英語という「教科」から、英語という「言葉」へ
金沢優、2年ぶりの新作、英会話+ハウツー小説「もしなる2」

「もしなる2」6.英語4技能は大迷惑!?

6、英語4技能は大迷惑!?

四葉たちとの授業を終え、自分の席に戻ってくると、砂ちゃんが「あれー、どこいったんだぁ?」と言いながら、棚の中をガサゴソと漁っていた。どうやら何かを探しているようだ。

ちなみにここ、『ヘッドスタート』のスタッフルームは、至る所に教材や資料が溢れ返っており、整理整頓の作業がいつも追いつかない。また、人の出入りも他の職場に比べて激しいので、大事な資料をその辺に置いておくと、何かの拍子で全く別の場所に移動していたりする。

ただ、移動だけならまだいいのだが、それが生徒の計算用紙に使われてしまっていたり、最悪の場合、処分されてしまっていたりするので、大問題に発展することもある。

ちなみに違う校舎では、生徒の通信簿をうっかりシュレッダーにかけてしまったスタッフもいたようだ。恐らくどこも同じような状態なのだろう。

「どうしたの? 何か探し物?」

「あ、はい。先月の模試の結果表を探しているんスけど、見当たらなくて。確か昨日までここにあったと思うんスけど」

「あっ、ゴメン。昨日、ちーちゃんとの面談で使ったあと、あっちに置いたままになっちゃってた。元に戻そうと思ったら、ちょうど保護者から電話が来て」

やっちゃった。犯人は私だったか。

「あっちって、どっちッスか?」

「あっち。ほら、あそこのテーブルの上。時計の下」

そう言って、私は隅にあるテーブルを指差した。砂ちゃんは「ああ、あれッスか。了解ッス」と言って、隅の方に向かった。ゴメン、砂ちゃん。私も次からはもっと気をつけないと。

ちなみに砂ちゃんと私は、席が向かい合わせである。そして、生徒から『のび太君』と呼ばれている砂ちゃんは、まさに実写版のび太みたいな風貌だ。のび太っぽい髪型、丸メガネ、そして黄色いシャツの多用とあれば、これはもう、さすがに狙っているとしか思えない。しかし、あくまで本人は「向こうが僕に似せてきているんスよ」と言い張っている。

「なるほど。そういう方針ですか」

奥の離れた席に座っている笠原さんが、誰かと電話で話している。

ちなみにこの校舎は笠原さんと私、そして砂ちゃんの3人の社員で回している。残りの講師は全て、大学生のアルバイトだ。恐らく全部で30人くらいいるだろう。毎日のようにシフトに入っている大学生も稀にいるが、大半が週に2~3日程度の出勤である。

もちろん採用時には彼らの学力をテストしているが、その結果はピンキリである。そして、しばしば勉強が全くできない大学生も、採用せざるを得ない時がある。校舎に生徒を多く抱えてしまえば、質よりも量を優先するのは当然の事情だ。人材難は昨今、どの業界でも共通した悩みである。

そして、学力が低い大学生にはもちろん、授業の予習をしっかりやってくるように、と指示を出している。しかし、どこまで理解してきたかのチェックまでは細かくできない。そのため、本当に正しいことが教えられているかどうか、たまに不安になる。

しかし、だからと言って、個別指導の最中に、必要以上に踏み込んでしまうと、今度は社員への反感を生んでしまうことになる。そしてそれが積もり積もると、社員との間に深い溝が生じ、校舎運営も厳しくなる。

こうして社員は、生徒や保護者はもちろん、アルバイトの大学生にも最大限に気を配りながら、会社の利益を出していかないといけないのだ。

「分かりました。ではその点は、本人に強く申し伝えます」

ピクリと私たちは笠原さんの声に反応した。今、何か指令が下りたようだ。

ちなみにこの塾の指令系統は、2つある。生徒数など営業に関することはブロック長の橋詰さんからで、授業内容に関することは教務部の黒川さんだ。今の電話の主はどちらだろう。

