新作「もしなる2」

「もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになるか2」後編

3章「私たちのSOS」

3-1「I don’t think so」

あれから数日間、私はずっとモヤモヤとしながら過ごした。

「教壇の上で、胸を張って言えますか? 今、生徒たちに与えている指示が、将来、報われるものになる、と。自分たちの教え方を、今までに疑ったことがありますか?」

今まで私は、塾で沢山の子供たちに、英語を教えてきた。もちろん、中には留学などをして、話者になった子もいるかもしれない。しかし、それは私の知るところではないのだ。話者にさせる責任を何一つ負っていないので、乱暴に言うと、どうでもいい。

「それに、英語が話せるようになりたいんだったら、受験の後でだっていいじゃないか。その後に、好きなように頑張ればいいだろう? だから、まずは受験だ」

松尾さんの言葉も、頭をよぎる。そう、確かに私の仕事は、「合格させる」だ。

「つまり、同じ時代に、二つの英語が同時に存在している、ということです。『日本人が学んでいる英語』と『話者になるための英語』が」

こうして有紀さんの言葉が、ストンと落ちてくる。そう、明らかに「別個な英語」が存在しているので、受験の後に、目標や道を失った日本人が、まるでゾンビの如く、あっちに行ったり、こっちに行ったりして、「話せる方法」を求め、英語難民となっているのだ。

「なー、どうしたんや、由璃ネエ」

その声でふと私は我に返った。四葉が心配そうな顔で、私を下から覗き込んでいた。

「あ、いや・・・ゴメン、何でもない」

「なんか今日、ずっと変やで。恋愛中か? そんなら、うちに任しとき。何とかしたる。誰や、好きなんは。二次元でも妻子持ちでもドンとこいや」

「違うの、そんなんじゃないの」

「じゃあ、何やねん。恋愛以外に、若い女性が何をそんなに悩むことあんねん」

「大人になったら、色々あるのよ。四葉だってそのうち分かる」

「何やねん、その言い草は。うち、由璃ネエのおかげで、こうして前向きに頑張れてんやで? 由璃ネエの悩みは、うちの悩みでもあんねん。さあ、言わんと。何があったん?」

その一音一音が、グッと私の心に食い込んでくる。

「言葉は、『感情の産物』だからです」

有紀さんの言う通りだ。こうした何気ない言葉の一語一語に、この子の私への愛情が、なみなみと溢れ出ている。

ーだとしたら、私は英語にどう向き合えばいいのだろう。

ふと、私はまじまじと四葉の顔を見つめた。

「・・・何やねん。そないな真剣な顔で。おい、なず、うちの顔に、何かついとるか?」

「唇に青のり」

「ま、マジか。給食の焼きそば、食い過ぎたか」

「うっそピョーン」

「おい、なず! 今、必死にこすったやろが」

「キャッキャッキャッ」

そう、これが言葉だ。こうして、その場その場で臨機応変に作り上げ、流れるようにして会話は成立する。

では、今のような会話が、フレーズ集などの暗記で、果たして英語でできるようになるのだろうか。いや、そもそも載ってもいない。そして例えそれが載っていたとしても、覚えられない。そして例え覚えられたとしても、キープし続けらない。

無理であれば、やはり瞬時に英作文をするしかない。しかし、「唇に青のり」は、英語で何と言うのだろう。「うっそピョーン」は? 「青のり」は? 「こする」って? 十年以上も英語を学んできているのに、私はこんなことすら、言えないのだ。

