英語を日本語に切り替えず、そのまま理解する
金沢優、3年ぶりの新作「もしなる2」連載中!

「もしなる2」第2部4章.話者になるための哲学

4、話者になるための哲学

「そもそもですが、『can』は『できる』じゃないですからね」

「へ?」

思わず、私の声が裏返ってしまった。

「英語と日本語は、一対一の『対』にはならないんです。二つは別の『生き物』ですからね。背負ってきたものが違う。だから、『can』はあくまで『can』であって、『できる』は『できる』なんです。意味も音も、全て日本語に置き換えられると思っていたら、それは傲慢ですよ。英語に対して失礼です」

傲慢? 英語に対して失礼? どういう意味だろう。有紀さんはその後、ボソリと「結局、日本人が英語を聞けない、話せないのは『音も意味も全部、日本語に置き換えられる』という、トンデモ発想から来ているんですけどね」と、呟いた。

「有紀、お前、何が言いたい? 『can』は『できる』だろう? 今までそうやって習ってきたし、今でもそうやって塾で教えているぞ?」

「いや、二つは別物ですよ。訳と理解は違います。『できる』はあくまで『can』の日本語訳の一つでしかありません。一対一のイコールで教えるなんて、とんでもないんです」

訳と理解は違う? それもどういうことだろう。有紀さんの言葉が、まるで禅問答のように聞こえた。

「ここを理解せず、全て日本語訳で済ませてしまってきたから、日本人は大人になってから、みんな英語をやり直しているんじゃないですか。書店に行ったら、英会話コーナーに沢山並んでいるでしょう? やり直し教材だとか、イメージを使った教材だとか、『日本人の笑われる英語』みたいな本だとか、『○○と△△の違いって何?』みたいな本が」

言いたいことは、何なんだろう。

ただ、言われてみれば、確かに書店に行くと、英会話コーナーにはそういった類の本が沢山並んでいる。しかし、それが一体どうしたというのだろう。

有紀さんは「『can』の意味を英英辞書で調べたことがありますか?」と言い、後ろにある本棚から一冊の辞書を取り出した。

その時、ふと私は気付いたのだが、この教室は沢山の書物で溢れているが、日本語で書かれているものが、一切置かれていないのだ。そう、全てが洋書なのである。

それは、学習参考書で溢れている、私たちの塾の本棚と全く違う。仮にも同じ、英語を教えている施設なのに、だ。そう、私たち「ヘッドスタート」には洋書など、一冊もない。

そして、子供たちが読んでいるのも、オーディオで聴けるイラストだけのものや、洋書の絵本のみなのである。もちろん、カタカナでルビなども一切、振られていないはずだ。恐らくだが、「英語圏で読まれているもの」を、そのまま取り揃えている気がする。

私はまた、軽い目眩がした。何か私たちは、英語と「違った向き合い方」をしているような。同じ英語教育なのに、こうまでも使っているものが違うと、私たちは何か「とんでもない間違いをしている」んじゃないかと、不安になってくる。

「ここを読んでみて下さい」

有紀さんが「can」の定義を指差した。するとそこには、「 used to say that it is possible for somebody/something to do something, or for something to happen」と、書かれてあった。

訳せば、「誰かが何かをするのが可能だ、もしくは何かが起こりうる」という意味だろうか。

正直なところ、筆記テストなどを通じ、今まで数限りなく「can」と出会ってきたが、英英辞書でその定義を見たのは、初めてだった。そもそも英英辞書すら、あまり使ったことがあまりない。塾で私が使うのは、そして生徒に使わせるのは、いつだって英和英辞書、もしくは和英辞書だからだ。

そのため、その定義を読んでいると、私は初めて本当の「can」と出会ったような、新鮮な気持ちになった。そう、今まで「can」は「できる」や「ありえる」と訳せば、それでおしまいだった。

「つまり、『can』は可能性の話です。できるかできないのか、起こりうるかどうか」

「じゃあ、『できる』でいいじゃないか」

「いや、違いますよ。たとえばですが、『あの子は英語ができるよ』と聞くと、松尾さんはどう思いますか? その子は英語が苦手なんでしょうか、それとも得意なんでしょうか。よろしければ、若松さんも一緒に考えてみて下さい」

