日本語に切り替えず、英語のまま理解する

金沢優について

こんにちは、金沢優と申します。

日本生まれの日本人です。そしてその昔、脚本家をしていました。

そしてその後、塾業界と英会話業界を渡り歩き、生徒や講師、そしてスタッフという立場から、「日本人の英語」の裏側をずっと見てきた人間でもあります。

そして、こう言うと反感を買うかもしれませんが、その中で私は「日本人がどうしてどれだけ勉強しても英語を話せないのか」、その真の原因に気づいてしまいました。

それは、「学生時代に受験英語を極め」、そして「英会話に挫折し」、その後、「教育業界で沢山の生徒たちと接し」「国内で英語を話せるようになっていった」、全ての経験があるからこそ、気付けたことです。

ここでは「私と英語」について、お話します。

それは英語に振り回され続けてきた、一人の日本人の物語でもあり、ほとんどの日本人の物語でもあります。

「学生時代」ー受験英語はできたが、英会話に挫折

さて、私は「受験英語が大得意」な人間でした。大学に入学する前、偏差値は軽く70は越え、全国模試にも名前が載ったことがあります。

なぜ英語が得意だったのか。留学でもしていたのか。

いいえ、ただ単に「英和辞書を丸々一冊覚えてしまった」だけです。

長文問題はすべて、一瞬で日本語になりました。解けない読解問題はありませんでした。そして、英文法も極めてしまいました。

入学したのは、上智大学。国際色豊かで、「誰もが英語を話せるイメージ」を持たれるかもしれませんが、それは帰国子女や一部の人たちだけで、受験英語をくぐり抜けてきた人間は、英語を話せませんでした。

どうしても英語を話せるようになりたかった私は、ある大手の英会話スクールに入り、そこで数十万円の授業料を払いました。

「毎週ネイティブとレッスンをしていれば、いつの間にかペラペラになる」

当時、そう考えていました。なぜなら、受験英語を極めたのですから。「話せる」ための下準備は十分。

しかし、英会話スクールを経験した方にはお分かりになると思いますが、どれだけ通っても、上達を感じなかったのです。毎回毎回、一方的に喋られるだけ。マウンドに登っては大炎上するピッチャーのようでした。

