4、真夏の向日葵
結局、何も理解してくれなかった昨日の授業を反省し、私は二日目の授業にある工夫を凝らした。そう、一枚のイラストを用意したのだ。
「ねえ、ほら見て、四葉さん。先生、これ描いてきたんだけど」
そうやって私は、自作のドラえもんファミリーの絵を広げた。

別にネットにある画像をカラーコピーして使ってもよかったのだが、自分でイラストを描いて用意していくと、子供たちが俄然興味を示すのは、長年の経験から分かっている。
そして、別にイラストは下手でも構わない。ただ単に、興味を持ってくれさえすればいいのだ。あとはそこからしっかりと手を引いて、真面目な話に持っていけば、子供たちは自然とついてきてくれる。
しかしその瞬間、欠伸が出そうになったので、私は必死に噛み殺した。そう、正直なところ、私はこれを描くために、昨夜、寝る時間をかなり削ってしまった。
ただでさえ講習期間は忙しく、睡眠が十分に取れないのだが、彼女が理解してくれるためには、それも仕方なかった。
私にとっては、沢山いる生徒の中のたった一人に過ぎないのだが、彼女にとっては私が唯一の先生なのだ。しっかりと向き合ってあげないと。
「ほら見て。ドラえもんファミリーの中でも、ジャイアンってほら、背が高いでしょ。だから、『ジャイアン=背が高い』、つまり英語なら、『Gian is tall.』になるの。分かる? これが私が昨日言っていた、『be動詞はイコール』って意味」
「・・・」
じっとイラストを見て何秒も固まっている彼女を見て、私は不安になった。こういう場合、分かっていないケースが多い。うーん、ダメか、絵を使っても。私はどうするか、次の手を必死に考えた。
すると次の瞬間、ふと彼女の顔が上がり、
「・・・つまり、この、『ジャイアンイズトール』って英語は、『ジャイアンは背が高い』ってことなんやな?」
「そっ、そうそう! それに、ジャイアンってほら、意地悪でもあるでしょ? だから、『Gian is mean.』ね。『mean』はね、『意地悪』って意味。ほら、イコールでしょ?」
「・・・ジャイアンイズミーン・・・」
表情が固い。違う例を出したことで、逆に混乱させてしまったか。
すると、ふとまた顔が上がり、
「・・・あんな、先生。意味は分かった」
「え、本当に! 分かってくれた?」
しかし、次の瞬間、彼女の表情が険しくなり、
「分かったけど、一言だけ言わせてもらってもええか?」
「え? あ・・・うん。何?」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。その険しい目つきに、緊張が走った。
「うちの今日の靴下、見てもらってもええか?」
「え?」
どうして彼女の靴下なんか見なきゃいけないんだろう。
私がポカンとしているうちに、左隣から「うわっ」と小さな声が聞こえた。恐らく私たちの会話を聞いていたのだろう、気になった菜純ちゃんが先に彼女の靴下を見て、声を上げたようだ。
何だろうと思い、私は菜純ちゃんに続いて、机の下を覗き込んだ。そしてその瞬間、私は菜純ちゃんのように、思わず「うわっ」と声を上げた。
そう、何と今日、彼女はキャラ物の靴下を履いており、その柄があろうことか、『ジャイアン』だったのだ。
「うち、ジャイアン大好きなんやけど」
「え・・・あ・・・」
「ええ奴やで、ジャイアンは。そりゃあ、たまにのび太を殴ったりもするけど、男気溢れる、あれこそ正義の味方や。もしも『意地悪』を使うとしたら、スネ夫の方やろ。なんでそこであえて、ジャイアン出してくんねん。そりゃ、さすがに気分悪なるわ」
