3、「彼女の名は」
「お次でお待ちの方、こちらへどうぞ」
「あ、はい」
研修の後、私は一人で例のカフェに寄ることにした。今日はこの後、授業が入っているので、校舎に戻らないといけないのだが、ひとまず私は一旦、気分を変えたかった。

「合計で760円になります。当店のカードはお持ちですか?」
「あ、はい」
半ばボーッとしていた私は、慌てて財布の中を探った。そしてそれと同時に、ハッとした。そうだ、確かこの店員さん、先週、ペラペラと英語で接客していた子だ。
「What would you like today?」
「Do you have hot chocolate?」
「Yes, which size would you like? Medium or large?」
「1000円お預かり致しましたので、お返しは240円になります。お確かめ下さい」
「あ、は、はい」
どこをどう見ても、普通の日本人である。それなのに、この子はペラペラと英語を話せるのだ。

何だかそれが、とても不思議に思えた。そう、まるで一人の体の中に、「二つの人生」が宿っているような気がする。
「? ・・・どうか、なされましたか?」
「あ・・・、あ、いえ。すみません」
よく見ると、顔も可愛い。もしも大学生だとしたら、在学期間中に留学でもしたのだろうか? いや、それとも生まれた時から向こうにいて、日本に帰ってきたのだろうか。
私は英語が話せる人を見つけたら、ふと一人一人「どうやって英語が話せるようになったんですか?」とインタビューして回りたい気持ちになる。一体、どんな集計結果になるのだろう。

「留学していました」「向こうにワーホリに行っていたんです」「彼氏がネイティブなんです」などがトップを占めそうな気がする。そして誰も「受験勉強を頑張りました」とは言わなさそうだ。
そう、結局ながら、話者になるにはそれだけでは絶対にダメで、「プラスアルファ」の要素が必要なのである。
しかし、その「プラスアルファ」とは一体、何なのだろうか。それがネイティブとのレッスンだと思っていたが、私にとってはそうではなかった。そう、いつも私はここで、道を見失う。
私は窓際の席に着き、ぼんやりと周りを見回した。先週いた女子高生たちの姿はなかったが、その代わりにテラス席にいる、犬を連れた、手話を使う老夫婦を見つけた。
「あ・・・あの二人」
そう、確か先週もいたはずだ。恐らくだが、この時間帯にこのカフェに寄るのが、あの人たちの日課なのだろう。
しかし、本当に手話の話者は、手の動きが速い。よくあれで理解ができると、感心してしまう。
ふと、男性の方が、自分の唇にポンポンと手を当てた。そしてそれを見た女性は、手で自分の唇をこすり、クスクスと笑った。恐らくだが、唇に何かがついていて、それを伝えたのだろう。

不意に私は、先日の授業のことを思い出した。
「唇に青のり」
「ま、マジか。給食の焼きそば、食い過ぎたか」
「うっそピョーン」
「おい、なず! 今、必死にこすったやろが」
「キャッキャッキャッ」
そう、場面が全く同じだ。菜純ちゃんが、「唇に青のり」がついているという嘘をつき、四葉がそれを聞いて、反応した。
そして今、あの老夫婦は「手と目」を使い、菜純ちゃんたちは「口と耳」を使った。
「結局、『言葉』として機能させるのであれば、声に出して、育んでいかないといけないと思うんです。それこそ感情を込めながら、何年も掛けて。『言葉の話者』は、誰だってその過程を辿ってきているはずですよ。だから、生きている限り、使い続けている限り、段々上手くなる。体の器官を使って、少しずつ少しずつ。それこそ、野球やピアノみたいな感覚です。だから、英語を話せるようになるのであれば、勉強するんじゃなくて、声に出して練習していかないといけないんじゃないでしょうか。口と耳を使い続けて」
有紀さんはそう言っていたが、それって手話を使う方にとっては、「手と目」の器官になるのだろうか。
手話の話者が手を動かし続けて、あのスピードを手に入れたとしたら、英語の話者も同じように、沢山口を動かさないといけない。それが恐らく、有紀さんのメッセージだ。
しかし、だ。動かしようにも、頭の中で英文を描けないわけなのだから、どうしようもないではないか。やっぱり分からない。どうやってこれから、英語を学んでいけばいいのだろう。どうすれば私は話者になれるのだろう。
ふと私は、財布の中に入れた、有紀さんの名刺を取り出した。
「葛城有紀 英会話教室・学習塾」
その名前の下には、住所と電話番号が書かれてあった。
できれば、今すぐにでも電話をして聞いてみたい。そうだ、松尾さんは「会うなよ」と私に命令したが、別に電話を禁止したわけではないではないか。