「では、今後、授業内容はそうなる、と。これはもう、決定なんですね?」

恐らく黒川さんだ。どうやら今後の授業方針において、何か大きな変更が出たようだ。そして砂ちゃんはそれを予想してか、表情を一気に曇らせた。そう、もしも大きな変更があった場合、確実に業務や研修が増えることを意味するからだ。

何を話しているのか、盗み聞きを続けたかったが、笠原さんがジロリとこちらを見たので、私は慌てて目を逸らした。まあいい、どうせ後で教えてくれるだろう。

そして、私はふと先ほどの授業を思い出し、「ねえ・・・砂ちゃんってさ、英語、話せる?」と尋ねた。

「え? 何スか、いきなり?」

「いや、実はさっき授業中、四葉と英語を話せるかどうかの話になって。どう?」

「え・・・ま、まあ、日常会話くらいなら」

そう言って、砂ちゃんはメガネの角度をクイクイッと動かした。少しでも動揺すると、いつもこうなので、本当に分かりやすい。

「ペラペラ?」

「え・・・いや、もちろん違いますよ。でも、意思疎通くらいはできます。これでもTOEICだって700点はありますからね。それに、前にも外国人に、英語で道を聞かれたことがあったんスけど、」

「ちゃんと案内できた?」

「もちろんッス。ちゃーんと目的地まで、連れて行けました」

「・・・連れてってんじゃん」

「そ、そりゃあ・・・間違って伝わってしまったら、違うところ行っちゃうじゃないスか」

「何て言って、連れて行ったの?」

「ええっと、カモンベイビー! みたいな感じで。あとは身振り手振りで」

そんな・・・「カモンベイビー」って。DA PUMPじゃないんだから。

私は安易にその時のシーンが想像できた。恐らく砂ちゃんはその時、メガネの角度を何度も直したに違いない。

「じゃあ、まあ、よくいる『ザ・日本人』って感じね」

「そうッスね・・・『ザ・日本人』ですね。『その』って感じですね」

砂ちゃんは、顔をムスッとさせた。

「ねえ・・・それってやっぱりあれなのかな。食材だけ揃えて、下準備で終わったみたいな感じなのかな?」

「え、何スか、それ? 食材とか下準備って?」

「いや、さっき授業中、四葉に言われたんだけどね、」

「二人とも、少しいいですか?」

笠原さんの声が割って入った。どうやらいつの間にか、通話が終わっていたようだ。

砂ちゃんと一緒に、笠原さんの机の周りに集まった私は、その険しい表情から、何か大きな決定事項が伝えられる、という予感がした。そして先程私が予想した通り、「今の電話は、黒川さんからでした」という前置きがあってから、

「確か若松さん、英語が得意でしたよね?」

「え? ・・・あ、はい、得意といえば、得意な方ですけど、理系科目よりかは、というくらいで。でも、どうしてですか?」

「実は今後、『英語4技能化』の流れを受けて、私たちも英語のスピーキング授業を導入することになりました」

「えええ!」

悲鳴に近い声を上げる砂川君の隣で、「ついに来たか」と思う私がいた。そう、私たちは遅い方である。大手の塾はもう、それに向けて動いている。

「え? じゃあ、もしかして、ここにも外国人がスタッフで入ってくるんスか?」

砂ちゃんは「だったらいいなあ。同僚に外国人がいたら、僕だってペラペラになりますよ。っていうか僕、そういうの、ずっと憧れていたんスよ。一緒にランチとか行って。どっかの外資系の、できるサラリーマンみたいな。ほら、街の中にもたまにいるじゃないスか? 『うちらはお前らとは違うんだぞ』みたいなオーラ出している人たち」と、目を輝かせた。

