新作「もしなる2」

「もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになるか2」前編

1章「英語が話せない遺伝子」

1-1 「英語ネイティブは魔法使い」

「なあ、由璃ネエ。うちなあ、心の底から思うねんけどな、英語を話す外国人ってどんな頭ん中しとんのやろな。みんな天才ちゃうか」

「みんな天才? どういうこと?」

「だって、うちらがこんなに苦労しとる文章をあいつら、スッスッスッて書いたり話すんやで。日本人やったら、こんな文章書くんに、丸々一週間はかかるやろ。そんなん、魔法使いのおっちゃんみたいなもんや」

梅雨明けした、七月初旬の生ぬるい空気の中、右隣に座る熊田四葉は、ぐでーっと英語のテキストの上に突っ伏した。

私、若松由璃はこの個別指導塾『ヘッドスタート』に入社して、今年でもう三年目になる。大学を卒業して、はじめは商社に就職したが、仕事内容が合わず、結局三年で退職した。

とりたてて将来の目標もなく、何となく生きてきた私は、大学時代にアルバイトで3年間勤めていた、個別指導塾『ヘッドスタート』の社員募集の広告を転職サイトで目にした時、「運命の糸」のようなものを感じた。

そして、その予感は面接に行った時に、一本の太い線となった。というのも、その時の面接官が、以前校舎で働いていた時のマネージャー、松尾茜さんだったからである。

こうしてアルバイト時代の勤務態度も良かったことから、私はその場で採用の確約をもらった。もう、ずっとこの会社で塾講師として生きていこう、と心に決めた瞬間だった。

しかし、思い描いていたものと現実は、大きな乖離があるものであると、私は入社してから思い知った。というのも、またアルバイト時代のように、毎日楽しく子供に勉強を教えて終わりだと思っていたのだが、社員研修を重ねるたびに、私は塾業界の実態が段々と掴めてきた。

そう、塾会社の社員の仕事は、生徒に「授業をすること」ではなく、面談や電話掛けなどをして、生徒に「授業を取らせること」がメインだったのである。教えるのは別に社員である必要は全く、単価の安いアルバイトの大学生たちで全く構わない。

もちろん、教育業界とは言えど、一営利団体である以上、利益をとことん追求しないといけないのは、今にして思うと、当然のことである。

そのため、元から営業が苦手な私は、塾の業務内容に気が滅入ることが多々あった。そう、子供に勉強を教えるためにここに入ったのに、やっていることは営業マンと、何ら変わらないからだ。

「なあなあ、由璃ネエ。こんな暗号みたいなもん、あいつら、目があっち行ったりこっち行ったりせーへんのかな。これって、国語の授業でやっとる漢文のレ点みたいやん。後ろから読んで前に行くって。頭ん中、ぐちゃぐちゃになるわ。でもこんなん、あいつら一瞬で処理しながら話したり、聞いたりしてんねやろ? 予知能力でもあんのか?」

それでも、この塾のまだいいところは、授業の全てをアルバイト大学生たちに丸投げしないところにあった。そう、彼らほどガッツリと授業を受け持つことはできないが、週に何日かは「先生」として稼働し、授業を受け持つことができるのである。

もしもこれが、営業一色の業務内容であったのであれば、恐らく私は一年も続かなかっただろう。そう、やはり子供との授業は楽しい。生徒とのコミュニケーションが、私の仕事へのモチベーションだ。

「なあ、やっぱりあいつら、日本人より頭いいに違いないわ。処理速度が全然ちゃうやん。うちら日本人がガラケーなら、あいつらスマホみたいなもんや。あー、なんでうち、日本人なんかで生まれてもうたんやろ」

そして、先ほどから、ひっきりなしに話し掛けてくる四葉は、私が担当する花塚中学校の三年生である。

ちなみにこの校舎には私を含めて、三人の社員がおり、それぞれの学区によって生徒の担当が分かれている。東京との境目にある、埼玉県の花塚市というエリアにある学校の生徒は、手続きなども含めて、全て私が窓口となっている。

「ねえ、先生。これ解いてもいい?」

一方、幼い声でそう尋ねてきたのは、左隣に座る、栗原菜純(なずみ)ちゃんだ。同じく私が担当する、花塚小学校の五年生である。

ちなみに、ここ『ヘッドスタート』は集団塾ではなく、先生一人につき、二人の生徒を同時に教える、個別指導型の塾である。広いフロアの中に丸テーブルが等間隔でポツポツと置かれ、先生はその中央に座り、両隣に座る生徒を指導する。初めて私がこの塾に訪れた時、まるで家庭教師が各テーブルに座っているカフェのようだ、と思ったものだ。

そして二人同時に教えるのは、時には大変にはなるが、理解力が高い子と、そうではない子を両隣に置くことで、比較的効率よく回せるのは、経験上よく分かっている。

そのため、手のかかる四葉の授業がこの一年、問題なく回せているのは、いつも隣が優秀な菜純ちゃんだからである。こういう、凸凹コンビが個別指導にはバランス的にちょうどいい。

「♫〜♫〜」

いきなり四葉が小さな声で歌い始めた。そう、この子は唐突に歌を歌い始める癖がある。

とにかく四葉は歌を歌うことが好きだ。将来の夢も「歌手」と公言しているくらいである。 

私は改めて、四葉をまじまじと見た。日に焼けた健康的な肌。元々ソフトボール部のキャッチャーだったことから、体格がいい。

一方、隣の菜純ちゃんは、同学年の中でも小柄な方で、見た目もとても幼い。そして、その言動は優等生そのもので、家庭での躾がしっかり行き届いているのだろう。

ふと、涼しい風がスーッと窓から吹き抜け、カーテンがさわさわと揺れた。そして、私はぐるりと教室を見回し、他のテーブルの様子をうかがった。

約10人のアルバイト大学生たちが、それぞれのテーブルで授業を行っている。ほとんどの生徒は小中学生だが、中には高校生もおり、幅広い年代の子供たちがこの校舎に通っている。そして、みんな学校もバラバラなので、学校帰りにこちらに寄る生徒は、制服もバラエティに富んでいる。

「っていうか英語、あんたな。スペルもいい加減にしとき。何で『Wednesday』に『d』がまぎれこんでんねん。言わんのなら、さっさと取らんかい。あんたの自己主張のせいで、世界中の英語学習者が迷惑してんねん。ほんで、何で『バス』が『bus』やねん。ぶっさい男子が『ブスブス』ってクラスん中で、クソうるさいんやわ。『bus』作ったんやったら、しっかり『buotoko』も作っておかんかいな」

「ねえ、ちょっと四葉。隣で真面目に勉強している人がいるんだから、もっと静かにやって。ゴメンね、菜純ちゃん」

そう言って、私は隣の菜純ちゃんをフォローした。しかし、菜純ちゃんは、何一つ気にしていない様子で、スッスッスッと計算問題を解いている。

ちなみに菜純ちゃんはここでは算数だけを習っており、英語は近所の英語塾に通っているそうだ。そして、四葉が受講しているのは、英語のみだ。

「先生、できた!」

丸付けが終わった菜純ちゃんのノートを見ると、やはりパーフェクトだった。この子は本当に、勉強がよく出来る。

「なあ、由璃ネエ、大問題発生や。プリーズヘルプミーや」

一方、こちらは10秒おきに声を掛けてくるから、世話が焼ける。

「ライブラリーのスペルが覚えられへん。ほら、見てみいな。スペルん中に、ラ行が三つも入っとる。『r』なんか『l』なんか、こんがらがる」

確かに『library』のスペルは混乱しやすい。しかし私はその瞬間、ニヤリと笑った。待ってましたよ四葉、その質問。そう、私はこの対処法を知っている。

「ほら、見て、四葉。『library』はこうやって覚えたら、簡単じゃない?」

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そう言って、私は四葉のノートの欄外に『library』のスペルを書き、直角三角形でその形を囲った。

「こうして『形で』覚えたら、忘れないでしょ? ほら、三角定規みたいじゃない?」

それを見て四葉は、「・・・天才ちゃうか、由璃ネエ。スペルの形で覚えるとか。それ、もうアカデミー賞ものやん」と声を漏らした。多分、ノーベル賞とごっちゃになっているのだろう。

そしてふと左隣を見ると、菜純ちゃんもノートを覗き込んでおり、「わー、本当だ」と声を上げた。どうやら菜純ちゃんも、英語塾でスペルの書き取りを始めているようだ。

「由璃ネエ、よく考えついたな、こんなん」

「へへー。でもこれ、私が考えたやつじゃないんだ」

「ああー、また例の『聖典』ってやつやろ?」

そう、私との付き合いが長いので、四葉はすぐに元ネタに気付いた。

詳しく説明をすると、この塾には本部に『教務部』という、日々、教材の研究や開発をしているセクションがある。そして、そこでは『教務マニュアル』という、授業で使える「裏技集」のようなものを作成しており、社員はもちろん、アルバイト大学生たちにもこれを配布している。

一見、ただのマニュアル集なのだが、その出来があまりにも素晴らしいので、私たちはこれを『聖典』と呼び、もはや崇拝の対象にまでなっている。それほど、全教科に渡って、生徒の分からないところなどの対処法が網羅されているのだ。

「他にも何かないんか? 『library』みたいなの」

「あるよ。ほら、たまに『left』と『right』、つまり英語で左と右がごっちゃになったりしない?」

「ああ、あるなあ。うち、たまに日本語でも右か左か、分からんくなるわ。え、どうやって覚えるん?」

菜純ちゃんも「私も聞きたい!」と声を上げた。

画像2

「じゃあね、二人とも左手を出して。それで、親指と人差し指で直角を作るの。ほら、ここに大文字の『L』の字ができるでしょ。だから、『Left』イコール『左』で覚えられる」

「あ・・・ホンマや、すげえ!」

菜純ちゃんも「本当だ!」と声を上げた。

「ちなみに英語圏じゃ、こうやって右か左か教わっているんだって。日本だったら、右手はお箸で、左手はお茶碗って習うけどね」

「へー、おもろいなあ」

四葉と菜純ちゃんは、何度も自分の手を見ながら、キャッキャッと騒いだ。そう、こういう勉強のコミュニケーションが間近で取れるのが、個別指導のいいところだ。

「さあ、今日は45のページまでは終わらせるよ。期末が近いんだから」

そう言って、私は四葉を急かした。

「なー、由璃ネエ、この単語分からん。意味なんや?」

「また? じゃあ、これ使って」

「わー、まーた出てきよったで。『ザ・天然記念物』や」

そう言って四葉は私から受け取った英和辞書をめくり始めた。そう、私は電子辞書よりも、未だに紙の辞書を使う。重くて場所を取るが、パラパラとめくれるのが紙辞書のいいところだ。

一方、紙辞書に慣れていない四葉は『ABCの歌』を歌いながら、辞書を引き始めた。アルファベット順が頭にしっかり入っていないから、いちいちAから歌って順番を確かめないといけない。

「えっと、『♪エービーシーディーイーエフジー、♪エッチアイジェイケーエルエムエヌ・・・』あれ? 次、何やったっけ?」

ダメだこりゃ。これでも、受験までもう1年を切ってしまっているというのに、この子はアルファベットすら怪しい。

するとすかさず菜純ちゃんが『オーピーキューアールエスティーユー♪』と助け船を出し、四葉は「それや!」と、再び辞書を引き直した。

やれやれだ。全くもって、菜純ちゃんのほうがよく、ものを知っている。そしてこれは断言してもいいが、算数に関しては、中三の四葉よりも、小五の菜純ちゃんのほうが上だ。

ふとその時、違う方向からクスクスと笑い声が聞こえてきた。振り返ると、そこには後ろの席で授業を受けている安川千聖、通称『ちーちゃん』の笑顔があった。きっと私たちの授業を後ろから見ていて、思わず笑ってしまったのだろう。

そう、そもそも四葉はこのちーちゃんからの紹介で、この塾に入ってきたのだ。ふと私は、初めて四葉と会った日のことを思い出した。

1-2「マジカルじゃなくて、フィジカルかも」

「ほー、ここが塾ってとこか。なんや、うちが想像しとったんと全然ちゃうな。うち、ハチマキした先生が竹刀とか持って、所構わず怒鳴り散らしてんのかと思うた」

「おい、四葉。あんまりキョロキョロすんなや。関西から出てきた田舎もんやと思われるやろ」

「関西から出てきた田舎もんやん。しゃーないやん」

「なんやと」

その時、スタッフルームにいた私は、表の騒々しい声に気づき、受付の方へと向かった。

すると、受付に一人の中年男性が座っており、その隣で一人の体操服姿の女の子が、落ち着きなく歩いているのが見えた。「妙な親子」が入ってきたぞ。これが私の、第一印象だった。

「・・・あの、何かご用でいらっしゃいますか?」

声を掛けた瞬間、エントランスのドアがバンと開き、一人の女の子が駆け込んできた。

「あっ、ちーちゃん、こんにちは。どうしたの?」

学校帰りなのだろう、制服姿のちーちゃんが、「ハアハア」と息を切らしている。そして、体操服の女の子に向かって、「ちょっとよっちゃん、置いてかないでよ」と声を掛けた。

何だ、ちーちゃんの友達なのか。あ、そう言えば、女の子が着ている体操服は、花塚中学校のものだ。ということは、この子の担当は私になる。

「ねえ、由璃先生、これが私が前に言ってた、よっちゃん。夏期講習、受けたいんだって」

私の声が「え?」と裏返った。そう、ちょうど今は夏休み前の「募集期」と呼ばれる時期で、新規生徒を無料講習や図書カードなどの特典で誘い、正規入塾へと繋げるキャンペーン期間だった。

そして、ちーちゃんからはよく、「よっちゃん」という友達の名前が挙がっていたが、その子はとにかく勉強が大嫌いだという話だったので、来る見込みはほぼゼロだと思っていた。

ただ、この「よっちゃん」という子は、ちーちゃんの一番仲のいい友達らしい。何でも去年、関西から転校してきて、ソフトボール部に入った途端、いきなり一年生でレギュラーを獲得したスーパーガールだという話だ。

そうか、この子がその噂の「よっちゃん」か。ようやく本物に会えた。少し感動でもある。

「あんたがいつもちーちゃんが学校で言うとる、由璃先生って人か。ようやく会えたわ。なんや、思ったより、えらいちっこいな」

どうやらそれは、向こうにとっても一緒だったようだ。でも何なの、この上から目線。

「ずっと彼氏おらんそうやから、どうせブッサイ顔しとるんかと思ったら、なんや可愛いやん。性格の問題ちゃうか?」

「は?」

慌ててちーちゃんが「ちょ! ちょっと、よっちゃん! やめてよ」と止めに入った。

私はちーちゃんを無言で睨んだ。きっとこの子、私がプライベートで喋ったことを、学校でも言いふらしているに違いない。今までずっといい子だと思っていたのに。今度、絶対に宿題を増やしてやる。

「ご、ごめん、先生。まさか、よっちゃんが塾に興味示すとは思わなくて。今日たまたま学校で塾の話になって、講習は無料で受けられて、図書カードも千円分もらえるみたいなこと言ったら、『ほんなら今日、親と一緒に行くわ』みたいな話になって」

何なんだ、その軽いノリは。もう少し、深く考えてからにしてほしい。

「善は急げ、言うやろ。どうせ親父もずっと暇しとるんやし」

「暇ちゃうわ。やめえ、そんな無職みたいな言い方」

「無職やんけ。先月会社、クビになったやろ」

「クビちゃうわ。こっちから辞めたってん、言うてるやろ」

「そんなん、ホームラン打たれたピッチャーが、『打たしたってん』言うとんのと変わらんやろ」

「なんやと」

ヤバイぞヤバイぞ。子も子だけど、親も親だ。

本来だが、無料講習に図書カードのプレゼントとなると、よっぽど勉強が嫌いでない限り、受けてみようかなと考えるのが普通である。

しかし、ここでネックになってくるのは「親の存在」である。そう、子供だけでは契約はできない。そこには保護者の承諾もあり、そして塾に電話をして面談のアポを取り、講習の手続きを行う。

こうした何重ものプロセスが挟まるので、たとえキャンペーン期間であっても、申し込みがあるのは一日せいぜい二、三件がいいところだ。やはり、無料とはいえど、どの家庭も気軽に申し込みには来ない。

しかし、この親子は今日講習の話をして、アポなしでそのままここに手続きに来たのだ。今までに聞いたこともないスピード感である。色々と常識が通用しなさそうだ。

「なあ、四葉から聞いたんやけど、夏期講習っていうんはあれか? 無料で受けられるってホンマか? ほんで、図書カードまでもらえるんやな」

「あ、は、はい」

大人同士の駆け引きが始まる。私は思わず身構えた。

「これは確認やけど、別にこの塾に入る必要はないんやな」

「! ・・・」

初めからいきなりこんな直球を投げてくるとは。もちろん、その通りではあるが、あくまで講習の無料講習と図書カードは、二学期以降も継続してこの塾に通ってもらうための「呼び水」である。そしてな講習を気に入ってもらい、もしも子供が「楽しかった、勉強が分かるようになった」と言えば、「二学期以降も通いませんか」という、前向きな話も保護者に切り出せる。

もちろん、保護者もその点は薄々分かっているため、たとえ初めから正規入塾させるつもりがなくても、「ひとまず受けさせてみて、本人が気に入れば」と結論をぼかして講習を受けさせるのが普通なのだが、第一声で「入らなくてもいいんだな」は、正直反則もいいところだ。

「ほんならうちらが損することは何もあらへん。受けさせたるから、はよ手続きしよか」

「あ、は、はいっ」

もう、そう返すしかない。しかしその瞬間、私は「あっ」と声が出た。そう、あともう15分で授業が始まってしまうのだ。もしも今から手続きをすると、説明などであと30分は掛かってしまう。

ひとまず私は、受付表に名前や連絡先などを記入してもらうように伝え、スタッフルームへと駆け戻った。すると、後輩社員の砂川大翔君、通称「砂ちゃん」が、心配そうな顔で私を待っていた。

「大丈夫ッスか、若松さん。直来ッスよね、今の」

「そう、どうしよう。今から授業なのに」

ちなみに「直来」とは私たちの社内用語で、「直接来た、アポなし客」のことである。

もちろん、「また日にちを改めてから、ご来訪下さい」と帰すこともできるのだが、「直来」を帰してしまうと、「やっぱり講習はやめにした」となる可能性だってありうる。

そして、もしもそうなれば、後から今は不在にしている、教室長の笠原周一さんから説教をくらうのは、目に見えている。そう、この塾のモットーは、「一度食いついた魚は逃すな」だ。

「あの、僕、授業に入れますよ」

「え?」

「実は次の時間、どっちも生徒がお休みになっちゃって。空いちゃうんスよ」

「え! 本当?」

私は不謹慎だが、心の中で「やった!」と叫んだ。それに、社員の砂ちゃんであれば、安心して自分の生徒を任せられる。私は砂ちゃんに生徒ファイルを預けて、大まかに進度の説明をし、受付へ大急ぎで戻った。

「なんや、もしかして、都合悪かったんかいな」

父親の方からそう尋ねられたが、私は営業スマイルで「いえ、全然」と返し、受付に座った。

私は「さて」、と心の中で呟き、気合を入れ直した。そう、ここからだ。たとえ「塾には入らない」と明言していても、何とか成績や受験などの真面目な話に持っていき、正規入塾の必要性を説かないと。受験の話をすれば、情が動かない親はいない。

するとちーちゃんが、「じゃあ、よっちゃん。私、授業があるから、もう行くよ」と女の子に声を掛けた。

「おう、頑張ってこいよ。誰かにイジメられたら、助けに行くで」

「ないよ、塾にイジメなんて(笑)」

そう言って、ちーちゃんは私の耳元に「手強いと思うけど、頑張って入塾させて」と呟き、奥の教室へと駆けて行った。やれやれ、だ。

私は記入してもらった受付票を受け取った。それを見ると、女の子の名前は「熊田四葉」、そして父親は「熊田雅人」というらしい。

「なあ、ここはあれか。テストみたいんはないんか? 講習受けるんに」

「はい。特にそういったものはございません」

「おい、よかったな、四葉。あったら受けられんかったで、お前の頭じゃ」

「その頭はあんたから丸ごと引き継いでんねんで」

「なんやと」

私はゴクリと唾を飲み込んだ。一体この子は、どれくらいの学力なんだろう。正直なところ、基礎が全く入っていないと、教える方だってかなり苦労する。

「ほんでさっきの話の確認やけど、ホンマに夏期講習ってのは、無料で受けらるんやな?」

「あ、はい。無料です。どなたでも。一教科だけなら」

「そうやって恩を売っといて、後でしつこく勧誘されても、うちは絶対に動かんぞ。本当に、それでもええんか?」

「あ・・・は、はい。もちろん、講習だけ、という方もいらっしゃいますので」

「ええねんな? うちは絶対に絶対に、入らんで。予告ホームランや。つまり、あんたらは必ず損をするわけやで? それでも投げると言うんか。バックスクリーンに運ばれると分かっとって」

これはきつい。流石に、そこまで言わなくても、だ。そこで私は、「教材費だけは頂戴しております」と返した。

「ほーら、来たわ。どうせ高いんやろ。そこで元を取るつもりやな? 何ぼや。10万か? 100万か?」

「・・・え、と・・・税込みで1,500円です」

「な、なんやそれ。もっとボラんかい。何やっとんねん。しばくで」

保護者に「しばくで」と言われたのは初めてである。しかし、驚きの安さだったのだろう。確かに私も、もう少し上げてもいいと思うが、あくまでこの価格設定は、新規生徒が受けやすくするためのものである。

「ふん、見上げた教育精神やな。でも、騙されへんからな。情では熊田家は動かへん。リリーフも鉄壁や」

「は・・・はあ」

「あ、もしかしてあれか。施設費とか取るんやろ? 違うか?」

「い、いえ。教材費だけです、ご負担分は。それに、講習中は自習室なども使い放題です」

「はあ? 正式に入っておらんのにか」

「はい。講習を受けられている間は、正規入塾されていなくても、私たちの生徒、という扱いになりますので」

「ほほー。そいつはいい。おい、聞いたか四葉。これでお前、夏休みの間はずっとここに入り浸れるらしいで。冷房も効いとるし、天国みたいなところやん。こりゃ、父ちゃんも夏期講習受けなあかんな」

「あんな、父ちゃん。託児所やあらへんで」

「託児所みたいなもんや。どうせお前、やることもなくて毎日部活以外はフラフラしとんねんやから、ここでずっと勉強しとけ。ええ機会や。頭ようなって、東大でも目指してみい」

「父ちゃんの子供が東大なんかに行けるかい。トンビが鷹産むわけないやん」

「なんやと! この俺の、どこがトンビや」

「脳みそサイズちゃうか?」

「なんやと!」

目の前で繰り広げられる親子の小競り合いに、私の口はいつの間にか半開きになっていた。今まで沢山の親子を見てきたが、一番インパクトがある。

「まあ、とりあえずや。その値段で全部なら、熊田家には何の異論もないわ。申込用紙はどれや。サインしたる」

「あ、えっと。その前に、受けられる教科を決めて頂かないと」

「何受けるんや? 四葉」

「そんなん、英語に決まっとるやろ。それしかあれへん」

「姉ちゃん、英語らしいで」

「姉ちゃん言うなし。スナックちゃうで。真昼間から酔うとんのか」

「なんやと」

それからまた小競り合いが始まったのでウンザリしたが、私はタイミングを見計らって、「あの、ちなみに数学とかはいかがでしょうか?」と割って入った。

本来だが、個別指導塾に通っている生徒のほとんどは、英語と数学の2科目を受講している。というのも、この二教科は「積み上げ科目」とも呼ばれ、基礎が入ってないと、新しい知識が積み上がらないのだ。

さすがに二科目は無料とはいかないが、それでも正規の授業料の三分の一で受けることができるので、申し込む生徒も多い。

しかし、たとえ安くても有料となれば、父親の方が難色を示すと思ったのだが、真っ先に「いらんわ、そんなもん」と断ったのは、何と女の子の方だった。

「数学なんか勉強して、何の意味があんねん」

「え? で、でも今後、受験で必要になってくるよ?」

「ええねん、そんなん。どうでも。うちは英語だけやりたいねん。あとは眼中にあらへん」

思った以上にハッキリとした口調だったので、私はこれ以上、聞くことを諦めた。

しかし、私が今一番驚いたのは、この子は全くもって、「受験に興味がない」ということだ。今の一言で、それが分かった。

では、それなのに、どうして講習を受けようと思ったのだろう。そして、英語には何か特別なこだわりでもあるのだろうか。

「それでは、講習を受けられるに当たって、この塾の説明をさせて下さい。どういう指導方法をしているか、他の塾と何が違うか。あとはもしも仮になんですが、正規入塾されたとしたら、二学期以降のプランだとか」

そう、ここからが営業力の腕の見せ所である。ちょっとでも、正規入会の話をしておかないと。

しかし、父親の方は私を遮る仕草をして、「あー、ええねん、ええねん。そういうんは。俺が申し込んで、このアホが受ける。それで終わりや。それ以上もそれ以下もあらへん」と、ピシャリと締めた。うーん、思っていた以上に、鉄壁だ。付け入る隙が全くない。

「ほんで、あんたが教えてくれるんか?」

「え?」

いきなり女の子の視線が突き刺さり、私は思わず言葉が詰まった。

講習は、誰が誰を教えるかは、もちろんこの段階ではまだ決まってはいない。しかし、基本的に花塚中学校の新規生徒は、私が講習で持つようにしているので、恐らく自分が担当になるだろう。

「うちな、学校でやっとる英語、全っ然分からんからな。ホンマ、驚くで。とりあえず、今のうちから体力つけとき。メンタルの前にマジカルや」

「あ・・・うん。でも、大丈夫だと思うよ。今まで沢山の子を教えてきたから」

「ハン、うちのレベルをナメんなよ。バックスクリーン三連発、どかーん、どかーん、どかーんじゃ」

私はゴクリと唾を飲んだ。予告ホームランだ、これは。

「あ・・・でも・・・それって、フィジカルかも」

「何や?」

「だから、さっきの。マジカルじゃなくて、フィジカルじゃないかな。うん。絶対。マジカルだと、文脈の意味が通じないもん」

すると、女の子の顔が若干赤くなった。流石にこれは恥ずかしかったか。

父親も隣で「マジカルとかアホもいいとこや。ホンマ、親の顔が見てみたいわ」と、笑っている。カオスだ、カオス。そして女の子は、「ハン、口だけは一丁前やな」と私に小さく負け惜しみを言った。

「こら四葉。お前、人に向かって失礼やろ。誰にそんな口の利き方習うてん」

「ついさっき、姉ちゃんって呼んだん、忘れてもうたんか。やっぱ酔うとんのか」

「なんやと」

ヤバい、また始まりそうだ。

「あんな。せめてお前もアルファベットくらいはちゃんと書けるようにしてから、講習受けた方がええで。父ちゃん、前のテスト見たんやぞ。アルファベットの『b』と『d』が逆向きで、バツになっとったやろ。『bed』が『deb』ってウケ狙っとんのか?」

「あんた、何、勝手に人のバッグ漁ってんねん!」

「ワンピースの14巻探しとってん」

「入っとるか、ボケ!」

私はまた、ゴクリと大きく唾を飲み込んだ。一体、どんな授業になるんだろう。

1-3「カオスの夏季講習」

夏期講習が始まり、私は彼女の英語力に驚いた。低いとは思っていたが、そんなレベルではなかった。そう、低いどころか、何もなかったのだ。

「あの、熊田さん・・・この問題って、並び替えじゃなくて、カッコの中から一つ選ぶ問題なんだけど」

そう、彼女は「She goes to school (  ) bus.」のカッコ内に、「by/in/as/to」のどれか一つを選ぶ問題を、なんと「to in by as」と並び替えてしまっていたのだ。

「なんや、道理で解答欄が狭いと思ったわ。作ったやつ、不親切なやっちゃなーって」

「っていうか熊田さん、ちなみにこれ、何順なの?」

「適当に散らした。これで三球三振や」

「バカじゃないの」という一言を、私はグッと堪えた。

そう、予め「夏期講習だけ」と宣言はしてはいるものの、この子が新規生徒であることには変わらない。

そして今までも、「講習だけ」とは言っていたものの、結果が覆ったことが何度もあった。講習が思った以上に楽しく、また勉強も分かるようになったので、本人が「これからも通いたい」となったパターンである。

この子がそうなる可能性は、もちろん限りなく低いが、講習が終わるまでは分からない。そして、何よりも勉強が苦手で、分かるようになりたいから、ここに来たのだ。たった5日間しかないが、講習期間中はできる限りのことはしてあげないと。

「先生、丸付けが終わりました」

ふと、左側に座っていた、栗原菜純ちゃんが落ち着いた声でそう言った。

「速いね、菜純ちゃん。うわっ、すごい、満点じゃないの」

同じく、新規で夏期講習をお試しに受けに来た菜純ちゃんは、すごい出来である。恐らく、私が今までに受け持ってきた生徒の中で、一番の頭の良さだ。

「・・・この塾、つまらないです」

「え?」

「問題、簡単すぎます」

菜純ちゃんの落胆気味の声に、私はゴクリと唾を飲み込んだ。

今までの経験上、これは危ないパターンである。そう、子供が「つまらない」と言えば、親は無理に塾には通わそうとはしない。

もちろん、子供が勉強を苦手とする場合は、強制的に通わせるパターンもあるが、菜純ちゃんは違う。ここに入らなくても、恐らく一人で勉強ができるだろう。そして親だって、本人が「嫌だ」と言えば、その意見を尊重するはずだ。

菜純ちゃんが退屈しないためにも、もっと難しめのテキストに変えた方がいいのかもしれない。というのも、これは笠原さんからも強く言われていることだが、菜純ちゃんだけは何とかして入塾に繋げないといけないからだ。

本来、生徒に優劣をつけてはいけないのは分かっている。しかし、もしも菜純ちゃんがこの塾に入ってくれたら、「あそこ、あの菜純ちゃんが通っている塾なんだって」と口コミが勝手に広がり、何もしなくても、どんどんと新しい生徒が入ってきてくれるのだ。

ちなみに、笠原さんからは「私たちは慈善事業をやっているんじゃないですからね。塾人である前に、一人のビジネスマンなんです」という言葉を、入社以来、何度も聞かされてきた。

「じゃあ、今度はこのページを飛ばしちゃって、このまとめページでもやってみる? 問題も難しめだから」

「多分、できると思います。テストもずっと100点でした」

表情も変えず、菜純ちゃんはそう言った。そんなに可愛いんだから、せめてもう少し愛嬌があったらいいのに。

そして勉強だって、全て「テストのため」になっているような気がする。問題をただ黙々と解き進めるだけで、好奇心のようなものが全く感じられない。

「なあ先生、これ分からん。『The news made me sad.』って。その知らせが私を悲しくさせた? 給食のデザートが減った、とかか? こいつの身に何が起きたねん」

カオスだ。中身が中学生以上の小学生と、中身が小学生以下の中学生を両隣に並べてしまった。もう、頭が爆発しそう。

ひとまず私は菜純ちゃんが退屈しないように、難しめのプリントを特別に用意し、先に英語の解説を済ませようと考えた。

「よし。じゃあ、ひとまず今日は、英語の基礎、be動詞からやってみようか」

「なあなあ、先生。そのビー動詞って、そもそもそ何やねん。周りもみんな言うとるけど。まず始めるんやったら、ビーからじゃなくて、エー動詞からやろ」

「いや、ないから。エー動詞なんて、そもそも」

「な、何やと? ビ、ビーがあるのに、エーはないんか?」

「ありません」

「そ、それはあれか。山にはあるのに、川にはないとか、そういうやつか」

「バカじゃないの」、という一言がまた出そうになったが、私は何とかまた堪えた。

「ほんなら、シー動詞は? ディー動詞は?」

「違う違う、そういうABCじゃなくて」

「な、何や、違うABCがあるんか? それってC-C-Bみたいなやつか」

何なの、この子。どうやって今まで生きてきたの。それにどうしてC-C-Bを知っているの? 知っている私も私だけど。

「いい? be動詞って言うのはね、イコールのことなの」

「イコール? おいおい、ちょっと待てぇや、先生。なんでいきなり数学になんねん。これ、英語の授業やろ。数学やるんやったら、返金してもらうで」

「無料で受けてるくせに!」というツッコミも、私は何とか堪えた。

「あの・・・ちょっと、熊田さん。ちなみに今まで学校の授業中は、一体何をしてたの? すごい気になっちゃうんだけど・・・」

「知るか。そんなん、うちが教えて欲しいくらいやわ。エリートに聞き」

「エリート?」

「うちの担任や。と同時に、日本が産んだ人類史上最低の英語教師や。うち、二年連続あいつやねん。呪われてんねん」

「あ・・・もしかしてそのエリートって・・樋口先生って人のこと?」

「はあ? 先生、なんで知っとんねん、エリートのこと。あ、もしかしてあいつの元カレか? ツイートして、拡散希望のハッシュタグつけるで」

私は「違う違う!」と、ポケットからケータイを取り出そうとする手を、慌てて制した。何て気が早い子なんだろう。

「ほら私、花塚中学校の担当だから、生徒から色々聞くの。学校の様子とか。それで、よく出てくるの、エリート先生って人」

「何や、そういうことか。そう、あいつ、チョー嫌味ったらしいねん。なんか大学もいいとこ出てて。トッポッキやったけな。それが高得点やったって、いつも威張ってんねん」

きっとそれはトッポッキではなく、TOEICのことに違いない。

「でもな、エリートの奴、全然英語喋れへんねん。外国人の先生が来ても、ずっと無言や。言うても、いつも同じセリフばっかりや。ほんで分かってもないくせに『アハーン、ウフーン、イヤーン』とかの相槌だけ、一丁前や」

「ねえ・・・『アハーン』は分かるけど、『ウフーン、イヤーン』は言わないよね?」

「いや、絶対言うやろ。いくらアイツでも、結婚したら、」

「あー! ストップストップストップ! そこまで!」

私は大声で制し、菜純ちゃんの耳を塞いだ。

もう、とんでもない。こんな話、とてもじゃないが、菜純ちゃんには聞かせられない。家に帰ってから、今日授業中、隣でこんな話をしていた、と保護者に伝わったりでもしたら、入塾の可能性は一瞬で潰える。

「何やねん、最後まで言わせろや。不完全燃焼やわ」

「あのね、雑談もたまにならいいけど、周りのことも考えてね、四葉さん!」

私にとっては珍しく、厳しい口調でそう注意した。

すると、少しは反省してくれると思ったが、彼女は少し驚いた顔をして、小さな声でこう言った。

「今・・・初めて名前で呼んだな」

「え?」

「だって、今までずっと『熊田さん』やったやないか。でも今、『四葉さん』って」

「あ・・・そっか、ごめん。ちょっと慣れなれしかったかな」

普段私は、幼い子には初めから名前で呼ぶようにはしているが、中学生以降は、仲良くなってからにしている。いきなりだと、馴れ馴れしいからだ。

「いや、全然それでええねん」

「え?」

「うちな、好っきゃねん、名前で呼ばれるんが。ほら、『四葉』の方が幸せな感じがするやろ? でも、学校の先生はみんな『熊田さん』とか『おい、熊田』とか『いい加減にしろ、熊田』とか言うてくる。それがすっごい嫌やねん」

「自分の名前が好きなんだ?」

「それもあるけど、うち、自分の苗字が嫌いやねん。『熊田』やで?」

「いいじゃない。別に変な苗字でもないし」

「じゃあ、とっかえてーや。うち、『熊田』やるわ。その代わり、先生の『若松』もろうたる」

「ダ、ダメよ、そんなの」

「ほら、先生かて、やっぱり『熊田』は嫌がっとるやん」

「違う違う、そういうことじゃなくて」

「じゃあ、とっかえてーや。先生、今日から熊田由璃な。『クマユリ』でええか?」

「ダ、ダメ! 違うもん、私!」

「あの、先生」

私たちはいきなり割って入ってきた、菜純ちゃんに振り返った。

し、しまった、騒ぎすぎてしまった。もしも勉強の邪魔になったとしたら、益々印象が悪くなる。

「ゴ、ゴメン、菜純ちゃん。ちょっと、うるさかったよね。集中できなかった? 今から静かにするね」

「いえ、そうじゃなくて・・・質問、なんですけど」

「え?」

驚いた。何だろう、質問って。講習が始まってから、質問なんて初めてだ。菜純ちゃんが解けないような難しい問題、プリントにあったっけ?

