英語という「教科」から、英語という「言葉」へ
金沢優、2年ぶりの新作、英会話+ハウツー小説「もしなる2」

「もしなる2」1.英語ネイティブは魔法使い

1、英語ネイティブは魔法使い

「なあ、由璃ネエ。うちなあ、心の底から思うねんけどな、英語を話す外国人ってどんな頭ん中しとんのやろな。みんな天才ちゃうか」

「みんな天才? どういうこと?」

「だって、うちらがこんなに苦労しとる文章をあいつら、スッスッスッて書いたり話すんやで。日本人やったら、こんな文章書くんに、丸々一週間はかかるやろ。そんなん、魔法使いのおっちゃんみたいなもんや」

梅雨明けした、七月初旬の生ぬるい空気の中、右隣に座る熊田四葉は、覆い被さるように、ぐでーっと英語のテキストの上に突っ伏した。どうやら今日は、あまりやる気のある日ではなさそうだ。

私、若松由璃はこの個別指導塾『ヘッドスタート』に入社して、今年でもう三年目になる。大学を卒業して、はじめは保険会社に就職したが、仕事内容や人間関係に疲れて、結局一年で退職した。

とりたてて将来の目標もなく、何となく生きてきた私は、大学時代にアルバイトで三年間勤めていた個別指導塾『ヘッドスタート』の社員募集の広告を転職サイトで目にした時、運命の糸のようなものを感じた。

そして、その予感は面接に行った時に、一本の太い線となった。というのも、その時の面接官が、以前校舎で働いていた時のマネージャー、松尾茜さんだったからである。

その瞬間、まるで初めからこうなる定めであったというような気がした。そう、学生時代のアルバイトも、以前の会社勤めも、ここの社員になるまでの通り道だったに違いない。

こうしてアルバイト時代の勤務態度も良かったことから、私はその場で採用の確約をもらった。もう、この会社でずっと塾講師として生きていこう、と心に決めた瞬間だった。

しかし、思い描いていたものと現実は、大きな乖離があるものであると、私は入社してから思い知った。というのも、またアルバイト時代のように、毎日楽しく子供に勉強を教えて終わりだと思っていたのだが、社員研修を重ねるたびに、私は塾業界の実態がだんだんと分かるようになった。

そう、塾会社の社員の仕事は、生徒に「授業をすること」ではなく、生徒に「授業を取らせること」がメインだったのである。というのも、教えるのは別に社員である必要は全くなく、安い時給でまかなえる大学生たちで構わないからだ。私たち社員の仕事は、彼らアルバイトを最大限に利用して、利益を十二分に出すことにあった。

もちろん、教育業界とは言えど、一営利団体である以上、利益をとことん追求しないといけないのは、今にして思うと、当然のことである。教師のような公務員とは違うのだ。

こうして私たち社員は、学期ごとに数字目標が与えられ、面談や電話掛けなどで生徒や保護者を説得させては、沢山の授業を取らせないといけなかった。また、夏休みなどの講習期間は新規生徒の募集期でもあり、生徒づてに友達の勧誘活動をしたり、各所にDMを送ったり、既存生徒の兄弟姉妹を誘ったり、ありとあらゆる手段で生徒数を増やさないといけなかった。

そのため、元から営業が苦手な私は、これらの業務内容に気が滅入ることが多々あった。そう、子供に勉強を教えるためにここに入ったのに、やっていることは営業マンと何ら変わらなかったからだ。

「なあなあ、由璃ネエ。こんな暗号みたいなもん、あいつら、目があっち行ったりこっち行ったりせーへんのかな。これって、国語の授業でやっとる漢文のレ点みたいやん。後ろから読んで前に行くって。頭ん中、ぐちゃぐちゃになるわ。でもこんなん、あいつら一瞬で処理しながら話したり、聞いたりしてんねやろ? 予知能力でもあんのか?」

しかし、この塾のまだいいところは、授業の全てをアルバイト大学生たちに丸投げしないところにあった。もちろん彼らほどガッツリと授業を受け持つことは物理的に不可能だが、週に何日かは「先生」として稼働し、授業を受け持つことができた。

ちなみに社員が授業を受け持つ意図というのは、ティーチングスキルの維持や、アルバイト大学生たちに授業の規範を見せることなどである。そう、社員が全く授業をしなければ、現場との溝も生じてしまう。