え・・・あの子は英語ができる? うーん、この場合、私だったら、英語が得意だと考える。そう、「ちーちゃんは英語ができるが、四葉は英語ができない」

私がそう返すと、

「そうなんです。日本語の『できる』は、『上手だ、優れている』という意味を含むんです。算数ができる、彼はできる奴だ、あの人は人間ができている。これはそういった意味ですよね」

確かに。言われてみて、今、初めて気が付いた。そうか、そうやって私たちは無意識に「できる」という言葉を使っているのか。

「そもそも日本語の『できる』という言葉は『出来る』、つまり『出て来る』という意味から発生したようです。出現したり、発生するニュアンスです。だから、『顔にニキビができた』や『近所にスーパーができた』というように、私たちは『できる』を使いますよね。つまり、『完成度の高さ』のニュアンスがあるんです」

うーん、奥が深い。

「一方で、『可能性』も表現できます。『君ならできるよ』『ここなら喫煙ができるよ』これは、上手い、下手の話じゃありませんよね?」

確かに、これはできるかどうかだ。先ほどの「できる」とは違う。

「ここの感覚が、英語の『can』と似ているんです。『You can do it.』や『You can smoke here.』みたいな使い方の英文は、よく目にしたことがあるはずですよ」

ある。よく見てきた。しっくりくる。

「しかし、これを先ほどの『上手だ』という日本語感覚で、『can』を紡いでしまうと、間違って伝わるんです。たとえばよく言いますよね、日本人は。『I can’t speak English.』って」

思わず「あっ」と、声が出た。

「そう、私たちはこれを、『上手く話せない』という意味で使っています。しかし、全くできないわけではないんです。本当は『can』なんです、できるんです。そして、そもそもながら、『英語が話せない』と、英語で返していますからね。言っていることと、行動が矛盾しています。『僕、ピーマンが全く食べられないんだ』と、ピーマンを食べながら、言っていたらおかしいでしょう?」

確かに、おかしい。食べられているのであれば、可能だ(can)。それはただ、苦手なだけだ。

「話せる可能性は十分あるんです。というのも、私たちは、少なくとも学校で6年もやってきているわけじゃないですか? 6年野球を習ってきて、『僕、野球ができないんだ』って言われたら、『だったら、今まで何をやってきたの?』ってなりますよね?」

なる。絶対にそう思う。

「じゃ、じゃあさっき、私がジョンと全く英語が話せなかったのは?」

「だからそれは『上手いかどうか』の話でしょう。会話が成り立ったんですよね? どんなにボロボロであっても、会話という体を為したのである以上、松尾さんは話せたんです」

うん、確かにトンチンカンながらも、意思疎通はできていた。

「だから松尾さんも十分、『I can speak English.』なんです。しかし、先ほどもお伝えしたように、日本人は英語を『ペラペラかどうか』で『話せる・話せない』をカテゴライズします。『話せる』と言った以上、それは片言レベルではないんです。そういう『言葉の感覚』が根付いてしまっている。そもそも、言葉とは『社会に定着したもの』ですからね。そして、日本人は学校で『can』イコール『できる』と、日本語訳で習います。その結果、日本語感覚で『I can’t speak English.』と、紡いでしまう。でもそれは英語にした途端、『話す能力がない、不可能だ』に切り変わってしまうんです。だからこの場合、松尾さんは『I can’t speak English well.』や『I can’t speak English fluently.』などと表現すべきなんです」

頭の中がグルグルしてきた。

しかし、問題の根深さが、うっすらと掴めた気がする。

たとえば私は、空を飛べない。能力がない。可能性は、ゼロだ。だから、「I can’t fly.」である。これは正しい「can」の使い方のはずだ。

しかし、英語は違うのだ。受験勉強やTOEICなどに、今まで何千時間もつぎ込んできた。単語や文法だって、普通の人よりも知っている。下手であろうが、意思疎通はできる。

であれば、やはり私は「話せる」のだ。空が飛べないのと、同列の感覚ではない。そのため私は、「I can speak English.」であって、「I can’t speak English.」では絶対にない。

