回ほど繰り返した。良かった、これで繋がった。ありがとう、菜純ちゃん。よし、でもこれできっと、四葉のインプットはOKだ。
「はい、じゃあ、これなーんだ?」
そう言って私は、今度は四葉の人差し指に触れた。
「何って・・・だから、『index finger』やろ?」
「ほら、覚えられたじゃない、単語。こんな一瞬で。1分くらいでしょ」
「・・・あっ」
四葉の瞳に、一閃の光が差したような気がした。ここだ、突破口は。
「なーんだ、全然、馬鹿じゃないじゃん、四葉。私、もっともっと、お馬鹿だと思ってた。何回口にしても、何にも覚えられないような子だって」
「な・・・何やねん、由璃ネエ。それは、失礼ちゃうか」
「何やねんって、今、証明したんじゃない、四葉は全ッ然、馬鹿なんかじゃないって。だって、知らないよ、みんな。これを『index finger』って言うんだって。明日学校行ってから、聞いてみなよ。もしかして、エリート先生も知らないんじゃないかな。いや、絶対に知らないよ。だって、試験には出てこないもん」
「そっ・・・それが何やねん、偉いんか?」
「偉いよ。だって、ネイティブがみんな知ってて、ほとんどの日本人が知らないことを知っているんだよ? こうやって、ただ単に、ネイティブが知っている言葉を一つずつ口にして、覚えていけばいいんでしょう? 『英語を話せる』って」
「・・・」
「頭のいい悪い、は関係ないの。勉強だと思うから駄目なの。単に、繰り返して言うだけの話なんだから。日本語だって、何度も繰り返し言ってきたから、覚えられたんでしょう? 言葉はね、『音と場面の記憶』なの」
言った瞬間、自分でも驚いた。これは確か、有紀さんが言っていた言葉だ。もしかすると、先ほど私にすうっと乗り移ったのは、あの人か。そうか、いるのか、あの人が、ここに。
「もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになるか」に続く、3年ぶりの新作「もしなる2」を描きました。
「もしなる」出版後の3年間で、ネイティブや生徒さんたちと話してきて、気付いたこと、分かったことを次作で描きました。
「インパクト」と「感動」は、前作を遥かに凌駕します。内容は『一人の女子中学生と一人の塾講師、そして有紀君の物語』です。
もしも「中学英語で話せる」のであれば、なぜ21世紀になっても、英語を話せる中学生が出てこないのだろうか。
そして、「中学英語で話せる」のであれば、高校3年間で習っている英語は一体、何なのだろうか。
なぜ書店に今、「イメージを使った教材」が流行っているのか。
どうして私たちは、海外ドラマが絶望的に聞き取れないのか。
どうして和製英語がこうまで氾濫してしまうのか。
なぜ受験の後に、徹底的に学校英語が叩かれることになっているのか。
どうして日本人の大人は、何度も「やり直す」のか。英語に苦しみ続けるのか。
その他、英語におけるたくさんの「どうして?」には、すべてにおいて、確たる理由があります。そして全部、根は一緒です。
あの葛城有紀がこの3年、英語と向き合い、何を見てきたのか、何を考えてきたのか、日本人の英語の学び方を「根底」からひっくり返します。
受験や資格などとは関係なく、「ただ純粋に英語を話せるようになりたいだけの15歳の女の子」と、「その子をただ純粋に話せるようにさせたい一人の塾講師」が、時代に抗いながら、日本の行き詰った英語に、新しい風を送りこみます。
どうか、お読みください。