あくまで社員の仕事は営業活動がメインだが、扱っているものは「生徒の成績」である以上、社員が直に授業をするのは、思えば当然のことだ。

そして授業をしている間はそういった数字のことなど全く考えず、まるでアルバイト時代だった時のように、楽しく子供たちに勉強を教えることができるのだ。

もしもこれが、営業一色の業務内容であったのであれば、恐らく私は一年も続かなかっただろう。やはり、子供との授業は面白い。生徒とのコミュニケーションが、私の仕事のモチベーションでもある。

「なあ、やっぱりあいつら、日本人より頭いいに違いないわ。処理速度が全然ちゃうやん。うちら日本人がガラケーなら、あいつらスマホみたいなもんや。あー、なんでうち、日本人なんかで生まれてもうたんやろ」

そして、先ほどから、ひっきりなしに話し掛けてくる四葉は、私が担当する花塚中学校の三年生である。ちなみにこの校舎には私を含めて、三人の社員がおり、それぞれの学区によって生徒の担当が分かれている。

東京との境目にある、埼玉県の花塚市というエリアにある学校の生徒は、手続きなども含めて全て私が窓口になっている。

「ねえ、先生。これ解いてもいい?」

一方、幼い声でそう尋ねてきたのは、左隣に座る、栗原菜純(なずみ)ちゃんだ。同じく私が担当する、花塚小学校の五年生である。

ちなみに、ここ『ヘッドスタート』は集団塾ではなく、先生一人につき、二人の生徒を同時にみる、個別指導型の塾である。

広いフロアの中に丸テーブルが等間隔でポツポツと置かれ、先生はその中央に座り、両隣に座る生徒を指導する。初めて私がこの塾に訪れた時、まるで家庭教師が各テーブルに座っているカフェのようだと思ったものだ。

基本的に、塾のスタイルは大きく「二つのタイプ」に分かれる。まずは昔からよくある集団塾で、これは学校の授業の延長のようなスタイルだ。通う層は、学力が比較的高めの子が多い。

そしてもう一つは『ヘッドスタート』のような個別指導塾で、これは先生一人に対し、生徒が数名の授業スタイルである。こちらは集団授業ではついていけない子や、分からないことはすぐに質問したい子に向いている。もちろん中には菜純ちゃんのように、勉強が得意な子もいるが、平均的な層としては、学力が低めな子が多い。

また、どうやって一度に二人の子を同時に教えられるのか、と疑問に思う人もいるかもしれないが、別にそれは難しいことではない。例えばAさんとBさんという、二人の生徒がいたとすると、授業中、先生はまず、Aさんに解説を行い、Bさんにはその間、一人で問題を解かせておくのだ。

そしてAさんの解説が終われば、その後、一人で取り組む問題の指示を出す。そして、その頃にはちょうどBさんが問題を解き終わっており、その間違えた問題や分からなかったところの解説に入る。

こうして、「解説」と「一人で問題を解かせる」のローテーションを交互に無駄なく回すことで、先生は待ち時間なくフル稼働させられ、極めてコストパフォーマンスの高い授業を生徒に提供できるのだ。

それでは先生一人に生徒三人の割合にしてしまえばいい、そうすれば、もう一人分の授業料がもらえるじゃないか、と思うかもしれない。しかしこれは、生徒の学力によっては、授業が破綻してしまう可能性が出てくる。

例えば菜純ちゃんくらいの理解力であれば、スッスッスッと一度に三人回すことは物理的に可能だろう。しかし、もしも四葉のような子が三人同時に受けたら、この授業は確実に破綻してしまう。そう、ただでさえ、一人でも手が掛かるのだ。それが同時に三人もいたら、確実に解説が追いつかなくなるだろう。

こうして、四葉の授業がこの一年、ずっと破綻なく続けられているのは、隣がいつも菜純ちゃんだからである。こういう、凸凹コンビが個別指導にはバランス的にちょうどいい。

「雨降りそうな空を見上げては 浮かべた夢~♪」

いきなり四葉が小さな声で歌い始めた。そう、この子は唐突に歌を歌い始める癖がある。確か、この歌はココロオークションの『蝉時雨』だ。最近の四葉のお気に入りソングである。

とにかく四葉は歌を歌うことが好きだ。将来の夢も「歌手」と公言しているくらいである。四葉のように、自分の夢を恥ずかしげもなく口にする勇気など、私は今までの人生で持ち合わせたこともない。

そして、そもそもだが、自分がこの年代の頃に、将来の夢など真剣に考えたことすらない。「夢」とはいつだって、歌詞やドラマの中でしか存在しなかった。

そのため、まだ十五歳のこの子に、私は正直なところ、焦りさえ覚える。なぜなら、私よりも何歩も先を歩いている気がしてしまうからだ。進むべき方角が決まっているというのは、それだけでも他の人に比べて、アドバンテージがある。