すると、菜純ちゃんはとても聞きづらそうな感じで、

「あの・・・何ですか、その・・・C-C-Bって」

「え?」

「私、今まで英語の塾でも、聞いたことがないんですけど、それって大事ですか? テストとかにも出てきますか? C-C-Bって」

不安そうな菜純ちゃんの表情を、私は初めて見た。

その時、「止めてっ、ロマンチック~♪」という鼻歌が、右隣から聞こえてきた。カオスだ、カオス。

1-4「真夏の向日葵」

結局、何も理解してくれなかった昨日の授業を反省し、私は二日目の授業に「ある工夫」を凝らした。

「ねえ、ほら見て、四葉さん。先生、これ描いてきたんだけど」

ジャイアンの絵

そうやって私は、自分で描いたドラえもんファミリーの絵を広げた。

別にネットにある画像をカラーコピーして使ってもよかったのだが、自分でイラストを描いて用意していくと、子供たちが俄然興味を示すのは、長年の経験から分かっている。

ただその瞬間、欠伸が出そうになったので、私は必死に噛み殺した。そう、正直なところ、私はこれを描くために、昨夜、寝る時間をかなり削ってしまったのだ。

ただでさえ講習期間は忙しく、睡眠が十分に取れないのだが、彼女が理解してくれるためには、それも仕方なかった。

「ほら見て。ドラえもんファミリーの中でも、ジャイアンってほら、背が高いでしょ。だから、『ジャイアン=背が高い』、つまり英語なら、『Gian is tall.』になるの。分かる? これが私が昨日言っていた、『be動詞はイコール』って意味」

「・・・」

じっとイラストを見て何秒も固まっている彼女を見て、私は不安になった。そう、こういう場合、分かっていないケースが多い。うーん、ダメか、絵を使っても。

すると次の瞬間、ふと彼女の顔が上がり、

「・・・つまり、この、『ジャイアンイズトール』って英語は、『ジャイアンは背が高い』ってことなんやな?」

「そっ、そうそう! それに、ジャイアンってほら、意地悪でもあるでしょ? だから、『Gian is mean.』ね。『mean』はね、『意地悪』って意味。ほら、イコールでしょ?」

「・・・ジャイアンイズミーン・・・」

表情が固い。違う例を出したことで、逆に混乱させてしまったか。

すると、ふとまた顔が上がり、

「・・・あんな、先生。意味は何となく分かった」

「え、本当に! 分かってくれた?」

しかし、次の瞬間、彼女の表情が険しくなり、

「分かったけど、一言だけ言わせてもらってもええか?」

「え? あ・・・うん。何?」

私はゴクリと唾を飲み込んだ。その険しい目つきに、緊張が走った。

「うちの今日の靴下、見てもらってもええか?」

「え?」

どうして彼女の靴下なんか見なきゃいけないんだろう。

私がポカンとしているうちに、左隣から「うわっ」と小さな声が聞こえた。恐らく私たちの会話を聞いていたのだろう、気になった菜純ちゃんが先に彼女の靴下を見て、声を上げたようだ。

何だろうと思い、私は菜純ちゃんに続いて、机の下を覗き込むと、自分も思わず「うわっ」と声を上げてしまった。

そう、何と今日、彼女はキャラ物の靴下を履いており、その柄があろうことか、『ジャイアン』だったのだ。

「うち、ジャイアン推しなんやけど」

「え・・・あ・・・」

「ええ奴やで、ジャイアンは。そりゃあ、たまにのび太を殴ったりもするけど、男気溢れる、あれこそ正義の味方や。もしも『意地悪』を使うとしたら、スネ夫の方やろ。なんでそこであえて、ジャイアンを引き合いに出してくんねん」

私は頭を下げて、「ご、ごめんなさい」と謝った。

「謝る相手ちゃうやろ、うちやなくて、ジャイアンに謝らんと」

た、確かに。私は彼女の靴下に向かって、「ごめん、ジャイアン」と頭を下げた。というか私、一体何やってるんだろう。

「もうええわ。ジャイアンはええ奴やから、もう先生のこと、許してると思うで」

それはよかった。さすがジャイアンだ、うん。

すると彼女はふと私に、「ほんで、ちなみに先生は誰が一番好きなんや?」と尋ねた。

「え?」

「だから、ドラえもんファミリーの中で、誰推しなんか、聞いてんねん」

「推しもクソもないでしょ」という言葉を、何とか私は堪えた。ここまで来たら、付き合ってあげないと。

少し悩んでから、私は「出来杉くん」の名前を出したが、

「ないわ、それは。出木杉くんはありえへん。なあ、あんたはどうや?」

そう言って、今度は菜純ちゃんに話を振ったので、私はビックリした。

別に友達にもなったわけでもないのに、授業中、いきなり話しかけるとは。しかも、優等生の菜純ちゃんに向かって。勉強の邪魔になったら、益々この塾の印象が悪くなる。

慌てて制しようとしたが、菜純ちゃんが「ドラミちゃん!」と瞬時に声を上げたので、また私はビックリした。そのノリノリな口調からして、もしかして菜純ちゃんはずっと考えていて、話が振られるのを待っていたのかもしれない。

「ドラミか。若いくせにええセンスしとるやんけ。でもあんたはどう思う? 出木杉くんはありえへんと思わんか?」

「うん、ありえないと思う」

「な、何で、菜純ちゃん? かっこいいじゃない、出来杉くん」

「あんな、先生。ちゃんと言うとくけど、あんなパーフェクトな男、この世にはおらへんからな。もっと現実の球、見てかんとあかんで。ど真ん中の抜け球なんて、そんなにきーへんねん。そんなん待っとったら、婚期も逃してもうで」

「な・・・」

何なの、この上から目線。

「うち、ちーちゃんから聞いたで。先生、将来、どんな人と結婚したいかって話で、『トム・クルーズみたいな人』って言うたらしいな。どの面下げて言うてんねん。それ聞いて、うち、絶対本人に現実見せたらなあかんな、思うとったけど、今ようやく言えるわ。先生、目ェ覚まし。あんたはニコール・キッドマンとはちゃうねん」

「ちょ、ちょっと! そこまで言われる筋合いないんだけど、四葉さん!」

「お、やるんか。口喧嘩なら負けへんで」

今思うと、それは初めの来訪時に見た、親子同士の掛け合いみたいな感じだったのかもしれない。それくらい、この子はポンポンと返してくる。

それから数分くらい言い合って、暫くしてからのことだった。ポツリと、「まあ、でも、よく分かったかもしれん」と呟いたのが聞こえたので、私は「え?」となった。

「だから、be動詞の意味や。イコールってこっちゃな」

「そ、そう!」

「つまり、や。例えばマイとーちゃんはぼけなすやから、この場合、『マイとーちゃんイズぼけなす』でええねんな?」

「あ! うん、そうそう、それそれ。『ユアとーちゃんイズぼけなす、ユアとーちゃんイズおたんこなす』」

すると、にこやかだった彼女の顔が、すうっと真顔になった。え?

「あんな・・・先生。実の娘が言う分にはかまへんけど、赤の他人にそんなノリノリで、人の親をディスられる筋合い、一ミリもないで。そんなん、あんたに何の権利があんねん」

「あ・・・ゴ、ゴメン」

「しかも、今、勝手におたんこなす足して例文作ったやろ? それ、先生の素の気持ちやん。そう、心の底から、思うとるやん。そりゃ、さすがにうちかて、気分害すやん。どうすんねん、この微妙な空気。まだ講習始まって二日目やで? さっきのジャイアンの件もあるし」

や、やってしまった。確かに酷いことを言ってしまった。

私は何度も「ごめんなさい」と彼女に頭を下げた。こ、これはやばい。そしてもしもこれが、あの父親に伝わってしまったら、大クレームにも発展する。

しかし、しばしの沈黙の後、聞こえてきたのは「クスクスクス」という、笑い声だった。そしてそれは、なんと隣の菜純ちゃんからだった。

「せっ、先生、おっ、おっ、面白い(笑)」

「え?」

それは初めて見た、菜純ちゃんの笑い顔だった。

すると今度は、反対側からも「カッカッカッ」という、大きな笑い声が響き出した。

そして、私も思わず堪えきれなくなり、大きな声で笑い始めた。そして思わず、笑いが止まらなくなってしまった。

く、苦しい。こんなに笑ったの、もしかして高校生の時以来かもしれない。面白い。チョー面白い。それから数分間、フロア中に、私たちの笑い声が響き渡った。ヤバイ、本当に止まんない。お腹が痛い。

しかし、その時だった。「うるさいですよ!」という注意が、後ろから飛んできて、私たちはパッと後ろを振り返った。すると、そこには険しい顔をした、笠原さんの姿があった。

「一体、何の騒ぎなんですか? このテーブルは?」

「あ、いえ、そっ、その。つい、話が盛り上がっちゃいまして・・・」

私は立ち上がり、ペコリと頭を下げた。

「盛り上がるのもいいですが、周りの生徒のことを考えて下さいね。それに、若松さんは社員なんですから」

そう言って、笠原さんはカリカリしながら、戻っていった。

いつもであれば、もう少し説教が続くのだが、今は新しい生徒が多い講習期間ということもあり、公の場で怒るのは得策ではないと考えたのだろう。私はフーッと大きく息を吐いた。

こうして水を差された感じにはなってしまったが、それでも私たちはその後も、先ほどのことを何度も思い出し、クスクスと笑いながら、授業を続けた。しかし、こういう雰囲気もあっていいと、私は思う。

本来、勉強とはほとんどの子供たちにとって、つまらないものである。特にこの塾に通っている生徒は、学校の授業にもついていけない子供たちばかりだ。

だから、ここではまず、こうしてコミュニケーションを取りながら、授業が楽しいと思ってもらう。転機となるのは、やはりこうした、人と人の触れ合いありきだ。頭ごなしに「勉強しろ」と言われたって、人の心は動かないし、変わらない。

ふとその時だった。右隣からポツリと、

「あんた、ちーちゃんがいつも言うとる通り、めっちゃええ先生やな」

私は「え?」と、振り向いた。

「だってうち、『この塾には入らん、講習だけや』って初めっから宣言しとったやん。だから、どんだけ頑張ったところで、あんたに何の得もないやん。講習が終わったら、サヨナラやん。しかもうち、無料で授業を受けてんねやで? それなんに、何でわざわざ絵とか描いてきて、そんな必死こいて教えてんねん」

「え・・・だって、英語が分からないんでしょ? で、分かりたいから、ここに来たんでしょ? だったら、分かるまで教えないと。それが私の仕事だし」

「それが自分の得にならんでもか?」

「そんなの関係ないでしょ。だって私が今、四葉さんの隣に座っているのは、私の為なんかじゃなくて、あなたの為なんだから。この塾に入るとか入らないとか、無料とか有料とか、それが何? 関係ある? 私はあなたに、先生として出会ったんだから。だから、分かってもらうまで、とことん教えるだけ。それが私の仕事。それ以上でも、それ以下でもない」

「・・・」

「さ、速くその問題解いて。講習の間に、疑問文までいきたいんだから。せめてそこまでやっておかないと、学校の授業、チンプンカンプンのままだよ?」

「・・・」

あれ? どうしたのだろう。机の上のジャイアンの絵をじっと見つめたまま、彼女の動きがピタリと止まってしまった。

私が「どうしたの?」と声をかけると、

「なあ先生、このジャイアンの絵、もらってもええか?」

「え? あ、うん、もちろん。そんなのでよければ」

その時、ふとパッと顔が上がった。

「うち、勉強が楽しいって思ったん、生まれてきてから、今日が初めてかもしれん」

「え! ・・・そ、そう?」

「ああ、エリートと全然ちゃうわ。うち、英語が好きになりそうやわ」

その声が少し涙で湿っていたので、思わず私は、胸の奥が熱くなった。そう、教える側にとって、「勉強が好きになる」以上の嬉しい言葉はない。

「一教科でもええんか? ここ」

私は思わず「え?」と、目を丸くした。

「だから、もしもここで二学期からも勉強続けるんやったら、や」

「え? 続けるの? でも、お父さん、絶対に続けさせないって」

「それはまた別の話や。もしも仮に続けたら、や。そんときは別に英語だけでもええんか? ちーちゃんは英語も数学もやっとるけど」

「あ・・・うん、もちろん、一教科でも大丈夫だけど」

「分かった」

そう言って四葉は、「このページでええねんな?」と問題を解き始めた。

これは意外な展開だ。この子だけは絶対にこの塾に入ることはないだろう、と内心諦めていたからだ。

しかし、もしも入塾してくれるのであれば、私も営業成績上助かるし、もちろん、ちーちゃんだって喜ぶだろう。そして、その時だ。

「私も、続けたい」

と、今度は菜純ちゃんが続いた。これも意外だった。

「ホンマか、あんた。ほんなら、また隣で一緒に勉強できたら、ええな」

「うん!」

「じゃあ今から勝負や。うちの方が、あんたよりも先に終わらせて、先生と先に話すで」

「ううん。なずが絶対に勝つよ」

「ハン。口だけはいっちょ前やな。ちっこいくせして。絶対負かしたるわ」

「やだ。なずが先に先生と話す」

そう言って、二人は問題に取り組み始めた。

・・・何か、いい、この雰囲気。

そう、授業をしていて、稀にこういう「奇跡に近い瞬間」がある。人として、通じ合っているというか。年代も身分もやっていることも、全く違う三人なのに、まるで一心同体なのだ。

結局だが、私がやっていることは、ボランティアではない。授業だって、営業活動の一環だ。しかし、同時に「子供たちのため」でもあるのだ。

それがたとえ自分の利益に繋がらなかったとしても、別に構わない。講習だけになっても、子供がここに来て良かったと思ってもらえるなら、それでいい。子供の横に座ると、やはりそう思う。

するとふと、また声が聞こえた。

「うち、先生の声、好きやわ。ほんま優しくて。エリートと全然ちゃうわ」

私はドキリとした。

「しかも、このイラスト、昨日頑張って描いてきてくれたんやろ? どんだけ時間かかった? 昨日ちゃんと、寝られたんか? 顔、昨日よりも老けとるやん。授業の始めから欠伸だって、何回も我慢しとるし。生徒だって、うちだけちゃうやろ? 生徒一人にどんだけ全力投球してんねん」

なんだ、この子、始めっから気付いていたのか。

「しかも絵心全然ないくせして。色まで綺麗に塗ってきて。エリートなんか、こんなん一回もしてくれたことあらへん。『俺の授業をちゃんと聞け、参考書読んでこい』で終わりや。初めてやわ、うち、こんなんされたん」

ニコッと輝いた、その真夏の向日葵のような眩しい笑顔に、私は思わず胸が締め付けられそうになった。

そして、同時にこの瞬間、この子が私の人生にとって、きっと何か特別な存在になるだろうという、確かな予感を覚えたのだ。

1-5「Suddenly」

あれから一年が過ぎた。あの夏期講習の最終日、くしゃくしゃになった入塾申込書を四葉から受け取った時、私は飛び上がって喜んだ。

そう、塾に一切お金を使いたくなさそうな、あの父親を、この子は説得させたのだ。きっと何度も何度も頭を下げ、それほど多くもないお小遣いだって、犠牲にしたに違いない。

友達と一緒に遊びに行くお金だったかもしれない。服やカバンを買うお金だったかもしれない。どうしてその純粋な想いを裏切られようか。私は何があっても、この子だけはどうしても結果を出させないといけない、とその時、心に誓った。

こうしてこの一年、私は四葉の英語の点数を上げるのに、尽力してきた。そのため、入塾時はたった10点しかなかった英語の点数も、今は平均で50点は取れるようにはなった。私からすると、それだけでも大きな進歩なのだが、四葉本人にとっては不満らしい。

「一度でもええから、100点をとって、由璃ネエを喜ばせたいわ」と、と普段学校でも言っているということを、私はちーちゃんづてに聞いた。ここまで言ってくれている子を、私は今まで担当したことがない。

そのため、私としても、何とかして高得点を取らせてあげようと、補講なども増やして頑張ってはきたのだが、なかなか70点の壁を越えられない。今までの最高は、去年の学期末テストの69点だ。

ちなみに四葉の欠点は、圧倒的な「単語不足」にある。そう、他の子に比べ、極端に単語が覚えられないのだ。ただ、これは別に英語だけに限らず、日本語でも文字を覚えるのが、この子は他の子に比べて劣る。暗記科目は、からっきしダメだ。

「やっぱり、エリートの教え方が悪いんちゃうかな。もしもエリートやなくて、由璃ネエが学校で教えてとってくれたら、きっとうちも今頃、英語だけはトップクラスやわ」

そう言って、四葉はまたグデーッと机に突っ伏した。

「そんなことないって。エリート先生だって上手いよ、きっと。TOEICだって高いんでしょ? 単に、毛嫌いしているだけなんじゃない?」

「そんなこと1000%あらへん。よかったら由璃ネエ、授業受けてみたらええわ。うち、制服貸したげるから、1日だけ代わってみ?」

「無理よ、そんなの。1000%バレるでしょ」

「バレへんよ。うち、クラスん中で、そんな存在感ないし」

「嘘つきー」

私と菜純ちゃんの声がかぶった。

「でも、うちな、あいつの視線がなんか嫌やねん、嫌味ったらしくて。どうせアホのお前には分からんやろ、みたいな感じで見てきよる」

「それは考えすぎなんじゃない?」

「いや、ホンマや。由璃ネエは受けたことがないから、そう言うんや。うちを当てる時も難しいのばっかや。ほんでトンチンカンな答え言うの聞いて、『やっぱりアホやな、お前』とクラスのみんなと一緒になって笑いよる」

少し被害妄想が強いと思ったが、私自身、実際にそういう先生も経験したことがあるので、その気持ちも分かる。

そしてまた、学校の先生が嫌いだと、その教科も嫌いになってしまうこともよくある。そのため、少なくとも四葉にとって、その先生が英語に関していい影響を与えているとは、やはり私にはどうしても思えない。

三年次になったら、英語は違う先生に変わるといいな、と思ってはいたが、あろうことか、クラス担任になった時の四葉の落胆ぶりと言ったらなかった。

「あんな英語が話せん先生に習うても、絶対に話せるようにならんわ」

そう、噂だと、そのエリート先生は英語を話せないらしいのだ。外国人の先生に話しかけられても、何にも返せないのが、もはやいじりネタになっている。

「でも・・・それは、私も一緒だよ。全然英語、話せないから。多分、エリート先生の方が断然上手いよ、きっと」

「それは・・・でも、何でや。由璃ネエ、英語すげーできるやん」

「うん・・・文法は分かるんだけどね(苦笑)」

「なあ・・・それって何でやねん。何で、由璃ネエにしても、エリートにしても、日本には英語のテストはできても、話せん大人がこんなにいっぱい溢れてんねん」

「それは・・・何でだろうね、私もわかんない。でも、英語を話す機会がないからじゃない?  あと、日本にいたら、英語なんて話せなくても生きていけるし。そういう英語だけに囲まれた環境に行かないと、やっぱり話せるようにならないんじゃないかな?」

「ほんなら、うち、無理ゲーやん。だって、外国人なんて周りにおらへんもん。学校もみんな日本人やし、家に帰っても、アホな父ちゃんしかおらん」

「うーん・・・でもほら、英会話スクールとかあるじゃない?」

「由璃ネエは行かんかったんか?」

「え・・・」

「環境が大事なんやろ? ほんなら、英会話スクールに行ったらええやん。駅前にいっぱいあるやろ? 行っとらんのか?」

「あ・・う、ううん・・・なんか、なかなかそんな機会がなくて」

「なんでや? なんでそんな勿体ないことしたんや? そこまで英語できるんやったら、環境さえ用意すれば、一瞬でペラペラやん」

「あ・・・うん、そうだね」

「なあ、それって料理で言うたら、下準備で終わったみたいな感じか? 食材だけ揃えて、料理せんかったみたいな」

「う、うーん・・・まあ、そんな感じかも」

ジワリと背中が汗ばんだ。「触れられたくない記憶」が脳裏に蘇ってきた。

「何でそんなことしたん? せっかく英語得意なんに、えらい損やないか。ほんなら今からでもすぐに料理しい。もう下準備、全部終わってんねやろ? なんでうちみたいなアホに英語教えてんねん。優先順位、完璧に間違うとるで」

「あ・・・う、うん。そう、かも。でも、この仕事していたら、ほら、あんまり時間の余裕もないし。それに別に私、英語を話せなくたっていいから」

「でも、これからは入試でも話す試験が入ってくるらしいで。ニュースでやっとったわ。だから、いずれはここにおっても、やらなあかんちゃうんか?」

「うん・・・だから、今後は外国人の先生とか雇ったりするんじゃないかな。ほら、英会話って日本人には教えられないから」

そう、私たち日本人が教えられるのは、「文法」だけだ。

「あと、入試だって、まだどんなテストになるのかも決まっていないし。だから、それ次第で、今後の対策も考えるんじゃないかな?」

「なんや、えらい鈍臭いな。そんなことしとったら、他の塾に置いてかれるで」

それは最近、よく思うことだ。ちなみに、この校舎の近くにある大手学習塾が、つい先日、英会話コースを創設したらしい。私はそれを聞いて、焦りを感じた。噂では、外国人講師も常勤させているらしいのだ。

「学校はどうなの? 外国人との授業も最近は多いんじゃない?」

「あっても週に一回くらいや。でも、テスト前になったら、それも潰されてエリートが授業しよる」

なんだ、そのパターンは今も変わっていないのか。それは、私が学生時代だった時もそうだった。そう、外国人の先生の授業は、ただの息抜きにしか過ぎなかった。

「なあ由璃ネエ。うち、将来、英語を話せるようになれるんかな」

「え?」

「言われたんや、エリートに。うちが将来、英語ペラッペラに話せるようになりたい、て教室で言うたら、『お前なんかがなれるか、アホ。まずは一回でもテストで70点超えてから、そんな発言しろ』って」

「え、ひどい」

本当だとしたら、大問題だと思う。先生にとっては軽い冗談かもしれないが、本気で受け取る生徒だっているのだ。

「だから次の中間、絶対に70点以上、取ったるわ」

そう言って四葉は、スペルの書き取りを始めた。

それを見ながら、私はモヤモヤとした。そう、四葉のこの英語へのモチベーションは本来、「英語を話せるようになりたい」という願望から来ている。

ちなみに大人になったら、歌手になりたい四葉は、高校を卒業したら、アメリカに渡る、と公言している。そして、そこでギター一本を持って、ストリートミュージシャンから始めるらしいのだ。また、ネット配信なども使って、Youtuberなどの道もリアルに考えているようだ。

ー「カッコええやん、そんな生き方。人生一回ポッキリや。やりたいことやらな。それに日本にはいーっぱい、ええ歌があるやろ? それを世界で歌ったりしたいんや」

本来、このぐらいの年頃であれば、どこの高校の制服が可愛いだとか、男性アイドルの中で誰が一番かっこいいかだとかで、頭がいっぱいなのが普通だ。そのため、こんな発言をする四葉は、教室の中でも、一際大人びて見える。

「とにかく英語だけは話せるようになっときたいんや。向こうに行っても、全然英語話せんかったら、友達だってできへん。だから、日本におるうちに話せるようになっとかんと」

目をキラキラさせて語る四葉を見て、私はとても複雑な気持ちになった。もちろん、応援はしたい。ただ、四葉が「国内にいながら、英語が話せるようになるイメージ」が、正直なところ、全く浮かばないのだ。

そのため、私はたまに怖くなる。四葉の英語への気持ちが純粋であればあるほど、それが叶わなかった場合、その跳ね返りはきっと大きい。そして、もしもそうなった時、この子は耐えられるのだろうか。

「えっと、『suddenly』は『とつぜん』か。えっと、『とつぜん、とつぜん』、、、」

「あ、ちょっと四葉。その『とつぜん』は漢字で書こう、『突然』って」

「はあ? 何でや? ええやん、別に平仮名で。どっちも一緒や」

「でも前に、エリート先生に注意されたんでしょ? 『お前のテストは、平仮名ばっかりで幼稚だ』って。だから、少しでも印象良くしておかないと。評定にも響くし」

「だから、うち、評定のために英語勉強してんちゃうで?」

「でも、絶対にそうした方がいいって。それに、ついでに漢字も正しく覚えられば、一石二鳥でしょう?」

「はいはい、分かった分かった」

四葉は不満げに、『突然』と書き直し、単語暗記を続けた。

「わっ、何やねん、『wonderful』のスペル。長すぎるやろ。覚えられるかい。語呂で覚えよ。『ウヲンデルフル、ウヲンデルフル、ウヲンデルフル・・・素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい』・・・『見る』は『see』か。『セエ、セエ、セエ・・・見る、見る、見る』。『聞く』は『listen』か。何やねん、腹立つわ。『t』を読まんのなら、取らんかい、嫌がらせか。えっと、『リステン、リステン、リステン・・・聞く、聞く、聞く』」

1-6「英語4技能は大迷惑!?」

四葉たちとの授業を終え、自分の席に戻ってくると、砂ちゃんが「あれー、どこいったんだぁ?」と言いながら、棚の中をガサゴソと漁っていた。どうやら何かを探しているようだ。

ちなみにここ、『ヘッドスタート』のスタッフルームは、至る所に教材や資料が溢れ返っており、整理整頓の作業がいつも追いついていない。

「どうしたの? 何か探し物?」

「あ、はい。先月の模試の結果表を探しているんスけど、見当たらなくて。確か昨日までここにあったと思うんスけど」

「あっ、ゴメン。昨日、ちーちゃんとの面談で使ったあと、あっちに置いたままになっちゃってた。元に戻そうと思ったら、ちょうど保護者から電話が来て」

「あっちって、どっちッスか?」

「あっち。ほら、あそこのテーブルの上。時計の下」

そう言って、私は隅にあるテーブルを指差した。砂ちゃんは「ああ、あれッスか。了解ッス」と言って、隅の方に向かった。

ちなみに砂ちゃんと私は、席が向かい合わせである。そして、生徒から『のび太君』と呼ばれている砂ちゃんは、まさに実写版のび太みたいな風貌だ。

「なるほど。そういう方針ですか」

奥の離れた席に座っている笠原さんが、誰かと電話で話している。

「分かりました。ではその点は、彼らに申し伝えます」

ピクリと私たちは笠原さんの声に反応した。今、何か「指令」が下りたのが分かった。

ちなみにこの塾の指令系統は、2つある。生徒数など営業に関することはブロック長の橋詰さんからで、授業内容に関することは教務部の黒川さんだ。

「では、今後、授業内容はそうなる、と。これはもう、決定なんですね?」

恐らく黒川さんの方だ。どうやら今後の授業方針において、何か大きな変更があったようだ。そして砂ちゃんはそれを予想してか、表情を一気に曇らせた。そう、もしも大きな変更があった場合、確実に業務や研修が増えることを意味するからだ。

何を話しているのか、盗み聞きを続けたかったが、笠原さんがジロリとこちらを見たので、私は慌てて目を逸らした。まあいい、どうせ後で教えてくれるだろう。

そして、私はふと先ほどの授業を思い出し、「ねえ・・・砂ちゃんってさ、英語、話せる?」と尋ねた。

「え? 何スか、いきなり?」

「いや、実はさっき授業中、四葉と英語を話せるかどうかの話になって。どう?」

「え・・・ま、まあ、日常会話くらいなら」

そう言って、砂ちゃんはメガネの角度をクイクイッと動かした。少しでも動揺すると、いつもこうなので、本当に分かりやすい。

「ペラペラ?」

「え・・・いや、もちろん違いますよ。でも、意思疎通くらいはできます。これでもTOEICだって700点はありますからね。それに、前にも外国人に、英語で道を聞かれたことがあったんスけど、」

「ちゃんと案内できた?」

「もちろんッス。ちゃーんと目的地まで、連れて行けました」

「・・・連れてってんじゃん」

「そ、そりゃあ・・・間違って伝わってしまったら、違うところ行っちゃうじゃないスか」

「じゃあ、まあ、よくいる『ザ・日本人』って感じね」

「そうッスね・・・『ザ・日本人』ですね。『その』って感じですね」

砂ちゃんは、顔をムスッとさせた。

「ねえ・・・それってやっぱりあれなのかな。食材だけ揃えて、下準備で終わったみたいな感じなのかな?」

「え、何スか、それ? 食材とか下準備って?」

「いやね、さっき四葉の授業でね、」

「二人とも、少しいいですか?」

笠原さんの声が割って入った。どうやらいつの間にか、通話が終わっていたようだ。

砂ちゃんと一緒に、笠原さんの机の周りに集まった私は、その険しい表情から、何か大きな決定事項が伝えられる予感がした。そして先程私が予想した通り、「今の電話は、黒川さんからでした」という前置きがあってから、

「確か若松さん、英語が得意でしたよね?」

「え? ・・・あ、はい、得意といえば、得意な方ですけど、理系科目よりかは、というくらいで。でも、どうしてですか?」

「実は今後、『英語4技能化』の流れを受けて、私たちも英語のスピーキング授業を導入することになりました」

「えええ!」

悲鳴に近い声を上げる砂川君の隣で、「ついに来たか」と思う私がいた。

「え? じゃあ、もしかして、ここにも外国人がスタッフで入ってくるんスか?」

「勘違いしないで下さい、砂川君。そんな予算、うちらにはありませんよ」

「えっ・・・」

「全校舎に外国人を配置するだけでも、人件費がとんでもないことになります。しかも、指導が英語のスピーキングしかできないとしたら、使い勝手が悪いでしょう?」

確かにその通りだ。スピーキングを教えられる外国人講師は、重宝はするだろうが、もしもそれだけのスキルならば、ここの校舎に絶えず常駐させておく必要はない。

「それでは外国人なしってことですか? もしかして、オンラインレッスンとか?」

「さすが若松さん、その通りです。今、本部が考えているのは、ある英会話スクールとの業務提携です。そしてそこは今後、オンラインレッスンをメインに事業展開をしていくようです」

きっと双方の利害が一致したのだろう。スピーキングを手軽に導入したい私たちと、オンラインレッスンを売り込みたい英会話スクールの。今後もこのようなドッキングは増えていきそうだ。

「それじゃあ、うちらって何をするんスか?」

「そのサポートです。子供たちが困った時に割って入るスタッフが必要でしょう? 会話の意味が通じない、回線トラブルが生じた、生徒が遅れてきた。そういった諸々の、外国人講師との窓口です」

確かに。これは生徒にはできない。

「今後、定期テストなどにスピーキングが組み込まれたとします。そして例えばそこに、『自分の夢について』などというテーマが予め決められているなら、テスト前にこちらからその旨を伝え、それを重点的に質問してもらうことができます」

なるほど、そうすれば、バッチリとスピーキングの試験対策が取れる。

「そのため、各校舎に一人、そういう役割のスタッフを配置することになりました。しかし、もちろんそれは、『既存のスタッフを話せるようにする』という方針です」

「あー、やっぱりそうなるかぁ。『ありもの』で済ませる感じかぁ・・・」

砂ちゃんが、残念そうな声を出した。

「そして、この校舎のコーディネート責任者は、若松さん、先程あなたで本部に報告しました」

「えええええっ!」

「当然でしょう、若松さんがこの校舎で一番英語が得意なんですから。履歴書にも確か、日常英会話程度なら大丈夫だ、と書かれていましたよね?」

「え・・・で、でも、それは、あくまで受験英語が得意ってだけで」

「では、他の人よりも下準備はできているということですよね?」

私はギクリとした。また下準備ができている、という話か。

「私には教室運営の業務があります。それに、砂川君は理系です。ここでは若松さんしかいません。それに業務だってそれほど多いわけじゃありませんよね?」

「えっ・・・」

正直な話、そんな実感は全くない。というのも、定期テスト前の特別補講など、ボランティア出勤もほぼ毎週のようにあるからだ。

「早くとも来年度をめどに、準備が整った校舎から順にオンラインレッスンを導入していくことになります。そして、生徒や保護者にも、そのコースをプロモーションするために、若松さんは英語をペラペラにしておいて下さい。校舎に一人でも英語ができる社員がいれば、保護者だって安心するでしょう」

確かに。私が生徒の保護者なら、そう思うだろう。しかし、そうなのだ、塾だってもう、「そういう時代」になったのだ。私は時代の波が恐ろしい勢いでやってきていることに、今更のように気づいた。

「そして、これは数年後の話になりますが、英語の授業は基本的に、すべて英語ですることになりました」

「えええっ!」

「当然です。中学校でも、今後は全て英語で授業をすることになっているんですから。塾だって当たり前に英語でやらないと、学校のサポートなんて、到底できないでしょう?」

「そ、そ、そんな・・・で、でも、無理ッスよ。社員だけなら、まだ、まだ100万歩譲って分かりますけど、アルバイトの大学生たちに、そこまでのスキルアップは不可能じゃないスか?」

「やるんですよ」

「え・・・?」

「やれるかどうか、じゃないんです。やるんです。やれないなんて、ありえないんです。そして私たち社員は、やれるように持っていくのが仕事です」

「そ、それって、つ・・・つまり、私たち社員が、彼らに英語の研修を行っていく、ということですか?」

「そういうことです、若松さん。そしてその担当も、まずはあなたになってきます」

「ひゃあっ」と、砂ちゃんが口元を押さえた。そう、もうこの時点で「恐ろしい業務量」が想像できてしまう。

まずは自分自身が英語を話せるようになり、そして校舎の大学生たちにもその研修を行いながら、その習熟度をチェックし、かつそれが授業でも活かされているかどうかの確認までしないといけない。それも、新規採用の度に、だ。これをあと数年で「形にしろ」というのか。

「優秀なスタッフであれば、2年もあれば、仕上げることができるでしょう。そして上はここを評価します。もちろん、早く結果を出せば、すぐに昇進や希望の部署に異動もできます。いいですか若松さん、これはピンチではなく、チャンスなんですよ」

どこがだ。どうしてこの状況をポジティブに捉えられよう。そんな、取ってつけたような人参をぶら下げられたところで、モチベーションなど上がりようもない。

「早速ですが、再来週から定期的な英語研修が始まります。ほぼ毎週ありますから、早めにペラペラになって下さい。そしてもちろん、黒川さんも橋詰さんも見に来られて、その都度、スタッフの英語力をチェックします。また今後ですが、TOEICも定期的に受けることになるでしょう」

「そ、そんな・・・」

「ひとまず一回目の英会話研修についての詳細は、後でメールで届くと思いますが、プレゼン発表があると先程、電話で聞きました。テーマは『なぜ日本人は学校で最低6年も英語を学んでいるのに、全く話せないのか』です。ワードで10ページ前後でまとめておいて下さい。事前に私がチェックしますので、一週間前までに提出をお願いします」

「そっ、そんな・・・」

「任せましたよ。この校舎の運命は、若松さんの英語の上達次第です」

笠原さんはこう締めて、緊急ミーティングは呆気なく解散となった。いきなりにも程がある。そう、私にだって「心の準備」というものが必要だ。

すると、その時だ。呆然としている私に向かって、笠原さんはボソリと、「ただ、正直なことをお伝えすると、私は英語のスピーキング導入には、反対です」と呟いた。え?