「勘違いしないで下さい、砂川君。そんな予算、うちらにはありませんよ」

砂ちゃんは、「えええー」と落胆の声を漏らした。

「全校舎に外国人を配置するだけでも、人件費がとんでもないことになります。しかも、指導が英語のスピーキングしかできないとしたら、使い勝手が悪いでしょう。いいですか? この塾がこうやって利益を出せているのは、社員やアルバイトが英語や数学など、一人で何教科も教えられるところにあるんですよ? 無駄な空き時間や、生徒の空きコマなどが一切なく、講師をフル回転させられるでしょう? これは外国人講師たちにはできません」

確かにその通りだ。スピーキングを教えられる外国人講師は、重宝はするだろうが、もしもそれだけのスキルならば、ここの校舎に絶えず常駐させておく必要はない。無駄に人件費だけかかってしまう。

「加えて、外国人を社員教育する力が私たちにもありません。英語版の社員マニュアルだって一つもありませんし、何よりも私たちがコミュニケーションを取れないでしょう? いいですか、砂川君。私がいつも口を酸っぱくして言っているように、君は『経営』という視点を持って下さい。私たちは慈善事業をしているわけではないんですよ? 塾人である前に、一人のビジネスマンであることを忘れないようにして下さい」

砂ちゃんはシュンとして、「すいません」と小さく謝った。

「それでは外国人なしってことですか? もしかして、オンラインレッスンとか?」

「さすが若松さん、その通りです。今、本部が考えているのは、ある英会話スクールとの業務提携です。そしてそこは今後、オンラインレッスンをメインに事業展開をしていくようです」

きっと双方の利害が一致したのだろう。スピーキングを手軽に導入したい私たちと、オンラインレッスンを売り込みたい英会話スクールの。今後もこのようなドッキングは増えていきそうだ。

「それじゃあ、うちらって何をするんスか?」

「そのサポートです。子供たちが困った時に割って入るスタッフが必要でしょう? 会話の意味が通じない、回線トラブルが生じた、生徒が遅れてきた。そういった諸々の、外国人講師との窓口です」

確かに。これは生徒にはできない。スタッフの仕事だ。

「そして今後、定期テストなどにスピーキングが組み込まれたとしましょう。そして例えばそこに、『自分の夢について』などというテーマが予め決められているなら、テスト前にこちらからその旨を伝え、それを重点的に質問してもらいます」

なるほど、そうすれば、バッチリとスピーキングの試験対策が取れる。

「そのため、各校舎に一人、そういう役割のスタッフを配置することになりました。しかし、もちろんそれは、『既存のスタッフを話せるようにする』という方針です。新たに英語を話せるスタッフは新規採用しません」

「あー、やっぱりそうなるかぁ。『ありもの』で済ませる感じかぁ」

大きく肩を落とす砂川君を、笠原さんはギロリと睨んだ。砂ちゃんは正直な人間だが、本音が出すぎるから、困ったものである。

「そして、この校舎のコーディネート責任者は、若松さん、先程あなたで本部に報告しました」

「えええええっ!」

そんな! 私の了承も一切なく、どうして。

「当然でしょう、若松さんがこの校舎で一番英語が得意なんですから。履歴書にも確か、それをアピールされていましたよね? 私は英語が得意です、日常英会話程度なら大丈夫だ、と」

「え・・・で、でも、それは、あくまで受験英語が得意ってだけで」

「では、他の人よりも下準備はできているということですよね?」

私はギクリとした。また下準備ができている、という話か。

「私には教室運営の業務があります。それに、砂川君は理系です。ここでは若松さんしかいません。それに業務だってそれほど多いわけじゃありませんよね? 週に2日は休めているでしょう?」

「えっ・・・」

正直な話、そんな実感は全くない。というのも、定期テスト前の特別補講など、ボランティア出勤もほぼ毎週のようにあるからだ。それに、頻繁に行われる社内研修のため、休日もその準備に追われている。まともな休みなど、夏休みか年末年始ぐらいしか、取れていない気がする。

「早くとも来年度をめどに、準備が整った校舎から順にオンラインレッスンを導入していくことになります。そして、生徒や保護者にも、そのコースをプロモーションするために、若松さんは英語をペラペラにしておいて下さい。校舎に一人でも英語ができる社員がいれば、保護者だって安心するでしょう。逆に社員が誰も話せなかったら、顧客だって逃げてしまいます」