私は頭を下げて、「ご、ごめんなさい」と謝った。
「謝る相手ちゃうやろ、うちやなくて、ジャイアンに謝らんと」
た、確かに。私は彼女の靴下に向かって、「ごめん、ジャイアン」と頭を下げた。というか私、一体何やってるんだろう。
「もうええわ。ジャイアンはええ奴やから、もう先生のこと、許してると思うで。そういう奴や」
それはよかった。さすがジャイアンだ、うん。
すると彼女はふと私に、「ほんで、ちなみに先生は誰が一番好きなんや?」と尋ねた。
「え?」
「だから、ドラえもんファミリーの中で、誰推しなんか、聞いてんねん」
「推しもクソもないでしょ」という言葉を、何とか私は堪えた。しかし、ここまで来たら、付き合ってあげないと。
少し悩んでから、私は出来杉くんの名前を出したが、「はあ?」という呆れた声が返ってきた。
「ないわ、それは。出木杉くんはありえへん。話にならん。なあ、あんたはどうや?」
そう言って、今度は菜純ちゃんに話を振ったので、私はビックリした。
別に友達にもなったわけでもないのに、授業中、いきなり話しかけるとは。しかも、優等生の菜純ちゃんに向かって、だ。勉強の邪魔になったら、益々この塾の印象が悪くなる。
私は慌てて制しようとしたが、菜純ちゃんが「ドラミちゃん!」と瞬時に声を上げたので、また私はビックリした。そのノリノリな口調からして、もしかして菜純ちゃんはずっと考えていて、話が振られるのを待っていたのかもしれない。
「ドラミか。若いくせにええセンスしとるやんけ。でもあんたはどう思う? 出木杉くんはありえへんと思わんか?」
「うん、ありえないと思う」
「な、何で、菜純ちゃん? かっこいいじゃない、出来杉くん」
「あんな、先生。言うとくけど、あんなパーフェクトな男、この世にはおらへんからな。もっと現実の球、見てかんとあかんで。ど真ん中の抜け球なんて、そんなにきーへんねん。そんなん待っとったら、婚期も逃してもうで」
「な・・・」
何なの、この上から目線。
「うち、ちーちゃんから聞いたで。先生、将来、どんな人と結婚したいかって話で、『トム・クルーズみたいな人』って言うたらしいな。どの面下げて言うてんねん。それ聞いて、うち、絶対本人に現実見せたらなあかんな、思うとったけど、今ようやく言えるわ。先生、目ェ覚まし。あんたはニコール・キッドマンとかとはちゃうねん。鏡見てきたほうがええで」
「ちょ、ちょっと! そこまで言われる筋合いないんだけど、四葉さん!」
「お、やるんか。口喧嘩なら負けへんで」
それから私たちは数分間、理想の男性像について、激論を交わした。
今思うと、それは初めの来訪時に見た、親子同士の掛け合いみたいな感じだったのかもしれない。それくらい、この子はポンポンと返してくる。
しかし、それが落ち着き、暫くしてからのことだった。ポツリと、「まあ、でも、分かったかもしれん」と呟いたのが聞こえて、私は「え?」と小さく返した。
「だから、be動詞の意味や。イコールってこっちゃな」
「そ、そう!」
「つまり、や。例えばマイとーちゃんはぼけなすやから、この場合、『マイとーちゃんイズぼけなす』でええねんな?」
「あ! うん、そうそう、それそれ。『ユアとーちゃんイズぼけなす、ユアとーちゃんイズおたんこなす』」
すると、にこやかだった彼女の顔が、すうっと真顔になった。え?