「そんなものをする前に、まずは『国語力』でしょう。国語ができない子は、揃いも揃って、英語もできません。だからまずは、母国語の基礎をしっかりとやってから、第二外国語を学び始めるべきです」

確かに、それはよく言われていることだ。

「それに別に誰もがみんな、英語を話せるようになる必要などないでしょう? やりたい人が、受験の後で英会話スクールなり、留学に行って話せるようになればいいじゃないですか? だからまず、しっかり英語を読み書きできることの方が大切です。そのため、別に今のままで、何の問題もないんです。それを『日本人は全員、話せるようにしなくてはいけない』とやってしまうから、こんな面倒なことになっている。本当に大迷惑ですよ」

何だろう、笠原さんの口調に「怒り」が滲んでいるような気がした。

「しかし、この決定は会社の意思です。そして、若松さんはこの会社の社員である以上、英語をペラペラにする義務があります。全力を尽くして下さい」

そう言って、笠原さんは「少し外で休憩してきます」と、出口へ向かった。

呆然としたまま、一歩も動けなかった私だったが、「あれ、栗原さんじゃないですか?」という笠原さんの言葉で、ハッと我に返った。

どうやら、出て行こうとした笠原さんが、ちょうど中に入ろうとしてきた菜純ちゃんと鉢合わせになったようだ。

「由璃せんせー、これ、よっちゃんが忘れていった」

そう言って、菜純ちゃんは持っていたノートを差し出した。どうやら四葉が机の中に忘れていったらしい。

取りに行こうとした私だったが、代わりに笠原さんが菜純ちゃんからノートを受け取ったので、私は咄嗟に「ヤバイ!」と思った。そう、四葉のノートは誤字脱字だらけだからだ。

案の定、笠原さんは受け取った瞬間、パラパラとページをめくりつつ、「フン。『突然』という漢字すら満足に書けないのに、英語なんて100年早いでしょう? それに和訳のところにも、日本語としておかしいところが多々あります」と、吐き捨てるように言った。

私はまるで、四葉の母親になったような、恥ずかしい気持ちになった。

「そして熊田さんに関しては、国語や英語以前に、しつけや言葉遣いが全然なっていません。幼稚園からやり直した方がいいですね」

そう言って笠原さんは、ノートを無造作に私の机の上に置き、スタッフルームを後にした。

そう、笠原さんは明らかに四葉のことを嫌っている。それは特に、私が四葉に入れ込んでいるのが気に食わないのもあるだろうが、恐らく笠原さんは「勉強が苦手な子」を、できるだけこの塾には入れたくないのだ。きっと、「頭のいい子が沢山来る塾」として、地域にブランディングしていきたいのだろう。

そして砂ちゃんは笠原さんが校舎を出て行ったのを確認してから、「はあー、マジかー」と大きなため息をつき、椅子の上に倒れこんだ。

「こうやってまた、業務が膨れ上がっていくんスよね。休日まで英語の勉強をしたら、うちらどこで休めばいいんスか? 先輩の研修が終わったら、今度は絶対にうちらの番ッスよ」

うん、恐らく英語研修は今後、全社員対象となるだろう。それも、かなり長期的なものになるはずだ。もう、向こう何年は、休日も英語で雁字搦めである。

「業務が増えるのは、別に仕方ないって思うんス。そりゃあ、色々と教育制度にも変更が出てきますから、それに対応していかないといけないじゃないスか? でも、一個業務が増えたら、一個減らしてくんないと。これじゃ、うちら社畜まっしぐらじゃないスか。マジで『英語4技能』って、大迷惑ッス」

まだ菜純ちゃんが横にいるのに、ここまで本音をさらけ出すのはいかがなものかとは思ったが、その気持ちは私も一緒だ。

ふと私は、目の前の菜純ちゃんの頭をそっと撫でた。この子が高校や大学に上がる時、一体どんな教育制度になっているのだろう。そしてその時、私たちは対応しきれているのだろうか。

思うのだが、私たちも含め、日本国民全体に「英語が話せない」というツケがいよいよ回ってきている気がする。そしてそれはまるで借金のように膨れ上がり、指導者も生徒も全て共倒れになってしまうのではないだろうか。

1-7「母の記憶」

その日、家に着いたのは夜の12時を回ってからだった。

帰宅すると、まず私はシャワーを浴びる。そして、その次の作業は、日記をつけることだ。

「毎日、必ず日記をつけなさい。今日一日を過ごした、という記録を形に残しておくの。忙しい時こそ、書くの。嫌なことがあった時こそ、書くの。きっとその記憶が、かけがえのない財産になる時が来るから」

亡くなった、母の詩帆に言われたことだ。それから、日記を書く習慣は、小学生の頃から、未だに継続している。

そして母のことを想うと、最近、ふと四葉のことも考えるようになった。そう、私と四葉の境遇は、母がいない、という点では一緒である。

ちなみに四葉には「母の記憶」が全くないらしい。生まれてすぐに離婚し、今の父親に育てられたようだ。

「まあ、こんな可愛いうちを捨ててったくらいやからな。極悪非道なヤツに違いないわ。生きとろうが死んどろうが、関係ない」

サラリと言う、その口調が、逆に痛々しかった。そして、恐らくそれは家庭の中でも、父親がそうやって言い続けてきたことなのだろう。

口癖というものは、移るものである。そして私も実家に帰った時、いつも父から「お前はいつの間にか、母さんと同じことを言うようになってきたな」と言われる。自分でも意識していないため、その度にむず痒い気持ちになる。

母が亡くなったのは、ちょうど私が高校2年生だった時だ。享年44歳と、当時17歳の私には、あまりにも早すぎる別れだった。

本当に優しくて、そして我慢強い母親だった。乳がんが見つかった時も、「私、ちょっとだけ運が悪かったみたいね、由璃」と目に涙を溜めて、ニコリと笑った、あの優しい顔が今でも忘れられない。

色んなことを教えてくれた。シロツメクサの花冠の作り方、九九の覚え方、スペルの書き方。私の質問に答えられなかったら、一緒になって考え、調べてくれた。

そして、男性と付き合う時も、ふと母の言葉を思い出す。

「いい? 由璃。もしも男性とお付き合いするなら、一度、その人の本棚を見なさい。どんな本を読んできたのか、何を培ってきたのか、何に興味があるのか、そしていつも何を考えているのか。その人のことは全部、その本棚が教えてくれるの」

それを言われてから、私は異性と深く関係を持つ前に、必ず相手の本棚を見るようになった。そして、その言葉は驚くほど、恋人選びの参考になった。

そう、やはり全く興味を惹かれない本棚の持ち主とは、話が噛み合わなかったのである。付き合う時間と比例してすれ違ったり、人として興味を失ってしまう。そしてその時、ひょっこりと母がどこかから顔を出し、「無理して付き合う必要はないのよ、由璃。流されず、自分を大切にしなさい」と言ってくるのだ。

そのため基本的に私は、「よく本を読む男性」に惹かれる。以前、四葉に出来杉君がタイプだと言ったのは、単純に本をよく読むキャラクターだったからだ。

そして、母は読書以外に、歌も大好きだった。邦楽も洋楽も、何でもいけた。私がC-C-Bを知っていたのも、そのせいだ。

そして、これも歌好きの四葉と、シンクロしてくる。そのため、たまに四葉は、母があの世から送り込んできたのではないか、と勘ぐる時さえある。

今日の分の日記を書きながら、ふと私は、今日行ったちーちゃんとの面談を思い出した。志望校に関する話がメインだったが、最後は脱線して、四葉の話になってしまった。

ー「よっちゃんが初めてバッターボックスに立った時、カッコよかったなあ」

聞くと、四葉は中学一年生の時に、関西から転校してきたらしい。そして、すぐに四葉はソフトボール部に入部した。四葉とは、そこで初めて出会ったらしい。

そして四葉にとって、部活初日のことだったようだ。ちょうど、ライバル校との練習試合があり、花塚中学校は1点リードを許したまま、最終回を迎えた。しかしツーアウト満塁、一打逆転の大チャンスに、次のバッターが手のマメを潰してしまったのだ。

その時だ。花塚中学校の監督は、なんとその子の代打に、四葉を指名したのだ。なんでも、練習時間に四葉のスイングを見て、かなりの好打者だと見抜いていたらしい。

もちろん、代打に送られるのが四葉だと聞いて、チーム内も騒然となった。そう、控えのバッターはまだ他にもいるのに、転校してきたばかりの一年生が、こんな大一番に、代打に起用されたのだ。ビックリしない方がおかしい。

そして指名された方も、「いや、いいです。私、まだ入ったばかりの新人なので」と断るのが普通だが、交代を告げられた時、四葉はこう言ったそうだ。

ー「お前ら、任しとき。これでも向こうで、四番打っとったんやで」

この発言で、更にチームは騒然となった。そしてちーちゃんが言うには、その時、四葉はカッカッカッと笑って、その状況を楽しんでいたようだ。

問題はその後である。四葉はあろうことか、バットを空に向かって、大きく掲げた。そう、「予告ホームラン」である。

「さぁ、かかってきーや!」

挑発され、きっと相手ピッチャーも逆上したに違いない。放られたボールは、四葉の内角高めに向かって、一直線に軌道を描いた。

もちろん、普通なら、怯んで体ごとのけぞるところであるが、四葉は「もらったで!」と、上体を逸らしながら、ボールの真芯を撃ち抜いた。

ちなみに打球が飛んだ瞬間、野手は一歩も動かなかったらしい。それくらい、打った瞬間にホームランだと分かるような、大飛球がフェンスを越えていった。

私はこの仕事をしていて、よく思うことがある。それは、人には生まれ持って備わった「素質」というものがある、ということだ。勉強だけがこの世の全てではない。話が面白いのも、スポーツができるのも、そして歌が上手いのも、立派な能力の一つだと思う。

子供と接し、まずはそういうところを見つけて、褒めてあげる。そして、仲良くなってから、勉強の方に少しずつ流してあげる。そもそも勉強のためにこの塾に来たのだから、ここだけはブラしてはいけない。そう、これが私が何年もかけて、培ってきたスタイルだ。勉強の前に、まずは人として向き合ってあげる。

そして、ちーちゃんに関しては英語が得意である。私も1学期間、受け持ったことがあるが、本当によくできた。学校でも、トップクラスの実力である。そして本人は将来、英語を使った仕事をしたいらしい。

私はまず、その夢を褒め、ひとまず外国語学部がある、ある進学校を志望校として提案した。というのも、そこは夏休みにはニュージーランドへの短期留学プログラムもあり、「英語を話せるようになりたい」と思っているちーちゃんには、ピッタリの高校だったからである。そして、どうやら本人も、元からそこを狙っていたようだ。

できれば四葉も一緒に行って欲しいが、偏差値が圧倒的に足りない。英語はもちろんだが、他の科目が壊滅的なので、受けても合格の可能性は限りなく低いだろう。そう、高校入試は、5科目受験である。加えて四葉の、3年生までの評定も酷いものだ。

そのため、入試当日、どれだけ点数が取れたとしても、評定が足を引っ張るだろう。そして、もしも仮に奇跡で入れたとしても、短期留学に行くお金は、熊田家にはない。

私は今日の分の日記を書き終わり、フーとため息をついた。あれだけ「英語を話せるようになりたい」と言っている子に、私は一体、何を遺しておいてあげられるのだろうか。

ーさて、と。問題は今からだ。

私はスリープ状態にしていた、ノートパソコンを起動させた。そしてその画面に、『どうして日本人は中高6年間も英語を勉強しているのに、話せるようにならないのか』というタイトルの、ワード文書が浮き上がった。そう、仕事の合間にタイトルだけは打ったのだが、その後が全く続かなかった。

どうして日本人は、ここまで英語を話せないのか。私は帰りの電車の中、そして駅から自宅まで、ずーっとそのことを考えていた。

ひとまず私はネットに繋ぎ、『英語 話せる』などと検索をかけ、色んな人の意見を参考にしようと思った。

しかし、だ。まず、浮かび上がってくるのは、沢山の「広告」である。

『自然と英語が口から飛び出す驚愕のメソッド』『たった一週間、○○するだけで英語が話せるようになるって本当!?』『入会後、3ヶ月でまさかのTOEIC350点アップ!』など、仰々しい宣伝文句が所狭しと画面を埋めている。

「っていうか、そんな魔法みたいな方法があるのなら、どうして文科省とかにそれを売りに行かないの? 何で大衆にちょこちょこ売ってんの?」

ぶつぶつ呟きながら、私はこれから始まる、英会話研修のことを思い、心がどんよりと重くなった。

そう、私はわかっているのだ。「英会話」というものの、ハードルの高さを。

「その人のことは全部、その本棚が教えてくれるの」

私はふと、机の隣にある本棚を見た。そう、どれだけ私は今まで、「英会話」に挫折してきただろう。私は本棚に近寄り、久しぶりにその「残骸」を見回した。大量のフレーズ集や『日本人の間違った英語』という切り口の本、英作文、発音、音読、そしてハウツー本などだ。

今まで本当に、色んなものに手を出してきた。学生時代、英語は得意科目だったので、将来はちょっと頑張れば、すぐにペラペラになるだろう、と甘く見ていたのだが、こんなにも「話す」のが、難しいものだとは、思ってもみなかった。

TOEICだって一時期、頑張った。初めて受検した時、500点前半だったが、何とか1年で、750点にまであげた。

一応、それくらいのスコアがあれば「十分に英語でコミュニケーションができる」ということらしいのだが、大学二年の時に初めて受けた英会話の授業で、ネイティブを前に英語が全く口から出てこず、愕然とした。こんなにも英語が喋れなかったんだっけ、私って。文字通り、血の気が引いた。

「『TOEICのスコア』と『話せる』は全くの別物だからねー。向こうに住んだら、全然話せなくてビックリした(笑)」

二年間、英語圏で留学をしていた大学の先輩が、そう言っていた。もちろんその人は留学前、TOEIC高得点保持者だった。

それを聞いてから、私のTOEICへのモチベーションは一気に下がってしまった。そう、私は「スコア」と「話せる」は少なからず「比例関係」にあるものだと思っていたのだ。しかし、このスコアをどれだけ上げ続けても、英語を話せるようになるわけではないのであれば、私にとっては魅力的な勉強ではない。

就職のため、昇進のため。そのために私は今まで、英語を必死になって勉強してきたのだろうか。そう思うと、何だか急に色褪せて見えた。どれだけスコアがあっても、外国人を前にして何にも話せないのであれば、それは「張りぼての英語」だ。

そして、「英語を話せるようになりたい」というのは、実は母の夢でもあった。

「お母さんも学生時代、英語は得意だったんだけどね。やっぱり話せるようにならなかったなー。残念無念」

そう、ここにある英会話本も、その数冊は母が買ったものである。

私が中学生だった時、よく母にも英語の質問をした。そしてほぼ全てにおいて、母は答えてくれた。しかし、そんな母も結局、「英会話の頂」には届かなかった。もしかして、私が英会話をここまで意識するのは、そんな母の雪辱も晴らしたいからなのかもしれない。

しかし、だ。大学時代、TOEICの勉強から、フレーズ集メインの勉強に切り替えたものの、その学習は「苦痛」でしかなかった。そう、どれだけ頑張って覚えても、それが積み上がってこなかったのである。一つ覚えれば、一つ忘れてしまう自分がいた。

一方、大学受験やTOEICは違う。一つ単語を覚えたら、それがすぐに問題に出てくるので、しっかりと消化ができるのだ。しかし、英会話フレーズは、日常「使う機会」がないため、それができない。まるで波打ち際に、砂のお城を立てているような気分になった。

もちろん、短いものであれば、すぐに覚えられた。例えば「Actually:実はね」や「Well:ええっと」などだ。ただ、こういう繋ぎ言葉をたとえどれだけ沢山覚えても、その後の文章が全く組み立てられないのだ。そのため、大学の英会話の授業も、繋ぎ言葉を馬鹿みたいに連発するだけで、中身はボロボロのままだった。

こうして私はフレーズ集を一旦横に置き、一時期、英作文のテキストに乗り換えたこともあった。しかし、これも同じように、「苦痛」でしかなかった。というのも、何度やっても、模範解答通りの英文が組み立てられなかったのである。

そもそもだが、私は学生時代から、英作文が大の苦手だった。そのため、それを英語勉強のメインに据えるのはやはり辛く、1ヶ月でギブアップした。

こうして一時期、英語の勉強自体、嫌になってしまった。「自分には英語のセンスがないのかも」と、自信まで失った。

もちろん、今まで持てる時間を、全て英語に使ってきたか、努力をしてきたか、と問われれば、そんなことはない。人並みにアルバイトだってしてきたし、それなりに友達と遊びに行ったり、全体的にダラダラと過ごしてしまった時期もあった。

これは個人的な見解だが、何だか私も含め、日本人全員が、英語に対して「後ろめたい気持ち」になっているような気がする。まるで、国家レベルで努力不足、みたいな。

もちろん日本人全員が、英語を話せるようになる必要はないとは思う。笠原さんも今日、「やりたい人が、後でやればいい」とも言っていたが、その通りでもある。

しかし、だ。せっかく中高6年以上かけてやるであれば、ある程度でも「話せる」ようになっておかないと、勿体ないではないか。

楽譜の読み方を習ったのなら、楽器が弾けるようになるに越したことはない。ある程度弾けるのと、全く弾けないのでは、大違いだ。それに、日本人だけが、世界の中で「全く英語が話せない」と、笑い者になっているではないか。

私たちは、絶対に努力はしてきたはずなのだ。そして少なくとも私は、受験や試験前、寝る時間も削って、英単語を覚えた。文法書だって、学校の先生に言われた通り、何周もした。長文問題だって沢山解いた。四葉が言うように、「下準備」だけは絶対に万全だったのである。

気が滅入ってきた私は一旦、ベッドに倒れ込み、少し休憩することにした。

そしてふと私は、自分の中に閉じ込めてきた、「触れられたくない記憶」を久しぶりに振り返ることにした。そう、実は私は大学生時代、「英語を使う機会」を求めて、立て続けに大きな失敗を繰り返したのである。その当時の日記を見直すと、今でもキリキリと、胃がうずく。

1-8「TOO MUCH PAIN」

「英語なんてただのツールだ。だから、とにかく使え」
「英語は『環境次第』だ。とりあえず、話せる環境に行け」

英語上級者は、よくこんなことを言う。

当時、英作文やフレーズ集に挫折した私は、結局、英会話は一人でやっても無理だと痛感し、どうすればそういう環境が得られるか、を真剣に考えた。

もちろん留学がベストな道なのだろう。ただ、当時の私は「ヘッドスタート」での塾講師だけだったため、資金を貯めるのであれば、もっとバイトを増やさないといけなかった。

恐らく父に相談すれば、少しは負担してくれただろうが、母の医療費だけでも、大変だったに違いない。だから、英語を話せるようになるなら、国内にいながら、最低限の費用で済ませたかった。

当時、まず私の頭に浮かんだのは大学にある、海外留学生の支援サークルだった。それまでキャンパス内でも、チラホラとその活動を見ることがあったが、そこにいる日本人学生は、かなり流暢に英語を話せていた。

しかしその時、私はもう大学三年生だった。途中から入会して、輪に入っていける自信がなかった。

ちなみに私が所属したのは、ある読書サークルだった。活動はそれほど活発ではなかったが、部室やカフェなどで読書をし、書評を語らうような、居心地のいいサークルだった。

もちろん、そこに入ったこと自体、後悔は全くしていない。友達だって沢山できたし、そこで得た知識や経験は、とても有意義だった。

しかし、もう一つ並行して、そのような、英語を使ったサークルにも所属しておくべきだった、その時、私は深く後悔した。まさかこんなにも英語に苦労するとは。

さて、そうなると、国内で英語を話せる環境といえば、もう選択肢は一つしかない。そう、「英会話スクール」である。

ネットを叩くと、沢山の英会話スクールがヒットした。そして私は、「値段」と「通いやすさ」を第一に考え、三つ四つ、立て続けに無料体験レッスンを受けた。

「・・・やっぱり、プロは全然違う」

そう、やはり「英会話」を専門にしているだけはある。外国人講師の盛り上げ方も素晴らしく、私の拙い英語にだって、「You did a good job!」と、親指を突き立てて、ホメてくれた。目の前でそう言われると、モチベーションもぐんと上がり、死にかけていた私の英語に、「生きる魔法」が掛かりそうな気がした。

そして、その中で、私の心を最も強く動かしたのは、体験レッスンの後に、私の発音、語彙数、表現力、文法、切り返しの速さなどを、しっかりとチャートに書き起こしてくれたスクールだった。

私はそのサービスの手厚さに感動すら覚えた。こうやって自分の能力を「数値化」されると、自分のやるべきところがハッキリ見える。

「あと、私たちのスクールは『話し放題』なんです。昼休みと夕方の一時間、毎日『チャットルーム』という部屋を開放しているので、そこにいる講師たちとどれだけ話しても、無料なんです」

もう、ここだ、ここしかない。そして授業料も一番安く、駅からも近い。

「ちなみに来週までにお申し込み頂くと、入会金は0円です。是非、前向きに検討されて下さい」

私は3日後、授業料30万円を一括で支払い、そのスクールに入会した。「助かった」と思った。自分の英語が、救われた気がした。

しかし、「こんなはずではなかった」と思い始めてきたのは、それから3週間後のことだった。

ーそう、全く上達を実感できなかったのである。

そのスクールは、週1~2回の、「1:4」のグループレッスンがメインだったが、どれだけレッスンを重ねても、自分の発話量が増すことは一切なく、50分あるレッスンの中で、自分が話している時間は5分もなかった。

そしてある日のレッスン終わりのことだ。私は同席していた受講者の方に、「どれくらい、こちらに通われていらっしゃるんですか?」と聞いてみると、「うーん、もう1年くらいかな」と返ってきて、びっくりした。

え、1年も通っているのに、私よりも話せないの? ドス黒い煙が、私の中にモワッと広がった。

ーもしかして、このレッスンをどれだけ受け続けても、私は英語を話せるようにならないのではないだろうか?

それは恐ろしい妄想だった。しかし、確信に近いものもあった。

こうして私は、体験の時に聞いた「チャットルーム」を試してみようと思った。それまで、行こう行こう、とは思っていたが、大学の授業やアルバイトなどで忙しくて、まだ一度も行けていなかったのだ。

しかし、だ。同じように考えている受講者が、他にも沢山いた。そう、チャットルームは、日本人でごった返していたのである。

外国人講師一人を、6人以上の生徒がぐるりと取り囲み、もはやグループレッスン以下の環境だった。見た瞬間、私は血の気がサーッと引いた。

ひとまずその場に足を踏み入れてみたが、更に誤算だったのは、みんなレベルが高い、ということだった。

そう、レギュラーのグループレッスンは、予め均等のレベルの人たちで構成されているので、スピーキング力が偏ることはない。

しかし、このチャットルームは当然、レベルなど無関係だ。そうなると、上級者がペラペラと外国人講師と会話しているのを、周りが「ウンウンウン」と、ただ聞いているだけの構図になるのは、当然の流れだった。

違う、これは全然、「話し放題」ではない。私は家に帰って、そのスクールのパンフレットを見直した。そう、そしてやはりそこに載っていたチャットルームの写真は、外国人講師と生徒が「1:1」の構図だったのである。

その時、私は悟った。そうか、これはあくまで「イメージ写真」だったのだ。実際の「話し放題」とは、外国人講師一人に日本人受講生が群がり、英会話初心者が割ってはいけないような空間だったのだ。

その後、私はスタッフさんにもそのことを相談したが、その歯切れは入学前と比べて、極端に悪かった。

「まぁ、あくまでその、チャットルームとは、講師と生徒さんの、その『自由な場所』なので、その、私たちに入場制限はできないんですよ。そして、その、講師もレッスンではないので、特に初心者さんに話を振る、ということも、その、あえてお願いしていないので」

そんな。どうしてそんな事情を、入会前に一言も言ってくれなかったの?「いつ来ても、沢山話せる」って、強調されていたじゃないですか?

しかし、向こうとしても嘘は全く言っていないのだ。単に私がしっかりと現場を確認もせず、勝手に「1:1」の空間が毎日取れる、と思っただけなのである。分が悪いのは、私の方だ。

こうして私は、このスクールの「話し放題」を諦めた。もう、レッスンで結果を出していくしかない。

しかし、だ。やはりどれだけレッスンを重ねても、上達を感じることは全くなかった。

いや、むしろ、段々「下手になっていっている」気さえした。そう、日によって話せる日もあれば、全く話せない日もあったのだ。一体、何なんだろう、これは。

ただ、それなのに、だ。定期的に行われるスタッフとの面談で差し出されるチャートは、着実に数値が伸びていっていたのである。

「いい感じですね、若松さん。どの項目のスキルも少しずつ上がっていっている、と講師もホメていましたよ」

う、嘘だ。私の英会話力は段々落ちていっているじゃないの。誰が言ったの、「私のスピーキング力が上がっている」って。講師だって、毎回コロコロ変わっているじゃない。誰が、どうやって、私の上達具合を判断しているの?

「しかし、まだまだ発音が弱いと聞きました。どうでしょう、若松さん。実は今月から、発音矯正コースというものが新たにできまして、今お申し込みされると、普通よりも20%安く受講ができるんですけど、どうしますか?」

その日、私は家に帰って、号泣した。もう、全てが分かってしまったのだ。単に私は、彼らの「金づる」に過ぎなかった、ということに。

入会時にもらったチャートも全部グシャグシャにして、捨てた。こんなの、全部でたらめだ。私のスピーキング力なんて何にも上がっていない。ただ単に、私を入会させるために、操作された、一枚のシートに過ぎなかった。

翌日、私は途中解約を申し出たが、案の定、もうそれはもうできないということだった。そう、私に残された選択肢は、ただもう、通うことしかなかったのである。

こうして私はいつしか、「払った授業料が勿体無いから」という理由で、スクールに通った。もちろんそれは、何の生産性もない時間だった。ただ、レッスンさえ消化できれば、それで良かった。「英語を話せるようになりたい」というモチベーションなど、いつの間にか行方不明になっていた。

そして、そんなある日のことだ。私はこの日を境に、そのスクールに一切通わなくなった。その日、レッスンルームに入ってきたのは、女性の新人講師だった。

「Hi, my name is Yuri Wakamatsu. Nice to meet you.」

「Hi.My name is  Jeniffer. Nice to meet you too. How’s it going?」

「え・・ええっと。うん、fine。I’m fine, thank you. And you?」

「I’m good! Thanks for asking! Since this is our first meeting, please introduce yourself briefly.」

「お、OK.えっと、As I said, my name is Yuri Wakamatsu. えっと、I like to listen to music.」

「What kind of music do you usually listen to? 」

「え、えっと。I like Japanese pop.」

「Which bands do you listen to??」

「うわっ」となった。そして、その日の面子はちょうど、私以外、みんな男性だった。そして、ニヤニヤと私の方を見ていた。

言いたくない、私がいつもどんな音楽を聞いているのか、この人たちの前で。そんなの、プライベートなことだ。

「Hey, Yuri.Don’t worry about making any mistakes. Come on!」

違う、答えられないのは、別に、間違いを恐れているわけじゃないの。

こうして私は、「何でも聞きます。というのも私の母が昔、歌が大好きだったので、一緒によく何でも歌ったんです」と、咄嗟に言おうと思った。しかし、だ。それが、全然英語に切り替えられなかったのである。

もう、ボロボロだった。頭の中が、日本語と英語の文字でごちゃ混ぜになり、主語や動詞が全く出てこず、馬鹿みたいにどこかで覚えた繋ぎ言葉を連発した。

そして、自分でも話しながら、文法をメチャクチャに間違えているのが分かっていた。三単現のSが抜けていたり、時制だって全然一致していなかった。自分でも泣きなくなるほど、「ガチャガチャな英語」だった。

そしてその時、私はハッキリと確信した。そう、自分のスピーキング力は、ここに入った時と何一つ、変わっていない。いや、違う。大学入学時、いや、自分が高校生だった頃と、何にも変わっていない。

結局、あれだけ受験を頑張っても、そこからフレーズ集や英作文をどれだけやっても、海外ドラマを見ても、そして英会話スクールで大金を払っても、何一つ向上していなかったのだ。ものすごい脱力感が、私を襲ってきた。

こうしてその日のレッスンは、通った半年の中で、一番酷い出来となった。しかし、だ。そのレッスン終わり、その講師は極めつけに、私にこう言ったのである。

「Hey, Yuri. You did a great job today!」

私は「え?」と、なった。聞き間違えたのかと思った。

「I said “You did such a FANTASTICK job today!”」

そう言って、講師はキラーンとした笑顔で、私に親指を突き上げたのである。

馬鹿にされていると思った。

そう、この講師は何も分かっていないのだ。私が今まで寝る時間も削って、受験勉強やTOEICなどを頑張り、その後、フレーズ集などで自主勉強もし、そして今はこうして英会話スクールに大金を払って数ヶ月も通い続けてきたのに、「ガチャガチャな英語」しか話せなくて、今、絶望のどん底にいる、私のこの気持ちなんて。

レッスンルームから出て、私は次回の予約を入れずに、受付を素通りした。もう、二度とここには来ないだろう、という確信に近いものがあった。

結局、授業料は3分の一くらいは未消化のまま、そのスクールとは縁を切った。初めは何度も電話がかかってきて、「もう一度来ませんか?」と説得されたが、もうそれが親切心からなのか、それともただの営業だったのか、分からなかった。ただただ、もうそことは二度と関わりたくなかった。

そう、これが私が味わった、英会話スクールでの苦い経験である。

しかし私は、入ったスクールが悪かった、とも思わなかった。きっとどこに行っても、同じ結果だったような気がした。

そして、私は分からなくなったのである。というのも、私が英語を話せなかったのはずっと、「環境」の問題だけだと思っていた。しかし、こうやって英会話スクールに入り、「話せる環境」を買ったのに、効果が出なかったのは、なぜなんだろう。

やはり英会話は諦めようか。そう悩んでいた時に、私は、「外国人の恋人を作れば、英語を確実に話せるようになる」というアドバイスを耳にした。

確かに街の中でも、日本人女性と外国人男性のカップルを、よく見かける。そして、当然ながらその場合、日本人女性は流暢に英語を話している。そう、このアドバイスは、当たりなのかもしれない。

しかし、だ。当時、私は町田さんという、サークルの先輩に恋をしていた。

ただ、彼には、他に「想う人」がいた。一度、思い切って、自分の胸の内を伝えたが、やんわりと断られてしまった。

「ゴメン、実は二年くらい、ずっと好きな人がいてさ。ぶっちゃけ、フラれ続けているんだけどね(苦笑)だから今、由璃ちゃんとは付き合えないかなー」

ショックだったが、町田さんの誠実さや、私への優しさも伝わってきた。

ーもしかして、外国人の彼氏でもできたら、この辛い気持ちだって消えるかもしれない。

そんな軽い思いつきもあって、私は外国人利用者も多い、マッチングアプリをダウンロードし、私は、自分のプロフィール文をアップした。

「Hi. My name is Yuri. Please call me Yuri. I want to be able to speak English fluently. Thank you.」

それから僅か数時間で約30件のメッセージが届き、私は反響の多さにビックリした。

ひとまず一件一件、メッセージを読み、顔写真やプロフィールなどをチェックした。そして、年齢が離れすぎていたり、遠方に住んでいたり、自分に合いそうにないと思った人には、英語でお断りのメッセージを返した。しかし、しつこく食い下がってこられたり、中には逆ギレされたりもした。

もちろんそういうアカウントは、ブロックすることもできたのだが、私は段々怖くなってきた。やはり、不特定多数に向けて、自分の情報を晒すのは賢明ではない。

そう思って、私はアプリごと削除しようかと思ったのだが、一件だけ引っかかるアカウントがあった。

それは「Jason」というアメリカ人で、カッコいい顔写真がプロフィールに一緒に載っていた。住まいも東京で、年齢も21と、私と近かった。何でも最近来日したばかりで、友達がいなくて寂しいらしい。

しかし、何よりも惹かれたのは、好きな映画の項目に『Whisper of the Heart』とあったことだ。そう、これは私の大好きなジブリ映画、『耳をすませば』の英語タイトルである。

何だか運命のようなものを感じ、私はジェーソンという、その男性に「Do you like “Whisper of the Heart”?」と返信をした。そこからLINEの交換までは、3日も掛からなかった。

こうして会うことになったのは、2週間後のことだった。私は珍しくサークル活動を休み、オシャレをして、待ち合わせの場所に向かった。

ドキドキだった。もちろん彼の顔は分かっているので、大体のイメージはついていたが、ネットを介して人と会うのは、それが初めてだった。

どんな人が来るんだろう。そして、約束時間ちょうどだった。後ろから、「Are you Yuri?」と声が掛かった。ビクッとなり、恐る恐る振り向くと、そこには一人の外国人男性が立っていた。

「Hi. I’m Jason! We’re finally meeting! You look great!」

私はいきなり、ハグをされた。

そうか、この人が、今までLINEのやり取りをしていたジェーソンか。しかし、ハグをされながら、私は強い違和感を覚えていた。写真と全然違う、と。

そう、彼は写真を加工していたのだった。それも、かなりだ。年齢だって実際は、26歳だった。

その後、カフェで詳しく聞くと、彼は自分の容姿に自信が持てないらしく、そういうアプリを使った、と正直に話してくれた。

ただ、思った以上に、誠実な人だった。私は外国人ということもあり、必死にそうやって苦労して、日本人女性と知り合いになりたい、と努力をしていることに、かえって好感を持った。

そして、何よりもそのやり取りは全て「英語」だったのである。気持ちが高揚せずにはいられなかった。もちろん、私の英語は相変わらず拙かったが、こうして今、私は英語を使って、コミュニケーションを取れているのだ。それが感動だった。壁を一つ越えたような気がした。

こうして私たちはそれから何度も会った。色んな場所に行き、そこで言葉を重ねた。『耳をすませば』についても語り合った。そして、その度に私は自分の発話量が増えている実感がした。英語が言葉として、根付いてきている気もした。

そして出会って、ちょうど4回目の時だった。ジェーソンが、自宅に誘ってきたのである。

私は、どうしようか悩んだ。そう、別に私たちは付き合っているわけではない。もちろん彼のことは好きだったが、恋愛感情は何一つ持っていなかった。

ただ、私の中で正直、こう思ったのも事実である。「もしも彼と恋人関係になれば、私は確実に、そして無料で英語を話せるようになる」と。

そしてちょうどその時期、町田さんに恋人ができたことも聞いていた。そう、フラれ続けていた人と、うまくいったらしいのだ。

少し自棄になっていた気持ちもあり、私は悩んだ挙句、彼の自宅にお邪魔することにした。ほんの一時間程度のつもりだった。

しかし、だ。彼の自宅に上がり、チラリと、彼の本棚が目に入った時、私は強い違和感を覚えた。そう、そこには大量のアニメ雑誌が置いてあったのである。

「・・・違う」

私の本能がビンビンと、そう告げていた。これは私が好きな人の本棚ではない。私もアニメは好きだが、やはり自分が好きな人の本棚は、文学作品に溢れていないといけない。

母の、「流されず、自分を大切にしなさい」という声が、どこからか聞こえてきた。何だか、ここにはいてはいけないような気がした。

すぐに帰ろうと思ったのだが、彼が勧めてきたお酒を前に、その気持ちはトロンと溶けてしまった。そう、私はお酒に弱いのだ。そして彼にも、その旨は伝えてあった。思った以上に、アルコール度数の高いお酒だった。

こうして私たちは成り行き上、いつしかベッドの上に移動して、唇を重ねていた。彼の強い香水の匂いが、プンとした。

しかし、その時だ。ジェーソンは私に向かって、こう言ったのである。

ー「I love you, Yukako.」と。

その瞬間、私の自制心がハッと目を覚ました。

「Excuse me? Who is Yukako? I’m Yuri.」

「Oh, my God.No, it’s nothing.」

ジェーソンの動揺が、手に取るように分かった。そして、ちょうどその時だ。私は枕の上に、一本の長い髪の毛を見つけたのである。

「Whose hair is this?」

「I have no idea.It’s yours, isn’t it?」

「え? But…」

明らかにそれは、私の髪の毛ではなかった。黒髪の私に対し、それは鮮やかな「茶髪」だったのだ。

モワッと黒い煙が私の中に吹き上がった。そして、ふと私は先ほど、ジェーソンのケータイが「LINE!」と鳴ったのを、思い出した。あ、もしかして。

スッと手を伸ばし、私は近くにあったジェーソンのケータイを奪い取った。

「Hey, come on! Give it back!」

やはり思った通りだった。スクリーンには、LINEのメッセージが浮き上がっており、それはハートマークで溢れていたのだ。

ただ、驚いたことに、その差出人は「Yukako」ではなく、なんと「Natsumi」だったのだ。

私は、キッとジェーソンを睨んだ。そう、この人はこの手口で、今まで日本人女性を何人もこの部屋に誘い込んできたに違いない。日本人の女友達は私しかいない、と言っていたのに。結局、私を含め、三人の女性と関係があったことになる。いや、もしかして、もっとかもしれない。

しかし、だ。私はそれを問い詰めたかったが、言葉が英語にならなかった。浮気、を英語で言えない。そして、恋人関係も英語で表現できない。もちろん、酔って頭が回らなかったのもあるが、私は自分の英語力の低さに、愕然とした。

「You know I wouldn’t do that to you. What’s the matter? Let’s have fun!」

私が必死に言葉を探している間に、ジェーソンは強引に覆いかぶさってきた。今までに見たこともない、「男の顔」がそこにあった。

「い、いやあああっ!」

その後のことは、ハッキリと覚えていない。ほぼ下着のまま、着てきた服や荷物を持って外に飛び出し、私は追いかけてきたジェーソンを振り切った。

着替えたのは、ゴミ置き場の陰だった。何人かの人に、白い目で見られた。屈辱だった。そしてその時初めて、私は彼の部屋に、コートとマフラーを忘れてきたことに気づいた。

こうして私は凍える寒さの中、泣きながら家に帰った。途中、雨まで降ってきて、体の芯まで冷えた。

帰宅するとともに、私は熱いお風呂に飛び込み、家族に聞こえないよう、風呂桶の蓋を被って、嗚咽した。

自分が嫌になった。そう、「英語を話せるようになりたい」というだけで、私は色仕掛けで相手を利用しようとし、そして逆に性欲の処理に利用されるところだったのだ。

たとえお酒が入っていたとしても、それは言い訳にはならない。飲んでしまった、いや、自宅に上がってしまった私に、全て非があるのだ。もしも母がこの場にいたら、どんなに悲しい顔をするだろう。

長いお風呂から上がり、私はぐったりとして自分の部屋に戻った。するとその時、まるでずっと待っていたかのように、ドア越しから、兄の声が聞こえてきた。

ー「なあ、由璃。お前、大丈夫か? 父さんがさっき、風呂の中で泣いてたんじゃないか、って心配してたぞ」

しまった、父に聞こえてしまっていたのか。そして恐らく心配になって、兄を差し向けたのだろう。

私はドアに向かって、「ううん、大丈夫。何でもないよぉ」と、明るい声で返した。

「そっか、なら、別にいいんだけどさあ。あ、そう言えばお前、最近、外国人の友達ができたんだって? 英語は大丈夫なのか?」

ビクッとした。そして、「あ、うん、平気平気。もう結構喋れるよー」と、返した。

「そっか。まあ、色々と気をつけなよ。彼らだって、『普通の人間』なんだからな」

そう言って兄は、遠ざかっていった。もしかして、ピンとくるところがあったのかもしれない。昔から兄は、勘だけは鋭いのだ。

フーと息を吐いた私は、ひとまず本棚の日記を取り出そうとした。

すると、日記の隣に置いてあった英会話フレーズ集を間違えて取ってしまった。そう、それはジェーソンに使ってみようと思って、最近新たに買った本だった。なんだかそれが、とても虚しく見えた。