ふとそんなことを考えてしまったが、もちろん私と有紀さんは、そんな距離感ではないし、そもそもこれは電話で話す内容でもない。聞くのであれば、直接あの教室に行かないと。
諦めて、名刺を仕舞おうと思った、その時だ。電話番号の下に、私は何か文字が書かれていることに気付いた。
ー「松尾さんに止められたとしても、いつでもどうぞ。口外はしませんので」
読んだ瞬間、思わず、ブルリと鳥肌が立った。あ、あの人、いつの間にこんなメッセージを。
そう、確かこの名刺をもらったのは、一番初めの時だ。そして、その後すぐに私は名刺を仕舞ったので、つまり「貰う時点」で、このメッセージは書かれてあったことになる。
ということは、だ。有紀さんは読んでいた、ということか。私が会いに行くのを止められる運命を。でも、どうして?
「ちなみにマジックの世界にこういう言葉があるのをご存知ですか? 『マジシャンが魔法の呪文を唱えた時にはもう、トリックは終わっている』」
今までヤバい人だ、と思っていたけど、もしかして私が思っていた以上なのかもしれない。あの人、何か私に魔法を掛けている。何の魔法か分からないけど。

私はそろそろ時間になってきたので、ひとまず考えることを止めて、カフェを出た。ふと一度、カウンターの方を見たのだが、先ほどの女の子の姿はなかった。もしかして、もう上がったのかもしれない。
一人、トボトボと駅に向かい、私はプラットフォームへと続く、長い階段を上がった。開けた視界は目が痛くなるほど、夕陽でキラキラと輝いていた。

私が乗るのは1番線である。約30分くらいで、塾のある駅に着く。しかし、だ。逆の2番線の電車に乗れば、同じく30分くらいで、有紀さんがいる、あの学習塾のある駅に着く。
ーできれば、反対側の電車に飛び乗りたい。
しかし、もちろんそれはできないし、この後、授業だってある。
そんなことを考えていた時だった。学生服を着た、一人の女の子が目の前に現れた。そしてその顔を見て、思わず私は「あっ」と小さな声を漏らした。
「? ・・・あっ、先ほどの」
どうやら向こうも私に気付いたようで、ちょこんとお辞儀した。
そう、その子は先ほどのカフェで働いていた、例の「英語の話せる店員さん」だった。なんと・・・てっきり大学生だと思っていたのに、まさかの女子高生だったとは。
「いつもどうもありがとうございます」
どうやら、私が研修の後、よく利用していることに気付いているのかもしれない。もしくは機転を利かせて、そう言ったか。いずれにしろ、かなり利発そうな女の子だ。いや、英語を話せるくらいだから、かなり頭がいいに違いない。
「あの・・・すみません、高校生だったんですね。つい、ビックリして。てっきり、大学生かと」
「え? そうですか? 友達からは逆のこと言われるんですけど。高校生以下だって」
そう言って、クスクスと女の子は笑った。その笑い方が、どことなく有紀さんと似ている気がした。
「あの・・・先週でしたけど、英語・・・ペラペラと話していませんでしたか?」
「え? ああ、聞かれていたんですか? はい、英語は普通に話せるレベルだと思いますよ」
「ど! どうして話せるんですか? 帰国子女なんですか?」
思わず声が大きくなってしまい、向こうは少し驚いたようだった。しまった、つい取り乱してしまった。ただ、どうしても感情が出てしまった。
そして私は慌てて、自分が今、英語のスピーキングの勉強をしていることを説明すると、女の子は「ああ、そうなんですね、だからですか」と微笑んで、
「私、学校で英会話サークルに入っているんです。そこに留学生が何人もいて、その子たちと話したり、遊んだりして・・・あと、アルバイトでも外国人の方が多いですからね。段々慣れてきました」
なんと。てっきり帰国子女だと思っていたが、国内で英語が話せるようになったのか。
しかし、だ。学校の英会話サークルやカフェのアルバイトは、もう社会人になった私が取れる方法ではない。参考にできない。