確かに。私が生徒の保護者なら、そうするかもしれない。

しかしそうだ、塾だってもう、「そういう時代」になったのだ。

私は時代の波が恐ろしい勢いでやってきていることに、今更のように気づいた。心のどこかで「他人事」のように思っていたが、もはや文法だけをゆったりと教えているようでは、この世界でも生き残れないのかもしれない。

「そして、これは数年後の話になりますが、英語の授業は基本的に、すべて英語ですることになりました」

「えええええっ!」

今度は砂ちゃんが叫んだ。私も、頭がクラクラとしてきた。

「当然です。中学校でも、今後は全て英語で授業をすることになっているんですから。塾だって当たり前に英語でやらないと、学校のサポートなんて、到底できないでしょう?」

「そ、そ、そんな・・・で、でも、無理ッスよ。社員だけなら、まだ、まだ100万歩譲って分かりますけど、アルバイトの大学生たちに、そこまでのスキルアップは不可能じゃないスか?」

「やるんですよ」

「え・・・?」

「やれるかどうか、じゃないんです。やるんです。やれないなんて、ありえないんです。そして私たち社員は、やれるように持っていくのが仕事です」

「そ、それって、つ・・・つまり、私たち社員が、彼らに英語の研修を行っていく、ということですか?」

「そういうことです、若松さん。そしてその担当も、まずはあなたになってきます」

「ひゃあっ」と、砂ちゃんが口元を押さえた。そう、もうこの時点で「恐ろしい業務量」が想像できてしまう。

まずは自分自身が英語を話せるようになり、そして校舎の大学生たちにもその研修を行いながら、その習熟度をチェックし、かつそれが授業でも活かされているかどうかの確認までしないといけない。それも、新規採用の度に、だ。これをあと数年で「形にしろ」というのか。もう、不可能に近い。

「優秀なスタッフであれば、2年もあれば、仕上げることができるでしょう。そして上はここを評価します。もちろん、早く結果を出せば、すぐに昇進や希望の部署に異動もできます。いいですか若松さん、これはピンチではなく、チャンスなんですよ」

どこがだ。どうしてこの状況をポジティブに捉えられよう。そんな、取ってつけたような人参をぶら下げられたところで、モチベーションなど上がりようもないではないか。そう、ただでさえ、業務量は限界値に届いているのに。

恐らく自分の気持ちが、素直に顔に出てしまっていたのだろう。笠原さんは私を先回りをするように、

「そしてもちろんですが、達成できなかった場合、減給の対象になります」

「えっ!」

「当然でしょう。職務怠慢と同じですから。そして、これは若松さんだけではなく、この校舎全体の責任になります。つまり、若松さんができなければ、私たちの給料も減額対象となります」

「ええええっ!」

砂ちゃんが今日一番、大きな声を出した。

ちょっと本当にやめて、この会社。そう、ここは何においても、連帯責任を負わせようとしてくるのが、本当に嫌らしい。そうすることで、一人一人の責任感を何倍も重くさせたいのだろう。これで、自分勝手なプレーは絶対にできなくなる。私は鉄の鎖で、全身をぐるぐる巻きにされたような気がした。

「早速ですが、来週から定期的な英語研修が始まります。ほぼ毎週ありますから、早めにペラペラになって下さい。そしてもちろん、黒川さんも橋詰さんも毎回見に来られて、その都度、スタッフの英語力をチェックします。また、今後ですが、TOEICも強制的に受けることになるでしょう」

「そ、そんな・・・」

「ひとまず一回目の英会話研修についての詳細は、後でメールで届くと思いますが、プレゼン発表があると先程、電話で聞きました。テーマは『なぜ日本人は学校で最低6年も英語を学んでいるのに、全く話せないのか』です。持ち時間は1人10分程度。ひとまずA4で10ページ前後でまとめておいて下さい。事前に私がチェックしますので、3日前までに提出をお願いします」