そうだ、そもそもなのだが、こんなことになったのも、英語を話せるようになりたい、という想いからだった。

しかし、それなのに、どうして私は今、こんな「惨めなところ」に辿り着いているんだろう。どうして私はここまで、英語に振り回されているんだろう。

一体私が、何をしたというのだ。ただ単に、上や周りに言われてきた通りに、一生懸命頑張って勉強してきただけではないか。それなのに、どうして私は今、ちっとも話せるようになっていないんだろう。どうして、ここまで「苦痛」を受け続けないといけないのだろう。

1-9「英語が話せない遺伝子」

こうして私は「英語を話せるようになりたい」というモチベーションが根本からポキリと折れ、そのまま就職を迎えた。

もう、英会話は懲り懲りだった。国内で自力で頑張ろうと思い、少しでも「冒険」をすると、痛い目ばかりに遭う。しかし、だ。やはり「英語を話せるようになりたい」という衝動が、定期的に私を襲ってくるのだ。そしてその誘惑は今の仕事に就いてから、益々強くなった。そう、子供に英語を教えていると、やはりこのスキルが勿体なくなってくるのだ。

もしも英語が話せたら、どうだったんだろう。もっと待遇のいい、違う職に付けたのかもしれない。自分の好きな海外にも、仕事で行けていたかもしれない。

こうして、半年くらい前からだ。私はまた、学生時代のように、国内で英語を話せるようになるにはどうしたらいいか、もう一度真剣に考え始めた。

まず私は、英作文テキストに再チャレンジした。学生時代は失敗したが、今やり直せば、あの分厚かった壁を突破できるかもしれない。

しかし結果は、学生時代と一緒だった。そう、やはり「苦痛」で仕方なかったのである。そしていつも模範解答と合わず、バツだらけになる。

本当に不思議である。英語は大好きなのだ。学生時代、勉強といえば、英語ばかりやっていた。それなのに「話せる」に向けてのステップは、どうしてこんなにも苦痛が伴うのだろう。

そして、だ。苦労して英文が作れても、いちいちニュアンスを訂正されるのだ。例えば、「どうして日本にいらっしゃったのですか?」という日本語を英作文すると、「Why did you come to Japan?」となる。

完璧な英作文ではないか。もしも塾で生徒がこう書いてきたら、私は丸をつける。しかし、ネイティブに言わせると、これは「失礼」に当たるらしい。日本に来たことを、咎めているように聞こえる、と。

では、この場合、どう言えばいいかというと、「What brings you to Japan?」が一番、自然らしい。

でも、そんなのはおかしいではないか。「何があなたを日本に持ってきていますか?」なんて、日本語では考えない。であれば、こういった文章は、英作文からは導けない。

こうして、「ネイティブに笑われるあなたの英語」「ネイティブっぽい生きた英語表現」のような本も、どんどん増えていった。そう、日本語から英語を作れば作るほど、どんどん「ネイティブはこう言うよ、それはこう聞こえるよ」という、横槍が入ってくるのだ。

こうなってくると、いつの間にか、ネイティブが使うフレーズの丸暗記に、落ち着くことになってしまう。そう、英作文で上手くいかないのなら、もうネイティブの文章を丸暗記するしか、打つ手はない。

しかし、そうなると、今度は丸暗記するフレーズが、どんどん雪だるまのように増えていくこととなり、覚えられなくなるのだ。そしてたとえ覚えたとしても、「使う機会がない」という大きな壁にぶち当たることとなり、また学生時代の二の舞となる。

こうして私は、オンラインレッスンを取ることにした。そう、オンラインレッスンであれば、マンツーマンで、しかも毎日受けられるので、あの壁を突破できると思ったのだ。

しかし、である。やはりどれだけレッスンを受け続けても、覚えたフレーズが出てくることは一向になかった。そう、いざネイティブと対面で話すと、覚えたものが全部吹っ飛ぶのである。

そして、結局私が言いたいことは、フレーズ集には載っていないことばかりだった。ただ、それも当然だ。そう、どこの表現集に、「今日、四葉が筆箱と弁当箱を間違えて持ってきた」と、書いてあるだろう。

こうなってくると、結局は英作文をしないといけなくなり、また来た道を引き返すことになる。

しかし、どのテキストに「筆箱と弁当箱を間違えて持ってくる」というパターンが載っているのだろう。いや、たとえ載っていたとしても、それに出会うのは、いつの話だろう。

もう、こうなると、その先は堂々巡りだった。ハウツー本を読んだり、ネットで情報を漁ったりした。

シャドーイングがいい、と色んな人が言っていたので、半信半疑でやってみたが、やはりそれも「苦痛」でしかなかった。

まるで自分が、鳥のオウムになったような気がした。英語の音をただ遅れて繰り返すだけで、どうして話せるようになるだろう。

その次に音読もやってみた。しかし、これも一週間ほど続けてみて、「苦痛」でしかなかった。どうして声に出して読み上げることが、「話せる」に繋がるのだろう。たとえこれを100年やっても、「筆箱と弁当箱を間違えた」は言えないではないか。

次に私は、海外ドラマにもチャレンジしてみた。ひとまず一度目は、日本語字幕を「ON」にした。もちろん、その時は日本語の世界だから、楽しめた。しかし、字幕を抜くと、一瞬で「苦痛」な英語の世界に切り替わった。もはや、宇宙人の言葉だった。

その後、英語字幕を「ON」にし、スクリプトをノートに書き写した。そして、それを日本語に訳す作業を、二週間続けてみた。

しかし、途中で自分が何をしたいのか、分からなくなった。そう、英文を訳す作業であれば、中高6年で散々やってきたではないか。そして、ちっとも話せるようにならなかった。では、この作業自体、何の意味があるのだろう。

もちろん、「生きたフレーズ」や「スラング」は覚えられるかもしれない。しかし、もしもそういったものを覚えたいのであれば、フレーズ集などを一冊買えばいいだけの話なのだ。そちらの方が綺麗にまとまっているし、海外ドラマを見るよりも、遥かに効率的である。

いや、しかしだ。フレーズ集を使った学習は、以前行き止まりだったではないか。いやだ私、気付かないうちに、また同じ道を辿っている。

そう、もう「出口がない」のである。まるで、ダンジョンだ。

そして英会話を勉強していると、「How are you?」はあまり使われない、「I’m fine.」は元気である意味じゃないんだよ、「be going to=will」は大ウソだ、などと、学校英語では見たこともないパンチが、四方八方からビシバシと飛んでくる。もう、顔面ボコボコで泣きたくなってくる。

今まで学校で覚えてきたものや、今子供たちに教えているものは、どこからどこまでが正しくて、どこまでがネイティブ相手に通用するのだろう。

そして書店に行くと、英会話コーナーに「やり直し教材」が山のように並んでいた。やっぱりそういうことなのだ。こうして日本人は、「英会話」の段階になって、何度も英語を一からやり直しているのだ。

こうして私は、イメージが沢山入った、一冊の文法書を買った。そう、私の英語が「ガチャガチャ」なのは、文法からズレているからに違いない、と思ったのだ。

しかし、である。それを学び直したとしても、結局は英作文などをして、英語を組み立てないといけない以上、やはり同じ壁にぶつかってしまうのだ。そう、英文が組み立てられない。

そして次に手を出したのは、単語だった。「英語が口から出ない」ということは「単語が少ないからだ」と思ったからだ。ちなみに日本人の英語学習者は、他国に比べると、「圧倒的な単語不足」らしい。

こうして私はまた、英単語帳を買ってきては、TOEICに出てくるような、難解な単語を覚え始めた。

しかし、やはり上達している実感が全くなかった。そう、たとえ難解な単語を覚えたところで、私の問題は「簡単な単語が使えない」ことなのである。

そして、違うハウツー本には「子供のように考えれば英語はたやすく話せる」「英語はシンプルに」「難しい言葉は、簡単な言葉に言い替えよう」などと書いてあった。

やっぱりだ、違うんだ、この道は。そして、もしかして難しい単語群を覚えていくのは、簡単な単語が使えなくなり、かえって「逆効果」になるのかもしれない。私は途中で怖くなり、その勉強方法もストップした。

そしてまた書店に行くと、「中学レベルの文法や単語で、英語はペラペラ話せる」という本を見つけ、私はまた大きな脱力感に襲われた。もう、何なんだろう、一体。文法も単語も、結局はこのままでよかったのか。

ただ、それが「真実」ならば、だ。私はもう、ペラペラなはずなのだ。なぜなら、私は毎日中学生たちに、英語を教えているからだ。高校入試の問題だって、全て解ける。

それなのに、レッスンでは何も言えなかったのは、なぜなんだろう。一体、私に欠落しているのは、何なのだ。

こうして、私が次に手を出したのは、「発音」だった。そう、もしかして発音さえ上手くなれば、魔法にかかったように英語が聞けるようになり、海外ドラマなども見られるかもしれない、と思ったのだ。

しかし、私はやはりここでも手痛い返り討ちに遭った。そう、「rice」と「lice」の発音が違うことは分かったのだ。口も真似て、発音もできるようになった。

しかし、やはり私の耳には、どちらも「ライス」と聞こえてくるのだ。加えて、文章になったら、全ての音が繋がり、もう全然聞き取れなかった。

そんな折だ。「日本人はカタカナ発音で十分だ。世界には英語を母語としない、英語話者が11億人もいる。彼らは発音は気にしていない。日本人は気にしすぎているから、英語が話せないんだ」という、主張も耳にした。

もう、何なんだろう、一体。怒りすら覚える。どっちなんだ、発音をやらなければいけないのか、やらなくてもいいのか。

私は頭を抱えて、「ふー」と大きく息をついた。ダメだ、一度頭を整理しよう。

視線を外に移すと、窓ガラスに水滴がついていた。そう言えば、今日砂ちゃんが「夜更けから天気が変わるらしいッスよ」って、言ってたっけ。

私はベッドの上で上体を起こし、ベランダから夜の街を見渡した。絹糸のような細い雨が、住宅街に降り注いでいる。

その際、また頭をよぎったのは、四葉のことだ。そう、この雨の向こう側で彼女は今、期末テストに向けて、必死に英語を勉強していることだろう。

ー「なあ由璃ネエ。うち、将来、英語を話せるようになれるんかな」

雨音に混じり、四葉の声が微かに聞こえてきた。しかし、私はそれに向かって、「うん、なれるよ」とは、返せない。本音を言うなら、「無理だと思うよ」だ。
 ふーと私は気合を入れ直し、再びデスクに戻った。

『どうして日本人は中高6年間も英語を勉強しているのに、話せるようにならないのか』このタイトルに向き直った瞬間、私はハッとなった。

ーそうだ、もしかしてこれは、「数字が大きくズレている」んじゃないだろうか。

そう、「中高6年」どころではないのだ。その後、どれだけ年月を延長しても、日本人のほとんどが国内で、英語を話せるようになっていないのだ。そしてこうして、毎日子供に英語を教えている、私たち塾講師すら、話せるようになっていない。

そしてもちろんそれは、塾講師だけではない、学校の先生だってそうだ。指導するのは、受験英語でいいのだ。あのエリート先生だって、英語を話せないらしいではないか。

その時、私は「ある真実」に、ぬるりと触れた気がした。

もしかして日本人が英語を話せないのは、「英語を話せる必要がない指導者や大人が、英語を話せる必要のない試験に向けて、中高6年間、子供たちに英語の基礎を教え続けてきたから」ではないだろうか。

何だか、日本で行われている英語自体が、全て気持ち悪く思えてきた。もう、何もかも、だ。引き継がれている、「英語が話せない遺伝子」というか。

ひとまず今日はやめて、レポートは次の休みの日を利用しよう。

私は電気を消し、再びベッドに倒れ込んだ。Youtubeで音楽を聴きながら、寝落ちしようか。そう思い、アプリを開くと、ふと私はオススメ欄に、ある一本の英語のビデオが上がっていることに気付いた。

タイトルは、『英語がペラペラ話せる小学生、浅草を案内する』とあった。最近、英語関係のビデオをよく見ていたので、その関連で上がってきたのだろう。

気になった私はそれをクリックをすると、一人の小学生の男の子が外国人に、英語で浅草の街を案内している映像が流れ始めた。

「Look at the big lantern! It says Kaminarimon in Japanese!」「Kaminarimon?」
「Yes, it’s the name of the gate.」
「Oh, I see.」

す、すごい。ジェスチャーも交えながら、流暢に英語を話している。

途方もない脱力感が、私を襲ってきた。何だかこの少年は、私が、いや日本人がやってきた全ての努力を、別角度から、粉々に砕いてくる。

しかし、この瞬間、ふと私は疑問に思った。

ー「この子の頭の中は、どうなっているんだろう」

そう、この子は日本人だけど、日本語から英語を紡いでいるのだろうか。

いや、しかし、そんな形跡は全く見えない。何だか自然と、そのまま英語を紡いでいる感じがする。

「You can ride a rickshaw. Why don’t you try it?」

そう、英語が「自分の言葉」として、根付いているのだ。日本語から英語への、変換の「間」が全くない。まるで魔法のように、口から英語が滑り出ている。

またモワッと、黒い煙が私の中に吹き上がった。そうだ、やはりここに何か、大きな違和感がある。それは英会話を学び始めてから、ずっと感じていたことだ。

すると、ちょうどその時だ。映像の中の外国人が、男の子にこう尋ねた。

「Your English is amazing. Where were you born?」

そうだ、どこだ、どこでこの子は生まれたのだろう。アメリカとかだろうか?

「I was born in Saitama, it’s next to Tokyo.」

え! さ、埼玉生まれなの? 今、私が住んでいる県じゃない。

「Really? Do you live with foreigners?」
「I just learned to speak English by myself but  I go to an English language school every week.」
「Oh! Your English teacher must be very good. Are they American?」
「No. He is Japanese.」

唖然となった。彼は国内で、しかも「日本人の先生」から英語を習ったようだ。であれば、これは「突然変異」でしかない。

一体、この子にどんな指導が施されたのだろう。私は暗いダンジョンの中に、一筋の光が差したような気がして、その指導者や教室の名前などを知ろうとしたが、そういったものは一切出てこず、映像は終わった。

得られた僅かな手掛かりは、その着ているユニフォームから、この子がサッカーの鹿島アントラーズのファンであることと、そのゼッケンが「20」だったことくらいだった。

1-10「パラレルワールド」

「よっちゃん、今日は遅いね」

あれから2週間が経ち、私と菜純ちゃんは、四葉の到着を待っていた。

今日は先週学校であった期末テストから、ちょうど一週間である。順当なら今日、四葉は答案用紙を持ってくるはずだ。

「何点だったかなあ、よっちゃん」

どうやら菜純ちゃんも、結果を気にしているようだ。一年も一緒に勉強をしていると、もう「お姉ちゃん」のような存在なのだろう。

また最近だが、どうやら菜純ちゃんに「好きな男の子」ができたようである。そして、その相談を四葉にしていると聞いて、なんだか微笑ましくなった。

「雨に濡れてないかなあ、よっちゃん」

その言葉で、私は外を見た。そう、今日は朝からずっと小雨で、一日中ジトジトしている。

もしかして、こちらに向かう途中で、何かあったんじゃないだろうか。

「若松先生、ちーちゃんから何か連絡受けてないですか?」

後ろを振り返ると、大学生アルバイトの宮田くんが、ちーちゃんの生徒ファイルを持って立っていた。

「あれ? ちーちゃんもまだ?」

どうやら、今日は別の教室で受けているはずの、ちーちゃんもまだ来ていないらしい。そして、ちーちゃんの担当の宮田くんが、遅刻や欠席の連絡を受けていないか、私に尋ねに来たのだ。

「ちーちゃんが連絡もなく、遅れることって珍しいッスね」

確かに。いつも何かあれば必ず連絡があるのに、今日はどうしたのだろう。

すると、次の瞬間だ。バタンと玄関のドアが開き、雨に濡れた四葉とちーちゃんが、ハアハアと息を切らしながら、駆け込んできた。

「ゴ、ゴメン、由璃ネエ、くっそ遅れた」

「どうしたの、四葉? こんなに遅れて。ちーちゃんも」

ふと私はその時、四葉の膝から血が流れているのに気付いた。

「四葉、どうしたの、その足? 血が出ているじゃない?」

「さっき、来る途中、チャリで転んだ。でも、そんなん、どうでもええねん。マジであいつ、クッソ腹立つ!」

「あいつ? 誰のこと?」

「そんなん、エリートに決まっとるやろが! ほら、ちーちゃん、期末の答案、みんなに見せえや!」

「よっちゃん、もういいって。どうせ結果は変わらないんだから」

その時私は、ちーちゃんの異変に気づいた。そう、「泣いた後」の顔だったのだ。

それでも四葉はちーちゃんのカバンから、強引に答案用紙を取り出し、机の上にバンと広げた。右下の点数部分が何重にも固く三角形で折られてあったが、それがめくれた瞬間、私はビックリした。

「え! 74点って・・・ち、ちーちゃんが?」

「おい、マジかよ!」

驚くのも当然だ。そう、ちーちゃんの英語はいつも90点台なのだ。

「実はその日、体調が悪くて・・・」

「それだけやないやろ? あんなん、エリートのせいやん!」

気が付くと、教室全体がザワザワとこちらを見ていたので、私は二人を落ち着かせて、まずは四葉の傷の手当てをし、何があったのかを聞いた。

事の顛末はこうだった。テスト当日、具合が悪かったちーちゃんは、英語のテストの時間に、トイレに行きたくなったようだ。そして本来なら、試験監督の先生が付き添わないといけなかったが、ちょうどその時の担当は、新卒の男の先生だったらしい。

どうすればいいかアタフタしているのを見て、四葉が「うちがトイレまで連れて行く。あんたはここで黙って座っとれ、新人」とその場を仕切り、ちーちゃんを連れ出したそうだ。いかにも友達想いの四葉らしい行動だ。

しかし、そのタイミングが最悪だったようだ。というのも、四葉らと入れ違いに、テストを作成したエリート先生が教室に入ってきて、解答の注意事項を生徒たちに伝えたようなのである。

そしてそれは、「今回から受験本番を意識して、日本語の文章で答えるところは、しっかりと句点を入れること。そして、日本語として間違っているところも、厳しく減点する」というものだったようだ。

こうして、トイレから入れ違いで戻ってきた四葉とちーちゃんは、その注意事項を知らずに問題を解き進め、句点などで減点された、ということだ。

「だからほら、うちのテスト、見てみいや」

「え! 40点?」

肩の力が一気に抜けた。そんな、40点って・・・最近、どれだけ悪くても、50点のラインだけは絶対に割ることはなかったのに。

「でも、うちは別にええねん。受験はどうでもええからな。でも、ちーちゃんはこれで通信簿の数字が変わって、行ける高校が左右されんねん。うち、猛抗議したったわ! そんなんうちら、聞いとらんて」

「そうしたら何て?」

「その場にいなかったお前たちが悪いって・・・体調管理もテストの一環だって」

ちーちゃんが泣きそうな声で言った。

「マジかよ・・・そんなの、アンフェアじゃん」

「試験監督の先生からは、戻った後に、何も聞かされなかったの?」

「あの新人、抜けとんねん。完全に忘れとったみたいや」

酷い。これは絶対に学校側の不備だ。その場にいなかった生徒に、注意事項がしっかりと伝達されていなかったのだから。しかし、向こうとしても、事を荒立てたくなかったに違いない。

「でも、これだけは絶対に納得できへん。答え、合っとるやん!」

そう言って、四葉は解答用紙の、ある部分を指差した。見ると、それは単語の日本語訳を答える問題だった。そして、解答欄に書かれた「右」という答えが、バツになっていた。

「あれ? これ、合ってんじゃねーの? 『right』の訳は『右』だろ?」

私もそう思った。どうしてバツなの?

「・・・教科書に出てきた『right』は、『正しい』って意味だったから」

「は?」

「その・・・『right』の日本語訳っていっぱいありますよね? 『権利』とか『適切な』とか。だから、何でもOKにしたら、答えが無数になっちゃうから、『試験範囲の教科書に出てきたrightの意味』を答えないといけなかったらしくて。そしてそれも注意事項で言ったみたいで・・・」

そんな。そういったものも含めて、何も伝わっていなかったのか。

「だからうち、めっちゃ抗議したってん。聞いとらんし、それに『右』でも合うとるやろって。でもアイツ、全然考え曲げへん。そんなん、試験範囲をしっかり勉強しとったら、真っ先に『正しい』が出るやろって」

「ひっでえなあ・・・『右』でもいいじゃんかよ」

うん、確かにひどい。ただ、ほんの少しだけ、エリート先生の気持ちも分からなくもない。そう、ここの「right」の意味を「何でもOK」としてしまうと、問題が作れなくなるのだ。

しかし、その時だ。ふと私の心の中に、何かが引っかかった。

そう、私たちの塾でも毎回、子供たちに単語テストをしているが、その解答も「たった一つ」にしている。「どれか一つを書け」とは、なっていないのだ。

また私の中で、モワッと黒い煙が吹き上がった。そうだ、私たちが毎日している指導も、結局このテストと何ら変わりがないではないか。

私がそうやってモヤモヤとしている間、宮田くんはちーちゃんを連れて、自分たちの席へと戻っていった。

うん、やはりここに何か「違和感」がある。私はそれについて深く考えたかったが、ひとまず今は授業中なので、四葉と一緒にテストを振り返ることにした

ざっと見ると、至る所に「減点」の三角印がついていた。基本的に四葉は句点を書かないので、英文和訳問題は軒並み減点の対象になっていた。

そして、その他にも「てにをは」が間違っていたり、『museum』の日本語訳の『博物館』の『博』の字の右上に、点を打ち忘れていたりしていた。

「なあ、由璃ネエ。思うんやけどな、こんなん、別にどうでもええやん。だって英語やで? 英語に句点や漢字があるかいな。もしも英語の文章を書いて、ピリオドがなくてバツになるんは、さすがにうちでも納得するで? あと、大文字やなくて小文字やったとか、スペルが間違うとるとか。でも英語やで?」

「うーん・・・でも、仕方ないかも。日本語だったら、やっぱり句点とか漢字の知識は必要だし」

「何や? 由璃ネエまで、エリートの肩を持つんか?」

「いや、別に肩を持つわけじゃないけど・・・実際、入試で句点とか漢字のミスで減点されるくらいなら、今の内に厳しくしておきたい、というのも分からなくもないかなって」

「だからそんなん、別にどうでもええねん、入試なんて。どうせうち、倍率も1倍切っとるようなところしか受けへんからな。答えに『煉獄さん』描いても、きっと受かんねん」

「ちょ、ちょっと、やめてよね、そんな大冒険」

「でも、うちが英語を勉強してるんは、将来、英語を話せるようになりたいからやねん。っていうか、そのためにうちらはみんな、英語を勉強してんねやろ? そんなら、『句点があるない、漢字が書ける書けない』が何になんねん?『先生、句点打つの忘れたから、漢字が上手く書けなかったから、英語話せませんでした』変やろ? これ」

確かに四葉の言う通りなのかもしれないが、入試は入試である。

「ねえ、よっちゃん、こっちは? ちゃんと『まる』がついているよ」

それは、「My sister read me a book.」という英文の和訳問題だった。そして四葉は、「姉は私に本を読んでくれた。」と書いてあった。漢字だって、間違ってはいない。

「ああ、それな。『姉、もしくは妹』って書かんといけんかったらしい」

「あ、そういうことか。そっか、厳しいね。それも減点なんだ」

「でも由璃ネエ、考えてみい? 妹が姉に本を読むことなんて、あるかいな」

「え?」

「だって、聞いたことあらへんで。姉が妹に、ならあるやろ。妹はまだ字が読めへんパターンや。でも普通、妹は姉に本は読まへんで。どういうシチュエーションやねん。もしもうちが姉やったら、邪魔でしゃーないわ。『向こう行って、一人で読んどれ。何でうちに本を読み聞かすねん、ボケ』言うわ」

「・・・そんなこと、考えたこともなかった」

何だか別の角度から、ポカリと頭を殴られたような気がした。というのも、今までの英語勉強の中で、そんな発想を、一度たりともしたことがないからだ。

そして、次に私が引っ掛かったのは、「Some people speak English in Japan.」という文章の和訳問題だった。四葉はそれを、「いくつかの人々が日本で英語をはなす」と書いていた。

「日本語として、変やてこれも減点や。おい熊田。お前、今まで『いくつかの人々が』、って言ったことがあるか? ないだろ? じゃあ、おかしいって」

「え? そんなこと言われたの?」

「そうや。でも『some』は『いくつかの』やろ? ほんで『people』は『人々』やん。ほんなら二つ合わせて、『いくつかの人々』やん。ええやん、それで。そう習ったんやから」

確かに言い分はよく分かる。そして、四葉に「訳し方のスキル」まで求めるのは、少し酷だ。

ちなみにこの場合、「some people」は「~する人たちがいる」と訳せば、綺麗な日本語訳になる。そのため、「Some people speak English in Japan.」は「日本には英語を話す人たちがいます。」と主語をボカせば、恐らく満点だったろう。

「なー、由璃ネエ。何でうち、英語ができへんのやろ? 今度こそ70点いける、思うたんに。何が足引っ張んてんねん。教えてくれや」

私はもう一度、四葉の答案用紙を見返した。うん、それに関しては、もう、これしかない。

「・・・ねえ、四葉。今回の『国語』のテスト、返ってきた?」

「はあ? 国語? 何でや? 今、英語の話やろ? 関係ないやん」

「いいから答えて。返ってきた? そして、何点だった?」

「・・・うーんと、確か27点やったかな? 記号問題、当たりまくったわ」

ーそれだ、やっぱり。私は確信した。

そう、四葉の英語の点数が低いのは、英語力うんぬん以前に、圧倒的な「国語力不足」が原因なのだ。

その時、私はまた、笠原さんが言っていたことを思い出した。

「そんなものをする前に、まずは『国語力』でしょう。国語ができない子は、揃いも揃って、英語もできません。だからまずは、母国語の基礎をしっかりとやってから、第二外国語を学び始めるべきです」

うん、やはり笠原さんの言う通りだ。というのも、国語力がない上に、英語力をどれだけ載せようとしても、そもそもの日本語運用能力や漢字力などの土台があやふやなのだから、結局四葉のように「頭打ち」になってしまうのだ。

「なー、由璃ネエ、うち、将来、英語が話せるようになるんかなあ?」

「え?」

「ほら、いつも言うとるやろ? うち、話せるようになりたいから、こうやって英語を勉強してんねん。でもな、この勉強って、ホンマに『話せる』に繋がっとんのか? 繋がっとらんから、日本人みんな、大人になってから苦労しとるんちゃうんか?」

「! ・・・」

ど真ん中に、ズバンと直球が入った。

そう、結局のところ、日本人は指導者も大人も含めて、「話せる」に向けてのステップが分かっていないのに、英語教育が何十年以上も走り続けているのだ。

ーその時だ。

「あ、由璃先生。お外、晴れてきた」

菜純ちゃんの声に、私は外に視線を移した。見ると、いつの間にか暗雲が消え、その隙間から、夕陽がひょっこりと顔を出していた。

そしてふとその光から、私は以前、Youtubeで見た、例の小学生のことを思い出した。

そうだ、あの男の子は英語がペラペラだった。しかし、それは「国語力がしっかりしていたから」なのだろうか。

だったら私だって、国語は得意だ。そして、もしも国語のテストがあれば、あのYoutubeの男の子よりも、絶対に点が取れると思う。漢字だって日本語表現だって論理の組み立てだって、さすがにどんな天才小学生にも負けない自信がある。

しかし、英語を「聞く・話す」に関しては、私よりもあの子の方が断然、上だった。では、国語力は英語力とは関係ないことになる。

「どうしたんや、由璃ネエ。深刻な顔して」

そうだ、それにもしも「国語力」が英語で必要なのであれば、英語圏の子供はどうなのだろう。彼らには「国語力」が備わっているのだろうか。いや、そんなわけがない。

私はもう一度、四葉の減点だらけの答案を見返した。

ー何だ、これ。

1-11「熱狂と興奮」

「ーということで、日本人が中高6年英語を勉強しても話せないのは、学校の先生が、英語を話せないからです」

ついに英語研修が始まり、予定通り第一回目の今日は、「どうして日本人は中高6年間も英語を勉強しているのに、話せるようにならないのか」についてのプレゼンテーション大会が、ここ東京本社の研修室にて行われている。

参加しているのは埼玉県全域の約30校舎のスタッフで、全員が今後始まる、オンライン英会話コーディネーターの対象者だ。

とにかく私たちの塾は、こういった研修ものが多い。教務研修、保護者面談研修、教育業界研修、対生徒コミュニケーション研修など、よくここまで考えつくな、と感心するほどである。

そして、出席するだけなら別に構わないのだが、その度に課題や試験などがあるので、休みの日もスタッフは、その準備に追われることになる。そのため、スッキリと休めず、肉体的・精神的に崩れていく者も多い。

そして、私と同じテーブルに座る、同期で同年代の桜井竜哉くんは、そのせいもあってか、朝からずっと不機嫌だった。

「・・・チッ、くっだらねえ」

プレゼンテーション中、こうして何度もそう呟くので、私はハラハラしっ放しだった。

というのも、今日は教務部のトップ・黒川友則さんを始めとして、私がアルバイト時代にお世話になった隣エリアのブロック長の松尾茜さん、そして今の私の直属のブロック長の橋詰徹さんなど、沢山の上層部が出席しているからである。もしも桜井くんの声が、前方に座る彼らに聞こえたら、大問題になるだろう。

そして、その中でも、橋詰さんは激しい性格で有名だ。少しでも会社にネガティブな発言や態度をしようものなら、徹底的に弾圧をかけてくる。裏では「軍曹」とも呼ばれているくらいだ。そのため、血気盛んな桜井くんは入社以来、橋詰さんにずっと目をつけられている。

ちなみに、桜井くんは以前、ある大手の英会話スクールでスタッフをやっていたらしい。しかし、上司と衝突してしまい、ここ「ヘッドスタート」に転職してきた。

桜井くんの第一印象は、学校にいた、不良グループのトップのようだった。髪型もほぼオールバックで、いつも柑橘系の香水の匂いがする。背も高く、一見、近寄りがたいが、実際に話してみると、発言に芯が通っており、私は段々と好感を持つようになった。

しかし、ある日の研修帰りだ。いきなり彼から告白されてから、良好だった私たちの関係は一気に崩れた。そう、私は桜井くんに好感を持ってはいたが、恋愛対象としては見ていなかったのである。

そしてその後、何度かデートにも誘われたが、やはり私は断ってしまった。こうして、私の方から連絡を取ることはなくなり、向こうも私に気を使って、距離を取ってくれた。

「以上、越谷校、鈴木遼太郎のプレゼンを終了いたします。ご清聴頂き、誠にありがとうございました!」

盛大な拍手が起こり、話者が入れ替わった。

そしてその間、書記係のスタッフが、壇上のホワイトボードに、話者の論点をサラサラと書き写した。

ちなみに私は二番手だったので、もうプレゼンは終えている。テーマは「日本人には、英語を話す環境がないから」の切り口で仕上げた。

本当は、「日本人は指導者も含めて、大人全員が『英語を話せるに向けてのステップ』が全く分かっていなく、そこにコンセンサスも取れていないので、何代にも渡って、『話せない遺伝子』が受け継がれている」と言いたかったが、それだと笠原さんと議論になりそうだったので、当たり障りのない切り口にした。どうせここで本質に触れられたとしても、何の意味もない。

私はホワイトボードに書かれた、「日本人が英語を話せない理由」をぼんやりと眺めた。

・カタカナ発音が問題
・英語を話す環境がないから
・英語を話す必要性がないから
・英語を始めるのが遅すぎるから
・圧倒的に学習の時間が足りていないから
・英語嫌いや英語アレルギーのせい
・ネイティブ講師の数、授業が少ないから
・そもそも、「話す内容」がないから
・受験にスピーキングがないから
・使わない英文ばかりで、スラングなどを習っていないから
・教師が英語を話せないから
・間違うことを恐れているから

正直なところ、どれもこれも、どこかで聞いた理由だ。恐らくみんな、ネットや書籍から拾ってきて、適当に仕上げたのだろう。

しかし、ここにはあえて書かれなかったが、先ほど終えた、桜井くんのプレゼンテーションは、衝撃的だった。

ー「日本人はみんな、テストのためだけに英語を勉強しているからッス」

これには上層部も含め、一同、騒然となった。

そして、桜井くんは多くは説明せず、「日本人はテストのために英語を勉強し、そこで終わっている。そして、周りも英語を『金づる』としか見ていない」と続けて、わずか1分ほどでプレゼンテーションを終えたのだ。

さすがにこれは、後で社内でも問題になるだろう。発言時間も少なかったし、その説明すらなかった。後日、上層部から桜井くんに、何らかの処分がくだるはずだ。

ただ、桜井くんはそういうことはモノともしない。本来、そういう性分なので、上層部も諦めているところがある。そのため恐らく今後、この会社で彼の昇進は永久にない。今でも桜井くんがここで働いているのが、奇跡に近い。

しかし、だ。桜井くんの「英語を『金づる』としか見ていない」の発言の意図は、何なのだろう。

ちなみに桜井くんは、「俺はあまり英語を話せない」と、自分でも言っていた。そう、これは本人から直接聞いたのだが、別に英会話スクールのスタッフは、そこまで英語を話せる必要はないらしい。というのも、業務はあくまで日本人との接客で、英語を話すのは、ネイティブ講師たちだけで十分回るそうである。

ひとまず今日の研修終わり、桜井くん本人から、先ほどの発言の意図を直接聞いてみよう。そう考えていた、ちょうどその時だった。最後の話者が発表を終え、黒川さんが立ち上がった。

「さて、皆さん、今日は長時間、お疲れ様でしたー。こうして英語教育の問題点を色々と話し合う機会はあまりなかったので、今日はとても有意義な時間だったのではないか、と思っておりまーす」

また桜井くんが、また「チッ」と小さく舌打ちした。

「それでは今後の英語研修の流れについて、説明していきまーす」

私はその説明を聞いていると、段々と心が鉛のように重くなっていくのを感じた。というのも研修は今後、隔週開催で、次回からはネイティブ講師も加わり、英会話のグループレッスンが行われるらしいのだ。

「そして、今後ですが、TOEICも個人的に受けに行ってもらいまーす。もちろん費用は、会社で負担致しますので、ご心配しないように」

スタッフの顔が、一斉に曇ったのが分かった。そうなるのでは、と誰もが予想はしていたものの、こうして直接アナウンスをされると、まるで実刑判決を受けた被告の気分である。

ちなみにTOEICには「話す・書く」に特化したものもあるが、ここでのTOEICは、よくある「読む・聞く」の方である。

そして、次の黒川さんの発言で、室内は一斉にザワザワとなった。そう、黒川さんはこう言ったのだ。

ー「ただし、皆さん。一番初めに受けるTOEICのテストは、本気を出さないようにして下さいねー」

その瞬間、桜井くんの目つきが、ギロリと変わった。

前方に座っていたスタッフが、「どうしてですか?」と黒川さんに尋ねると、

「実は今後、私たちの英会話レッスンを受け持ってくれる業者さんからお願いを受けましてー。そこは今後、TOEICを目指す生徒さん・企業さんを、積極的にマーケティングしていきたいそうです。そのため、『英会話レッスンと比例して、TOEICのスコアも上がりました』という、成功サンプルがどうしても欲しいそうで。そしてその対象が、私たち『ヘッドスタート』になりましたー」

くっだらない! 私は心の中で叫んだ。

「向こうは『何点取ったか』ではなくて、『何点アップしたか』が欲しいそうです。それだと、どんな層にもアピールができますからねー。そして、もちろんその代わりですが、私たちの英会話レッスンも、かなり安く請け負ってくれることになりましたー。そのため、私たちが受けるTOEICのスタートは、なるべく落としておいた方がいいでしょう。ただ、もちろん、一番初めが低すぎると、そもそものスタッフの英語レベルが疑われてしまいますので、まずは自分の実力よりもやや抑えてもらって、今後、どんどん上げていってもらいまーす。まあ、理想としましては、半年間で600点台から900点台にまで推移する感じでしょうかねー」

「まあ、モノは何でも使いようですねー」と、ヘラヘラ笑う、黒川さんや上層部たちを見ながら、私は思わずグッと拳を握った。恐らくその場にいたスタッフも全員、はらわたが煮えくり返るような気持ちだっただろう。

「そして、次回の英会話レッスンのテーマは『英語で自己紹介』でーす。ひとまず業者さんからもらった、『自己紹介で使える便利フレーズ集』を、後日メールで送りますので、それを覚えてきて下さーい」