そして私は改めて、四葉をまじまじと見た。日に焼けた健康的な肌。元々ソフトボール部のキャッチャーだったことから、体格がいい。158センチの私よりも五センチも高い彼女は、確実に私よりも胸がある。

一方、隣の菜純ちゃんは、同学年の中でも小柄な方で、見た目もとても幼い。しかし、その言動が時々、とても大人っぽく見える時がある。恐らく、家庭の中での躾が厳しいのだろう。

四葉と同時期に入塾してからこの一年、ただの一度も行儀が悪いシーンを見たことがない。授業の最初から終わりまで、ピーンと背筋を伸ばして授業を受け続ける姿は、開始1分でぐでーっとなる四葉と極めて対照的だ。

ふと、その時だ。涼しい風がスーッと窓から吹き抜け、カーテンがさわさわと揺れた。ぐるりと私は教室を見回し、他のテーブルの様子をうかがった。木曜夕方6時前のこの時間帯は、社員は私しかいないので、校舎の監督責任は自分にある。

約10人のアルバイト大学生たちが、それぞれのテーブルで授業を行なっている。ほとんどの生徒は小中学生だが、中には高校生もおり、幅広い年代の子供たちがこの校舎に通っている。そして、みんな学校もバラバラなので、学校帰りにこちらに寄る生徒は、制服もまちまちだ。

とにかく生徒は外見だけではなく、内面も含め、色んなタイプがいる。私はアルバイト時代も含めて、これまで恐らく千人以上の生徒を教えてきたが、誰一人として、「同じだな」と思った生徒はいない。

もちろん似たタイプはいるが、同一ということだけは絶対にありえない。話す度に、教える度に新しい発見があり、これだけは本当に飽きない。そう、生まれてまだ十数年しか経っていないのに、すでにみんな、自分独自の色で輝き始めているのだ。

「でも由璃ネエ、思うんやけどな。『something to eat』が『食べるための何か』って何やねん。そんなん、『food』でええやん。『food』って確か『食べ物』やろ? ほんなら、それでええやん。何で『something to eat』っていうねん。ほんなら何か? あいつら、日本人が見とらんところで『food』以外、口にしとんのか。草とか虫とか土とか」

「いや、それはないでしょ」

「ほんなら、『food』でええやん。だからこれ、覚えんでもええか?」

「ダーメ。何度も書いて覚えて。to不定詞はね、絶対に今度の期末テストに出るんだから」

四葉は「えー、マジかし」と言いながら、何度もノートに『something to eat=食べるための何か』と書き殴った。その書きっぷりを見ながら、私はいつも裏写りを気にしてしまう。

下敷きくらい買ったらいいのに、といつも思うのだが、あったところでどうせ団扇になるだけだろうから、あえて私は何も言わないことにした。もう、この子に関しては、数秒先の未来が読める。

「っていうか英語、あんたな。スペルもいい加減にしとき。ホンマしばくで。何で『Wednesday』に『d』がまぎれこんでんねん。言わんのなら、さっさと取らんかい。あんたの自己主張のせいで、世界中の英語学習者が迷惑してんねん。ほんで、何で『バス』が『bus』やねん。ぶっさい男子が『ブスブス』ってクラスん中で、クソうるさいんやわ。『bus』作ったんやったら、しっかり『buotoko』も作っておかんかい。英語圏って、男女公平とかうっさいくせに、こういうところは抜けてんちゃうか?」

「ねえ、ちょっと四葉。隣で真面目に勉強している人がいるんだから、もっと静かにやって。ゴメンね、菜純ちゃん」

そう言って、私は隣の菜純ちゃんをフォローした。しかし、菜純ちゃんは、何一つ気にしていない様子で、スッスッスッと計算問題を解いている。

ちなみにこの塾では、一つのテーブルに同じ学校、同じ学年を隣り合わせにしないことにしている。というのも、隣り合わせになると、どうしても相手を意識してしまうからだ。もちろん、勉強の競争意識を植えつけるにはそういうスタイルもありだとは思うが、そういったものを求める子は、集団塾にでも行った方がいい。

ここでは先生とのコミュニケーションを楽しみながら、マイペースで勉強をしたいという子がほとんどだ。そのため極端な話、片方が高校数学で、もう片方が小学3年生の国語というケースだって、ざらにある。