ただ、そうなるとこの場合、日本人ほぼ全員が「I can speak English.」と答えないといけなくなるだろう。少なくとも6年は学校で英語を勉強してきているからだ。

しかし、それなのに、だ。私たちは国家レベルで「I can’t speak English.」と言っているのだ。それがどう伝わっているか、のニュアンスも分からずに。

ひょっとすると、これは「異常事態」なのかもしれない。だったら、今まで6年間、何が学ばれていたのだろう、となってしまう。

ふと、私は先ほど吉原さんが、松尾さんに言っていたセリフを思い出した。

ー「お前の頭の中は、英語を使う時も、丸々日本語だ。英語ではない」

何となく私は、先ほど有紀さんの言ったことが、分かったきた。そう、「can」は「できる」ではないのだ。それぞれに、別の「感覚」がある。「別の生き物」と言ったのは、そう言うことなのかもしれない。

そういえば以前、あるネイティブが「日本人はみんな英語が話せるのに、みんな『I can’t speak English.』と言う。僕らなんて、日本語が片言レベルでも『I can speak Japanese.』って言うのに。本当に謙虚すぎる民族だ」と、呆れていたっけ。

実際のところ、日本人は他と比べて、謙虚な民族だとは思う。ただ、私たちは「話すのがうまくない、ペラペラじゃない」という意味で、「I can’t speak English.」と口にしているいるのだ。

私はゾッとするほど、冷たいものに触れたような気がした。何だか、日本人の英語が根本的にズレてしまっているような。そもそもながら、「can」一つでこれなのだ。では、他に習ってきたものは一体どうなるんだろう。全部やり直さないといけなくなるのではないだろうか。

その時、思わず私はハッとした。そう、つい最近、日本人の英語が「地層レベルでズレている」と考えたばかりだったではないか。

ーやはり自分でも気付いていない、奥の深いところで、大きな「違和感」がある。何だか「地層レベル」から、ズレているような。そして、そこに私が「英語を話せない原因」も眠っているような気もする。しかし、それが何なのか、全く見えない。

いつだったろう。こう思ったのは。確かあれは、「四葉との授業の中」だったような。

私がモヤモヤとしている時だった。不意に有紀さんが、「あれ、もしかして松尾さんも英会話を始めたんですか?」と声を掛けた。

どうやら松尾さんが持っていた、数冊のフレーズ集に気がついたようである。

「ああ、実はうちらの塾もスピーキング対策に向けて、来年からオンラインレッスンを導入することになってな」

「やはり、そうなりましたか」

有紀さんは「少し見させてもらいますね」と断りを入れてから、ペラペラとめくり始めた。タイトルは「学校で習っていない簡単ネイティブフレーズ集」というものだった。

「そのためにもまずはうちらから話せるようにならないとな。だから今、慌ててフレーズ集を覚えているんだが、全然だ。覚えられないし、続かない。さっきだって、一言目が全然出てこなかった」

苦笑いする松尾さんだったが、

「いいんですか、それで」

と、有紀さんは顔を上げて、サラリと返した。

「いいんですかって、何がだ?」

「何がって、松尾さんの英会話のゴールが『定型フレーズ』や『咄嗟の一言』などの丸暗記になっていますが、それでもいいのかなって」

松尾さんの目が、ギロリと光った。ちょ、ちょ、ちょっと、有紀さん、何を言うの?

「何が言いたい、有紀。言いたいことがあれば、ハッキリ言え」

「たとえばこれを覚えて、出なかったそのフレーズが言えたとしましょう。でもきっと、その後がボロボロなはずですよ」

「な、何だと!」

思わず松尾さんが声を荒げた。ただ、それも当然だ。少し失礼ではないだろうか。仮にも、昔の上司ではないか。

しかし、有紀さんは至って冷静な表情で、

「今の場合、問題にすべきなのは、初めの一言が出なかったことではなく、初めの一言すら出なかった、と考えるべきではないでしょうか?」

「何?」

「例えば、日本語を学ぶ外国人の方がいたとしましょう。その方がこのフレーズ集みたいに、『お釣りはとっといて』や『めっちゃ嬉しかった』みたいなものを覚え続けていて、いつか話者になれるんでしょうか?」