もういいって、そういうのは。フレーズ集なら、家にいっぱいある。覚えられないの。そして覚えたところで、口から出ないの。すぐに忘れるの。

その時また、桜井くんが「クッソ!」と呟いた。しかし、その声が思った以上に響き、私は「ヤバイ!」と思った。

すると案の定、それに気付いた橋詰さんが「バン!」と机に手を叩いて、

「おい、桜井! お前、今朝からその態度は一体、何なんだ!」

と、声を荒げて立ち上がった。そう、やはり、初めから橋詰さんは気付いていたのだ。

「何がですか? 俺は別に悪いことなんか、何もしてないッスよ」

ヤバい、桜井くん、完全に目が据(す)わっている。軍曹と闘うつもりだ。

「何だと? 貴様、ずっと舌打ちばっかしてんじゃねーか! 言いたいことがあれば、直接口に出して言えばいいだろう? 一体、何が不満なんだ! 感謝すべきだろうが!」

「ハッ、何でうちらがあんたらに感謝しないといけないんスか? 何やりたいんスか? うちらにTOEICを受けさせて、どうなって欲しいんスか?」

「社員の英語力が上がれば、必然的に子供たちへの指導も上手くなるだろうが。子供たちの英語力のためだ。それにTOEICは、資格や学歴と一緒だ。スコアさえあれば、日本では『英語ができる』とみなされるんだ。社員が高いスコアを持っていれば、保護者からの信頼だって得られるだろうが。何でこんな簡単なことを、いちいち説明しないといけないんだ?」

「くっだらねえ。それでスコアだけ良くて、片言しか話せないままで、英語が逆にコンプレックスになっていた人を、前に働いていた英会話スクールで散々見てきましたよ? いいんスか、うちの社員がそんなことになっても?」

「だから、TOEICだけじゃなくて、こうして英会話のレッスンもつけてやるって言っているんじゃないか?」

「だから何で『TOEICのための英語』と『話すための英語』の二つを同時にやんなきゃいけないんスか? 『誰のための、何のための英語』を目指しているんスか?」

「何ィ?」

「何で大人も指導者も、資格試験のスコアばっか追ってるんスか? そうしたら、子供に教えられる英語は、資格試験のスキルになっちゃいますよ?」

「スコアは大事だ。いいか、桜井? この国はな、スコアで回ってんだよ。そして、子供もそれで受験が決まるんだ。追って何が悪い? 追わせて何が悪い?」

「じゃあ、スコアだけ追わせて、中身が伴ってこなかった場合、責任を取れるんスか? 子供たちだってスコアさえ取れれば、中身も伴ってくるって、英語も話せるようになるって信じてますよ? いいんスか? 頑張ってスコアを取った後に、『あくまでスコアと話せるは、別ですからねー』って、言い逃がれんのは、もうなしッスよ?」

その言葉に私は、ハッとした。そう、正しく四葉は、このケースだ。

「言われたんや、エリートに。うちが将来、英語ペラッペラに話せるようになりたい、て教室で言うたら、『お前なんかがなれるか、アホ。まずは一回でもテストで70点超えてから、そんな発言しろ』って」

「だから次の中間、絶対に70点以上、取ったるわ」

そう、四葉はスコアを信じているのだ。70点さえ取れれば、英語が話せるようになる、と。

そして、それは昔の私もそうだった。TOEICのスコアさえ上がれば、英語が話せるようになると思って頑張り、そして裏切られた。

「スコアはスコアっしょ。話せるは話せるっしょ。それ以上でもそれ以下でもないっしょ。目指したい奴が目指せばいいっしょ? スコアと話せるをごっちゃにして、人を騙すことの方が遥かに卑怯っしょ。俺はもう、スコアに踊らされていくのを、見たくねーんスよ。うちら社員にやらせるんなら、どっちかにして下さいよ!」

「何だと、貴様!」

「それに仮に社員がTOEICを900点以上取ったところで、うちらに通っている塾のほとんどは、小学生とか中学生ッスよ? 『This is a pen.』とかっしょ? そんな高い英語のスキルなんか、あいつらに要らないじゃないスか? うちらが高いスコア取れたら、あいつらが英語を話せるようになるんスか? そんなの、社員の生活を削ってまで、労力をかけることッスか? そんなことより、やらなきゃいけないのは、『どう教えるか』じゃないスか? そうしないと、あいつらだって報われないじゃないスか? うちらみたいに、スコアしか取れない、空っぽの人間になっちまうかもしれないじゃないスか? 本来『どう教えるか』を考えるのが、あんたら上層部や教務部の仕事っしょ? それなのに、ただテストや便利フレーズや外国人を用意したりして、『はいどうぞ、あとは頑張って』って、なに仕事をしたつもりになってるんスか? 何にもやってないじゃないスか?」

「てっ、てっ、てめえ、桜井! き、貴様、じ、自分が言ってることが分かってんのか? く、く、クビだ! お前なんか!」

「いいよ、辞めてやるよ、こんなクソみてえな会社。どうせこんなことやらされてたら、いずれは辞める運命だったんだからな。早いほうが清々するぜ。今日で完全に愛想が尽きた。こんな塾に通う子供だって、可哀想で仕方ねーぜ」

「きっ、貴様! こっ、これ以上、喋るなぁ!」

「スコアがどうとか資格がどうとか、国内だけで英語を語ってんじゃねーよ。子供や社員に英語を使って、どうさせてーのか、しっかりビジョンを持ってから、教育語りなよ。せめて塾会社のトップで働いてんならな」

そう言って桜井くんは、自分の荷物を乱暴にカバンに詰め込んで、ガタリと立ち上がった。

そして去り際、私に向かって小さな声で「元気でな」と微笑み、颯爽と研修室を後にした。

私を含め、恐らくその場にいたスタッフ全員が、心からスカッとした気持ちになっていたはずだ。「よく、俺らの気持ちを言葉にしてくれた。ありがとう、桜井。そして『あばよ』」、と。中には嬉しくて、すすり泣いているスタッフもいた。

そして私はもう、桜井くんとは二度と会わないんだろうな、というぼんやりとした予感を抱いていた。これ以上にない、桜井くんらしい、「美しい別れ」だった。そして、ほんのりと残された柑橘系の匂いがもう二度と嗅げないのかと思うと、抱き締めたいくらいに愛おしくなった。

こうして、微妙な空気に包まれた研修室だったが、黒川さんが、

「さあさあ。今のは何にも気にしないでおきましょうね。ただ単に、あいつは研修をやりたくなかっただけなんですよ。ああいうのをね、社会では『ただの根性なし』って言うんです。どうせどこに勤めたところで、すぐに辞めるでしょうねー」

と、わざと飄々とした声でその場を収拾し、上層部同士でヘラヘラ笑い合った。

「さて、それでは、今日もいつも通り、『昌和』で締めたいと思いまーす。一同起立!」

黒川さんの声で、私たち社員は、まるで軍隊のようにガタリと立ち上がった。

「昌和! 一つ、私たちは子供たちに、最高の教育サービスを提供し、光溢れる人生を提供します! 一つ、私たちはー」

こうやって研修終わりに、笑顔で一斉に社訓を叫ぶ「昌和」締めが、この会社のルールだ。

しかし、私は声を張りながら、自分の耳に、「日本語の抜け殻」だけが、虚しく響いてきた。そうだ、空っぽだ、これは。桜井くんの言葉に比べたら、中身が、何にもない。人形やロボットと一緒だ、私は。

1-12「彼の名は」

「しっかし、桜井のヤツ、とんでもないことをしてくれたよ」

研修終わり、私は松尾さんと一緒に、本社近くのカフェに立ち寄っていた。

元々私がアルバイト時代、教室長として私の面倒をみてくれた松尾さんは、この会社で、私が一番話しやすい上司である。そして、松尾さんも私のことを妹のように可愛がってくれているので、こうして研修などで会えば、必ずお茶をすることになっていた。

「あれだけ全部ぶちまけられたら、上層部のメンツが丸潰れだ。絶対にあいつに釣られて、退職を考える奴だって出てくる」

「・・・やっぱり、クビですよね」

「当たり前だ。何より、アイツがその道を選んだんだ。歯向かった時点で、もう覚悟もしていただろう」

そう言って、松尾さんはストローも使わずに、グビグビとアイスコーヒーを喉元に流し込んだ。やはり上層部の松尾さんの口からそう言われると、事実が重く響いてくる。

ちなみに松尾さんは42歳で、結婚はまだしていない。そういうものとは無縁の、バリバリの仕事ウーマンだ。そして、人事部も兼ねており、よく採用時の面接官も務める。

そして聞くところによると、桜井くんの採用は、松尾さんの独断だったらしい。

「うちにはああいう、本音を言える社員が一人、必要だと思ったんだよ。ほら、うちの社員は、意見を持たない兵隊ばっかりだろう? だから、桜井を見た時、コイツならもしかして『アイツの代わりになれるかも』、と思ったんだ」

「アイツの代わり? 誰ですか?」

「昔、いたんだよ。ちょっとした『希望の星』がな。桜井とは真逆のタイプだったけど、会社を正しい方向に導けるとしたら、もうアイツしかいなかった。ちょうど、笠原の下で働いていた」

「え? 笠原さんの、下? ですか?」

ーそれは、初めて聞いた話だった。

今から数年前、違う校舎で教室長だった笠原さんは、全校舎の中で月間営業成績1位を取り続け、ブロック長への昇進目前だったらしい。

というのもそれは、あるゴールデン・ルーキー(最強の新入社員)を部下に持ったからである。その社員は、生徒や保護者からも抜群の信頼を得て、また教えるのも上手く、校舎は「地域で一番成績の上がる塾」として、一躍評判になったようだ。

しかし、だ。その社員は暫くして、いきなり退職届を提出したのだ。しかもそれは、「学期中」のことだったそうだ。

ちなみに私たちの塾は、学校の学期と連動しており、社員はもちろん、アルバイト大学生ですら、学期中の退職は原則、認められない。というのも、先生が学期中にコロコロと変わってしまえば、指導方針にバラつきが出て、生徒の学力にも悪影響が出るからだ。

そのため、社員が学期途中で退職するのは、異例中の異例である。そして、もしもそういう部下を出してしまった場合、上司の責任にもなってくる。しかも、それが「ゴールデン・ルーキー」だったのであれば、社内での笠原さんへの風当たりの強さは、相当なものだっただろう。

そうか、そういうことが過去にあったのなら、笠原さんが私たち部下に対して、神経質になるのも分かる気がする。

しかし、だ。どうしてその社員さんは、学期途中で退職したのだろう。

「教え方について、自信が持てなくなったんだと」

「え?」

「『英語の指導方法が分からなくなりました。もう子供の隣に座れません。だから、辞めさせて下さい』それが退職の理由だ」

何だ、その理由は。私たちの会社で辞めていく人間は、「体力が続かなくなった」や「時間的拘束が長い」などの理由がほとんどである。教え方を理由に辞めた社員など、今までに聞いたことがない。そして、なぜ「英語」なんだろう。

私はもっと深く、その人のことについて聞こうと思ったが、ちょうどその時、私たちの隣に、大きな荷物を持った2人の外国人カップルが座り、楽しげに会話を始めたので、話が途切れてしまった。

「△※○×□÷△☆□○+※※⇔/○☆△※」
「※□△×△※○××△÷×※☆□○※△×/☆」

英語ではない。雰囲気からして、ヨーロッパからの旅行者だろうか。

しかし、よくこんな、私たちからしたら「意味不明な言葉」を、正確に理解できるな、と感心してしまう。

「本当に最近、増えてきたな、外国人も」

周りを見回しながら、松尾さんはそう言った。本当にその通りだ。店内を見渡すと、この2人以外にもチラホラと見える。

「ほら、あっちは手話だぞ」

松尾さんが示す先を見ると、外のテラス席で、年老いた男女が忙しなく手を動かしていた。

本当にいつも感心してしまうが、手話の話者の「手の動き」は速い。よく手と目だけで、あんなにも不自由なく、意思疎通ができるものだ。

そしてふと次に、斜め前のテーブルに座る、女子高生たちが視線に入った。参考書を広げ、黙々と勉強をしている。英文法書があったので、教科は英語だろう。

私はその女子高生たちと、隣の外国人カップル、そして外の老夫婦を見比べた。扱っているのは、同じ「言語」であるはずなのに、女子高生たちには、何かが決定的に「欠けている」ような気がした。

「どうした、由璃? 深刻な顔して」

「・・・ねえ、松尾さん。よく言いません? 中学英語さえできれば、英語は話せるって」

「何だ? 英語の話か?」

「ええ。ハウツー本とかを読んでいたら、やっぱり上級者は、みんなそう言っているんですよね。あと、有名人のスピーチも、本当にシンプルな英語しか使っていないとか」

「ああ、言うなあ、それは」

「じゃあ・・・あそこの高校生たちって、今、何をやっているんでしょう?」

「何?」

「だって、あの子たち、中学英語は終わっているんですよね? じゃあ今、あの子たちが必死に頑張っているのは、何のための勉強なんですか?」

「そりゃあ、『受験のための勉強』だろう」

「つまりそれは、『話せる』とは全くの別、ってことですよね?」

「全くの別ってことはないだろう。同じ英語なんだからな」

「うーん・・・何だか、そこが見えないんですよね。だって、中学英語で話せるなら、中学卒業時点で、話せる子が出てきてもいいじゃないですか? でも、聞いたことがありませんよね? そして高校生で、英語を話せる子もほとんどいません。そして、大人になって勉強を継続しても、日本人は国内では話せるようにならないんです。そして、話せるようになるために、大人はまた『話せるようにならなかった中学英語』をやり直して、失敗を繰り返している。何なんでしょうか、この現象は?」

「そりゃあ・・・ネイティブと話していないからだろう?」

「つまり、アウトプットの問題ですか? インプットはもう正常に終わっていて、外国人と話す機会さえ増やせば、解決するんでしょうか?」

それから私は松尾さんに、自分が今まで英会話スクールやオンラインレッスンに失敗し続けてきたことを伝えた。

すると、だ。なんと松尾さんも今まで、英会話スクールを3軒ハシゴして、結局全部失敗に終わったらしいのだ。

「まあ、私の場合、飽き性だからな。英語を話せるようになりたいと思って、その場の勢いで契約するものの、すぐに行かなくなるんだ。でも、今度は違うぞ。ほら、見ろ」

そう言って、松尾さんはカバンの中からドサリと、大量の本をテーブルの上にぶちまけた。それらは、「中学英語で魔法のように話せる!」「イメージとマンガで分かる、やり直し英文法」「ここが変だよ、日本人の笑われる英語」などという本だった。

「ど、どうしたんですか? これ?」

「桜井の奴、『どうせ上層部は英会話の勉強なんかしないんでしょ?』って言っていたけど、フン、私は違うぞ。むしろ私たちが話せなければ、部下への示しもつかないだろう? だから、私は今、こうしてまた一からやり直しているんだ。まあ、全部経費で落としたんだがな」

私はそれらの本を手に取りながら、少し嬉しくなった。そう、やはり上層部の中で、松尾さんだけは、部下に一方的に押し付けたりはしない。

しかし、だ。やはり日本の英語は「カオス」である。一体、どの本をどれだけやったら、英語が話せるようになるのだろう。

「・・・私、思うんですけど、英語って宗教みたいですよね」

「宗教?」

「はい。意見が乱立し過ぎていて。例えば『学校英語は意味がない』って人もいれば、『学校で習ったものが大事だ』って人もいますし、『赤ちゃんは文法を知らないから、学ばなくていい』って人もいれば、『いや、母国語と第二言語は違う』って人もいます」

「確かになー」

「あと、『学校で全くできなかった元・英語落ちこぼれのボクが、現地に住んで、ペラペラになりました』みたいなものも沢山あって。そして、そのやり方を知ろうと思ったら、それは有料なんです。そしてその教義を買っても、結局幸せになれなくて、、、、また私たちは、違う教祖様を探して、延々と旅を続けているんです」

そう、こうして色んなものに手を出し、結局、自分の手元には何も残らず、お金だけを散財しているのが日本人だ。

「本当に不思議なんです。中学英語はできるんです。でも、いざ話せる機会を作っても、それこそ中学生レベル以下の英語しか話せない。これって何なんですか? 実は私、中学英語ができていないんですか?」

「いや、でもテストを受けたら、100点だって取れるだろう?」

確かに取れる。ただ、それは「話せる」とは、関係がないのだ。再び私は、目の前の女子高生たちに視線を戻した。この勉強は、どうして「話せる」に繋がっていかないのだろう。

「それを今日、こうしてみんなで出し合ったんじゃないか」

・・・あのプレゼンの中に果たして、「正解」があったのだろうか。

「まあ、自分が学生だった時の先生が、もっと英語を話せるようだったならな、と思うよ」

「・・・関係あるんですか? それ」

「何?」

「今日だってみんな、そんな意見出していましたけど、私、少人数制の英会話スクールに通っていたんですよ? もちろん講師は毎回、英語がペラペラなネイティブでした。でも、私の英語は、何の変化もなかったんです」

「それは、回数が足りなかったんじゃないのか?」

「週1~2回で、半年間くらい通いましたけど?」

そう、それほど多くはないとしても、変化が出るには十分な回数だろう。そして、回数を増やしても意味がないと思ったから、ドロップアウトしたのだ。

ーその時だ。

私たちの耳に、どこかから、英語が聞こえてきた。見ると、なんと先ほどのカフェの受付の人だった。外国人のお客さん相手に、流暢な英語で接客している

「What would you like today?」
「Do you have hot chocolate?」
「Yes, which size would you like? Medium or large?」

すごい。先ほど、私たちと普通に日本語で接客していたのに、まさかの英語話者だったとは。帰国子女のアルバイト大学生だろうか。流暢さはもちろん、発音だって上手い。

「どうした、由璃? 今、何を考えている?」

「その・・・悔しいんです。学生時代、あれだけ必死にやってきたものが、全然、『話せる』に繋がらなくて。そして、受験の後に何度もやり直しているのにも、腹が立って。もう英語に関しては、何を信じたらいいのか」

私はテーブルの上の「ここが変だよ、日本人の笑われる英語」という本を見つめた。

「何だか、全然違う山に登っているみたいで。私たちの先に、本当に『英語の山頂』はあるんでしょうか?」

「だから今、受験にスピーキングを入れようとしているんだろう? 要は今までやってきたのは大量のインプットで、アウトプットが一切試されなかった。だからそれを民間試験を使って解決しよう、となったんじゃないか」

「じゃあ、私たちは、受験制度の被害者だった。もしも、受験にスピーキングがあったら、今頃話せるようになっていた、ってことですか?」

松尾さんが、「うーん・・・」と唸った。そう、やはりそんな単純な話でもない気がする。

「Excuse me, could you tell me where the bathroom is?」
「It’s over there, right next to the smoking area.」

また、あの受付の人と、先ほどの外国人の会話が聞こえてきた。丸暗記などではなく、どんどん言葉を自由に紡いでいるのが分かる。

「じゃあ、メンタルに原因があるっていうのは、由璃はどう思うんだ? ほら、みんなこう言っているじゃないか」

そう言って、松尾さんが次に広げたのは、あるネイティブ講師の書いた、ハウツー本だった。そしてそこには、「日本人は、間違うことを恐れすぎているから話せない。どんどん間違えよう!」と書いてあった。

「でも私、別に間違えることなんか、全然怖くないんです。特に最近受けたオンラインレッスンは、周りの目も気にしませんし、相手だってモニター越しですよ? 怖いとかじゃなくて、ただ単に、言葉が出なかったんです」

そう、私が話せなかったのは、ただ単に日本語が英語に、切り替えられなかったのだ。

「たとえば私、『傘をさす』が英語で言えなかったんです。それで、フリーズしちゃって。で、何とかジェスチャーで伝えたら、『Oh, You opened your umbrella?』って言われて、『あ、この場合、openでいいんだ』って。だって、『open』は『~を開ける』じゃないですか? でも、『傘を開ける』って言いませんよね?」

「ふーん、傘をさすのは『open』を使うのか。私も初めて知ったな」

「結局なんですが、私たちが英語を話せないのは、『日本語が英語にならない』っていう、『物理的な問題』なんじゃないでしょうか? そしてそれが、ネイティブには『間違いを恐れている』って、映っているだけのような気がして」

そう、少なくとも、傘をさすことが出なかったのは、メンタルのせいではない。

「じゃあやっぱり、これをやんなきゃいけないんだろうな」

そう言って、松尾さんが広げたのは、英作文テキストだった。左のページに日本語、そして右に英語がビッシリと書いてある。そう、やはりこれが、日本人にとって「最後の砦」なのだろう。

「じゃあ、もしも英作文に、挫折しちゃったら、どうなるんですか?」

「それはもう、英会話自体、諦めるしかないんだろうな」

そんな・・・英語を話せるには、そんな「辛い道」しか残されていないのか。

受験までひたすら「英語→日本語」の切り替えを行い、受験が終わった途端、今度は「日本語→英語」と、逆方向へ走らないといけないなんて。

しかし、だ。やはり英作文をすると、「Why did you come to Japan?」のように、一見日本語では正しそうでも、「ネイティブはこう言うよ、その英語は変だよ」という、訂正がビシバシ入ってくるのだ。

加えて、「What brings you to Japan?」みたいな文章は、日本語発想からでは紡げない。つまり、ここはフレーズ暗記でいくしかない。もう、方法論がグチャグチャだ。

そして、もうこの時点で、四葉は100%、英語が話せないことになってしまう。そう、なぜならあの子は「英語→日本語」すら、上手くいかないのだ。「折り返し地点」にも到達できない子が、復路に入れるわけがないではないか。

そして、これは別に四葉だけではない。塾には「英語→日本語」にできない子は沢山いる。

きっと彼らはみんな、英語を話せないまま、人生を終えることになるだろう。そして、仮に折り返し地点に到達できたとしても、往路で一人残らず、バタバタと死んでしまうはずだ。何しろ、私でさえギブアップしたわけだから。

「お、おい、由璃。そんなに落ち込むなよ。ま、まだ、手はあるぞ」

「・・・何ですか、まだある手って?」

自分でも思った以上に、低い声が出た。

すると松尾さんは、あるハウツー本を広げた。それは、「英語は子供のようにシンプルに考えれば、ペラペラ話せる!」という本だった。

「ほら、たとえば『日本経済は今、危機に瀕している』という日本語を英語にしようとしたら、『日本経済や危機に瀕するって、英語で何?』ってなるだろう? これを、『日本は貧しい』とシンプルに言い変えて、『Japan is poor.』にする。こうやって、どんどん簡単な文章に言い換えていけば、英語も楽に話せるんじゃないか?」

「あの・・・逆に、難しくありません? それって」

「え?」

「だってそれってつまり、『難解な日本語→簡単な日本語→英語』って、英語を口にするまで、頭の中で『三段階も踏まないといけなくなる』んですよね? だったら私からすると、『日本経済』や『危機に瀕する』に当たる英語を覚えて切り替えちゃった方が楽なんですよ。二段階で済んじゃいますから。そんな、『子供のようにシンプルに』って簡単に言いますけど、もう私は大人なんで、その発想が逆に難しくて」

そう、それは私にとって、「後出しジャンケン」と変わらない。「ほら、こんな簡単に言えるでしょう?」と言われても、そんな発想を今までに習ったことがないのだ。

「そして今後、私たちスタッフは、TOEICだってやっていかないといけないんですよね? それって、『recession:不況』みたいな、難解な単語を覚えていくってことですよ?『英語→日本語』は、難解なものばかり詰め込んでいって、『日本語→英語』の時はその発想を殺し、子供のようにシンプルに考えるって、そんな都合よくできるんですか?」

そう、結局今まで私たちは「英語→日本語」への高速変換をしてきたので、英語を紡ぐ時も「日本語→英語」への高速変換をするのが、私たちにとって一番楽なのだ。

「ハアー・・・」

大きなため息が出た。何とかしたいのだが、解決方法が、見つからない。私が迷い込んだダンジョンの出口はどこにあるのだろう。

「・・・You should think in English.」

ポツリと松尾さんがそう呟いたので、私は「え?」と顔を上げた。

「いや、そういえばな、どこかの英会話スクールで、あるネイティブ講師から、そう言われたことがあるんだ。『アカネはいつも、日本語で考えているから話せないんだ。英語で考えろ』って。ふと今、それを思い出した」

「You should・・・think in English・・・」

そう言えば、私も以前、英会話スクールで、講師にそんなことを言われたことがあった。ただ、それまでに聞いたこともないアドバイスだったので、その時は適当に流してしまった。

そしてふと私は、例のYoutubeの少年のことを思った。そう、あの子は「日本語から英語に切り替える、「変換の間」が全く見えなかった。

「なあ、由璃ネエ。うちなあ、心の底から思うねんけどな、英語を話す外国人ってどんな頭ん中しとんのやろな。みんな天才ちゃうか」

「ネイティブの頭の中、か・・・」

私はその瞬間、何か「真実に触れた」ような気がした。スコップで土を掘っていたら、「ガツン」と宝箱に当たったような。

その瞬間、不意に松尾さんが「そうだ!」と大声を上げたので、私はビクリとなった。

「ど、どうしたんですか、松尾さん、いきなり」

「いや、今、気付いた。こんなことなら、初めっから、アイツに聞いておけばよかったんだ」

「え? アイツ? 誰のことですか?」

「うちの昔のスタッフだ。もう辞めて、今は英会話教室で働いている。多分、アイツなら、『納得できる答え』を持っているんじゃないかな。もう、英語だってペラペラになっているはずだし」

「へー、そんな人がいるんですか」

正直なところ、誰に聞いたところで一緒だと思う。

「ちなみに、ソイツが『聖典』の制作者だ」

「はい?」

「だから、全校舎に回っている教務マニュアルがあるだろ? あれを作った張本人だ」

「え? あれって、教務部全体で作ったんじゃないんですか?」

「違う。あれは教務部は全く関与していない。全部、ソイツ一人が作ったんだ」

「えええ! あんな膨大な量を・・・ですか?」

そんな馬鹿な。確か『聖典』は、100ページ以上あったはずだ。それをたった一人で、しかも教務部ではない、一校舎スタッフが作ったなんて

「ある日、『これ、作ってみたんで、よかったら全社に共有して下さい』って、研修終わりに、ポンと教務部に提出されたらしい。黒川さんがそれを読んで、えらく感心してな。その翌月には全校舎に配布となった」

何と、あのプライドの高い黒川さんが、一スタッフの意向を聞いたのか。いや、でも、その気持ちも分かる。それくらい、あの「聖典」はクオリティが高い。

「なあ、由璃。今日、これから時間があるか?」

「え? あ、はい。今日は、直帰の許可が出てるんで」

「なら、今からソイツに会いに行ってみないか? 話していたら、私も久しぶりに会いたくなってきた。そういえばここ数年、会ってもいないしな」

「え! そんな、いきなり行って、会えるんですか?」

「ああ。向こうも多分、喜ぶと思うぞ。そういう奴だ。それに私はアイツに『貸し』がある。何を言っても大丈夫だ。どうだ、行くか? 場所もここから電車一本で行ける。30分くらいだ」

「あ、はい・・・それじゃあ、是非。お話を聞けるのであれば」

まさか、あの「聖典」の制作者に会えるなんて。一体、どんな人なんだろう。

松尾さんは「よし、じゃあ決まりだ」と言って、立ち上がり、出口へ向かった。こういう時の松尾さんの行動は速い。

私は二人分のトレーと飲み残しを返却口に戻し、松尾さんの後を追った。外に出ると、先程より若干気温が下がっている気がした。

するとふと、「あ、そう言えば」と、松尾さんが振り返った。

「今からそいつに会いに行くことを、笠原にだけは絶対に言うんじゃないぞ」

「え? 笠原さんに? どうして、ですか?」

「だから、初めに言っただろう? 笠原の下にはその昔、『ゴールデン・ルーキー』がいて、ソイツは学期の途中に退職した、って」

「え・・・え・・・? まさかその人が、『英語の教え方』について悩んで辞めたっていう、『希望の星』ですか?」

「そうだ、今から会いに行くのは、ソイツだ。だから、笠原はソイツのことを心の底から憎んでいる。英語についてアドバイスをもらいに行ってきました、なんて言ったら、機嫌を悪くするのは目に見えている。だから、名前すら口にするなよ」

私は松尾さんが言いたいことが分かった。もしも私がその人と接触したのを知ると、笠原さんは色々と詮索してくるだろう。どうして会ったか、何を話したか、誰が紹介したか。そうすると、きっと松尾さんとの関係もこじれるかもしれない。

うん、ここは、私が黙っていた方が無難だ。私は「分かりました、気を付けます」と返した。

「あ、でも何なんですか、さっき言った『貸し』って?」
「いや、ちょっと会社にはオフレコでな。数年前、ある中学校の先生のテストを渡したんだ。何に使ったかは聞いてないがな」

へー、妙な貸しがあるものだ。

「それで、何とおっしゃるんですか。その人のお名前は?」

ー「有紀」

「え?」

「名前は、葛城有紀。みんなからは、『有紀君』と呼ばれていた」

「葛城、有紀・・・有紀君」

ーその瞬間だ。

まるで見計らったように、私たちの間を、一陣の風がサーッと走り抜けた。何かが、動く。私はすぐ目の前に、「運命の扉」のようなものを感じた。

2章「英語が話せるようにならない魔法」

2-1「一昨日来やがれ!」

それから約30分ほど電車に揺られ、私たちは、その葛城有紀さんが勤めているという、英会話教室の最寄り駅に降り立った。

また、電車に乗る前、松尾さんが事前にLINEを送ったところ、「今日ならいつでもどうぞ」と、分かりやすい地図付きで、すぐに返信が届いた。恐らく、有紀さんという方は、かなり気が利く人に違いない。

そしてその地図を頼りに、迷うことなく目的地に辿り着いたのだが、それがかなり古びた建物だったので、思わず私たちは面食らった。

「何か・・・二、三体、棲んでそうなビルだな」

一階には寂れたカラオケ屋さん、二階には流行っていなさそうなインド料理屋さん、そして三階には、その教室の看板が掛かっていた。

「それにアイツ・・・いつの間にか、看板背負ってやがる」

どうやら松尾さんも、初めて知ったらしい。そう、看板には『葛城有紀 英会話教室・学習塾』となっていたのだ。明らかに、教室長に昇進を果たしている。

「あれって、何なんでしょう?」

私は看板の下の方に書いてある、キャッチフレーズのようなものを指差した。そこには「もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになると思いますか?」の文言があった。

「分からんが、怪しさが半端ないな」うん、確かに。普通の社会人であれば、ここに入会することはないと思う。

私たちは、ひとまず古びたエレベーターに乗り、三階に降り立った。すると、目の前に壁が現れ、左手には階段、そして右手の廊下の奥に、木製のドアが見えた。

あのドアの向こうに、あの「聖典」を作った「有紀さん」という方がいるのか。私はゴクリと唾を飲み込んだ。

そして松尾さんはドンドンドンと、ドアを3回叩き、「おーい、有紀ー。来たぞー」と声を上げたが、何の反応もなかった。

「あれ・・・変だな。聞こえないのか?」

仕方なく松尾さんは、ドアノブを回し、中に入ろうとしたが、どうやら鍵も掛かっているようだ。

「なんだ? 誰もいないのか? おーい、有紀ー」

大きく叫んでも、出てくる気配は一向になかった。

「・・・有紀のヤツ、『いつでもどうぞ』とか言っておきながら、あの野郎」

ケータイを取り出し、松尾さんは何度も通話を試みたが、どうやら全く繋がらないようだった

「ど、・・・どうしましょうか?」

すると松尾さんはしゃがみ込み、ドアノブをガチャガチャといじり始めた。

「ちょ・・・ちょっと松尾さん、何やっているんですか?」

「いや、ボロいから、ちょっと強引にやったら、鍵が外れるかもしれないと思ってな」

「ちょっ、・・・やめたほうがいいですよ。それじゃあ、まるで泥棒みたいじゃないですか」

「誰が泥棒だ。こんな暑い中、ここまで来たんだ。このまま帰られるか。おい由璃。お前、ヘアピンとか持っていないか? なかったら、バールのようなものでもいい」

「立派な泥棒ですよ、それ」

ー「ワワワワン!」

その時、大きな犬の鳴き声が背後から突然響き、私たちは「わああっ!」と飛び上がった。そしてバランスを崩した松尾さんが掴まってきたせいで、私たちは漫画のように、ズドドドと床に倒れた。

「いててて、だ、大丈夫ですか、松尾さん?」

打った腰を押さえつつ、私は後ろを振り返った。

すると、何とそこには、「ハッハッハッ」と柴犬が、私たちにお尻を向けた状態で座っていた。え、どうしてこんなところに柴犬が?

「泥棒か? お前ら」

「えっ!」

私たちはその声で、柴犬の2、3メートル後ろにいた、モデルのようにスラッとした、スーツ姿の女性に、初めて気づいた。年齢は30代半ばだろうか。そしてまるで女優のような、整った顔立ちをしている。

「泥棒なら、ここじゃあない。下の階に行け。1階のカラオケ屋の方だ。2階は全然儲かっていないからな。行っても、どうせ無駄足だ」

「あ、い、いえっ、ち、違います。私たち、ここの、」

「なんだ、生徒か」

「え?」

「有紀の奴に全部、経営を任せてしまったからな。もう誰が生徒か、私も把握しておらん。そして、せっかく久しぶりに来てやったというのに、犬の世話を私に任せて、自分は子供たちと一緒に道案内の課外授業など、やりたい放題だ」

「は・・・はあ」

「そもそも、私には、物を拾ってくるのを禁じたくせに、自分は犬を拾ってくるとは、不公平にもほどがあろう。それに、私に全く懐かないのは何なんだ、そのバカ犬は。それが一番、気に食わない」

まるでそれに相槌を入れるように、「アップル」という名前の柴犬が「ワンッ」と吠えた。

「ちなみに、そのドアは英語ではどんなだ?」

いきなり質問が飛んできて、松尾さんは「え?」となった。

「だから、そのドアを英語で表現しろ、と言っているんだ。どんなだ、そのドアは?」

何たる威圧感だろう。もはや、「答えなければ、斬るぞ」くらいの勢いである。これにはあの松尾さんすらも気圧されて、

「えっと、『ドアが動かない』を、英語で、? ド、ドア・・・ドントムーブ、か?」

「馬鹿か、お前は」

「え?」

「何だ、頭が悪い上に、聞き取りもできないのか? 私は『馬鹿か』と言ったんだ」

「な・・・」

な、何たる暴言。私は、松尾さんの顔が、すうっと真顔になる瞬間を見た。

仮にも全国に校舎を持つ塾のブロック長で、しかも年下の見ず知らずの人から、こんな侮辱的な発言を受けるのは、松尾さんの辞書にはない。

「あなた・・・何なんだ、初対面の人に向かって。馬鹿とは何だ、馬鹿とは」

こんなにドスの効いた松尾さんの声を、私は初めて聞いた。しかし、だ。そのモデルのような女性は怯むどころか、更に追い討ちをかけ、

「では唐変木だ。日本語の文字だけ取り出して、頭の中で馬鹿みたいに慌てて変換したからそうなる。冠詞がない。冠詞もなければ、動詞もまともに使えていない。お前の頭の中は、英語を使う時も、丸々日本語だ。どうせ、所有格の性別も、単数形・複数形もズレ続けているに違いない。いいか? 日本語から英語を作るな、状況から英語を作れ」

「はあ?」

「よいか? 本来、『英語を話す』というのは、一語一語、日本語の文字を英語に変換して、文法順にツギハギする行為ではないぞ? それではフランケンシュタインだ。不格好な英語になる。そして何よりも、その言葉には、心がない。自動翻訳機と一緒で、血が通わなくなる」

松尾さんはもちろん、私もまるで漫画のように、口がポカンとなった。

「ドアがムーブしたら、ドア自体が動いてしまうぞ。いいか? この場合、ネイティブなら、『The door won’t open.』と、表現するだろう。または、『The door’s locked.』や『I can’t open the door.』などでいいではないか? どうせ何も考えずに『move=動く』と一語で丸暗記していて、英作文したから、そんなアホみたいな文章になったんだろう、この唐変木め。英語を話す前に、いつまでも日本語で引っかかってんじゃねえ。一昨日来やがれ!」

何度も強烈にディスられている気がするが、もはやその迫力に、私たちは一言も挟めない。

「よろしい。それでは偉大なる初代学院長から、直々に教えてやろう。いいか、そもそも『apple』は【ˈæpl】で覚えればいいではないか。なぜ『【ringo】リンゴ』と、音と文字を変換して、理解しようとする? そこに、何の意図がある? 理解から遠ざかるだろうが。それに、そうすれば、いちいち聞くときも、話すときも、読むときも、書くときも、『【ringo】リンゴ』から変換しないといけなくなるだろう? いいか? 言葉の本質は『音』だ、『文字』ではない。いい加減、目を覚ませ。誰のための、何のための英語だ?」

え? 誰のための、何のための英語? 