こうして足が遠のき、いつの間にか私は英会話を諦めていました。「英語を話せるようになるには、英語圏に住まないと、無理なのだ」と。

当時、私は家族のこともあり、日本を離れられませんでした。

「社会人時代」ー英語とは無縁の生活

大学を卒業し、私はテレビ業界に就職し、英会話とは無縁の人生を送りました。

そう、一旦英語から完全に離れたのです。

そして、いつの間にか私は脚本家になっていました。

「すべての日本人を感動させるようなお話を書いてみたい」

それが当時、描いていた夢です。

しかし、浮き沈みのある業界です。「安定した生活」とは無縁の人生になります。

こうして一旦私はそれに区切りを付け、塾講師に転身しました。仕事を続けながら、いつかまた作品を書ければいいな、と考えたのです。

「塾講師時代」ー再び学校の英語と向き合う

自分が学生時代だった時から、10年以上は経っていました。そのため、私は少し不安でした。

「今でも自分は生徒たちに英語を教えられるのだろうか、内容も大幅に変わっているのではないだろうか」

そして、実際に今使われている教科書を見て、学校の定期テストを見て、学校で行われている授業の話を聞きました。

すると驚くべきことに、教えられている英語は、何一つ変わっていなかったのです。

単語帳で単語を覚え、文法を学び、長文問題を訳す。

英語を学ぶゴールは「英語を話す」に向けて大きく変わっているのに、教えられている英語は、私の時代と同じ学び方だったのです。

正直、ホッともしました。まだ、私はこの時代でも英語が教えられるのだ、と。

こうして、ブランクがあっても、私は何不自由なく、子供たちに指示を出せました。テストの成績も上げられました。

いつも30点以下の子が、「先生やったよ!」と70点の答案用紙を裸で持って、学校から塾まで走ってきたこともありました。

「これでいい」と、思っていました。「これが生徒のためだ」と、信じて疑いませんでした。

しかし、ある日のことです。

何年も教えてきた一人の生徒が、高校に合格したのです。

普通であれば、高校に受かれば塾は辞めるのですが、その子は「続けたい」と言いました。そして、私にこうお願いしたのです。

「先生、私、英語を話せるようになりたい。高校に入ったら、英文法じゃなくて、英会話を教えて」

この時の私の気持ちは、今でも忘れません。

古傷が再発したように、じわじわと痛みました。寂しさも感じました。

というのも、その子は私が「be動詞」から教えた子です。それなのに、その子の「話せるようになりたい」という気持ちに応えることができない。英会話スクールや留学を勧めることしかできない。

最後の最後の「話せる」に向けての大事なステップを、私の知らないネイティブ講師に渡さないといけない。何も手伝えない。

そして、その子も私のように失敗するかもしれない。一方的に喋られて、痛い目に遭うかもしれない。

学生時代、極めた英語。結局花が開かず、受験のためだけに使える英語

こんな「クソったれな英語」に今の時代、何の価値があるでしょうか?

途端に自分の教えている英語やテキストが色褪せて見え、私は英会話業界に飛び込みました。今度こそ、もう一度、「英語をモノにしてやろう」と。

ちょうどその時、ある英会話教室が求人を募集していました。受けに行った面接は、一発合格でした。

「英会話講師時代」ー英会話に再挑戦

私は、あの入社初日のことを、いまだにハッキリと覚えています。そこの先輩社員が私にこう言ったのです。

「今まで日本人は『話せる』に向けて、無駄なことをしてきたんだよ」

私は「は?」と思いました。「無駄なこと」とは何のことだ。私は誇りを持って、子供たちに英語を教えてきたのに。

今までの人生を馬鹿にされた気持ちでした。

そしてそこは、とてもおかしな英会話教室でした。生徒は皆、一人でイラストを見ながら英語の音を聞き、ブツブツブツと英語を呟いていたのです。

「変なところに転職してしまったな」と、正直後悔しました。

考えていた英会話スクールのイメージは、ネイティブ講師と笑い合って、スラングや便利フレーズを教えてもらえるような、そんな楽しいところ。

こうして私はその後、英語を話せるようになるために、再び英和辞書を覚え始めたのです。

英語を話せるようになるためには、英語と日本語のペアを沢山揃え、頭の中で瞬時に英作文をすればいいのだ、と。

しかし、すぐにこのやり方が、「話す」には「非現実的」だと悟りました。

そう、合わないのです、英語と日本語の考え方が。文の構造もほぼ真逆です。

そして折角組み立てた英語も、ネイティブに「不自然だ」と言われました。冠詞、前置詞、時制、所有格も間違い続けました。「ガチャガチャ」な英語になってしまうのです。

そう、「英語→日本語」と「日本語→英語」は同じ距離、同じ工程に見えるのですが、難易度が全然違うのです。

こうして私はまた、英会話に挫折しかけました。英語が口から出てこない。頭の中で文が作れない。表現集も文字だらけで、覚えられない。発音まで頭が回らない。一向に上達を感じない。

テストはできるのに、なぜ「話者へのハードル」はこんなに高いのだろう。

「やっぱり、国内では英会話は無理なのだ」と諦めかけました。

しかし、そのときです。

私は苦しみの中、ようやく「気付いた」のです。一体「日本人の頭の中」に、何が起きてしまったのか。

どうして、向こうでは幼児でも英語がペラペラ話せるのか。そしてどうして私たちは、こんなにも英語を勉強しているのに、向こうの幼児以下のスピーキング力なのか。

恐らく、私ほど「英語と日本語の狭間」を考え、国内で苦しんだ人間は、そういないと思います。

こうして私は、「どうすれば英語を話せるようになるか」よりも、「どうして話せるようにならなかったのか」「言葉とはどうやって紡がれるのか」を、先に考えないといけないことに気が付きました。