「そっ、そんな・・・」

「任せましたよ。この校舎の運命は、若松さんの英語の上達次第です」

笠原さんはこう締めて、緊急ミーティングは呆気なく解散となった。

・・・いきなりにも程がある。そう、私にだって「心の準備」というものが必要だ。こんな大事な決定が、当事者抜きで、勝手に「上の判断だけ」で決められてもいいのだろうか。

そしてもはや、かける言葉すら見つからないのだろう、砂ちゃんが同情の目で、私を見ている。

しかし、その時だ。呆然としている私に向かって、笠原さんはボソリと、「ただ、正直なことをお伝えすると、私は英語のスピーキング導入には、反対です」と呟いた。え?

「そんなものをする前に、まずは『国語力』でしょう。国語ができない子は、揃いも揃って、英語もできません。だからまずは、母国語の基礎をしっかりとやってから、第二外国語を学び始めるべきです」

確かに、それはよく言われていることだ。

「それに別に誰もがみんな、英語を話せるようになる必要などないでしょう。やりたい人が、受験の後で英会話スクールなり、留学に行って話せるようになればいいじゃないですか。それよりかはまず、しっかり英語を読み書きできることの方が大切です。だから、別に今のままで、何の問題もないんです。それを『日本人は全員、話せるようにしなくてはいけない』とやってしまうから、こんな面倒なことになっている。本当に大迷惑ですよ」

何だろう、笠原さんの口調に「怒り」が滲んでいるような気がした。まるでこのせいで、今までに何か損害を受けてしまったような。私の気のせいだろうか。

「しかし、この決定は会社の意思です。順守しないといけません。そして、若松さんはこの会社の社員である以上、英語をペラペラにする義務があります。全力を尽くして下さい」

そう言って、笠原さんは「少し外で休憩してきます」と、出口へと向かった。

そんな・・・まだ呆然としたまま、一歩も動けなかった私だったが、「あれ、栗原さんじゃないですか?」という笠原さんの言葉で、ハッと我に返った。

どうやら、出て行こうとした笠原さんが、ちょうど中に入ろうとしてきた菜純ちゃんと鉢合わせになったようだ。

「あ、あれ? 菜純ちゃん、どうしたの? まだお母さんのお迎え来ないの?」

「由璃せんせー、これ、よっちゃんが忘れていった」

そう言って、菜純ちゃんは持っていたノートを差し出した。どうやら四葉が机の中に忘れていったらしい。またか。本当に、抜けているんだから。

取りに行こうとした私だったが、代わりに笠原さんが菜純ちゃんからノートを受け取ったので、私は咄嗟に「ヤバイ!」と思った。そう、四葉のノートは誤字脱字だらけだからだ。落書きだって沢山ある。できれば、中を見られたくない。

しかし、笠原さんは受け取った瞬間、パラパラとページをめくった。うわっ、最悪だ。

案の定、笠原さんは眉間に皺を寄せて、「フン。『とって』という漢字すら満足に書けないのに、英語なんて100年早いでしょう。それに和訳のところにも、日本語としておかしいところが多々あります」と、吐き捨てるように言った。

何だか私は、とても恥ずかしい気持ちになった。まるで四葉の母親になったような気分だ。

「そして熊田さんに関しては、国語や英語以前に、しつけや言葉遣いが全然なっていません。幼稚園からやり直した方がいいですね」

そう言って笠原さんは、ノートを無造作に私の机の上に置き、スタッフルームを後にした。

そう、笠原さんは四葉のことを明らかに嫌っている。私が特に四葉に入れ込んでいるのが気に食わないのもあるだろうが、恐らく笠原さんは「勉強が苦手な子」を、できるだけこの塾には入れたくないのだ。

本来、この塾のターゲット層は「勉強が苦手な子」である。しかし、笠原さんはそうではなく、なるべく「勉強ができる子」を沢山集めて、この校舎を「進学塾」として、地域にブランディングさせたいのだ。

