5、「数千時間の誤算」
「・・・里山中学で英語科を担当している、猫田と言います」
そう言って、猫田先生は受付に座った。思っていた通り、英語科の先生だった。
ちなみに私は子供たちと毎日のように接しているが、実際のところ、学校現場の方と話す機会は全くない。ましてや学校の先生と、教育方針について話し合うことなど、ありえない。
結局だが、塾講師の仕事は「生徒の成績を上げること」である。そのため、学校の先生が出す試験の傾向を研究したり、どんな授業をしているのかを生徒からヒアリングしたりすることが多い。

その結果、やはりどうしても立場上、塾講師は学校現場よりも「下」になってしまう。そして先生側も実際、塾の存在を下に見ているだろう。
「下の名前は何だ?」
でも吉原さん、やっぱり半端ない。そんなこと、モノともしていない。
そして猫田先生は戸惑った様子で、「何で、そんなことを言わないといけないんですか?」と聞き返した。
「大事だからだ、名前というものは。それが『言葉の基本』と言っていい」
「・・・」
猫田先生はどうしても、そのまま従いたくはなかったのだろう。名刺入れから自分の名刺を取り出し、机に無言で置いた。見るとどうやら、「猫田真紀子」と言うらしい。
「で? あなたの名前は?」
「上を見ろ」
そう言って吉原さんは頭上を指差した。すると、そこには額縁に入れられた「初代学院長 吉原龍子」という名前が見えた。そうか、吉原さんの下の名前は「龍子」というのか。だから前回、ジョンが「Doragon」と呼んでいたのか。
しかし、すごい構図である。学校の英語教師と、恐らく学校英語を心の底から忌み嫌う吉原さんが、真向かいの状態で座っているのだ。そして手の届く位置に、竹刀まである。果たして私はこの場にいて、大丈夫なのだろうか。

「それで若松さんは今日は研修の後、そのままいらっしゃったんですか?」
あえてだろう、有紀さんが柔らかい口調で尋ねてきた。
「あ、はい。その後、少し喫茶店に寄って・・・あ! そ、そう言えば私、そこで葵ちゃんに会って! ご存知ですよね?」
「葵ちゃん、ですか?」
「あ、はい。その・・・以前、会ったことがあるって、本人が」
「うーん。今まで沢山の生徒さんと出会ってきましたからね。どの葵ちゃんでしょうか?」
「確か、その子の担任の先生が、桜木先生って方らしくて」
「あ、桜木真穂さんのことですね」
「いや・・・その、下の名前は聞いていないんで」
すると吉原さんがズイッと、
「あれだろ? 有紀の女の子版。ほら、柔道場で『一本』って叫んだ」
「あっ、あの葵ちゃんですか」
柔道場? 一本? 本当に昔、一体何があったのだろう。
「ちなみに私のことを何か言っていなかったか、葵ちゃんは?」
「あ・・・は、はい。その・・・綺麗な女の人だって」
「やはりな。分かる奴には分かるんだ」
そう言って吉原さんはニヤニヤと笑った。そして、もちろん私は言えなかった。葵ちゃんが同時に「変な人」とも言っていたことを。やはり、分かる人には分かるのだろう。
その後、私はどうして葵ちゃんと知り合いになったのかを説明した。その間、猫田先生はブスッとした表情で私の話を聞いていた。
「そうなんですね、じゃあ葵ちゃん、正しい道で英語を頑張られているんですね、良かった」
「まあ、桜木が生徒の将来のことを、結構気にかけていたからな」
あえて「正しい道」というところを、有紀さんは強調したような気がした。
「まあ、今の時代、ああいう先生に出会えればラッキーだな」
そう言って、吉原さんは横目で猫田先生をジロリと見た。
「な、何ですか、その目は。まるで、私が教えている生徒はラッキーじゃない、とでも言いたそうな目ですけど」
「その通りだ、猫娘。よく分かっているじゃないか」
「ッ! ・・・」
は、半端なさすぎ、この人。まだ会って数分しか経っていないのに、な、何なのこの態度。しかも、もうあだ名をつけているし。正直、選挙に落選するのも、当然な気がする。

「わっ・・・私の何が分かるって言うんですか? どう教えているのか、まだ私は何にも言っていないんですよ?」
「そんなもん、聞かなくても顔を見たら、大体わかる。古臭い顔だ」
「なっ! しっ、失礼な!」
「それなら聞こう。どうして日本人は、英語を話せるようにならないのだ?」
「! ・・・そっ、それは・・・」
「フン、この質問に瞬時に答えられないのであれば、普段何も考えずに英語を教えていることになるぞ。どうだ? どうして話せるようにならないんだ? 答えてみろ」
「そ・・・それは・・・話す環境がないから、でしょう?」
その次の瞬間を、私はこれからの人生の中で、きっと忘れることはないと思う。
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(次回「6、悪意なき指導者たち(仮)」に続く)