「なぜ将来、『日本語から英語に作り直す』という、『どでかい作業』を残しておく? どうして自ら、苦しむ道を選ぶ? どうして感覚をつける作業を後回しにする? 学び始めほど、感覚を大事にしないといけないだろうが。それでは将来、『英語が話せない』という、間抜けな事態を招いてしまうぞ? いいか、お前がドMというなら仕方ない。好きなように血反吐はいて、のたうち回って、英語と日本語の狭間で、一生苦しんでろ。ただ、そのやり方を他人に押し付けるんじゃあないぞ。英語を使って何をしたいのか、本人に選ばせるべきだ。そして、幼い子供を持つなら、親がしっかりと進むべき道を、選んであげないといけない。もう、そういう時代だ」

言っている内容が理解できないが、ミシミシと声が脳に響いてくる。

「この時代、『育んでいくべき音』はどっちだ? 【ringo】か【ˈæpl】か。お前は一体、英語を使って、何をしたい? 英語を口から出したいから、【ˈæpl】と出したいから、ここに来ているのではないのか? 翻訳家になりたいのなら、今まで通り黙々と文字を日本語にして、『リンゴ【ringo】』で終わってろ。しかし、英語の話者になりたいのであれば、【ˈæpl】でそのまま覚えて、何度も、何年も、口にし続けなくてはいけないだろうが。ネイティブはそうやって、英語の話者になったのだろう? なぜネイティブと同じ道を辿ろうとしない? なぜ大昔の日本人が敷いたレールの上を走ろうとする?」

近所でも有名な、ヤバい人なのだろうか。ここは一旦、有紀さんという方が来るまで、ビルの外で待った方がいいのかもしれない。

ーすると、ちょうどその時だった。

「Hey, guys. What’s going on?」

 今度は別方向から、男の声が飛んできた。

くるりと後ろを振り向くと、そこには、金髪の外国人男性が立っていた。

「Hey, Dragon. Who are they?」
「You don’t know them? I thought they were your students.」
「I don’t think so. I’ve never seen them.」

再度私たちは、口がポカンとなった。え、何なの、この女の人。まさかの、帰国子女だったの? ネイティブと寸分違わぬ流暢さじゃない。もう、色々と半端なさすぎる。

ー「あれ? 松尾さんじゃないですか? 早かったですね」

今度は階段の方から、幼い声が飛んできた。

するとそこには、栗色の髪をした、童顔の青年がちょこんと立っていた。そして、だ。奇妙なことに、袴姿なのである。また、その後ろには恐らく小学生だろう、数人の子供たちがこちらを興味津々に覗いていた。

矢継ぎ早に、沢山のキャラが登場してきて、私は頭の整理が追いつかなくなった。

「あ・・・有紀。久しぶり」

ようやく松尾さんがホッとした表情で、声を出した。え、この人が、例の「有紀さん」なの? 思った以上に、見た目が若い。

「あ・・・まーた学院長から何か言われましたか?」

状況を察したのか、有紀さんは女性の方に、冷ややかな視線を送った。

「何だ、生徒ではなく、お前の客か。なら、仕方がない。おい有紀、この唐変木も、立派な『英語教育の被害者』だ。もう、手遅れに近い。ICU行きだ」

やっぱりこっちは、確実にヤバい人だ。私は確信した。

2-2「鳥は翼で飛び、人間は口で話す」

教室の中に入り、まず私が最初に驚いたのは、そこが畳張りだったことである。英会話教室に「和」の造りは、違和感しかない。しかし、そもそもながら、古いビルだ。今流行りの、スタイリッシュな教室を期待する方が、間違っているのだろう。

ただ、だ。それ以上に驚いたのは、中にはベッドやテレビ、冷蔵庫、洗濯機、そしてシャワーボックスまで備え付けられてあったことだ。

「何か・・・誰か、住んでそうだな」

そして教室の外にはなるが、トイレや給湯室もあったので、確実にこのフロアで、最低限の生活は送れそうだ。

「ワンワン!」

ふと先ほどの柴犬、「アップル」が吠えた。

そうだ、少なくともアップルに関しては、ここにリアルに住んでいるのかもしれない。出入り口の反対側に犬小屋が置かれており、その前にアップルが、放し飼いの状態で座っていた。

そもそもながら、ビルの3階に犬がいるのもおかなしな話なのだが、犬小屋まであったら、もはや清々しいほどである。このビルにいる以上、色々と常識で考えない方が良さそうだ。

そして、教室の中央には長机と座布団がズラリと並べられ、子供たちがそこに一人ひとり座って、テキストを広げていた。ふと私は昔、テレビの時代劇で見た、寺小屋の風景を思い出した。

しかし、次の瞬間だ。思わず私は、「え?」となった。そう、というのも子供たちはいきなり、英語を声に出して、読み上げ始めたからだ。

「She’s eating a piece of pie, she’s eating a piece of pie…」

文章自体、決して難しいものではない。しかし子供たちは、それらをまるで英語を「身体に刻む」ように、何度も繰り返し、音に出しているのである。

そして、不思議なことに、子供たちは「ジェスチャー」も交えていた。例えば今の文章であれば、手にパイを持っているような動きを加えているのである。

気になった私は、子供たちの近くまで行き、その手元を覗き込んだ。

そしてそこで私はまた、思わず衝撃を受けた。そう、というのも、そのテキストには文字が一切なく、イラストのみだったからである。

そ、そんなバカな。文章を読み上げる以上、そこには「テキスト文字」が必要なはずである。

そして、その時私が初めて気付いたのは、子供たちがみんな、ワイヤレスイヤホンをしていることだった。

そう、どうやら子供たちは、「文字のない、イラストのみのテキスト」を見ながら、英語の音を聞き、ジェスチャーを交えつつ、英文を暗唱しているのである。

ー何なんだろう、この練習は。

また、何よりも衝撃だったのは、その「発音の良さ」である。

「何だ、こいつら・・・全員、帰国子女か?」

いつの間にか、松尾さんも私の後ろにいて、目を丸くして驚いていた。

そう、もちろん私たちの塾に、こんな綺麗な発音ができる生徒は、恐らく一人もいない。いや、そもそも、発音をさせたことすらない。

すると、今度は違う方向から、英語が聞こえてきた。見ると、壁際に一台のデスクトップパソコンが置かれており、男の子が一人、画面越しにネイティブと英語で話していた。どうやらこの教室は、オンライン英会話も導入しているようだ。

「Actually, I don’t like natto. How about you? Have you ever tried it?」

まだまだその男の子の英語は拙かったが、しっかりとコミュニケーションが取れていた。そして、もしかしてだが、私よりも英語が話せるかもしれない。それくらい、言葉が口から出ているのである。

「な、何か・・・す、すごくないですか、ここ」

「・・・」

返事はなかったが、松尾さんも恐らく同じ気持ちだったはずだ。それくらい、ここの教室には、「私たちの塾にはないもの」に溢れていた。

ーそう、それは英語の「音」である。

「じゃあ、慎吾君は来週から週二回通う、ということで、よろしいでしょうか?」

ふと廊下から、有紀さんの声が聞こえてきた。先ほどから有紀さんは、子供を迎えに来た保護者の方と、立ち話をしている。

すると、今度は部屋の一角から歓声が上がった。振り返ると、先ほどの外国人講師が、子供たちとカルタ遊びのようなことをしている。気になった私は、そちらを見に行った。

「It’s a kind of animal that lived millions of years ago.」

外国人講師がサラリと句を読み上げると、床の絵札を取り囲んでいた4人の子供たちが、一斉に答えを探し始めた。

「Dinosaur!」

次の瞬間、一人の女の子が一枚の絵札を「バン!」と弾いた。そしてそれは、「恐竜」の絵だった。講師はその絵札を確認し、「That’s right! The answer is “Dinosaur”! It’s a kind of animal that lived millions of years ago. You did a good job!」と、女の子とハイタッチをした。

衝撃というよりかは、ショックだった。というのも、私は先ほどの外国人講師の英語が速くて、聞き取れなかったからだ。

つまりこの女の子はもちろん、ここの子供たちはみんな、先ほどの英語が聞き取れている、ということだろうか? そんな馬鹿な。あんな、ナチュラルスピードを?

ちょうどその時、有紀さんが保護者の方との話を終えたようだったので、私は受付の方に戻った。ショックで足取りが少し、フラついた。

「大丈夫か、由璃? 顔色が悪いぞ」

「え・・・ええ。ちょ、ちょっと、あの子たちに衝撃を受けて」

本当は、ちょっとどころではない。

「どうかしましたか、若松さん?」

「あの、その・・・質問なんですけど、ここの子供たちって、一体何をやっているんですか? 何だか、すごく『異質』で」

すると有紀さんは、クスリと笑って

「いや、あの子たちにとっては、あれが『普通』なんです。ああやって、英語と『出会わせ』ましたからね」

「え?」

「『異質かどうかの判断』は結局のところ、『どう出会ったか、そして今までどう育ってきたか』でしょう? だから、こういう形で出会わせたあの子たちにとっては、これが『普通』なんですが、残念ながら、若松さんを含め、多くの日本人にとっては、あれが『異質』に映ってしまうんですよ」

「・・・どういう、ことですか?」

「あの子たちがしているのは、英語の『話者』になるための、練習です」

「話者になる・・・ための、練習? 勉強じゃなくて?」

「はい。話者になるためには、お勉強するのではなく、『耳と口』の器官を、最大限に働かせておかないといけません。たとえばよく英語を、『スポーツや楽器』に例える人がいませんか?」

そう言えば、ハウツー本などを読むと、よくそんなアドバイスを目にする。

「特に英語を母国語ではなく、『第二言語として習得した人』ほど、そう主張しますが、それは真実です。鳥が翼を使って飛ぶのと、同じですね」

「鳥? 翼だ?」

「はい。鳥は翼を使って飛ぶんです。飛行理論で飛ぶんじゃないです。だから、鳥は産まれてから必死に、『翼を動かす練習』をします。同じく僕たちも生まれてから、必死に耳と口を使って、言葉を習得します。つまり、その器官の『運動』です。だから、私たち僕たちも、英語を『勉強』から『言葉』に捉え直した方がいいと思うんです。話者をゴールに考えるなら」

有紀さんはそこまで言って、「あ、ちょっと、お茶の準備をしてきますね」と、席を外した。

横を向くと、松尾さんの口があんぐりと開いていた。しかし、それもそうだろう。なんだか1球投げたら、100球くらい返ってきたような感じだ。

その時、私は受付の机の上に置いてあった、一冊のファイルに気付いた。それはどうやらこの教室の案内らしく、「新しい英語の学び方」というラベルが、表紙に貼られていた。

「・・・これ、勝手に中を見てもいいんでしょうか?」

「・・・いいんじゃないか。『閲覧用』って、書いてあるから」

松尾さんもそう言ったので、私は手に取り、その表紙をめくった。するとそれは、「英語と日本語の違い」という、一枚のグラフ資料が挟まっていた。

それを見ると、英語を基準とした場合、日本語と英語は、文法と発音において、ほぼ「対極」に位置しているらしい。

「なんか・・・すごいですよね、日本語と英語の差異って」

すると松尾さんもそれを覗き込み、「そう言えば、私も聞いたことがあるな。確か英語ネイティブにとっても、言語の習得が一番難しいのは、日本語だとな」と、呟いた。

そのグラフを見ながら、私はモヤモヤした。そう、こんなに「差異のある言語」の話者になろうとしているのだ。だとしたら、「日本語→英語」が上手くいかなくても当然である。

ふと、その時、カルタをしている一角から、また歓声が上がり、私はそちらに振り向いた。見ると、さっきの女の子がペラペラと外国人講師と英語を話している。

「・・・あれ、どうして・・・?」

そうだ、なぜあの子は今、普通に英語を話せているのだろう。恐らくあの子はまだ、小学校低学年のはずだ。英語勉強なんて、できていたとしてもほんの数年だろう。それなのに、もう「日本語→英語」ができるようになっているのだろうか。い、いや、そんなバカな。

「お、おい、アイツがこっちに来るぞ」

モヤモヤと考えていると、松尾さんが、私の腕を肘で突いた。

振り向くと、カルタ取りの遊びを終えた外国人講師が、笑顔を浮かべながら、こちらに向かってくるのが見えた。

すると松尾さんは、バッグの中から慌てて一冊の本を取り出し、ページをめくり始めた。

「あれ? 何やっているんですか、松尾さん?」

「何って、ほら、滅多にないだろう? 生の外国人と、英語を使ってコミュニケーションを取るチャンスなんか」

私は、松尾さんが持っていたその本のタイトルを覗き込んだ。するとそこには、「すぐに使える恋愛フレーズ集」と、あった。ちなみに副題は、「これであなたもイケメン外国人をゲットだぜ!」である。

「松尾さん、経費でそんな本も買ったんですか? しかも『イケメンゲット』って・・・そんな、ポケモンじゃないんですから」

「いいだろ、別に。しっかり勉強するつもりなんだから。お、来たぞ」

「Hi, guys. Nice to meet you. I’m John.」

「オウ、ハーイ、ナイストゥミーチュー。マイネームイズアカネ、マツオ。プリーズコールミー、サナエ。ノ、ノー、ノー、アカネ」

本に書いてあったフレーズをそのまま棒読みしたので、そこのスクリプトの「サナエ」部分を、そのまま読んでしまったのだろう。流石にこれは恥ずかしい。

「Oh, your English is very good.」

「オー、サンキュー、サンキュー」

「So, you’re Yuki’s friends, right?」

「え、あ、ええっと、オウ、イエッサー。アイム、ノー、アイアー、ノー、ウイーアー、ユーキーズ、ムカシノードーリョー、デース」

恥ずかしくて、顔から火が出そうになった。ましてやこれが、今まで沢山の子供たちに、長年に渡って英語を教えてきた塾のブロック長だとは、絶対に人に知られてはいけない。

そしてその後もトンチンカンな会話がしばらく続いた後、ジョンは「See you later.」と言って、再び子供たちの方に戻り、先ほどとは違うメンバーの子供たちに声を掛け始めた。きっとあの講師は、ここでコミュニケーションを取って回る役割なのだろう。

「うー、全然だったな。何にも伝えられなかった」

そう言って、松尾さんは、ガクリと肩を落とした。

「ちなみに、なんですけど、今の会話のゴールはどこだったんですか?」

「この、15ページのところまでだ」

そう言って、松尾さんはフレーズ集の15ページを開いた。するとそこには、「外国人イケメンと、アツアツなラインのID交換」とあった。

「結構・・・高い山を目指されていたんですね」

「山頂まで、まだまだだったな」

「麓にも到達していなかったですよ」という言葉を、私はなんとか堪えた。しかし、

ー「麓にも到達していなかったぞ」

次の瞬間、いきなり響いてきた声に、私たちはビクリとなり、後ろを振り返った。

すると、だ。何とそこには、先ほどの女性が仁王立ちで、私たちをギロリと見下ろしていた。

「だ、誰が、麓にまで到達していないって?」

「お前のことだ、この唐変木。そして、そこの金魚のフンも、全く同じことを考えていたはずだ」

「なっ・・・そ、そもそもながら、あなた、失礼だろ。さっきからずっと、人を唐変木呼ばわりして」

こっちは金魚のフンである。まだ唐変木の方がいい。

そしてその女性はその後、松尾さんを数秒間、ギロリと睨みつけた。まるでそれは、松尾さんの「頭の中」を覗いているような、恐ろしい睨み方だった。

「やっぱりな。やっぱりお前の頭の中は、『日本語の音』しかない。お前、今まで何にも育んでこなかったな。英語という『音』を」

「・・・何?」

「お前は登る山が、全く分かっていない。ただ、『今までやってきた勉強を続けて、あとはネイティブと話していれば、勝手に頂上まで上がれる』と考えていないか? それは違うぞ。そんな山は『錯覚』だ、絵に描いた山と変わらん。実際に登れはしない」

な、何なんだ、この威圧感は。

「言葉とは自分で声を出しながら、『育んでいく』ものだ。つまり、山登りではなく、山にしていくのが、本来正しい考え方なのだろう。そして、続ければ続けた分、高くなる。もちろん、山裾だって広がる。ドッシリともする。それは、私たちが覚えてきた日本語もそうだったはずだ。日本語を生活の中で、聞き、話し、読み、書いて『育んできた』からこそ、山のように、揺るぎなくなったのだ」

「なっ、・・・何を言っているんだ?」

「いいか、『真実』を見ろ。決して、周りに流されるな。流されれば流されるほど、多くの日本人のように、英語が話せないという、馬鹿げたことになるぞ。鳥は翼があれば飛べるように、人間なら誰だって、話せるんだ。口さえあればな。たとえ何語であろうが、努力さえすれば、時間さえかければ、誰だって話せるようになるんだ。少なくとも、中高で6年もやっているなら、尚更だ。だから、『英語が話せない』なんてくだらない茶番は、もうこの時代でケリをつけろ。少なくとも今、子供たちのために働いてんならな」

言うだけ言って、女性はジョンたちがいる輪の中に入っていった。そして、子供たちから、「お師匠様」とコールを受けている。何者なんだろう、あの人は、一体。

「あれ? まーた何か言われましたか、学院長から」

入れ替わるようにして、有紀さんがお盆にお茶を載せて戻ってきた。

「なあ、有紀。一体、何なんだ、アイツは」

私はその時の、有紀さんの答えを、一生忘れないと思う。そう、有紀さんはクスリと笑って、こう答えたのだ。

ー「日本の将来を救う人です」と。

2-3「言葉の暗示効果」

有紀さんから、あの女性の経歴を聞いた私たちは、空いた口が、更に塞がらなくなった。

彼女の名前は「吉原龍子」と言い、この教室の初代学院長だったそうだ。そして、同時に剣道と柔道の師範でもあり、父親はなんと、元衆議院議員らしい。

そして、彼女自身も数年前、衆議院選挙に立候補したらしいが、その言動や打ち出した政策に、なかなか支持が集まらず、惜しくも落選となってしまったようで、今は父親の助けも借りながら、政治家の見習いをしているそうである。

そして立候補と同時に、この教室は弟子の有紀さんに丸ごと引き継がれた。しかし、時間があると、こうして今のように教室にせっせと顔を出し、有紀さんが言うには、「日頃のストレスを発散させている」らしい。

「じゃ、じゃあ・・・有紀は、あいつの指導を受けたのか?」

「はい、本当にもう、英語に関しては、かなりの影響を受けていますね」

「なら、もうペラペラになったのか?」

その質問に、有紀さんは「うーん・・・」と表情を曇らせた。あれ? ペラペラじゃないの?

「どうした? どうせお前のことなんだから、もうペラペラなんだろう?」

「いや、その・・・嫌い、なんです、その『ペラペラ』って言葉が。何を基準に『ペラペラ』って言えるんですか?」

「そりゃあ、ペラペラはペラペラだろう?」

「つまり、ネイティブレベルってことですか?」

「そうだ」

「じゃあ、全然ペラペラじゃないです(苦笑)」

え? 違うの? 同じように松尾さんも、驚いた顔をしている。

「きっとですが、向こうに住んで、ネイティブと同じ経験をしながら、言葉を育む機会を年単位で得られたら、その可能性も見えてくるとは思うんですけど、国内で普通に日本語で生活している限り、自分がネイティブレベルになるのは、かなり難しいと思いますよ」

「な・・・そ、そうなのか? じゃあ、無理なのか、日本人が英語を話せるようになるのは」

松尾さんは、ガックリと肩を落とした。

そして、それは私も同じだった。やっぱり、向こうに住まない限り、ペラペラにはなれないのか。なんだか、英会話教室のトップの口からそう言われると、さすがにズシリと響く。

ーしかしちょうど、その時だった。

「Hey,Yuki. Takumi forgot to bring his textbooks today, are there any you can lend him?」

子供たちと話していたジョンがいきなり大声で、私たちに向かって、何か言った。それが不意だったこともあり、私は何を言っているのか、全く聞き取れなかった。

「Of course, We have others that he can use.They’re on the second shelf from the left. Could you get them for him, please?」

その有紀さんの返しが、恐ろしく流暢だったので、私はもちろん、松尾さんも思わずギョッとなった。

するとジョンは「OK.」と言い、棚から取り出したテキストを、一人の男の子に「Here you go.」と言って渡した。恐らく、あの子はテキストを忘れてきて、今ジョンはテキストを貸してもいいか、有紀さんに尋ねたのだろう。

「お、おい、有紀・・・嘘をついたな。お前、ペラペラじゃないか」

恨めしい顔で、松尾さんは有紀さんを睨んだ。そうだ、有紀さん、「ペラペラじゃない」って言ったのに。すると有紀さんは、頭を掻きながら、

「結局その程度の話ですよね、ペラペラって」

「何?」

「今、松尾さんは何を基準に『ペラペラ』と判断したんですか? 発音ですか? 内容ですか? 文法の正しさですか?」

松尾さんは言葉に詰まった。そう、ただ単に私たちは「ペラペラ」に見えたのだ。

「こうやって日本人はみんな聞くんです。『英語が話せる』と言えば、『ペラペラなんですか?』って。そして、もしもペラペラじゃなかったら、『話せない』に、カテゴライズしてしまう」

「・・・何?」

「言葉って、本当に怖いんですよ。時には、事実すら曲げてしまうことがありますからね。つまり、『暗示効果』です」

「暗示、効果だ?」

「はい、つまり本当は『話せる』のに、『ペラペラじゃないから、英語を話せない』と周りがみんなそう言っているから、自分を『話せない』にグループ分けしてしまう。これは、周りが『バカ』と言っていたら、自分のことを『バカ』だと思うようになるのと同じですよ。塾の生徒にもいませんか? いつも自分のことを『自分、バカだから』って言っている子が」

私は「あっ」と、思わず声を漏らした。

「もう下準備、全部終わってんねやろ? なんでうちみたいなアホに英語教えてんねん」

そう、四葉はいつもこんなことを口にする。

「本当はそうじゃないのに、周りが『お前はバカだ』と決めつけることで、『自分はバカなんだ』とカテゴライズしてしまう。これって本人にとっても、良くないと思うんです」

ふと私は、四葉の父親や、その他の発言を思い出した。

「あー、ええねん、ええねん。そういうんは。俺が申し込んで、このアホが受ける。それで終わりや。それ以上もそれ以下もあらへん」

「言われたんや、エリートに。うちが将来、英語ペラッペラに話せるようになりたい、て教室で言うたら、『お前なんかがなれるか、アホ。まずは一回でもテストで70点超えてから、そんな発言しろ』って」

私はゾクリとした。そう、あの子は家庭でも学校でも、生まれてからずっと、「アホ」と言われ続けて、これまで生きてきたのだ。そして、自分のことを「アホ」だと思っている。

「言葉は無意識に価値観を作っていきますからね。そしてそれによって、結果も大きく左右されてしまう」

つまり、有紀さんが言いたいことは、「ペラペラ」という言葉に、私たちが振り回されている、ということだろうか。

「言葉とは、『同一コミュニティの中で、代々受け継がれてきたもの』です。そして『ペラペラ』という言葉も、使われ始めたのは、ずっと前の世代です。そしてその昔はもちろん、英語を話せる人なんて、誰もいませんでした」

ふと私は、想いを巡らせた。日本に「ペラペラ」という言葉が生まれた時。恐らく「英語を話す」というアプローチなど全くなく、海外からやってきた異国人の流暢な英語に面食らって、それを「ペラペラ」と表現したに違いない。

「つまり、その時に生まれた感覚なんです、その言葉は。100か0か。そしてそれが、何世代にも渡って、いまだ日本に『居座り』続けている」

ズシリと、周りに重力が掛かったような気がした。もしも、何気ない言葉の一つ一つに、歴史があり、価値観があり、私たちはそれにコントロールされているとしたら。

「だから、『英語が話せる=ペラペラ』という『構図』を引きずってしまうと、日本の英語学習者はほぼ全員、『話せない』にカテゴライズされます。だって、『ペラペラ』は、とても高いレベルの話なんですから。そうなるとそれは、『少しなら話せる、これから話せるようになろうとしている人』も、自分を『英語を話せない人間だ』と、カテゴライズしていることにもなります」

確かに。それでは、いつまで経っても「話せない」レベルから脱せられない。

「本来、言葉というものは、『文化と表裏一体』なものです。だから、その言語が使われている現地に住み、現地の人と同じ経験をしながら、数年以上かけて、少しずつ育んでいくものでしょう。ほら、あのモンゴル人力士たちだって、そうですよね? 皆さん日本語が流暢ですが、それは日本に移り住んで、日本人と共同生活を長年続けられているからです」

言われて、ハッとなった。確かに彼ら、モンゴル人力士たちの日本語は流暢である。中には、日本人と変わらないくらい、日本語が上手い力士もいる。

「だから、ほとんどの日本人には難しい領域なんです、ペラペラというのは。少なくともそれは、『現状の英語教育』では、です」

その言葉から、有紀さんの「信念」のようなものが伝わってきた。

「でも、もちろん別にいいんですよ、英語がペラペラレベルにならなくても。それはあくまで目標であり、そこに達しなくても、十分に『話せる』レベルなんですから。ペラペラは、極めたい人が思う存分、時間を使って極めればいいだけの話です。しかしここを、『エベレストに登頂できなければ、登山家を名乗ってはいけない』、みたいな風潮にしてしまうと、国内に登山家はゼロになってしまいます」

そうだ、恐らく「英語を話せる」のハードルが、日本では高すぎるのだ。

「ある程度、普通の山に登れれば、世界の人たちとコミュニケーションは、十分に取れます。そのため、『話せる』の基準はできるだけ落としておいた方がいい。そうすれば『自分はできる、あとは上手くしていくだけだ』というビジョンだって描けるでしょう?」

そう思えば、少し気持ちが楽になってきた。確かにその心構えの方が、健全だ。

その時だ。一人の50代くらいのサラリーマンが、「こんにちはー」と入ってきた。恐らく、ここの生徒さんなのだろう。有紀さんが「あ、山崎さん、こんにちは」と声を掛けた。

すると、続け様に、OLさん風の方も入ってきて、有紀さんがまた「あ、藤川さん、こんにちは」と、声を掛けた。どうやらこの時間から、社会人の方も混じる授業割設定になっているに違いない。

「あ、山崎さん、今日は『鬼』がいますから、気を付けてくださいね」

有紀さんがクスリと笑ってそう言うと、「山崎さん」という方が、ギョッとなり、キョロキョロと視線を動かした。

「私を探しているのか?」

唐突に響いてきた声に、山崎さんが「ヒャアッ!」と、飛び上がった。

すると、教室の奥に、吉原さんがゆらりと竹刀を片手に構えながら、こちらを睨んでいるのが見えた。

「あ・・・、こ、こんにちは」

山崎さん、声が震えている。恐らく相当、吉原さんから絞られているに違いない。

「ちゃんと毎日、口は動かしているのか? このお勉強クソバカ野郎め」

手厳しい。というか、あの人は生徒一人ひとりにこうやって、違うニックネームを付けているのか。

「かなり多いんです、ここには。今まで受験や資格試験にマインドを割きすぎて、話す練習を全くしてこなかった方は」

「え?」

「結局、受験にしろ、資格にしろ、そこに全マインドを向かわせてしまうと、言葉のバランスが悪くなります。そしてそのうち、試験のスコアを追い求めすぎて、『話す』を全く想定しなくなっていく。でも、『ペラペラになりたい』という願望だけはドーンと居座っているので、英語コンプレックスを抱えてしまった大人の方が、この教室には沢山いらっしゃいます」

正に、自分のことを言われているような気がした。そう、無闇にペラペラを思い描き、そうなれない自分にストレスを抱えてしまっているのだ。

「じゃあ有紀は自分がまだ、ペラペラじゃない、と思っているのか? さっきはあんなに完璧に返せていたのに?」

「それは子供がテキストを忘れるのは、日常茶飯事のことだからです。予想でき、しかも今まで何度も、この会話を繰り返してきました。結局、言葉とはこうした『繰り返しのパターン数』です」

「繰り返しの、パターン数?」

「ええ。様々な場面を経験し、繰り返していく中で、ドッシリと根付いていくんです。僕たちの日本語もこれがあったから、成功したんでしょう? 家の中で、沢山話してきましたよね。色んなところで、会話をしてきたでしょう? 言葉の畑は本来、そこにあったんです」

またポカンと、私は口を空けていた。

「だから僕は本当に、英語に関しては『まだまだ』です。学び始めて、まだたった5年しか経っていませんからね。でも、英語は普通に話せます。本当はそれが、日本人全員が返すべき答えだと思いますよ。それを『英語がペラペラじゃないから、自分は話せない』と言って、挫折し続けるのは、あまりにも馬鹿らしいと思いませんか?」

有紀さんがニコリと笑った。そして、私は有紀さんが言ったことを整理した。

そう、結局私たちは、「英語が話せる」と言えば、すぐに「ペラペラですか?」と、聞く。そして、ペラペラでなければ、「何だよ、話せないじゃん」となる。目盛りが100か0しかないのだ。

では、「ペラペラになればいいじゃないか」というと、それはそんなに簡単な話ではなく、それこそ、言語とは現地に住み、文化を吸収しながら、年単位で習得するようなものだと、有紀さんは言う。

そうだ、結局「ペラペラ」が根付くと、大量の挫折者を産んでしまう構図になるのだ。そして、国家レベルで英語コンプレックスを増やしていく。それって、やっぱり馬鹿げている。

私は改めて、有紀さんを見た。やっぱりこの人、「異質」だ。きっとだけど、「何か」を知っている。

そして、先ほど私が引っ掛かったのは、「まだ5年しか英語を学んでいない」と言ったことだ。

恐らく、有紀さんの年齢は、30歳くらいだろう。だから、学生時代からのものも普通に計算すれば、20年近く英語を学んでいることになる。しかし、なぜ有紀さんは学生時代の期間を、あえてゴッソリ抜いたのだろう。

2-4「話者になるための哲学」

「でも本当に日本人って、『I can’t speak English.』って言ってしまいがちですよね」

私が苦笑いしながら、そう言うと、

「『できる』と『can』をイコールで習うからだと、僕は思っています」

「え?」

「英語と日本語は、一対一の『対』にはならないんです。『can』はあくまで『can』であって、『できる』は『できる』ですからね。意味も音も、全て日本語に置き換えられると思っていたら、あとあと修正しないといけなくなってきますよ」

「いや、『can』は『できる』だろう? 今までそうやって習ってきたし、今でもそうやって塾で教えているぞ?」

「いや、全くの別物ですよ。『できる』はあくまで『can』の日本語訳の一つでしかありません。そうやって、全て日本語訳で済ませてしまってきたから、僕たちはみんな英語をやり直しているんじゃないですか」

どういうこと?

「『can』は可能性の話です。できるかできないのか、起こりうるかどうか」

「じゃあ、『できる』でいいじゃないか」

「いや、違いますよ。たとえばですが、『あの子は数学ができるよ』と聞くと、どう思いますか? その子は数学が苦手なんでしょうか、それとも得意なんでしょうか?」

え・・・あの子は数学ができる? うーん、この場合、私だったら、数学が得意だと考える。そう、「ちーちゃんは数学ができるが、四葉は数学ができない」

「そうなんです。日本語の『できる』は、『上手だ、優れている』という意味を含むんです。数学ができる、彼はできる奴だ、あの人は人間ができている。これはそういった意味ですよね」

確かに。言われて、今初めて気が付いた。

「そもそも日本語の『できる』という言葉は『出来る』、つまり『出て来る』という意味から発生したようです。出現したり、発生するニュアンスです。だから、『顔にニキビができた』や『近所にスーパーができた』というように、私たちは『できる』を使います。つまり、『できる』には、『完成度の高さ』のニュアンスがあるんです」

今まで沢山使ってきたのに、全然気付かなかった。

「一方で、『可能性』も表現できます。『君ならできるよ』『ここなら喫煙ができるよ』これは、上手い、下手の話じゃありませんよね?」

確かに、これはできるかどうかだ。先ほどの「できる」とは違う。

「ここの感覚が、英語の『can』と同じなんですよ。『You can do it.』や『You can smoke here.』みたいな英文は、よく目にしたことがあるはずです」

あっ、ある。よく見てきた。

「しかし、これを先ほどの『上手だ』という日本語感覚で、『can』を紡いでしまうと、間違って伝わるんです。だから日本人はよく言いますよね、『I can’t speak English.』って」

「あっ」

「そう、これを私たちは『上手く話せない』という意味で使っています。ペラペラじゃないよって。しかし、全くできないわけではないんです。『can』なんです。そもそもながら、『英語が話せない』と、英語で返しているわけですから、言っていることと行動が矛盾しています。『僕、ピーマンが全く食べられないんだ』と、ピーマンを食べながら、言っていたらおかしいでしょう?」

確かに、おかしい。食べられているのであれば、可能だ(can)。それはただ、苦手なだけだ。

「話せる能力は十分あるんです。そもそも私たちは、少なくとも学校で6年もやってきているわけですから、尚更変なんです、『I can’t speak English.』は」
「じゃ、じゃあさっき、ジョンと全く会話できなかったけど、私は『I can speak Englihs.』なのか?」

「ええ。どんなにすれ違ったとしても、会話という体を為したのである以上、松尾さんは話せるんです。しかし、先ほどもお伝えしたように、日本人は英語を『ペラペラかどうか』で『話せる・話せない』をカテゴライズします。『話せる』と言った以上、それは片言レベルではないんです。そういう『言葉の感覚』が滲んでくる。そして、日本人は学校で『can』イコール『できる』と習うので、その結果、日本語感覚で『I can’t speak English.』を紡いでしまう。でもそれはネイティブ相手に英語にした途端、『話す能力がない、不可能だ』に切り変わってしまう。だからこの場合、松尾さんは本来、『I can’t speak English well.』や『I can’t speak English fluently.』などと、表現すべきなんでしょうね」

頭の中がグルグルしてきたが、問題の深さが掴めた気がする。たとえば私は、空を飛べない。飛ぶ能力がない。可能性は、ゼロだ。だから、「I can’t fly.」である。これは正しい感覚だ。

しかし、英語は違うのだ。今まで勉強に、何千時間もつぎ込んできた。単語や文法だって、十分知っている。下手であろうが、それらを使えば、意思疎通はできる。であれば、やはり私は「話せる」のだ。空が飛べないのと、同列の感覚ではない。

何となく私は、有紀さんの言ったことが分かったきた。そう、「can=できる」ではないのだ。「can」と「できる」には、別々の「感覚」がある。

しかし、だ。もしも「can」でこれだけの違いがあったとしたら、他の単語はどうなんだろう。もっともっと、ズレているんじゃないだろうか。

「あれ? もしかして松尾さんも英会話を始めたんですか?」

ふと有紀さんは、松尾さんが持っていた、数冊のフレーズ集に気付いた。

「ああ、実はうちらの塾もスピーキング対策に向けて、来年からオンラインレッスンを導入することになってな」

「ああ、やっぱりそうなりましたか」

有紀さんは「少し見させてもらいますね」と断ってから、ペラペラとめくり始めた。タイトルは、「学校で習っていない、咄嗟の便利一言フレーズ集」というものだった。

「そのためにもまずはうちらから話せるようにならないと、と思って、慌ててフレーズを詰め込んでいるんだが、全然だ。覚えられないし、続かない。さっきだって、一言目が全然出てこなかった」

苦笑いする松尾さんだったが、

「いいんですか、それで」

と、有紀さんは顔を上げて、サラリと返した。

「いいって、何がだ?」

「何がって、松尾さんの英会話のゴールが『咄嗟の一言』の丸暗記になっていますが、それでもいいのかなって思って」

松尾さんの目が、ギロリと光った。ちょ、ちょ、ちょっと、有紀さん、何を言うの?