さて、ここで質問ですが、私たちは「どうやって日本語を話している」のでしょうか。

その「源流」には何があったのでしょうか。

それがなのかに気づいた時、私には全てが分かりました。そう、残念ながら、あれは「真実」だったのです。

「今まで日本人は『話せる』に向けて、無駄な努力をしてきたんだよ」

東から廻れば誰もがすぐに到達できたのに、西廻り航路を辿ってしまっていた。

英語を学ぶ目的が、学校の中で『話せる』に向いていなかった。

中学一年生の時から、進むべき一歩目を間違えてしまっていた。

自分は卒業してからもずっと、「高校三年生」を延長していた。

ずっと英語を、「お勉強」してしまっていた。

今まで抱いてきた、「英語の疑問」が全て繋がった。

話せなくて、当然だった。

視界がようやく開けた。

盲点だった。

「違う窓」から、英語を覗いていた。

日本人が英語を「聞けない・話せない」カラクリがわかった。

そして同時に自分は英語を、一つも学んでいなかったことに気づいた。

英語をずっと「教科」として捉えて、「言葉」として捉えていなかった。

私がその教室の英会話講師になったのは、それから数ヶ月後のことです。口頭練習の末、その時には、英語が話せるようになっていました。

現在に至るまで

その後、私は大手の英会話スクールの本部で働くことになりました。

そして、ネイティブ講師を面接したり、講師を連れてレッスンを提供したり、私自身も英会話講師・TOEIC講師などもしました。仕事の大部分を英語でこなしました。

もう普通に英語は、「自分の日常」になっていました。

しかし、これはどこの現場に行っても痛感したことです。

そう、どんな優秀なネイティブ講師を連れて行っても、どんな完璧なカリキュラムを組んでも、どれだけレッスンを沢山取ってもらっても、日本人は英語を話せるようになりません。

なぜかというと、それは「無駄な努力を延長してしまう」からです。

単語を単語帳で覚え、文法を学び、長文問題を訳す。

たとえネイティブが隣にいても、今まで同じやり方をし、学校で習ったことをしてしまっています。

たとえ高校四年生があったところで、英語は話せるようにはならないでしょう。

こうして私は、挫折する沢山の生徒さんたちを見ながら、どうすれば皆さんが報われるのかを、ずっと考えていました。

誰かが、この「負のスパイラル」を断ち斬らないといけない。そうしないといつまで経っても、国家レベルで「話せるようにならない英語」を継続してしまう。

教育業界、英会話業界にいた誰かが、声を上げないと。

その時、ふとその昔、脚本を書いていた時のことを思い出しました。

「一人の英語に挫折した日本人が、今までの学び方のエラーに気づき、国内で少しづつ話せるようになっていく、感動サクセスストーリー」を描いてみたい。

久しぶりに書いたその物語が脚本賞を受賞し、大幅に加筆修正を加え、こうして小説『もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになるか』が出版されました。

そして、読まれた多くの方から、共感を得られました。自分たちが「どうして英語を話せなかったのか」、その原因が何十年も経って漸くわかった、と(よければ、Amzonなどのレビューをご覧ください)

そう、読まれた方は分かったと思いますが、学校の英語は元から「話せる」ようになるために、プログラミングされていなかったのです。

そして、その「中身」を変えず、あれこれ付け足しただけになってきたから、「聞けない・話せない」問題がそのまま残り続けてきた。それだけのことです。

高校が終わった後に、いきなり「シャドーイングがいい」「音読がいい」「海外ドラマがいい」「独り言がいい」などと、方法論が飛び散るのはそのせいです。

そして出版から約3年、SNSなどを通じ、また沢山の読者さんとも出会い、私はこの物語には続きが必要であることを痛感しました。

やはりもう一度、日本の英語教育と向き合い、この古い時代にケリをつけておかないといけない。

「葛城有紀」と「吉原龍子」をもう一度、連れ戻さないといけない。彼らに古い時代を、もう一度「斬って」もらわないと。

日本人が英語で報われるように。もう一度、日本が世界に浮上できるように。

そして、その時、その物語があなたの側にあるように。

今はただ、そう願っています。