「あんな・・・先生。実の娘が言う分にはかまへんけど、赤の他人にそんなノリノリで、人の親をディスられる筋合い、一ミリもないで。そんなん、あんたに何の権利があんねん」
「あ・・・ゴ、ゴメン」
「しかも、今、勝手におたんこなす足して例文作ったやろ? それ、先生の素の気持ちやん。そう、心の底から、思うとるやん。そりゃ、さすがにうちかて、気分害すやん。どうすんねん、この微妙な空気。まだ講習始まって二日目やで? さっきのジャイアンの件もあるし。こんなん、二回表に顔面デッドボールや」
や、やってしまった。確かに酷いことを言ってしまった。
私は何度も「ごめんなさい」と彼女に頭を下げた。こ、これはやばい。そしてもしもこれが、あの父親に伝わってしまったら、大クレームにも発展する。
しかし、しばしの沈黙の後、聞こえてきたのは「クスクスクス」という、笑い声だった。そしてそれは、なんと隣の菜純ちゃんからだった。
「せっ、先生、おっ、おっ、面白い(笑)」
「え?」
それは初めて見た、菜純ちゃんの笑い顔だった。
すると今度は、反対側からも「カッカッカッ」という、大きな笑い声が響き出した。
そして、私も思わず堪えきれなくなり、大きな声で笑い始めた。そしてなんと、笑いが止まらなくなってしまった。
く、苦しい。こんなに笑ったの、もしかして高校生の時以来かもしれない。面白い。チョー面白い。それから数分間、フロア中に、私たちの笑い声が響き渡った。ヤバイ、本当に止まんない。お腹が痛い。誰か止めて。
しかし、その時だった。「うるさいですよ!」という注意が、後ろから飛んできて、私たちはパッと後ろを振り返った。すると、そこには険しい顔をした、笠原さんの姿があった。
「一体、何の騒ぎなんですか? このテーブルは?」
「あ、いえ、そっ、その。つい、話が盛り上がっちゃいまして・・・」
私は立ち上がり、ペコリと頭を下げた。
ただこの塾では、学校の授業のように、私語や笑いは禁止ではない。時には私語も適度に楽しみ、生徒と先生の距離を縮めることも、立派な授業の一環だとされている。
というのも、生徒が先生と話しやすくなれば、授業中、質問だってしやすくなり、最終的には生徒の学力アップにも繋がるからだ。
しかし、たとえそうであったとしても、先程はやはり、笑いすぎたかもしれない。
「盛り上がるのもいいですが、周りの生徒のことを考えて下さいね。それに、若松さんは社員なんですから。しっかりして下さい」
そう言って、笠原さんはカリカリしながら、戻っていった。
いつもであれば、もう少し説教が続くのだが、今は新しい生徒が多い講習期間ということもあり、公の場で怒るのは得策ではないと考えたのだろう。私はフーッと大きく息を吐いた。
こうして水を差された感じにはなってしまったが、それでも私たちはその後も、先ほどのことを何度も思い出し、クスクスと笑いながら、授業を続けた。しかし、こういう雰囲気もあっていいと、私は思う。

本来、勉強とはほとんどの子供たちにとって、つまらないものである。特にこの塾に通っている生徒は、学校の授業にもついていけない子供たちばかりだ。チンプンカンプンな学校の先生の話なんて、苦痛でしかないだろう。
だから、ここではまず、こうしてコミュニケーションを取りながら、授業が楽しいと思ってもらう。転機となるのは、やはりこうした人と人の触れ合いありきだ。頭ごなしに「勉強しろ」と言われたって、人の心は動かないし、変わらない。
ふとその時だった。右隣からポツリと、
「あんた、ちーちゃんがいつも言うとる通り、めっちゃ、ええ先生やな」
私は「え?」と、振り向いた。
「だってうち、『この塾には入らん、講習だけや』って初めっから断言しとったやん。だから、どんだけ頑張ったところで、あんたに何の得もないやん。講習が終わったら、サヨナラやん。うちら、もう出会わんやん。赤の他人やん。しかもうち、無料で授業を受けてんねやで? それなんに、何でわざわざ絵とか描いてきて、そんな必死こいて教えてんねん。そんな義理もないやろ? あんた、アホちゃうか?」
「え・・・だって、英語が分からないんでしょ? で、分かりたいから、ここに来たんでしょ? だったら、分かるまで教えないと。それが私の仕事だし」
「それが自分の得にならんでもか?」
「そんなの関係ないでしょ。だって私が今、四葉さんの隣に座っているのは、私の為なんかじゃなくて、あなたの為なんだから。この塾に入るとか入らないとか、無料とか有料とか、それが何? 関係ある? 私はあなたに、先生として出会ったんだから。だから、分かってもらうまで、とことん教えるだけ。それが私の仕事。それ以上でも、それ以下でもないの」