「たとえばこれを覚えて、出なかったそのフレーズが言えたとしましょう。でもきっと、その後がボロボロなはずですよ」

「な、何だと!」

「例えば、日本語を学ぶ外国人の方がいたとします。その方がこのフレーズ集みたいに、『落ち着こうぜ』や『お釣りはとっといて』みたいなものを覚え続けていて、いつか話者になれると思いますか?」

「・・・何?」

「たとえばロシアに旅行に行くとします。目的は、ただの旅行です。その時は別に、こうした勉強でもいいと思いますよ。だって、旅行のためだけに、ロシア語の文法や発音などを、一から勉強しようとは思わないですよね?」

確かに。目的が旅行だけならば、定型フレーズなどを覚えればそれでいい。どうせ、生涯に渡ってロシア語を使い続けることはないのだから。

「でも、英語はそんな『浅いコンセプト』で学ばれてきたわけじゃないでしょう? 相当な時間と労力、そして教材費など、沢山のお金も使ってきていますよね?」

確かに。今まで英語に注ぎ込んできたものは、相当なものだ。

「それなのに今、松尾さんが辿り着いてしまっている場所は、正しくそこなんです」

「ヒイイッ!」と、思わず小さな悲鳴が出てしまった。確かに、その通りだ。

「今までやってきた勉強は何だったんですか? そして、英会話になった途端、どうして今までと全く『別なこと』をしているんですか?」

「別なこと、だ?」

「正直なところ、僕には松尾さん自身、『話者になるための哲学』があるとは思いません」

「ダメだというのか、フレーズ集は?」

「別にダメとは言いませんよ。でも、それだけでは完成はしない、ということです。学生時代、あれだけ必死にやってきた勉強は、どこに行ってしまったんですか? もしもここがゴールなのであれば、学びたての頃からそれだけをやっておけば、それでよかった話でしょう?」

確かにそうだ。最終的に英会話がフレーズ集の暗記に落ち着いているのであれば、初めからそれをやっていれば、それで済んだ話だ。

「そもそもながら、私たちが日本語を話せるようになったのも、フレーズを丸暗記したからじゃなかったはずですよね?」

「そ、・・・そりゃあ、日本語は母国語だからだろう」

「じゃあ、母国語はどうやって話せるようになったんですか?」

「ど・・・どうやってって・・・」

答えに窮した松尾さんは、私の方を見た。助けを求めているようだったので、私が代わりに、

「どうやってって・・・普通に生きてきただけなんじゃないですか?」

そう言うと、有紀さんはニコリと笑って、

「そういうことなんです。生きてきたんです、言葉と一緒に。それが『全て』なんです」

私は松尾さんと再び、顔を見合わせた。

2-5「言葉とは練習するもの」

「何が言いたいんだ? 『言葉と一緒に生きてきた』とは?」

「つまり、言葉を使って、『生活してきた跡』があるんです」

言葉を使って、生活してきた跡・・・

「そもそもながら、英語が話せる人は、一言フレーズ集などで学んでいないから、話者になれたんだと思いますよ。向こうに住んでいたり、ネイティブと一緒に暮らしていたり、それに似た環境があったり。そういう、『英語で生きてきた形跡』があるはずです」

有紀さんはそう言って、私にフレーズ集を渡した。そして、私は書かれてあった筆者の経歴を確認すると、確かにその人は「アメリカに在住20年」と書かれてあった。

気になって、その他のフレーズ集も確認してみたが、やはり全員向こうに住んでいたり、ネイティブと暮らしていたり、一緒に一定時間を過ごしている「跡」があった。

「僕たちは、この人たちと、バックグラウンドが全く違うんです。だから、これらのフレーズを頭で覚えたとしても、この人たちのようになれるわけでもない。だから優先順位はまず、学生時代に使ってきた英文法を使い物にする、というところにしないといけないんじゃないでしょうか。そうしないと、学生時代の努力が無駄になってしまいますよ」

「べ・・・別に無駄にはなっていないぞ? そのおかげで、英文を読めるようになったんだ」

「じゃあ、それで満足なんですか、松尾さんは?」

「うっ・・・」

「今の時代、テキスト文字をタイプすれば、すぐに翻訳できますよね? つまり、残念ながらその作業はもう、機械にとって代わられてきたんです」

「なら、英語を話すのも一緒じゃないか。翻訳機が発達してきているんだぞ?」

「違いますよ、『読む』と『話す』は、全然」

「どこが違う?」

「声です」

「声?」

「話すのは音、つまり『声のやりとり』です。それは『自分』という人格を、表に出す行為です。しかし、読む行為に声はいりません。頭の中で『英語→日本語』に変換できれば、それでいい話です」

確かに、受験勉強などに「声」はいらない。

「でも、『話す』は、声のやり取りです。そして、会話である以上、『受け取る相手』だっています。自分一人で完結する『英語→日本語』の作業と、この点も違います」

「それが何だ? 相手がいるから、何だ?」

「だから、そこだけは機械に丸投げしちゃいけないんですよ。『話す』は、相手に届く、相手に響くものなんですから。喜ばせたり、傷つけたりすることもある。そして相手にちゃんと伝わるかどうか、失礼に聞こえないか、その言葉が実際に使われているかどうか、なども想定しておかないといけない」

「あっ」となった。そう、それは正しく「Why did you come to Japan?」などのケースだ。文法的には正しいが、相手には失礼に聞こえる。こういう視点は、学生時代、全くなかった。

「つまり、『話す練習』とは、声に出して上手くしていくこと、どう伝わるかのニュアンスを考えること、が必要になってきます。そして、『心を宿す』ということでもあります」

「心を、宿す?」

「はい。言葉は内容さえ伝わればそれでいい、というものではないでしょう? なぜなら、『感情の産物』だからです。嬉しい気持ちがあるから『嬉しい』と口にし、寂しい気持ちがあるから『寂しい』と口にする。特にそれは、歌を聞くとそう思います」

「歌?」

「はい。『機械音で奏でられた歌』で、人は感動できると思いますか?」

「! ・・・」

「その人が歌うことで、響いてくるものがあるでしょう? どう伝えたいか、どれだけ伝えたいか、その『気持ち』を自分自身の声で目一杯伝えられるのが、『言葉の強み』なんじゃないでしょうか」

「言葉の強み・・・」

「自分自身の口からダイレクトに、何の変換もなく、正直に伝わるから、言葉は素晴らしいんです。特に声を失った方は、いつだって『自分の声』で語りたいと思っているはずですよ」

私はハッとなった。

「言葉なんかただのツールだ、内容さえ伝わればいい、機械で十分、なんて考えた途端、それは相手にも失礼ですし、そういう発想をし続ける以上、人として評価されない気がします。だから、どんなに翻訳機の性能がどんなに優れることになっても、苦労して言葉を手に入れた人には、永久に敵わないと思いますよ」

「声を失った方」と聞き、私は先ほどカフェにいた、手話の話者を思い出した。

もちろん私は、あの方たちがどうして話せなくなったのか、そのバックグラウンドは分からない。ただ、自ら好き好んで、その道を選んだわけではないはずだ。

しかし、その運命を背負った以上、彼らは必死に手を動かして、手話と一緒に生きてきた。そして、もちろんそこには決意や努力などが、全て滲み出る。そして、相手にもそれが伝わる。手話が話せる人同士、分かり合えているものがあるに違いない。

私は有紀さんが言いたいことが、分かった気がした。そう、言葉とは本来、時間をかけて習得するものなのだ。そしてそれは、相手に思いを届けたいからだ。感情は、声に宿る。だから、機械や通訳に丸投げしていては、コミュニティに受け入れてくれないのだ。

ふと、グルリと教室を見渡した。そう、ここは誰も勉強をしていない。子供たちは英語を聞き、声に出している。

「鳥は翼を使って飛ぶんです。飛行理論で飛ぶんじゃないです。だから、鳥は産まれてから必死に、『翼を動かす練習』をします。同じく僕たちも生まれてから、必死に耳と口を使って、言葉を習得します。つまり、その器官の『運動』です。だから、私たち僕たちも、英語を『勉強』から『言葉』に捉え直した方がいいと思うんです。話者をゴールに考えるなら」

地盤がグラリ、と揺れた気がした。

「ひとまず今、僕がここでお伝えしたいのは、国内で英語話者になるのは大変だということです。ましてや、学校でやってきていない一言フレーズを、付け焼き刃で継ぎ足して、ペラペラになれるなんて発想だけは、抱かない方がいいと思いますよ」

ふと、目の前にあるフレーズ集が、急に色褪せて見えてきた。何なんだろう、これって。

「だ、だったら有紀、こういうのはダメなのか?」

そう言って、松尾さんが出したのは「聞き流しているだけで覚えられるようになる表現集」というものだった。しかし、サラリと、

「聞き流して、英語が話せるようになったら、それは魔法ですよ」

「! さ・・・詐欺か?」

「もしも、ですよ。聞いているだけで、言葉が勝手に乗り移り、自分の口からも出るとしたら、電車通勤者や通学者は、車内アナウンスくらいできるようになっているはずです」

「あっ・・・!」

「毎日のように聞いていますよね? 聞き流していますよね? 話せるようになりましたか?」

出ない。全くだ。毎日のように、耳にしているのに、だ。

「そもそも聞き流してインプットができる原理であれば、この世の教材は全て聴覚教材にすればいいんじゃないでしょうか? 教科書も全部読み上げて、それを吹き込んで、ずっと流していればいいでしょう?」

無理だ、どれだけ流そうが、覚えられるわけがない。そもそも、学校の先生の話でさえ、右から左に流れるのだ。だからこそ私たちは教科書を何度も読みこみ、マーカーを引いたり、ノートに分かりやすくまとめたりして、「覚える工夫」を重ねるのだ。

「言葉を覚えるのは、役者さんが台本を覚えるのと一緒だと思っています。例えば明日収録があり、その台本を覚えてこないといけないとします。それなのに、ずっと聞き流していて、現場に入ったらどうなるでしょう? 恐らく、セリフは全く出ませんよ」

そうなるだろう。そして、「聞き流してきました」などと言おうものなら、監督は大激怒だ。

「こと日本人は、英語になった途端、判断力が鈍ってしまうんですよ。見るだけにペラペラになる、聞くだけでペラペラになる。でも、残念ながら、そんなことはありません」

「で、でも、よく言うじゃないか。赤ちゃんは英語を沢山聞いたから話せるようになったって。だから、聞くのは悪くはないんじゃないか?」

「もちろん悪くはありませんよ。しかし、『聞くだけで話者になれる』と宣伝するならば、それは過大広告です。『飲んだら痩せられる』と変わりません。痩せるのであれば、体を動かして、食事制限だってしないといけないでしょう?」

有紀さんの言葉から、強い「信念のようなもの」が伝わってきた。

「そもそも赤ちゃんは聞いただけで、話せるようになったわけじゃありませんよ。音以外に『何か』があったはずです。だからまずは『それ』を用意しないと」

何だろう、「それ」って。私が聞こうと思った時だ。

「ワンワン!」

アップルが吠えたと同時に、ドアが開いて、一人の女性が「すみませーん」と入ってきた。

有紀さんは「すみません、少し失礼します」と私たちに断り、入り口に向かった。恐らく保護者の方なのだろう。

「松尾さん・・・何だと思いますか、有紀さんの言っていた『それ』って」

「さあな」

そして、次の瞬間だ。一人の女の子が、一冊の本を手に、私たちの下に近寄ってきた。それは先ほどの絵カルタで勝った、例の女の子だった。

「あれ? どうしたの? 何か有紀さんに用?」

「Yes, I have one question about a word in this book.」

「えっ! 英語!」

「Can I ask you?」

私は松尾さんが、ゴクリと唾を飲み込んだのが分かった。


2-6「英語の終着点」

「What is your question?」

私は慣れない英語で、そう返した。子供が英語で聞いてくる以上、私だって英語で返さないと。私にだって「英語の先生」としてのプライドがある。

「What’s this? Do you know what this word means?」

そう言って女の子は、持っていた児童書のある箇所を指差した。

ただその瞬間、私はゾクリとした。そう、今、この子は「間接疑問文」を口にしたのだ。確かそれを習うのは、中学三年生だ。それをなぜ今、この子は口にできたのだろう。

私はショックを隠しつつ、その本を覗き込んだ。所々に挿絵が入っていたが、ちょうどそのページだけ文章のみだったので、理解できなかったのだろう。

「どの単語だ?」

松尾さんも一緒になって覗き込んだ。すると、そこには「ruler」と書かれてあった。

確か「ruler」は「定規」である。また、その他にも「支配者」の意味もあったはずだ。私はその文脈から、それが「定規」であることを確認し、そう伝えようと思ったら、

「『ruler』の意味は定規だ」

と、松尾さんの方が先に答えた。

「ジョウギ?」

「ああ、『ruler』は『定規』だ。そして、その他にも『支配者』って意味もあるぞ」

「シハイシャ?」

「ああ。でも、あんまりテストには出ないかな」

「・・・ふーん」

女の子は何だか「欲しかったのは、そんな答えじゃなかった」と、言いたげだった。

しかし、次の瞬間だ。

「余計な真似をするな!」

教室内に、怒号が響き渡り、私たちはビクリ、となった。

そしてその声の主は、教室の奥にいた吉原さんだった。私たちの方を鋭い目つきで睨んでいて、私は凍りつきそうになった。

「よ、余計な真似?」

「てめえ、今、真希ちゃんに何をしたか、分かってんのか?」

「き、聞いてきたから、答えただけだろう?」

辿々しく答えた松尾さんだったが、

「今、真希ちゃんは『What does this word mean?』と聞いたんだ。『How can I translate this word in Japanese?』と聞いたんじゃねえ! 『訳』と『理解』は違うぞ! てめえ、そんなことも分かっていねえくせに、勝手にペチャクチャペチャクチャ得意げに教えてんじゃねえ! 謝れ、真希ちゃんに!」

そう言って、吉原さんはこちらに向かって、ズンズンと歩いてきた。こ、怖い。

「あっ、謝る? な、何がだ? どうして謝らなきゃいけない? 逆に、感謝すべきなんじゃないのか? わっ、私が、あなたたちの代わりに教えてやったんだからな」

「だーかーら! お前が教えたのは『日本語訳』だろう? 誰もそんなこと、頼んでねーんだよ! お前、真希ちゃんの英語人生を狂わせるつもりか?」

「く、狂わせる? 何のことだ?」

「英語圏ではネイティブは、そうやって子供に英語を教えてんのか? 『ruler』は『jogi』や『shihaisha』だと。そんなわけねーだろう! でたらめ教えてんじゃねー、この唐変木!」

吉原さんが松尾さんの胸ぐらを掴みかけようとした、その時だ。

「待って下さい!」

次はまた、違う方向から声が飛んできた。

「・・・有紀」

「学院長、後は僕がやりますんで。任せて下さい」

「・・・」

「いいんですか? 今日は夜に会合があるというお話でしたよね?」

「・・・フン」

話していた保護者の方に挨拶を済ませ、有紀さんは私たちの前に戻ってきた。そして、それとすれ違いに吉原さんは荷物を持って、「じゃあ、後は頼んだぞ」と言い、教室を出て行った。

「・・・なあ、有紀。一体、何なんだ? 私が何か悪いことをしたか? 私はただ、『ruler』の意味を教えてあげただけじゃないか」

松尾さんがそう聞いたが、有紀さんはそれに答えず、「真希ちゃん」と呼ばれた女の子に向かって、

「はい、真希ちゃん。『ruler』とはこれだよ」

と言って、何かを見せた。そう、果たして「それ」は、「定規」だった。

「僕と一緒に言ってみようか、『This is a ruler, This is a ruler, This is a ruler』」
「This is ruler.」
「No. You have to say this is ‘A’ ruler.」
「This is ‘A’ ruler.」
「Good. Could you say that three more times?」
「This is a ruler, this is a ruler, this is a ruler.」
「Excellent! Please keep on reading.」
「OK! Thank you, Yuki!」

ニコリと笑って、真希ちゃんは自分の席に戻っていった。とてもスッキリしたような顔をしていた。

「・・・な、何だ。有紀。今のは」

「『ruler』の意味を教えたんですよ」

そう言って、有紀さんはニコリと笑った。

「ダ、ダメなのか、『定規』じゃ?」

「ええ。だってそれはあくまで『日本語訳』で、『理解』じゃないんですよ。『他言語の音の上』に、『母国語の音』は載せない方がいいと思いますよ」

「・・・どういうことだ?」

「ちなみにですが、松尾さんは子供の時、どうやって『定規』という言葉を習いましたか?」

「どうやってって・・・そんなの、覚えているわけがないだろう」

「じゃあ、若松さんはどうやって覚えましたか?」

「え・・・私も、忘れました」

そう、そんな昔の記憶があるわけがない。

「じゃあ若松さんは、どうやって『定規』を理解されたと思いますか?」

「え・・・どうやってって・・・多分、誰かに習ったんじゃないですか? 『長さを測るもの』だって」

「本当にそう思いますか? もしも『長さを測るもの』と習ったら、『身長計』や『巻尺』だって入ってきちゃいますよ?」

確かに。え、でもどうやって私は「定規」を覚えたんだろう?

「じゃあ、質問を変えましょう。もしも幼い子供が若松さんに、『「定規」って何?』って、聞いてきたらどう答えます?」

「えっと・・・多分、『長さを測るものよ』って教えると思います」

「じゃあ、その子供が『「長さ」って何?』、『「測る」って何?』って聞いてきたら?」

え、そんなレベルで、ものを知らない場合の話なの? 私はもう一度考えて、

「多分、実際に『定規を使って、見せてあげる』と思います。『これが定規よ』って言って、実際に『長さ』を『測って』見せてあげる感じです」

そう言うと、有紀さんはニコリと笑って、

「そう、絶対に定規を『見せる』はずなんです。若松さんだって、『見た』から『定規』を理解したはずですよ。だから、定規とのファーストコンタクトは、きっと『実物を見る』だったはずです」

そう・・・だった、かもしれない。もちろん、忘れちゃったけど。でも、だから何だと言うのだろう。

「そして『長さ』も『測る』も、絶対に『見た』はずです。『これが「長さ」なんだ』、『これが「測る」という、行為なんだ』って。そういう概念を覚える瞬間も、必ずあったはずなんです。そして、その言葉を今までの人生の中で、繰り返し言って、ずっと使ってきた」

そう、なのだろうか。いや、でもよくよく考えてみれば、そうなんだろう。

「だから、何だ。『ruler』を『定規』と教えるのは、何がダメなんだ?」

「将来、『英語の話者』になれなくなる可能性が出てくるんですよ」

「何?」

「『定規』と覚えさせて、『定規』と頭の中で変換させるのが、松尾さんの英語教育のゴールなんですか? それともネイティブのように『ruler』と口に出させるのがゴールなんですか?」

「・・・一緒だろ、どっちも?」

「全く逆ですよ。松尾さんの覚え方だと、『ruler』を『定規(jogi)』と、母国語に流しています。だから、『ruler』を口から出すときに、一回頭の中で『定規(jogi)→ruler』と、変換しないといけなくなる。物理的に一つ、余計な作業が入るんです。そして、例え頭の中で変換できても、まだ口から『ruler』が出ていませんからね。声に出す、という作業も残してしまっている。だから、ここでは『ruler』は『ruler』で覚えて、口にも出させているんです」

ふと私は、先ほどのシーンを思い出した。確かに有紀さんは、定規を実際に見せて『ruler』と何度も口にさせていた。

「それに『定規(jogi)』で覚えてしまったら、冠詞の『a』だって消えてしまいますよ」

「別にいいじゃないか。英語を話す時に『a』をつければ」

「いや、ダメなんですよ。冠詞はネイティブを前にした時に都合よく、口から出て来るレベルのものじゃないんですから。そもそも、ネイティブだってそうやって、子供に日常的に癖づけているんですよ? 将来、ネイティブのように英語を使えるようになりたい、というのであれば、できる限り『同じ教育』をしてあげないと」

ネイティブと同じ教育? 何なの、その発想。

「じゃあ、もしかして、有紀はダメだというのか? うちらの塾で教えている、『a』は『一つの』で、『the』は『その』という覚え方は」

「もちろん、良くないと思います。それは理解ではなく、あくまでただの日本語訳ですから。将来、全部やり直しになります」

「何?」

「加えて、日本語の『定規』には、『支配者』の意味はありませんよね。ちなみに『ruler』の語源は『rule』にあります。あの『ルール』です。元々『真っ直ぐな棒』のような意味があり、線を引くために使われました。そこから、『決まり事』などの意味でも使われ、いつしか『支配者』を表すようにもなったようです」

何と、「ルール」と「ruler」は語源が同じなのか。でも、響きが一緒だから、それも当然か。

「思うんですが、僕はこういう『言葉の追求』が、言語の勉強なんじゃないかなって思います。どうしてそう呼んでいるのか、どう考えてきたのか」

「・・・何が言いたい?」

「だから、『「ruler」は日本語訳にしたら「定規」だぞ、あと「支配者」って意味もあるんだぞ。テストに出るから覚えておこう』は、子供に良くない、と思うんです」

思わず、ビクッとなった。そしてそれは、恐らく松尾さんも同じだったろう。

「子供に英語を使って、どうなって欲しいか、なんです。『英語って不思議だ、面白い』と思って、ずっと興味を持たせていけるか。音を大事にし、ネイティブのように、『ruler』と口に出させていくか。それとも、『定規』や『支配者』と日本語訳を詰め込めるだけ詰め込んで、テストでいい点数を取らせていくか。もちろんこれは、一日だけの話ではなく、今後果てしなく続いていく、その子の英語人生の『終着点』だって決めてしまいます」

私はゴクリと唾を飲み込んだ。そう、確かに一つ覚えるのは、小さな一歩かもしれない。しかし、これが6年以上も続いていくと、相当な距離になっているだろう。そして、その方向がズレていたとしたら? あとで軌道修正は効くのだろうか。

再び私は、教室の中を見渡した。そう、誰もが楽しそうに英語を口にしている。

そして、その後ろの方で、大人の山崎さんが口にしている英語は、テンポが悪い。苦労して、やっとの想いで英語を口から出している感じがする。

「でもお前はさっき、あの子に『ruler』の語源を教えなかっただろう? それはいいのか?」

「興味を持てば、いつか分かると思いますよ。だって、長続きしますからね。そして、別に今は分からなくてもいいんです。ひとまず僕は、子供たちには『話者』になって欲しいんで。大事なのは、まずはそれを見て、『声に出す』ことです」

「なあ、さっきから有紀は『声に出せ』とばかり言っているが、イマイチだな、」

ちょうどその時だ。アップルがまた「ウー、ワン!」と吠えた。

すると有紀さんはクスリと笑って、

「今のがちょうど、そうですね。アップルは『おやつをくれ』と言ったんです」

「はあ?」

有紀君さんは「分かったよ、アップル。今、あげるよ、おやつ」と声を張った。するとアップルは「ウー、ワンワンワン!」と、尻尾を振りながら、嬉しげな声で吠えた。

「今、アップルは口から音を出し、恐らく『おやつをくれ』と僕に伝えました。トーンで大体分かるんです。そして僕は『今、あげるよ、おやつ』と返しました。これは僕がいつもおやつを上げるときに言う言葉です。恐らくアップルは、音の響きで『おやつ』を覚えている」

「そんな馬鹿な(笑)」

「いや、全然冗談じゃありませんよ。犬だって音を理解できるんです。耳がありますからね」

そして有紀さんは次に「Hey, Apple! Stand up!」と言うと、アップルはむくりと立ち上がった。

「Sit down and bark once!」

すると今度はお座りをし、「ワン!」と小さく吠えた。

「どうです? あの子は音を理解していると思いませんか?」

確かに、アップルは有紀さんが「出した音」を理解している。

「じゃあ、今度は別バージョンでやってみますね。りんご! 立って、もう一回吠えてみて!」

今度は英語ではなく、日本語訳だった。すると、アップルは何の行動も示さず、キョトンとしている。

「ね、分かっていないでしょう?」

「そ、それは当たり前だろう。『日本語で』しつけていなかったら」

「つまりそういうことで、『音のやり取り』が、言葉の基本なんです。だから言葉として機能させるのであれば、やっぱり音を切り替えちゃいけないんですよ。そのため、『おやつ(oyatsu)』はあくまで『おやつ(oyatsu)』ですし、『ruler』も『ruler』です。何度も聞いて、何度も言わないと。日本人の大人が英語を聞けないのは、ここで炎症が起きているからです。だから、この教室では『ruler』を『定規(jogi)』で覚えるのは、ご法度なんです」

つまり、有紀さんは和訳するな、と言いたいのだろうか。

「本来、『聞く』方なんですよ、日本人が失敗しているのは。ここが『壊滅的な状態』になっているので、文字学習に依存しないといけない状態になっている」

「聞く方、ですか?」

「はい。言葉は大きく分けると、二つの媒体があります。『音』と『文字』ですね。学校で習ったのはどっちでしたか? 若松さんは」

「え・・・えっと、どっちもだったと思いますけど・・・」

確かに発音は習った記憶がある。もちろん、サラリとだが。

「じゃあ、それを塾でもやっていますか?」

「! ・・・い、いえ」

そう、塾ではゼロだ。発音はさせない。

「本来ですが、これはとんでもないことなんです。それって、音符の音が分からないのに、楽譜を書いているのと変わりませんからね」

言われて、ゾッとした。もしもそんなことをしていたら、将来どうなってしまうのだろう。

「そして日本人は英語を、結局『日本語感覚』で捉えちゃうんです。なぜなら先に、ローマ字を習っちゃいましたから」

松尾さんが「ローマ字?」と、大きな声を出した。

「ええ。あれは本当に良くないんですよ。英語のアルファベットを、日本語の音に変換する作業ですからね。そして僕たちはみんなこう考えてしまう。『英語の音は全部、日本語の音に変換できるんだ』と。日本人が音の練習を全くしなくなったのは、ここです」

「え?」

「日本語は一音一音、母音をくっつけて発音します。『バス』なら、『バ・ス』です。母音は二つつける。しかし、英語の『bus』は母音が一つしかない。そのため、『s』はあくまで『s』はであり、『ス』じゃないんです。一方、お風呂の『bath』の方は『th』ですね。しかし、これも日本語の音に分類すると、『ス』になってしまう。こうして、英語の音を、一旦日本語感覚でくっつけてしまうと、いざ『話者へのハードル』を目指した場合、音の障壁ができてしまっている」

「それって・・・リスニングや発音矯正のこと、でしょうか?」

「そういうことです。そして、直すことは、新しく作ることよりも、何倍も大変になります。よく、教育は『初動が肝心』と言いますよね?」

あ、それは、私たちの塾のマニュアルにも書いてある。そう、「教育は初動にある」と。例えば塾の宿題忘れだって、初回の授業で厳しくチェックしておかないといけない。ここをなあなあで流してしまうと、今後ずーっと忘れてくる生徒になってしまうのだ。

「後でやり直すのは、本当に効率が悪いんです。直して、新しく正しい型を入れて、また時間をかけて、その型をつけていかないといけませんからね。今までと同じくらい時間を掛けないといけなくなる。しかし、すぐに今までの古い型が顔を出してきます。だから、ここと抗う努力も必要になってくる。時間がどんどん増えていく」

確かに、後で直すのは、恐ろしい労力だ。あっ・・・でも、それって日本人の英語のことを言っているのだろうか。みんなやり直しているけど、上手くいかないのは初動がズレていたから?

「こと、『音』の話ですから、本当に厄介なんです。だから、とりあえず受験だー、文字学習だー、発音なんて後だー、ってやっちゃうと、後で何が起きてしまうか、分かりますよね?」

わ・・・分かる。そう、それが今の私だ。リスニングも発音も、上手くいっていない。

「極論を言うと、文字を全部取っ払ったら、日本人はきっと英語を聞けたり、話せるようになるはずです」

「えっ!」

「だって、文字がなければ、聞かざるを得ないでしょう? そして、口にせざるも得ないでしょう?」

「で・・・でも、文字がなかったら、英語をどう学べばいいんだ? 教材は何を使えばいい? 文字がない教材などありえん」

「じゃあ、日本語はどうでしたか? いきなり『読み』から入りましたか?」

「い、いや・・・違うが・・・」

「じゃあ、松尾さんが一番初めに覚えた日本語は何ですか?」

「そ・・・そんな、もの、覚えているわけないだろう?」

「若松さんはどうですか?」

「お・・・覚えています」

「何? 覚えているのか、お前?」

「いや、覚えているというか・・・母から聞いたんです。私が一番初めに覚えた言葉が何だったのか」

「何だったんだ?」

「・・・『ママ』、です」

「では若松さんはどうやって『ママ』を覚えたと思いますか? 『ママ』と書かれたものを読んだんですか?」

「い、いや・・・違うはずです」

「じゃあ、どうやって覚えたと思います?」

ママ

「多分・・・いたんだと思います。私の目の前に、母(ママ)が。そして、何度も聞いて、言わされたんだと思います、『ほら、マーマ、マーマ』って」

すると有紀さんはニコリと笑い、持っていた定規(ruler)を掲げた。その瞬間、私の視界がグニャリと歪んだ。

2-7「英語を英語で理解し、英語で考える方法」

「いいか、まずは靴がなくなった女子生徒の親御さんに、電話で事情を説明してだな、」

松尾さんは先ほどからずっと、廊下で通話中である。

「きっと誰かが間違えて、履いていったんだな」

恐らく松尾さんの管轄のある校舎で、生徒の靴が無くなったのだろう。そして、ブロック長の松尾さんに、どうすればいいかの電話が掛かったのだ。

「欧米だったら、屋内に入っても靴を脱ぐ習慣がないので、こんなハプニングは起こらないんでしょうね」

そう言って有紀さんはクスクスと笑った。

私は有紀さんと二人きりになれて、いい機会だと思い、今日の研修について、ザッと話した。

「今日の議事録はありますか?」

そう言って、有紀さんは今日、私がメモを取った、各校舎の発表内容を受け取り、パラパラと見始めた。一体、有紀さんはどんな感想を抱くのだろう。

すると有紀さんは、「うーん、一部同意できるものもありますが、それが全てだとは思いません」と答えた。

「どうして日本人が英語を話せないのか、という問題は、かなり複雑に原因が絡み合っているんですよ。ただ、強いて一言で言うのなら、日本人は『時代の狭間に落ちてしまった』というところだと思います」

「え? 狭間・・・ですか? 時代の?」

「はい。大昔は別に『英語を話せる必要性』なんてなかったんです。話せるようになりたければ、留学なりをして、『個人で環境を見つけて、達成するもの』でした。だから、『理解』でいいんです。しかし今は『国内で、英語を話せるようにならないといけない』時代になりました。『英語教育の目的』が、スルリと変わったんです。それなのに、学校では『大昔と同じ教え方』が、未だに引き継がれている。だから学校で英語の成績が良かったのに、社会に出た途端、学んできた英語が全然使い物にならない、という事態になっています」

「大昔と同じ教え方、ですか?」

「ええ。日本人は全員、受験後に、『どうやったら英語って話せるようになるの?』と初めて考えます。しかし本来これは、ありえないことなんですよ。なぜなら、その質問をしている時点で、目的地を全く想定せずに学んできた、ということになりますからね」

確かに、学生時代、全くそんなことを考えなかった。ただ、目の前にあるテストに結果を出すことだけしか、頭になかった。

「そして受験後、慌てて『英語を話せる魔法』をかけようとします。沢山のメソッドや教材、やり方がドバッと飛び散っていますよね? しかし、僕からすると、その時にはもう既に、『別の魔法』が掛かってしまっているんですよ」

「別の魔法?」

「はい、『英語が話せるようにならない魔法』です」

「は?」

「これだけは断言しますが、『英語を話せるようになる魔法』なんてものはありません。結局は本人が努力して、数年かけて、口を動かしていくものですから。どんなメソッドや教材をしようが、最終的にはそこに落ち着くはずです。それが証拠に、こんなに文明が発達しても、語学だけは特効薬ができていませんよね? ただ、です。僕は『英語を話せるようにならない魔法』の存在だけは信じています」

「・・・英語を話せるようにならない魔法・・・」

「はい。そうでもない限り、辻褄が合わないでしょう? だって日本人はこれだけ英語に時間や労力を費やしてきているわけなのに、『英語が話せない』と言っている。これはもう、『悪い魔法が掛かっている』としか思えないでしょう? だって、向こうでは幼児でもペラペラと英語を話しています」

確かに、変な話だ。

「ちなみに若松さん自身、英会話のご経験はありますか?」

「! ・・・」

その後、私は有紀さんに学生時代、自分が英会話スクールに通って失敗したことを、簡単に話した。

「本当に自分って、ダメなんですよね。諦めずにもうちょっと頑張っていたら、今頃は日常会話くらい、話せるようになっていたかもしれなかったんですけど・・・」

苦笑いする私に向かって、有紀さんはサラリと、

「いや、本当はそんなこと、一つも思っていないでしょう?」

「え?」

「結局は、『どれだけ通っても意味がない』と悟ったから、ドロップアウトしたんですよね?」

「なっ・・・」

「それだけ時間をかけてダメだったのであれば、それは『時間の問題』ではなく、『やり方の問題』でしょう。恐らくそのスクールでも、口をほとんど動かさなかったんじゃないですか? いや、動かせなかった、という表現のほうが正しいのかもしれませんけど」

「あ・・・あ・・・」

まるで、私が経験したその場面を、見られたような気がした。

「あと、若松さんは何か勘違いをされていますよ。今、『日常英会話くらい』とおっしゃいましたが、日常英会話ができれば、そこがゴールなんです」

「え?」

「例えば、『歯を磨く行為』を、英語で何と言いますか?」

私はまた、「え?」となった。歯を磨く行為? 何だっけ?