そしてどうやら菜純ちゃんは計算問題が終わったらしく、一人で丸付けを始めた。ちなみに菜純ちゃんはこの塾では算数だけを習っており、英語は近所の英会話スクールに通っているそうだ。そして、一方の四葉は、英語のみを受講している。こういう一教科受講が多いのも、個別指導塾にはよくあるケースだ。

「先生、できた!」

菜純ちゃんのノートを見ると、やはりパーフェクトだった。この子は本当に、勉強がよく出来る。問題を解くのも速いし、かつほとんど間違えないので、全く手が掛からない。

「なあ、由璃ネエ、大問題発生や。プリーズヘルプミーや」

一方、こちらは10秒おきに声を掛けてくるから、手が掛かる。

「ライブラリーのスペルが覚えられへん。ほら、見てみいな。スペルん中に、ラ行が三つも入っとる。『r』なんか『l』なんか、こんがらがる」

確かに『library』のスペルは混乱しやすい。しかし私はその瞬間、ニヤリと笑った。待ってましたよ四葉、その質問。そう、私はこの対処法を知っている。

「ほら、見て、四葉。『library』はこうやって覚えたら、簡単じゃない?」

そう言って、私は四葉のノートの欄外に『library』のスペルを書き、直角三角形でその形を囲った。

「こうして『形で』覚えたら、忘れないでしょ? ほら、三角定規みたいじゃない?」

それを見て四葉は、「・・・天才ちゃうか、由璃ネエ。スペルの形で覚えるとか。それ、もうアカデミー賞ものやん」と声を漏らした。多分、ノーベル賞とごっちゃになっているのだろう。

そしてふと左隣を見ると、菜純ちゃんもノートを覗き込んでおり、「わー、本当だ」と声を上げた。どうやら菜純ちゃんも、英会話スクールでスペルの書き取りを始めているようである。

「由璃ネエ、よく考えついたな、こんなん」

「へへー。でもこれ、私が考えたやつじゃないんだ」

「ああー、また例の『聖典』ってやつやろ?」

そう、私との付き合いが長いので、四葉はすぐに元ネタに気付いた。

詳しく説明をすると、この塾には本部に『教務部』という、日々、教材の研究や開発をしているセクションがある。そして、そこでは『教務マニュアル』という、授業で使える「裏技集」のようなものを作成しており、社員はもちろん、アルバイト大学生たちにもこれを配布している。

一見、ただのA4のマニュアル集なのだが、その出来があまりにも素晴らしいので、私たちはこれを『聖典』と呼び、もはや崇拝の対象にまでなっている。それほど、全教科に渡って、生徒の分からないところなどの対処法が網羅されているのだ。

「他にも何かないんか? 『library』みたいなの」

「あるよ。ほら、たまに『left』と『right』、つまり英語で左と右がごっちゃになったりしない?」

「ああ、あるなあ。うち、たまに日本語でも右か左か、分からんくなるわ。え、どうやって覚えるん?」

菜純ちゃんも「私も聞きたい!」と声を上げた。

「じゃあね、二人とも左手を出して。それで、親指と人差し指で直角を作るの。ほら、ここに大文字の『L』の字ができるでしょ。だから、『Left』イコール『左』で覚えられる」

「あ・・・ホンマや、すげえ!」

菜純ちゃんも「本当だ!」と声を上げた。

「ちなみに英語圏じゃ、こうやって右か左か教わっているんだって。日本だったら、右手はお箸で、左手はお茶碗って習うけどね」

「へー、おもろいなあ」

四葉と菜純ちゃんは、何度も自分の手を見ながら、キャッキャッと騒いだ。そう、こういう勉強のコミュニケーションが間近で取れるのが、個別指導のいいところだ。

本来、勉強とはつまらないものなのかもしれないが、教え方次第で殺すこともあれば、活かすことだってできるのだ。

そして、もしかしてあの『聖典』は、「勉強を活かす意図」で作られたのかもしれない、と私は最近よく思う。というのも、あのマニュアル集の至る所から、私は「愛」を感じるからだ。

ふとその時、壁にかかっている時計が、私の視界に入った。やばい、あと20分で授業が終わってしまう。雑談をし過ぎてしまった。

「さあ、今日は絶対にこのページまでは終わらせるよ。期末が近いんだから」

私は四葉を急かした。そう、このペースだと、試験範囲まで終わらない。今日中にto不定詞くらいは終わらせておかないと、補講が増えてしまう。

「わーったよ」と言って、やれやれと問題に取り掛かろうとした四葉だったが、ふと顔を上げて、「なあ、由璃ネエ、その前にな、一個だけお願いあんねんけど、聞いてくれるか」と、言いにくそうな顔をした。何だろう、お願いって。