「・・・」
「さ、速くその問題解いて。講習の間に、疑問文までいきたいんだから。せめてそこまでやっておかないと、学校の授業、チンプンカンプンのままだよ?」
「・・・」
あれ? どうしたのだろう。机の上のジャイアンの絵をじっと見つめたまま、彼女の動きがピタリと止まってしまった。
私が「どうしたの?」と声をかけると、
「なあ先生、このジャイアンの絵、もらってもええか?」
「え? あ、うん、もちろん。そんなのでよければ」
その時、ふとパッと顔が上がった。
「うち、勉強が楽しいって思ったん、生まれてきてから、今日が初めてかもしれん」
「え! ・・・そ、そう?」
「ああ、エリートと全然ちゃうわ。うち、英語が好きになりそうやわ」
その声が少し涙で湿っていたので、思わず私は、胸の奥が熱くなった。
教える側にとって、「勉強が好きになる」以上の嬉しい言葉はない。
そう、勉強に限らず、何においても、まずは好きになってもらうこと、興味を持ってもらうことが、私は上達の一歩目だと思っている。そしてそれこそが指導者の役割だとも、最近よく思うのだ。
「一教科でもええんか? ここ」
私は思わず「え?」と、目を丸くした。
「だから、もしもここで二学期からも勉強続けるんやったら、や」
「え? 続けるの? でも、お父さん、絶対に続けさせないって」
そう、熊田家はリリーフも鉄壁なはずである。
「それはまた別の話や。もしも仮に続けたら、や。そんときは別に英語だけでもええんか? ちーちゃんは英語も数学もやっとるけど」
「あ・・・うん、もちろん、一教科でも大丈夫だけど」
「分かった」
そう言って四葉は、「このページでええねんな?」と問題を解き始めた。
これは意外な展開だ。この子だけは絶対にこの塾に入ることはないだろう、と内心諦めていたからだ。
しかし、もしも入塾してくれるのであれば、私も営業成績上、助かるし、もちろん、ちーちゃんだって喜ぶだろう。
そして、その時だ。
「私も、続けたい」
と、今度は菜純ちゃんが続いた。これも意外だった。
「ホンマか、あんた。ほんなら、また隣で一緒に勉強できたら、ええな」
「うん!」
「じゃあ今から勝負や。うちの方が、あんたよりも先に終わらせて、先生と先に話すで」
「ううん。なずが絶対に勝つよ」
「ハン。口だけはいっちょ前やな。ちっこいくせして。絶対負かしたるわ」
「やだ。なずが先に先生と話す」
そう言って、二人は問題に取り組み始めた。

・・・何だか、いい、この雰囲気。
そう、授業をしていて、稀にこういう「奇跡に近い瞬間」がある。人として、通じ合っているというか。年代も身分もやっていることも、全く違う三人なのに、まるで一心同体のような。
結局だが、私がやっていることは、ボランティアではない。授業だって、営業活動の一環だ。しかし、同時に「子供たちのため」でもあるのだ。
それがたとえ自分の利益に繋がらなかったとしても、それは別に構わない。講習だけになっても、子供がここに来て良かったと思ってもらえるなら、それでいいではないか。子供の横に座ると、やはりそう思う。
笠原さんは、「私たちは一人の塾人である前に、一人のビジネスマンだ」とよく言う。しかし、私は「一人のビジネスマンである前に、一人の人間である」といつも思っている。
するとふと、また声が聞こえた。
「うち、先生の声、好きやわ。ほんま優しくて。エリートと全然ちゃうわ」
私はドキリとした。
「しかも、このイラスト、昨日頑張って描いてきてくれたんやろ? どんだけ時間かかった? 昨日ちゃんと、寝られたんか? 顔、昨日よりも疲れとるやん。授業の始めから欠伸だって、何回も我慢しとるし。生徒だって、うちだけちゃうやろ? 生徒一人にどんだけ全力投球してんねん」
なんだ、この子、始めっから気付いていたのか。
「しかも絵心全然ないくせして。色まで綺麗に塗ってきて。エリートなんか、こんなん一回もしてくれたことあらへん。『授業をちゃんと聞け、参考書読んでこい』で終わりや。初めてやわ、うち、こんなんされたん」

ニコッと輝いた、その真夏の向日葵のような眩しい笑顔に、私は思わず胸が締め付けられそうになった。
そして、同時にこの瞬間、この子が私の人生にとって、きっと何か特別な存在になるだろうという、確かな予感を覚えたのだ。
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