「何やねん、マジでどうしたんや?」

「あ、うん。ゴメン、大丈夫。じゃあ、四葉はまず、単語テストからね」

ちなみに私たちの英語の授業は、前回習った単元の、単語テストから入る。

しかし、この時点で私はやはり、大きな違和感を覚えた。そう、向こうの教室ではこんな勉強を誰もしていなかったのだ。

「道は一本だけじゃなかったんですよ、英語の話者になるためには。存在したんです。『英語を英語で理解し、英語で考える方法』が」

英語を英語で理解し、英語で考える方法とは、一体何なんだろう。

「なぁなぁ、由璃ネエ! 聞いとんのか?」

「えっ?」

どうやら四葉は解き終わっていたようで、私に何度も声を掛けていたようだった。

「ゴメン、採点するね」

「ったく。一体、何があったんや。絶対に突き止めたるわ」

何とか私は笑って誤魔化し、単語テストの丸つけをした。しかし、その時だ。解答の中に「ruler:定規」を見つけた。

そう、英語とはたまにこういうことがあり、いつも不思議だな、と思う。昨日覚えた単語が、ちょうど次の日の長文問題に出てきたりするのだ。

そして四葉はちゃんと答えられていたので、思わず丸を付けようと思ったが、私は「定規」の「規」の字が、「器」になっていたことに気が付いた。

「四葉、字が違うよ。『定規』の『ギ』は、『規』ね」

「あちゃー、そう来たか」

しかし、ここでまた、私は違和感を覚えた。そう、英語の話者になりたい人間に私は今、「漢字の正しさ」を伝えているのだ。

「『定規』と覚えさせて、『定規』と頭の中で変換させるのが、松尾さんの英語教育のゴールなんですか? それともネイティブのように『ruler』と口に出させるのがゴールなんですか?」

ジワリと、嫌な汗が出てきた。そう、やはり何かおかしい。今まで「やって当然」だと思ってきたものが、グラグラと揺れている。

そして、ふと私は思い付き、

「ねえ、四葉・・・ruler取ってもらえる?」

「はあ?」

「だから、ruler取ってもらってもいい?」

「ルーラー? 何のことや?」

その返事を聞いた瞬間、ゾワっとなった。

そう、四葉は今、「ruler」の音に、反応できていないのだ。「ruler」を覚えたのに、定規にまで結びついていなかった。

「なあ、由璃ネエ。今日うち、やりたいことあんねんけど、ええか?」

不意に声を掛けられ、私は「え?」となった。

「実は学校で、自由英作文の宿題が出てんけど、全然分からんねん。ここでやってもええか?」

「あ、うん・・・いいけど」

正直なところ、断りたかった。というのも、自由英作文は難しい。

しかし、英語の先生でもある以上、ここを「できない」と言ってはいけない。OKを出し、いざ四葉のノートを広げてみると、思わず私は「げっ」と声が出た。そう、そこには1ページ分、ビッシリと日本語が書かれてあったのだ。

「テーマは、『中学校生活の思い出』やねん。だから、去年の地区大会優勝のこと、下書きしてきたんやけど、ひとまず読んでみてくれへんか?」

私はゴクリと唾を呑み込み、その原稿を小さな声で読み上げた。

「うちのイッチ番のおもい出はなんたって、去年の地区大会の優勝や。決勝の相手は、里中中のヤツらやってんけど、初めにあいつらマジ何なんや。前にやった時と比べて、一周りも二回りも三周りも図体が大きなっとった感じで、そん時、マジであかんわ、思うたわ。でもな、いざマウンドに立って、投げとったら、・・・」

読んでいて、頭が痛くなってきた。これは、英語以前に、日本語が作文の体をなしていない。だからこれを例え綺麗に英語に直したところで、おかしな文章になる。

「何や、由璃ネエ。変な顔して」

「あのさ・・・これ、提出期限はいつまで?」

「来週。だから、今日と来週の授業で、何とかなるやろ?」

「・・・」

仕方がない。何とか手伝ってあげないと。提出物が遅れると、評点だって下がる。私は和英辞書を持ち出し、一つ一つ調べ始めた。

「なあ由璃ネエ、『なんたって』って英語で何や」

知らない。私は一応、和英辞書で調べたが、やはり載っていなかった。

「なんやその辞書。使えんな。じゃあ、ネットで検索や」

そう言って四葉はケータイを使い、「なんたって 英語で」で検索を始めたが、いいものが出てこなかった。その代わり、「なんてったって」が、複数ヒットした。恐らく小泉今日子の「なんてったってアイドル」の英訳が、沢山紹介されているからだろう。