私が「そうなんですね。じゃあ、学校や職場でペラペラになったんですね」と肩を落とすと、女の子は、
「違うと思いますよ」
「え?」
「私、中3の時から、『英語の話者』になることを想定して、毎日音読をしたり、口頭練習をしてきましたから。多分、それが一番大きいと思います」
私はポカンとなった。え? どういうこと?
「もちろん、英語を話す環境があるに越したことはないんですけど、サークルやバイトは毎日あるわけじゃないですしね。それに私、メインは吹奏楽部ですから。だからあくまで、週にちょっとあるサークルやアルバイトは『実践する場』にすぎなくて、コアは『一人での練習時間』なんですよ」
「え? 練習時間・・・?」
こんなこと、高校生が言う? 言うのであれば、「勉強時間」じゃないの?
「結局『英語を話す』って、口を動かす運動ですからね。ネイティブから乗り憑ったりするものじゃなくて、『声に出して育んでいくもの』だと思っています」
「え! ・・・あ、あなた・・・もしかして、有紀さんの教え子、なの?」
「え? 有紀さん? それってもしかして、葛城有紀さんのことですか? え、知っているんですか?」
びっくりした。まさかこの子、有紀さんを知っているとは。
しかし、詳しく尋ねると、どうやらこの子は有紀さんの教え子ではないらしい。過去に一度だけ、会ったことがあるだけのようだった。
そして私も、自分が塾講師であることと、また有紀さんが職場の古い先輩で、先週一度会ったことがあることを説明した。
すると、向こうも私の大まかな状況を察してくれたようで、
「実は私が中学3年生の時の英語の先生が、有紀さんから英語を習っていたんです」
なるほど、そういうことか。それで納得がいった。きっと今の言葉は、有紀さんからその英語の先生に流れ、そしてこの子に辿り着いたのだ。
「私が今、こうして英語が話せるようになったのも、本当に桜木先生のおかげです。あ、その英語の先生の名前です」
「桜木、先生・・・」
もちろん、初めて聞いた名前だった。
「桜木先生も昔、英語が話せなくて、苦労していて。だから私に、色々教えてくれました。『英語は日本語に訳して終わっていちゃダメだ。そうすると、英語が日本語の養分になっていくから、何度も何度もイメージして、英語を口にしないと。今まで通りの学び方をしていたら、自分みたいに将来、英語で苦労するよ』って」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。英語が日本語の養分になっていく? どういうこと?
「でもそれって結局、有紀さんが桜木先生に教えたんだと思いますよ。桜木先生、その教室に入ってから、教え方を色々と変え始めましたから。でもそれで結構、上と揉めちゃったりしていましたけど」

そう言って女の子は、クスクスと笑った。恐らく、当時のことを思い出しているのだろう。一体、昔に何があったのだろう。
「あれ? じゃあ、その・・・お客様も、有紀さんの教室に通われるんですか?」
「あ・・・うん、いや、どうしよっかなあって思って・・・その、仕事で忙しいし」
うん、その可能性は、まずないだろう。そもそも、有紀さんに会うこと自体が禁止なのだ。入会するなど、ありえない。
「ちなみに有紀さんと一緒に、変な人がいませんでしたか? 背の高い、美人の」
「え! あの人も知っているの?」
思わず声が大きくなった。
「本当にハンパないですよね、あの人」
そう言って、女の子はクスクスと笑った。
その時、プラットフォームにアナウンスが流れた。どうやら、1番線と2番線に、ほぼ同時に電車が到着するらしい。
「どちらに乗られるんですか?」
「私、1番線。これから授業があって」
「あ、じゃあ私と方向が一緒ですね」
何て落ち着いている子なんだろう。そして、やはり機転も効く。そして、だ。これで英語だって話せるのだ。
横に並んでいて、何だか自分が、無価値なような人間に思えて、情けなくなってきた。
一体、私の人生は何だったのだろう。そして、今まで費やしてきた英語の勉強時間や努力は、どこに消えてしまったのだろう。もう、腐ってしまったのだろうか。