「えっと・・・『polish tooth』ですか?」

「今、咄嗟に頭の中で『磨く=polish』『歯=tooth』と、英語をツギハギしましたね?」

「! ・・・」

「見てみて下さい、これが『polish』の感覚です」

そう言って有紀さんは、受付にあったパソコンで「polishing teeth」と、画像検索をした。

すると、スクリーンにズラリと出たのは「歯磨き」の画像ではなく、歯医者さんで歯を「研磨」している画像だった。

「こ・・・これが、『polish』なんですね」

「そもそも『polish』の感覚とは、こんな動作なんです」

そう言って、有紀さんは新たに「polishing」と検索をかけ、職人さんが何かを研磨していたり、車や靴を磨いている画像を私に見せた。

「歯を磨く動詞は『brush』を使います。歯ブラシは『toothbrush』ですよね。歯を『brushing』する、と考える。あと、歯磨き粉は『toothpaste』です。『paste』は『練り物』の意味です。お味噌は、『miso paste』と表現できますから」

今までノーガードだったところに、ドスドスとパンチをもらっている気がする。

「ねえ若松さん。もしも、ですよ。もしも日本語を6年間、必死に学んでいる外国人の方がいたとします。そしてその方が『歯を磨く』すら言えなかったとしたら、若松さんは、こう思いませんか?『この人、本当に6年間、日本語を学んでいたのだろうか、何か別の言語を学んでいたんじゃないか』って」

うん、私でも、そう思うかもしれない。

「でもそれが実際に日本で起きているんですよ。英語を6年学んでいるのに、『歯磨きをする行為』を英語でなんと言うか、答えられないんです。もちろん、『歯ブラシ』や『歯磨き粉』もです。向こうでは3歳児でも知っていて、毎日それを口にしているのに、です」

聞いていて、恥ずかしくなってきた。そして、どうしてこれで、何不自由なく子供に英語を教えられているのだろう。

「日本人は、歯磨き粉や歯ブラシなどの単語を知りません。テストに出ないから、覚えようとしないんです。そして、あとは『Awesome』みたいなフレーズさえ覚えれば、日常英会話が完成すると思っている。しかし、やっぱりこれだと言葉が空っぽになっちゃうんですよ。つまり、5年前の僕です」

「えっ・・・5年前の有紀さん?」

「一からやり直しましたから。それこそ、『hand』や『finger』から、全部です」

そう言って、有紀さんは手や指を見ながら、苦笑いした。

そういえば有紀さんが先ほど、「まだたった5年しか学んでいない」と言っていたが、やはりそれは言い間違いではなかったのか。

しかし、「hand」や「finger」からやり直した、とはどういうことだろう。「hand」は「手」で、「finger」は「指」ではないか。

有紀さんはフーと、大きく息を吐いて、

「言葉を話すということは、単純にインプットしたものをアウトプットする行為です。ただ僕たちは、学校で正常に、英語をインプットしてきたんでしょうか?」

「え・・・」

「数年前まで僕はずっと、日本人が英語を話せないのは、話す環境がないから、だと思っていました。だから、どちらかと言うと、天災に近いものだ、と。しかし、今はこう思っています。それは人災だった、と」

「人災、ですか?」

「一旦日本語で状況を理解し、それを英語で組み立てる。ここに無駄がないでしょうか? だったら、状況から英語を作った方が速いでしょう? つまり、『ネイティブや帰国子女のようなやり方』で学ぶのが、英語話者への最短の道だと思います」

「ど・・・どういうことですか?」

「道は一本だけじゃなかったんですよ、英語の話者になるためには。存在したんです。『英語を英語で理解し、英語で考える方法』が」

「! ・・」

その時だ。ちょうど通話を終えた松尾さんが、やれやれという感じで戻ってきた。

「いやあ、参ったよ。靴がなくなるのだけは、本当に厄介だ。スマンな、有紀。話の途中で」

「いえ、大丈夫です。見つかったんですか? 靴は」

それから、松尾さんと有紀さんは色々と喋っていたが、私の頭の中に内容が全く入ってこなかった。

一体、どういうやり方なんだろう、「英語を英語で理解し、英語で考える方法」とは。少なくとも私は、今まで英語を勉強してきて、そんな学び方をされたことも、したこともない。

「じゃあ、英作文をすればいいんじゃないか?」

松尾さんのそのセリフで、私はハッとなった。いつの間にか、話の内容が英語に戻っていた。

「さっき有紀は、フレーズや聞き流しでは、無理だと言っただろう? じゃあ、英作文をすれば、話せるようになるんじゃないか?」

「全部それでいくんですか?」

「何?」

「例えば『鼻の頭を掻く』とか、こういうのも全部英作文するんですか?」

そう言って有紀さんは実際にその行為をした。うん、確かにそんなものまで全部英作文をしようとすると、頭がパンパンになりそうだ。

「それに綺麗に英作文ができても、その表現をネイティブがしているわけではないですからね。例えば今の場合、日本語では『鼻の頭』と表現しますが、英語では『鼻の先っぽ』と考えます。そして、何か尖ったものの先っぽは、英語では『tip』と考えるので、『tip of my nose』になる。でも日本では、『頭』は『head』と習います。であれば、忠実に英作文をすると、『head of my nose』になり、それは眉間のところをイメージされます」

「えっ! ・・・そう、なんですか?」

「はい、言わないんです。鼻の頭を『head』なんて。彼らにとっては『tip』なんです」

ジワリと嫌な汗が出た。そう、これだ。英会話でいつもつきまとってくる違和感は。せっかく学んできたのに、「ネイティブはこう言うよ」という、別角度からの訂正がバンバン入るのだ。

「結局、日本語発想から紡ぎ出された英語は、どうしても傷がついてしまうんです。そのため、将来確実に、『修正作業』も入ってきます。それは、『鼻の頭』から『足の指』まで、全てです」

思わず、「ヒイッ」と小さく悲鳴が出てしまった。

「加えてもう一つ、大きな問題が出てきますよ」

「な・・・何だ、大きな問題って」

「それは、『できない人が、大量に排出されてしまう』ということなんです」

「・・・何?」

「塾で指導をしていて、どうですか? 子供たちはみんな、英作文ができていますか?」

私は松尾さんと、目を見合わせた。そう、別に聞かなくても、答えは分かる。そう、英作文ができる子は一部の成績優秀者だけで、ほとんどの子はできない。

「そう、英作文とは本来、難しいものなんです。つまり、この国の英語教育の基本構造は、能力や環境に恵まれた、『一部の人のみしか、話せるようにならない』という前提で成り立っています。『全ての生徒を話せるようにさせよう』なんて、ハナから想定されていません」

「そっ・・・そんな!」

「では若松さんは、できると思いますか? 誰もがみんな、日本語から英語に作り替える作業が。だって、ただでさえ塾の子供たちは、英語から日本語にするのに、四苦八苦しているんでしょう? そして、何よりも学校や塾の先生でさえ、英作文に苦しんでいるんですよね?」

「! ・・・」

そう言って有紀さんは、松尾さんが出したフレーズ集や英作文などのテキストを一瞥した。

そうだ、私たちが今、辿り着いてしまっているのは、ここなのだ。英作文ができず、いつの間にか短いフレーズの丸暗記をしている。

「もちろん、ある程度の傷がついた文章、そして日本人訛りの発音で全然構わない、というのであれば、英作文でも別にいいのですが、もしも『日本語では発想できないようなネイティブ表現を口にしたい』というのがゴールなのであれば、やはりどこかでやり方にバッティングが生じてくるはずですよ。なぜなら英語には、『日本語で発想しない文章』が、沢山ありますから」

それはつまり、「What brings you to Japan?」のような文章だ。

「じゃ、じゃあ、有紀はどうやって英語を覚えればいいと言うんだ?」

「だから言っていますよね? 言葉は『真似をして、言って覚える』のが正しいって」

「で、でも・・・」

うん、確かに有紀さんの言っていることは正しい気がする。しかし、あまりにも私たちが習ってきた、そして今も教えている英語と、同じだとは思えなく、今、私たちの頭の中に「?」マークがぴょんぴょん飛び跳ねている。

「ちなみに僕には、高橋君という友人がいまして、」

ふと、有紀さんがいきなり別の話を始めたので、私たちは「え?」となった。

「彼とは小学校3年生まで一緒でした。家が真向かいで、よく一緒に遊んでいたんです。しかし、高橋君は父親の仕事の関係で、アメリカに引っ越すことになりました」

この話は、どこに向かっているんだろう。

「そんなある日です。高校二年の夏に、高橋君は久しぶりに日本に帰ってきました。もちろん、小学生の頃から向こうに行っていたわけですから、英語もネイティブ並の流暢さです」

それはそうだろう、幼い頃から向こうに数年間も住めば、確実にペラペラになっているはずだ。

「僕たちは久しぶりに色々なところに遊びに行きました。そして、途中で書店に寄ったんです。大学受験のための参考書が欲しい、と僕が言ったからです」

なるほど、ここで英語の学び方の話になるのか。

「高橋君は今まで一度も見たことがなかったようです、日本の英語の参考書を。そして、実際に書店に行き、試験の過去問題集を手に取りパラパラとめくった後、彼は僕にこう言ったんです」

「な・・・何て言ったんですか?」

ー「『何だこりゃ』って」

「え?」

「『何だこりゃ。難しいな。お前らこんなのやってんのか? 俺には解けねーや』って」

「・・・難しい? 自分には解けない? ですか?」

「そ、そんな馬鹿な。そいつは英語がペラペラだったんだろう?」

「はい。僕もそれを聞いた時、不思議に思いました。でも、彼は英文を日本語に組み立てられなかったんです。もちろん英語で理解はしているんですが、うまく変換できなかった。そして、最後に英作文のテキストを見て、『無理だ』と言ったんです」

「無理? 英作文が? ど、どうしてですか?」

「日本語のニュアンスが掴めなかったんです。だから、変換できなかった」

そんなものなのか、帰国子女の人とは。

「ただ、彼は英語が流暢だったんです。もちろん、ネイティブレベルです。それだけは事実です」

「つまり・・・言いたいことは何なんだ、一体?」

松尾さんの問いに、有紀さんは一拍置き、

「つまり、同じ時代に、二つの英語が同時に存在している、ということです。『日本人が学んでいる英語』と『話者になるための英語』が」

同じ時代に、二つの英語?

「その『中身』が違うんです。そして、残念ながら、学校で習っている英語は、『話者になるための英語』を想定していないんです。だから、どれだけ学校の成績が良くても、英語が話せる子が一向に出てこないのは、そしてその後にやり直しているのはそのためです」

それが先ほど有紀さんが言った、「時代の狭間」ってこと?

「そして更に問題なのは、日本人はみんな受験が終わっても、学校での学び方を『自動延長』してしまうんです。学びの初動の目的が『受験英語』にあり、そこで国家レベルで『話せるようにならない英語』の型がついてしまった。教育とは『初動』が全てです。だから、日本人はいつまで経ってもこの『型』に縛られてしまい、『声に出して覚える練習』に移れなくなってしまっている。これで『日本人が英語を話せない』という、摩訶不思議な現象が、一本の線で繋がります」

2-8「鹿島アントラーズの少年」

「じゃ、じゃあ有紀はどうしろ、と言うんだ。学校で英語の授業をするな、と言うのか?」

「いや、違います。学校の教科から英語を取り外すのは、世界の流れにも逆行していますし、入試制度的にも難しいでしょう」

「でもお前はさっきから、学校英語の批判ばかりじゃないか?」

「そうですよ。でも僕は別に、英語教育を『するな』とは一言も言っていません。そのコンセプトが昔からずっと動いていないから、『変えるべきだ』と言っているんです」

「どんなコンセプトだ?」

「英語を理解しようとしています」

「? ・・・いいじゃないか、理解しても」

「いや、違うんです。『理解がゴール』になっているんですよ」

「何?」

「言うでしょう? 日本人はみんな。英語を勉強したら、『分かりやすいです』って」

「それの何が悪いんだ? 分かりやすいのは、いいことじゃないか?」

「じゃあ、日本語は分かったから、話せるようになったんですか?」

「何?」

「この日本語、分かりやすいな、となったから話せるようになったんじゃないでしょう? 日本語が話せるようになったのは、今までずっと日常の中で口を動かして、『言ってきた』からですよね?」

「じゃあ、入試にスピーキングを入れろって、お前は言いたいのか?」

「いいえ、そんなことをしても、結局はスピーキングの対策をするだけになって、根本的な解決にはならないと思います。そもそも言葉とは、日々色んな場面で繰り返し使い続けることで、初めて上手くなっていくものですから」

「でも、英語を使おうにも、使う機会がないんだから、仕方がないじゃないか」

「だから、そこなんですって、僕たちが国家レベルで誤解しているのは。『使う』とは、ネイティブがいて、初めてできるものだと、『勘違い』している」

「何?」

「その理論で行ってしまうと、英会話は『一人ではできないものだ』ということになってしまいますよ? 本当にそうですか?」

「じゃあ、一人でできるとはお前は言うのか?」

「できますよ。だって、口さえあれば、練習はできるんですから」

そう言って有紀さんは、受付に置いてあったファイルから、あるグラフを取り出した。そしてそれは、世界の英語力ランキングを表したものだった。日本の順位は、かなり下に位置していた。そして、スピーキングとリスニングは、ほぼ最下位だ。

「僕は日本人が不真面目だとか、頭が悪いとか、全く思っていません。むしろこれだけ純粋に頑張っているのに、世界の最底辺なんです。であれば、これはもう確実に『学び方の構造』に致命的な欠陥がある、と考えたほうが自然でしょう?」

うん、確かに。努力が、結果に繋がっていないのだ。

「日本人は従順な国民です。上が『そうしろ』と言えば、逆らわないんです。そして、それが『美徳』だともされている。だから、塾や学校でも、言われた通りに、英語を学びます。しかし、それが逆に仇になってしまっていたら、どうでしょう?」

「仇? ですか?」

「『スピーキングやリスニングにそぐわない学び方』を、従順に受け継いでしまっているとしたら、かえって逆効果になるんじゃないでしょうか??」

思わず、細胞がゾワゾワとした。そう、それだ、私が考えていたのは。私たちの中に、「英語が話せない遺伝子」が、脈々と引き継がれている気がするのだ。

「だったら有紀は、どうすればいいと言うんだ?」

「もちろん、学び初めから、正しい道に引っ張ってあげることが大事だと思っています。まずは、耳と口から入らないと」

「そんなに大事なのか、耳と口を使うことが。お前はさっきからそればかりだが」

「その質問をしている時点で、松尾さんは何か、大きな勘違いしています」

「何?」

「今の質問は、『体を一つも動かさなくても、野球は上手くなれるんじゃないですか』と聞いているのと同じなんです。だから、その考えを変えない限り、今から何をしようが、将来絶対に失敗するはずです」

「なあ、有紀・・・お前、さっきから少し、失礼じゃないか? いくらもう、私が上司じゃないからって言っても、」

「僕は松尾さんや塾の生徒さんのためを思って、言っています。ここを流してしまうと、日本人はまた同じ道を辿り、世界に出遅れてしまいますから」

「世界に出遅れる・・・って、たかが英語の話で、何を言っているんだ」

そう言って松尾さんは私の方を向いて、プッと笑った。しかし有紀さんは至って真面目な顔で、

「僕からしたら、別にいいんですよ、指導者側が話せるか話せないかは。そして、たとえそれを待っていても、どうせ数年以上はかかる。だから、今すぐに変わるべきなのは、指導者側の『教え方』なんです。そしてそれは学校の先生はもちろん、塾講師を初めとして、大人全員が変わらないといけません」

その話っぷりに、私たちはポカンとなった。何なの、日本が変わるって。

「僕たちの英語教育は一段、いや何段も遅いんですよ。『聞く・話す』を大学になってから、初めてスタートさせようとしています。もう『そういうものだ』と常識が根付き、社会の枠組みができてしまっている。しかし本来、大学入学時点で、すでに聞けて、話せるようになっていないといけないんです。そして、世界ではもうそれがスタンダードなんです。彼らは大学で第二言語を学び、それが使えるようなるところまで、持っていっている。でも、日本はどうでしょう? 大学で習う第二外国語が、今までに使い物になった生徒を見たことがありますか?」

な、ない。一人も見たことが。

「第二外国語はずーっと、何十年以上も、ただの『単位取得』のためになっていませんか? もう、そういうものだ、と。そしてその代わりに、今まで全く手をつけてこなかった英語のリスニングとスピーキングの勉強を、そこで本格的にスタートさせている」

ギクッとなった。私もその一人だ。

「そして、そこで英語が成功していれば、まだいいんですよ。しかし、あろうことか聞けず、話せず、ほぼ何の進歩もないまま、社会人生活に突入してしまっています」

「うっ・・・」

「もう、そうなってしまったら、巻き返しはできませんよ。海外の企業からは全く相手にされませんし、世界の人ともコミュニケーションが取れません」

「・・・」

「だから僕はもう、日本人は英語を『卒業するべき』だと、思っているんです。学生からずっと英語を学んできて、大人になって何度も何度もやり直して、失敗し続けている。ここに希望の光がありません。だから本来、ここを国家レベルで直して、新しく築いていくのが、教育のあるべき姿だと思うんですが、誰もここを直そうとしないで、後ろで突貫工事ばかりやっています。もう失敗してしまった大人は仕方ないかもしれませんが、これでは今の子供たちが可哀想ですよ。だから、何とかここで一度、『英語の学び方』を、国家レベルで整備しておかないと」

すると、その時だった。ドアが開き、一人の少年が入ってきた。

「こんにちはー」

小学五年生くらいだろうか。レオがブンブンと尻尾を振っている。

そして私は、この子をどこかで見たことがあるような気がした。

「ねー、有紀先生、この後、すぐにpracticeがあるから、can I change my clothes over there?」

「No problem.」

「Thanks.」

有紀さんからOKをもらったその子は、部屋の隅で、ユニフォームに着替え始めた。どうやらサッカーをやっているのだろう。バッグの中から、サッカーボールが見える。

ただ、だ。この子は今、サラリと英語を口にした。何というか、頭の中が英語のスイッチに、くるりと切り替わったような感じだった。そしてこの子だけ、ここに通う子と、レベルが別格のような気がした。

そして、次の瞬間だ。「ワンワンワン!」とアップルがたたましく吠え始めたと同時に、一人の中年男性が「おい、ここの責任者は誰だ?」と、女性と一緒に飛び込んできた。

「どなたですか? 責任者は僕ですが」

スッと、有紀さんは冷静に立ち上がった。

「私は里中中学校の教頭の竹本と言うが、君か? うちの学校の生徒を唆しているペテン師っていうのは?」

ぺ、ペテン師? どういうこと?

「どうやら、うちの生徒たちに、妙なことを吹き込んでいるみたいじゃないか? 学校で行なわれている英語の授業は、将来話者になるのが難しくなるから、受けない方がいいって」

「ゆ、有紀! お前、そんなことを子供に言っているのか?」

慌てる松尾さんとは対照的に、有紀さんは「だって、その通りですから」と、涼しげに答えた。

「まっ、まあ! なんてこと! 弁解しないの? 呆れた」

次にヒステリックな声を上げたのは、女性の方だった。40代後半だろうか。

「僕は、正しいことは正しい、と言っているだけです。それが証拠に、日本人はほぼ全員、大人になってから英語に苦しんでいるじゃないですか?」

「な、何なんだ、君は。君なんかに、英語教育の何が分かると言うんだ?」

「そちらこそ、生徒に受験のゴールしか見せていないでしょうか? 子供たちは信じていますよ。今、やらされている勉強の延長に『聞ける・話せる』があるって。でも、現実を見て下さい。一体、どれだけの人が大人になってから、英語の話者になれていますか? 今の時代でも、ほんの一握りだけじゃないですか? この現状に、あなた方はいつまで知らんぷりを続けているんですか? こうなっている原因は、あなたたちの『教え方』にあったんでしょう?」

「な、何を!」

「あなたたちだって、江戸時代と同じ勉強をしていたら、世界についていけなくなると分かるでしょう? 教え方は、時代とともに変えていかないと。だから本来、現場の教師がそれにいち早く気付き、子供たちのために変革していかないといけないのに、いつまで経っても、ゴールを受験にしている」

「そ、それの何がいけないの? 受験は大事でしょ!」

「大事ですよ。でも、それから後はどうなるんですか? 受験のためにやってきた英語の勉強は、世界に通用しているんですか? もしもそうじゃなかったら、どうするんですか? いつ、どこで、どうやって英語を通用するようにさせるんですか?」

「そっ・・・それは、大学が」

「できると思っているんですか?」

「! ・・・」

そう、無理だ。大学教育で、英語が話せるようになるイメージなど、全く湧かない。

「教壇の上で、胸を張って言えますか? 今、生徒たちに与えている指示が、将来、報われるものになる、と。自分たちの教え方を、今までに疑ったことがありますか?」

「は、話せるようにもなるでしょ! じ、実際に、なった人だって、沢山いるんだから!」

「『沢山』ですか?」

「へ?」

「どっちですか? 話せるようになったのと、話せるようにならなかったのとの割合は。答えて下さい」

女性が押し黙った。しかし、それも当然だろう。どう考えても、失敗者の方が明らかに多い。

「もしもあなたたちが、英語を文字から入り、意地でも和訳させる教育をするなら、英作文ができて、ある程度それが口にできるまで、そして直してあげるところまで責任を持って教えるべきです。しかし、その過程を『本人の自主学習』に投げている。それどころか、ネイティブにまで丸投げしている」

「それの何がおかしいの? スピーキングを教えるのは、ネイティブの役割でしょう?」

「冗談を言わないで下さい。彼らには、英作文の指導なんてできませんよ。彼らは『英語の天才』なんです。『英作文や、表現集暗記の天才』じゃないんです。だから、そのまま生徒たちを彼らに渡して、いきなり『実践』から始めても、指導なんてできません」

「でっ、でも、あなたたちだって、あそこにいるネイティブ講師に丸投げしているじゃないの、英語のスピーキングを」

「僕はジョンに丸投げなんて全くしていませんよ。彼にはただ、助けてもらっているんです。だから彼はレッスンをしていないでしょう? 話し相手になったり、表現や発音を直してもらったり、モチベーションを上げてもらうことに徹してもらっています」

確かにジョンは先ほどから、授業らしきことは何一つしていない。ただ、話し相手になっている、という感じだ。

「ここであの子たちが話せるようになっているのは、彼ら自身、日々、努力をしてきたからなんです。家で一人で音を聞いたり、口にする練習をしてきているんです。そして保護者の方にも協力してもらって、本やビデオも触れさせてもらっているんです。そしてそこまでの指示を日々、守ってきて、初めて彼らはジョンと普通に会話ができているんです」

指示・・・日々、何を出しているのか。

「僕はネイティブが不勉強だ、と言っているわけではありません。正確に言うなら、彼らには『手が負えなくなっている』んです、あまりにも日本人が『自分たちが経験した英語の作り方』と、全く別の勉強方法を取っているのですから」

「きっ、君、君はさっきから一体、」

割り込もうとした竹本教頭だったが、有紀さんはそれを無視して、「じゃあ、ちなみに『finger』は体の中に何本あると思いますか?」と、女性に尋ねた。

「フィ、finger?」

「答えて下さい。教頭先生と一緒に来られた、ということは、恐らくあなたは英語科の先生ですよね? 何本ありますか? 体の中にfingerは?」

「な・・・何でそんなこと、答えないといけないのよ?」

「分かっているのであれば、答えればいいじゃないですか? 答えないということは、自信がないからですか?」

「そ・・・そんなわけないでしょ! それは・・・『finger』は『指』だから、20本でしょう?」

うん、私もそう思う。指は体に20本ある。

しかし、有紀さんはジョンに向かって、「Hey, John! I have a question. How many fingers do you have on your body?」と声を張った。

すると、ジョンはキョトンとした表情で、「Fingers? I have eight fingers and two thumbs.」と、返した。え? 8本と、親指2本? 何なの、その答え方。

有紀さんは女性の方を向き直し、

「言っていないですよ、英語ネイティブは。fingerが20本だなんて」

「そ、それが、何だと言うの?」

「そもそもながら、どうして20本にならないのか、分かっていますか?」

「し、知らないわよ、そんなの!」

「分かっていないのに、子供たちに教えていませんか? 『finger』の意味を。テストで書かせていませんか? 丸やバツをつけていませんか? 分かってもいないのに、どうやって採点ができるんですか?」

「し、知らないわよ! 私たちはただ、指導要領に従って、やっているだけなんだから!」

そう言った途端、女性はハッと口元を抑えた。

「今、自分で告白しましたよね? 自分たちの教え方を疑っていないって。ただ、指導要領に従って教えているだけだと」

「そ、それは・・・」

「き、君、どうでもいいじゃないか、そんなこと。fingerが体に20本あろうが、50本あろうが」

「どうでもいい?」

有紀さんの視線がギラリと光り、竹本教頭は、小さく「ヒィッ」と叫んだ。

「今、『どうでもいい』と、おっしゃいましたよね? いいんですか、教頭先生がそんなことを言っても」

「い、言ってないぞ、そんなこと。一つも」

「録音していますよ」

「何!」

すると有紀さんは、胸元からケータイを取り出した。画面を見ると、ボイスレコーダーのアプリだろうか、マイクの画面がグルグルと回っていた。い、いつの間にそんな作業を。

「言葉というものは、『その人の全て』が出るんです。生まれた場所、育ってきた家庭環境、どう生きてきたか、いつも何を思っているか、どう感じるのか。その人の『生き様の全て』が言葉なんです。そして今、あなたは教頭先生でありながら、学校で習っているものを『どうでもいい』とおっしゃった」

「い、言ってない、そんなこと!」

「もう一回聞きますか?」

竹本教頭は、「ぐぬぬ・・・」と唸り、黙ってしまった。

「どうか、お願いです。内向きの指導だけはしないで下さい。英語は内向きではなく、もう外向きに学ばれる時代なんです。これ以上、英語に苦労する日本人は、僕はもう見たくないんです」

「な、何なんだ、ここは・・・宗教施設か、何かか?」

竹本教頭が、そう言った瞬間だ。

「Hey, you!」

二人がハッと振り返った。するとそこには、先程の少年が、ユニフォームを着替え終えた状態で、ちょこんと立っていた。

「な、何だ、君は?」

「Fuck off.」

「何?」

「I said “Fuck off.” Don’t bother our school. It’s really annoying.」

その流暢な英語に、二人はポカンと口を広げた。

「What Yuki said is totally true. As you can see, thanks to their help, we’re English speakers here. But there are many people who failed to be English speakers even though they studied for a long time at school. Why don’t you think the way of learning English in Japan isn’t effective for speaking and listening skills? Why don’t you change how you teach? I think you are all really stupid. When I become a junior high school student, I definitely won’t listen to you because you suck!」

もはや、何も聞き取れなかった。それくらい、全ての音がネイティブのように繋がり、この子の英語は、私も含め、竹本教頭たちを、マシンガンのように滅多撃ちにした。

そしてポカンとする私たちの横から、有紀さんはやれやれとした表情で、「また、過激なアニメを見たでしょ、かっちゃん」と、声をかけた。

「Keep it secret from my mom, please.」
「I will. Anyway, thank you for helping me.」
「No problem.」

かっちゃんと呼ばれたその子は、ニコリと笑い、教室の奥へと戻っていった。

そして、その瞬間だ。私は、彼の後ろ姿を見て、思わずハッとなった。

ー鹿島アントラーズのユニフォーム。そしてその背番号は、20番。

そうだ、以前、私がYoutubeで見た、英語がペラペラだった、あの男の子だ。まさかこんなところで会えるとは。そしてあの子が通っていた教室はここ、「葛城有紀英会話教室」だったのか。

2-9「英語が話せるようにならない魔法」

「悪かったな、由璃。変なところに連れていってしまって」

「あ、いえ、そんな。全然です」

電車の中、隣に座る松尾さんが、申し訳なさそうな顔で呟いた。

そう、結局あれから、竹本教頭たちが更に食い下がろうとしたので、私たちは出直す判断をし、教室を後にした。

しかし、最後のあのサッカー少年が、まるでマシンガンのように英語をペラペラと口にした時点で、明らかに勝負は有紀さんの勝ちだった。

そしてもちろん、私たちの塾の指導でも、あのレベルには持っていくことは、到底できないだろう。いや、そもそも指導者自身、あの子供たちのレベルにすら達していないのだ。

「有紀のヤツ・・・昔はあんなに、ひん曲がった性格じゃなかったんだけどな。もっと素直で、従順だったのに」

松尾さんが、ポツリと呟いたが、私は「ひん曲がっている」とは全然思わなかった。むしろその逆で、真っ直ぐすぎるほど、真っ直ぐだった。

「絶対にあの変な女のせいだ。あいつのせいで、あの素直で、可愛い有紀が変わってしまった。怖いな、教育というものは。まるで、洗脳されたみたいなもんだ」

洗脳・・・もしも、あれが洗脳だというのであれば、私たちが学校や塾で教えているのも、一種の洗脳行為じゃないか。

「どうした、由璃。今、何を考えている?」

「いや・・・その・・どうして、英語をいちいち、日本語に直さないといけないんでしょうか?」

「どうしてって・・・理解するには、日本語に直して当然だろうが?」

「で、でも・・・英語圏の子は、誰も日本語に直していませんよね?」

「そりゃあ、当たり前だ。向こうにとっては、英語が母国語なんだからな」

「じゃあ、やっぱり『英語を英語で理解する』方法が、存在するんじゃないですか? 単に私たちが習っていないだけで」

「ハッ、そんなバカな。無理に決まっているだろう、英語を英語で理解する、なんて。私たちは日本人なんだ。そんなの、いかがわしい詐欺商法と変わらん」

「で、でも・・・どこかの英会話スクールで、ネイティブ講師から、『いつも、日本語で考えているから話せないんだ。英語で考えろ』って言われたんですよね?」

「そ・・・それは、言われたけど、そりゃあ、あいつらはネイティブだからできるんだ」

「じゃあ私たちはいつまでも経っても、彼らのように考えられないってことですか? これだけ英語を学んできているのに?」

「・・・」

だとしたら、何なのだろう。私たちは彼らの考え方を、何も学んでこなかったとでもいうのだろうか。であれば、悲劇ではないか。6年以上も必死に学んできて、彼らの考え方が全く分からないなんて。

「まあ、・・・あいつもあいつで大変なんだろう。生徒を沢山集めないといけないからな。嘘をついて注目を集めないと、やっていけないんだ」

「嘘・・・ついていたと思いますか? 有紀さん」

「・・・」

そう、嘘偽りもない、「真実」を伝えているような態度だった。

もちろん、宗教であれば、押し付けは良くはないとは思うが、もしも今教えられている英語も、「一つの宗教」だとしたら、どうだろう。そして、それで国民全体が報われていないのだとしたら・・・もう、「宗旨」を変えるべきなのではないだろうか。

ふと私は、目の前に座っている、一人の女子学生に気づいた。学校の帰りだろう、制服を着ている。そして、その手元をチラリと見やると、どうやら英単語帳のように見える。

その覚え方が、あそこの教室の英語の学び方と全然違う。

「まあ、ひとまず私たちは、一つずつフレーズを覚えていけばいいんだよ。言葉とは、フレーズの集まりだからな」

そう言って、松尾さんはバッグからまた一言フレーズ集を出して、ペラペラとめくり始めた。

その瞬間、また有紀さんの言葉が、頭をよぎった。

「そして更に問題なのは、日本人はみんな受験が終わっても、学校での学び方を『自動延長』してしまうんです。学びの初動の目的が『受験英語』にあり、そこで国家レベルで『話せるようにならない英語』の型がついてしまった」

そう、やはり一緒なのだ。今、松尾さんがしている英会話の勉強は、目の前の女子学生の覚え方と、全く変わっていない。まるで単語帳を覚えるように、英語を覚えている。

クラクラと、目眩がしてきた。もしかして私たちは、英会話の段階になっても、学生時代の英語の勉強を、そのまま自動延長してしまっているのではないだろうか。

「・・・何だか私、英語との向き合い方が、根本的に違うような気がするんです。私たちと、あそこの教室のやり方が」

「どう・・・違うんだ?」

「・・・『音』です」

「音?」

「はい、私たちの塾で、英語の音を聞いたり、ましてや口にする、なんて一切ないじゃないですか? でも、あの教室は初めっからずっと、『英語の音』が溢れていたんです」

「そりゃあ、受験にスピーキングはまだないんだからな。リスニングだって、ほんのちょっとの配点だ。だから、私たちの塾では、あんなスタイルを取らなくたっていいんだよ」

「でも、この私たちの英語教育のゴールって、『英語が話せる』なんですよね?」

「・・・そ、そりゃ・・・まあ、そうだが」

「本当に私たちの指導の行き先は、ちゃんと『話せる』に受け渡せるんでしょうか? 今日、有紀さんの話を聞いて・・・そして、あそこの子供たちの、そして特に最後のあの子の英語を聞いたら、今まで何十年もかけて築いてきたものや信じてきたものが、ガラガラガラって、紛い物のように、崩れ落ちるみたいな感じがして」

言っていて、泣きたくなってきた。

「特に最後のあの子、全然違う回線から、英語が出ていたような気がするんです。何というか、日本語を介さず、そのまま英語が口から出ていたような。心と言葉が揃っている、というか」

「それはきっと・・・あれだ、あの子は帰国子女なんだ。だからレベルが違っていたんだ」

「いや、彼は埼玉育ちですよ。Youtubeでもそう言っていました」

「そ、それは・・・嘘をついているんだろう」

「何のためにですか?」

「そ、それは・・・あの教室の宣伝のためだ。広告塔なんだよ、あの子は」

「でもそのYoutubeに、教室のリンクは貼ってありませんでしたよ?」

「そ・・・それは、あれだ、きっと貼り忘れたんだよ」

「あの有紀さんが、そんなミスをすると思いますか?」

「! ・・・」

松尾さんは黙った。そう、もしも宣伝ならば、有紀さんは絶対にあそこに、教室のHPのリンクを貼るはずだ。

「恐らく、ただ単に・・・有紀さんは、知って欲しかったんじゃないでしょうか? 今行われている英語教育と、全く違うやり方があるって」

「考えすぎだ、由璃。アイツに、そこまでの意図はない」

「そうだとしても、あの子が国内にいながら、あそこまでの英語の話者になったのは事実ですよ? それを無視して、私たちは今まで通りの英語指導をしてもいいんですか?」

「いいか、由璃。英語の指導は、一つしかないんだ。そしてあの子が話せるようになったのは・・・恐らく、始めた時期だ」

「時期ですか?」

「そう、幼い時からやったから、あれだけペラペラになったんだ」

「つまり、英語の話者になれるかどうかは、始める時期次第だ、と」

「そうだ。そして、それは有紀自身も言っていただろう? 英語はスポーツや楽器と同じだって。だったら、早めがいいんだよ」

「じゃあ・・・中学から習い始めた子は、みんな手遅れってことになりません?」

「! ・・・」

「そればかりか、今、大人になってから英語を始める人だって、沢山いますよ? だったら、それも全部、手遅れじゃないですか? もちろんそれは、私たちの英語研修だって。だって私、もうすぐ30代になるんですよ?」

言っていて、腹が立ってきた。だとしたら、今までの20年近くの努力は何だったのだ。手遅れの状態で始めたというのか。

「いや、それは・・・違うだろう。今から始めても、遅くは、ない、はずだ」

「でも松尾さんが先に言ったんですよ? 英語を話せるようになるんだったら、始める時期が大事だって」

「・・・」

私はまた、目の前に座る女子学生を見て、モヤモヤとなった。この子は将来、英語の話者になれるのだろうか。また私のように何度もやり直して、英語難民になるんじゃないだろうか。

やはりあそこに行って、もう一度有紀さんと話をしないと。しかし、その時だった。

「由璃、お前、もう二度と有紀と会うなよ」

「えっ!」

思わず大きい声が出て、私は松尾さんの方を振り向いた。

「聞こえなかったのか? 『もう金輪際、有紀とは会うな』と言ったんだ」

「な、何でですか!」

「上司命令だ。あそこに行って、有紀と話すと、面倒なことになる」

「面倒なことって、何ですか?」

「いいか、お前はただの一塾講師なんだ。じゃあ、塾講師の役割は何だ? それは『生徒を受験で合格させること』だ。でも、アイツは違う。英会話講師なんだ」

「で、でも、あそこは学習塾でもありますよ!」

「しかしアイツ自身が、学校の授業を否定している以上、それは生徒のためには良くない。受験で必要なものは何だ? 通信簿だ。じゃあ、通信簿はどうやって付ける? 定期テストの点数だけじゃないぞ? 出席状況も授業態度も提出物も、全部含むんだ。でも、有紀の言っていることを守ったらどうなる? 評点が下がるだろう?」

「そ・・・それは、」

「確かにアイツはアイツなりの考えがあって、ああやっているんだろうけど、その考えをうちの塾にまで持ち込んでもらったら、困るんだよ。ましてやそれが響いて、校舎の雰囲気や運営に悪影響を及ぼしたら、私がお前をあそこに連れて行ったこともバレる。勝手な真似をした、となれば、私の責任問題にもなる」

少し失望した。まさか松尾さんが、ここまで保身に走る人間だったとは。

「いいか? お前の気持ちは分からんでもない。ただ、今、一番大事なのは、生徒の成績を上げることなんだ。それとこれとは、分けて考えろ」

そう言って、松尾さんはまた一言フレーズ集をパラパラとめくり始めた。もう、この話を続けたくないのだろう。

「で、でも・・・だったら、四葉はどうなるんですか?」

「何?」

「英語が話せるようになりたくて、将来に夢を描いている子供は、どうしたらいいんですか? 私はこれから、どうやってあの子に英語を教えていけばいいんですか?」

「それは、『イレギュラーな生徒』だろう?」

「将来英語を話せるようになりたくて、必死に勉強している子が、どうして『イレギュラーな生徒』になるんですか?」

「! ・・・」

「そんなの、そんなの絶対に、おかしいじゃないですか? 『誰のための、何のための英語』なんですか?」

「おい、由璃。お前、綺麗事を言ってんじゃないぞ。お前は、ただの塾講師なんだ。生徒のことを考えるなら、受験に徹しろ。それ以外は考えるな」

「・・・で、でも、あの子は違うん、」

「そんなの、子供が言っていることだ! これから高校に入って、夢なんてコロコロ変わる。そもそも海外に渡って、歌手になんてなれるわけがないだろう?」

「・・・」

「それに、英語が話せるようになりたいんだったら、受験の後でだっていいじゃないか。その後に、好きなように頑張ればいいだろう? だから、まずは受験だ」

「そ、それが、今の・・・今の、私たち大人じゃないですか!」

「! ・・・」

思わず大きな声が出て、近くの人が一斉に私たちの方を見た。

「そうやって、そうやって・・・指導者や大人がひとまず受験に向かせて、『話せる』に向けて誤魔化し続けているから、みんなそれが終わってから、こうして困り続けているんでしょう?」

「わ、分かった、由璃! 落ち着け! 声をもう少し落とせ!」

「私はただ、今は、英語を話せるようになりたかっただけなんですよ! それなのに、全然口から言葉が出てこなくて・・・英会話スクールに行ったって、全然上達しなくて・・・もう、何が何だか、全然分かんないんですよ。どうすればいいんですか、私? どうすれば英語で報われるんですか? 単に私は、答えが欲しいんです、何をやればいいかの」

「・・・由璃」

「絶対に私たち、何か置き忘れちゃったんですよ。だからこんなに、おかしいことになっているんです」

そう、やっぱりおかしい。明らかに何か、教育がねじれているのだ。そしてずっとそれが放置され続けている。

「まあ、一旦落ち着くんだ、由璃。家に帰ってから、もう一回考えろ。な?」

ちょうどその時だ。電車がターミナル駅に止まり、乗客が沢山入ってきたので、私はそれ以上、議論することをやめた。

どうせ今、ここで松尾さんに何かを言ったところで、何かが変わるわけもない。それに何を言っても、否定されるだけだろう。

ふと見ると、先ほどの女子学生がいなくなっていた。恐らく先ほどの駅で降りたに違いない。

そして松尾さんは引き続きフレーズ集を眺めていた。その時ふと、開いていたページに、「Calm down./落ち着け」と書いてあるのが、私の視界に入った。

ーそんなフレーズを覚えているんだったら、今、私に向かって、言ったらよかったのに。

そう思った瞬間、思わず「あっ」と、小さな声が出た。

そう、松尾さんは今、「calm down」して欲しい時のフレーズを覚えているのだ。それなのに、実際にそれが使える場面になった時に、「Calm down」という言葉が、一ミリたりとも頭をよぎっていなかったのだ。

その瞬間、私は「深い闇」に、ズブリと手を突っ込んだような気がした。

もちろん、私は日本人なので、松尾さんが私に向かって「Calm down.」と言う必要はない。しかし、もしも仮に私がネイティブだったとしたら、松尾さんは果たして私に「Calm down.」と、言えたのだろうか。

ー「言葉は、『感情の産物』だからです」

有紀さんの言葉が、スッと降りかかってきた。

そう、「Calm down」という言葉があるなら、本来そこに「感情」があるべきなのだ。しかし、松尾さんの覚え方は、感情が何一つ動いていないのだ。

全身に、ゾゾゾと鳥肌が立った。そう、日本人が必死に覚えている英会話フレーズというものは、結局は使い物にならず、こうして腐っていくだけなんじゃないだろか。

「僕は『英語を話せるようにならない魔法』の存在だけは信じています」

やはり有紀さんは、この現象のカラクリに気付いているに違いない。やはりもう一度会って、この答えをハッキリと聞かないと。

※表紙画像:PIXTA(表紙イラスト / 中丸みつ)

(後編に続きます。お読み頂き、ありがとうございました)

なぜ日本人は何度も英語をやり直し続けているのか?


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