「頭のいい子が通う塾」と評判が立てば、苦労をしなくても、口コミでどんどん生徒数は増える。そうすれば社内の評価も上がり、ブロック長への道も見える。恐らくそれが、笠原さんの思い描いている青写真だ。

そのため、笠原さんとしては、四葉が邪魔で仕方ないのだろう。しかも、四葉は英語しか受講していない。他の教科は当然ボロボロなので、「頭が悪い子」として、周りからレッテルを貼られている。できればここの生徒として、知れ渡って欲しくないはずだ。入塾させたことも、今は後悔しているに違いない。

そして砂ちゃんは笠原さんが校舎を出て行ったのを確認してから、「はあー、マジかー」と大きなため息をつき、椅子の上に倒れこんだ。

「こうやってまた、業務が膨れ上がっていくんスよね。休日まで英語の勉強をしたら、うちらどこで休めばいいんスか? 『働き方改革』とか言っても、自宅残業が増えるだけじゃないスか? 若松さんの研修が終わったら、今度は絶対にうちらの番ッスよ」

そう、恐らく英語研修は今後、全社員対象となるだろう。それも、かなり長期的なものになるはずだ。もう、向こう何年は、休日も英語で雁字搦めである。

そして、今後の新規採用でも見られる項目は、まず「英語スキル」だろう。予め英語ができるスタッフを採用した方が、コスト的にもいいからだ。

「業務が増えるのは、別に仕方ないって思うんス。そりゃあ、色々と教育制度にも変更が出てきますから、それに対応していかないといけないじゃないスか? でも、一個業務が増えたら、一個減らしてくんないと。これじゃ、うちら社畜まっしぐらじゃないスか。マジで『英語4技能』って、大迷惑ッス」

まだ菜純ちゃんが横にいるのに、ここまで本音をさらけ出すのはいかがなものかとは思ったが、その気持ちは私も一緒だ。

ふと私は、目の前の菜純ちゃんの頭をそっと撫でた。この子が高校や大学に上がる時、一体どんな教育制度になっているのだろうか。そしてその時、私たちは対応しきれているのだろうか。

別に「英語を話せるようにさせる」という大義名分は理解できるのだ。ただ、どうやってそのゴールまで持っていくかのサポートが、上から一切なければ、その目標も空虚に響くだけだ。「甲子園優勝!」という目標だけなら、誰だって立てられる。

思うのだが、私たちも含め、日本国民全体に「英語が話せない」というツケがいよいよ回ってきている気がする。そしてそれはまるで借金のように膨れ上がり、結局解決できず、指導者も生徒も全て共倒れになってしまうのではないだろうか。どこかで大きな破綻が来そうだ。これは、学校の現場も同じかもしれない。

ちょうどその時、表の方がざわざわとし始めた。恐らく次の授業を受ける生徒たちが入ってきたのだろう。砂ちゃんはそれに気付き、ダラダラと立ち上がって、「じゃあ僕、数IIの授業に行ってきます」と、出て行った。

考え過ぎかもしれないが、あえて今、砂ちゃんは「数II」と言ったような気がする。そう、私に「数II」の授業はできない。数学の指導はできても、中学三年生までが限界だ。

何だか自分がとても無力な存在に思えてきた。張りぼての文系。文系とは名ばかりで、理系科目ができないだけの人間。TOEICだって、750点しかない。これでは理系の砂ちゃんとそんなに変わらないではないか。

ふとその時、菜純ちゃんが「先生、何がそんなに大迷惑なの?」と聞いてきたが、私は上手く言葉を返せなかった。

そしてその代わり、私の頭の中にこだましてきたのは、ユニコーンの『大迷惑』だ。そう、これは狂想曲だ。日本という舞台に、西も東も英語の狂想曲が今、鳴り響いている。

でも確か、「二度と出られぬ蟻、地、獄」って歌ってたっけ、民生。

(次回、「7、カントリー・ロード」に続く)

日本人が学んできた英語は「言葉」だったのか?


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