恐らくだが、私はこの子よりも英語を沢山勉強してきたと思う。お金だって沢山掛けて来た。加えて、私は今も、塾で毎日のように子供に得意げに英語を教えているのだ。
それなのに私のスピーキング力は、この子に全く及ばないのだ。なんて「張りぼての英語」なんだろう。
「あれ? どうかしましたか?」
私の顔が沈んでいることに気付いていたのだろう、女の子が心配そうな顔で覗き込んでいた。
「いや、大丈夫。全然」
無理に私は笑ったが、
「私は一人で帰りますよ。だから、大丈夫です」
「え?」
「違うんじゃないですか? 乗る電車が」
「! ・・・」
「行き先、本当に合っていますか?」
ーな、何・・・なの、この・・・子? どこ・・・まで・・・察しているの?
「すみません、桜木先生と雰囲気がよく似ていて。生徒想いで、そのためなら、上にも抗って。だからきっと今、あの時と同じシチュエーションなのかなあって」
「あの時・・・?」
一体、何があったんだろう、その昔。
「絶対助けてくれるはずですよ、あの二人なら。いつでも」
「え?」
女の子は優しく微笑み、
「子供に英語を教えていて、色々とはあると思いますが、これだけは断言できます。私は桜木先生に出会えて、本当にラッキーだったって。心から」
「! ・・・」
ふと、この子の顔に、四葉の顔が重なった。
「しかも、このイラスト、昨日頑張って描いてきてくれたんやろ? どんだけ時間かかった? 昨日ちゃんと、寝られたんか? 顔、昨日よりも疲れとるやん。授業の始めから欠伸だって、何回も我慢しとるし。生徒だって、うちだけちゃうやろ? 生徒一人にどんだけ全力投球してんねん」
「とにかく英語だけは話せるようになりたいんや。向こうに行っても、全然英語話せんかったら、友達だってできへんやんやろ? 歌だって歌えんし。だから、日本におるうちに話せるようになっとかんと」
胸がギューッと、締め付けられるような想いがした。
ー「うち、由璃ネエのおかげで英語話せるようになったわ」

そう、私が将来、四葉に掛けられたいのは、このセリフなのだ。そのために私は今、こうして働いているのだ。そのためにも、私が抗わないと。あの子のために。
「ほら、向こう側にも電車が来ましたよ」
「あ・・・うん、そ、そうだね、ありがとう」
私は小さく頷き、1番線へと踵を返した。
すると女の子が大きな声で、
「あ、すみません! 良かったら、皆さんによろしく伝えください。きっと私のこと、まだ覚えていると思うんで」
「あ、うん、分かった・・・あ、でも、ちょっと待って! あなたの名前は? まだ聞いていない」
「あ、そっか、そうでしたね。私の名前は、佐藤、・・・」
その時、2番線に電車が滑り込み、名前の部分が騒音で掻き消えてしまった。
「ゴメン、今、後ろの方が聞こえなかった! 佐藤何さん?」
「すみません、間違えました! 旧姓でした、それは」
「え?」
電車に乗り込んだ女の子は、くるりと私の方を向き、
「当時と苗字が変わったんです。私、葵です」
「え?」

「月島、葵。そう、皆さんにお伝え下さい!」
同時に、電車のドアがプシューッと閉まった。月島、葵さん。それが、あの子の名前。