「何?」と返した松尾さんの視線が、上を向いた。考えているのだろう。

ただ、確かにそういったフレーズを覚え続けても、決まり切った場面では言えるようになるかもしれないが、それだけで終わりそうな気もする。

「たとえばロシアに旅行に行くとしましょう。目的は、旅行だけです。その時は別に、そういった勉強でもいいと思いますよ。だって、旅行のためだけに、ロシア語の文法や発音などを、一から勉強しようとは思わないですよね?」

確かに。目的が旅行だけならば、定型フレーズなどを覚えればそれでいい。どうせ、生涯に渡ってロシア語を使い続けることはないのだから。付け焼き刃のもので十分だ。

「でも、英語はそんな『浅いコンセプト』で学ばれてきたわけじゃないでしょう? 受験にも組み込まれて、数年単位で学ばれています。相当な時間と労力、そして教材費など、沢山のお金も使ってきていますよね?」

確かに。今まで英語に注ぎ込んできたものは、相当なものだ。

「それなのに、です。今、松尾さんが辿り着いてしまっている場所は、正しくそこなんです」

「ヒイイッ!」と、思わず小さな悲鳴が出てしまった。そして、それは松尾さんも同じで、顔が青ざめているのが分かった。

「お聞きしますが、今までやってきた勉強は何だったんでしょうか? そして、英会話になった途端、どうして今までと全く『別なこと』をしているんですか?」

「べ、別なこと、だ?」

「はい。こうしたフレーズを覚える勉強を、今まで学校でやってきたんですか? 違いますよね?」

ま、まただ。またつい先ほど、自分が言ったセリフを思い出した。

ー「そう、それなんです! 私が抱いている『違和感の正体』は。高校を卒業してから、英語の中身がガラリとすり変わるんです。今まで難しい単語や文法問題や長文をみっちりとやってきたのに、英会話になった途端、一言フレーズの勉強になっているんです。途端に『陳腐になる』というか」

そう、難解な文章はいくらでも読めるのだ。難解な文法問題だって解けるのだ。そして子供たちにも、難なく受験指導ができる。

それなのに、私たちは英会話になった途端、まるで単語帳を覚えるように、短いフレーズ暗記をしているのだ。この二つが繋がっていない、というか。

「正直なところ、僕には松尾さん自身、『話者になるための哲学』があるとは思いません」

「話者になるための哲学・・・だ?」

「はい。どうなって話者になっていくのか、そのイメージが描けていないんじゃないかなって。ただ、フレーズ集を覚え続けていて、本当に話者になれるんでしょうか?」

「ダ、・・・ダメだというのか、フレーズ集は?」

「ダメとは言いません。ただ、それだけでは完成は絶対にしない、ということです。そして、今まで必死にやってきたものが、全部無駄になってしまっています」

「何?」

「今まで必死にしてきた勉強のゴールは、フレーズを覚えるためのものだったんですか? 違いますよね? であれば、学びたての頃からそれだけをやっておけば、それでよかった話でしょう? 文法なんて何一つ学ぶ必要がなかったはずです。でも、最終的にここに行き着いてしまったのであれば、今まで努力してきたものが、全部水の泡になっているんじゃないですか?」

まるで喉元に、鋭利なナイフを突きつけられたような気がした。

「先ほども言いましたが、日本語を学ぶ外国人の方が、フレーズだけを覚えて話者になれるとは思いません。そもそもながら、私たちが日本語を話せるようになったのも、フレーズ集を暗記したからじゃなかったはずですよ?」

「そ、・・・そりゃあ、日本語は母国語だからだろう」

「じゃあ、どうやって母国語は話せるようになったんですか?」

「ど・・・どうやってって・・・」

答えに窮した松尾さんは、私の方を見た。助けを求めているようだったので、私が代わりに、

「どうやってって・・・別に、普通に生きてきただけなんじゃないですか?」

そう言うと、有紀さんはニコリと笑って、

「そういうことなんです。生きてきたんです、言葉と一緒に。それが『全て』なんです」

私は松尾さんと再び、顔を見合わせた。

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(次回「5、言葉の魔法」に続く)

日本人が学んできた「英語」とは何だったのか?


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