「実はな・・・今月の終わりに、学校の保護者面談があるんやけど、そん時、うちの保護者ってことで来てくれへんかな、学校に」

私の声が、「え?」と裏返った。

「だってうち・・・母ちゃん居らんし、ほら、父ちゃんが残念な人やろ? だからできれば面談に来て欲しくないねん。そもそもうちの成績とか高校のこととか、何の関心もあらへんし」

「関心がないわけないでしょ? 親なんだから」

「いや、関心なんかゼロや。酒とかパチンコが10やったら、うちはマイナス100万くらいや。だから、あいつが面談に来たところで、何の意味もない。それやったら、由璃ネエの方が100万倍、うちの成績も分かっとるし、親身になってくれる。絶対に面談かて盛り上がるで」

「ダーメ。聞いたことないよ、塾の先生が保護者面談に行くって。っていうか、合コンじゃないんだからね。別に盛り上がらなくたっていいの」

「ええやん。ほんなら、もしも塾の先生っていうんが嫌やったら、うちの母ちゃんってことにするんはどうや」

「いや、若すぎるでしょ、無理があるじゃん、いくら何でも。これでも私、まだ26だからね。そして四葉は今、15歳でしょ? だから、私、11歳であなたを産んじゃったことになるじゃない。大問題もいいところでしょ」

「ほんなら今、35歳設定にすれば、別に無理はないんやないの? 軽く下半身に贅肉つけて役作りすればええやん。まだ面談期間まで、1ヶ月あるで」

「いい加減にして、おバカ。何で保護者面談に役作りなんかしなきゃいけないのよ」

「ほんなら、再婚相手っていうんはどうや。休日は一緒にカフェに出かけるくらい、近所でも評判の、仲のいい姉妹親子設定みたいにして」

「却下。宿題増やすよ、四葉。早くやって」

四葉はブーブーと文句を言いながら、問題に取り掛かった。やれやれだ。

そして、ふと隣をうかがうと、思った通り、菜純ちゃんの口元がニヤニヤしている。聞いていないようで、しっかり聞いているのが菜純ちゃんである。そしてこれはほとんど確信に近いのだが、菜純ちゃんは私と四葉のやり取りが面白いから、ここに通っているに違いない。

「なー、由璃ネエ、この単語分からん。意味なんや?」

また尋ねてきたので、私は「はい」と言って、辞書を渡した。

「わー、まーた出てきよったで。『ザ・天然記念物』や」

そう言って四葉は私から受け取った英和辞書をめくり始めた。そう、私は電子辞書よりも、未だに紙の辞書を使う。重くて場所を取るが、パラパラとめくれるのが紙辞書のいいところだ。英語に馴染む気がする。

一方、紙辞書に慣れていない四葉は『ABCの歌』を歌いながら、辞書を引き始めた。アルファベット順が頭にしっかり入っていないから、Aから歌って順番を確かめるしかないのである。

「えっと、『♪エービーシーディーイーエフジー、♪エッチアイジェイケーエルエムエヌ・・・』あれ? 次、何やったっけ?」

ダメだこりゃ。これでも、受験までもう1年を切ってしまっているというのに、この子はアルファベットすら怪しい。『蝉時雨』は歌えるくせに。

するとすかさず菜純ちゃんが『オーピーキューアールエスティーユー♪』と助け船を出し、四葉は「それや!」と、再び辞書を引き直した。

やれやれだ。全くもって、菜純ちゃんのほうがよく、ものを知っている。そしてこれは断言してもいいが、算数に関しては、中三の四葉よりも、小五の菜純ちゃんのほうが上だ。四葉は九九すら怪しい。

ふとその時、違う方向からクスクスと笑い声が聞こえてきた。振り返ると、そこには後ろの席で授業を受けている安川千聖、通称『ちーちゃん』の笑顔があった。きっと私たちの授業を後ろから見ていて、思わず笑ってしまったのだろう。

そう、そもそも四葉はこのちーちゃんからの紹介で、この塾に入ってきたのだ。ふと私は、初めて四葉と会った日のことを思い出した。そう言えば、去年のちょうど、今頃のことだった。

(次回「2、マジカルじゃなくて、フィジカルかも」に続く)

日本人が学んできた「英語」とは何だったのか?


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