「なあ、別にこれでええんちゃうか? ほら、この人、『なんてったって』は『Look at me!』って言うてるで」

「いや、おかしいでしょ、文法的にも『My best memory is look at me.』って」

「ええやん。訳したら、『私の一番の思い出はなんてったって』になるし。はい、これで前半は終了や」

それからは、ずっともうカオスだった。私たちは一語づつ、ああでもない、こうでもないと議論し合い、どんどんとデタラメな英文を紡いでいった。きっとこの文章をネイティブに見せたら、酷すぎて、卒倒するに違いない。

「先生、全部できたよ」

授業も終盤になり、菜純ちゃんが私に声をかけた。ほとんど何も教えていないのに、今日の単元もパーフェクトだった。本当に毎回毎回、申し訳なく思う。

そして私が四葉に、「さあ、四葉。残りは来週にしようか」と声を掛けた時だった。四葉は不意に顔を上げ、「なあ、由璃ネエ。うち、いつくらいになったら、英語話せるようになると思う?」と、私に尋ねた。

「ほら、うち、ここで勉強を始めて、もう1年やん? めっちゃ頑張っとるやろ? だから、あとどれくらいしたら、ペラペラになれるんかな、思うて」

「・・・」

何と返せばいいのだろう。そもそも私自身、ペラペラ どころか、「唇に青のり」も言えないのだ。

「・・・ねえ、四葉は高校を卒業したら、本当にアメリカに渡るの?」

「何やねん、いきなり」

「だって、これからのことなんて、分からないじゃん。気持ちだって変わるかもしれないし」

「変わる予定はあらへんよ」

「だから今はなくても、今後、変わるかもしれないじゃん」

「だから変わるかもしれない予定もあらへん、言うてるやん」

この子と真剣に議論するのは、不毛すぎる。

「でも、何の身寄りもないのに、いきなり向こうに行くって、やっぱり無謀だって」

「・・・ないこともあらへんで」

「え?」

すると四葉はニヤッと笑い、私と菜純ちゃんにだけ聞こえる声で、

「ほら、うちの母ちゃん、離婚しておらんくなったって、前に言うたやん? でも実は今、母ちゃん、アメリカにおんねん」

「えっ!」

「周りには内緒な。特にうちの親父には」

そこにタイミングよく授業が終わったちーちゃんが来て、「よっちゃん、一緒に帰ろう」と声を掛けてきたので、それ以上、私は詳しくは聞けなかった。

産後、すぐに離婚して消えた母親。そしてその母親が今、父親には内緒でアメリカに住んでいる。

「そんなの、子供が言っていることだ! これから高校に入って、夢なんてコロコロ変わる。そもそも海外に渡って、歌手になんてなれるわけがないだろう?」

正直なところ、松尾さんが言っていることに、賛同できるところもあった。

しかし、これで四葉が、無計画ではないことが分かった。何らかの当てがあり、それに向けて、こうして今、英語学習に励んでいるのだ。

しかし、今日のこの一時間の学習が、四葉のスピーキングにおいて、そして彼女の将来において、何の足しになったのだろう。何だか全然、「別のこと」をしたとしか、私には思えない。

そう、音も聞かず、発さず、ネット情報などで組み立てたデタラメ英語をノートに書いて、1時間が終わったのだ。そして今日あの子に出した宿題も、また文法問題や単語暗記だ。

「こんなので・・・話せるようになるわけなんて・・・ないじゃん」

四葉が去り、ポツリと呟いたその本音を、まだ席に残っていた菜純ちゃんが、目を丸くして聞いていた。

3-2「英語に振り回されて」

「えっと、ハーイ、ナイストゥミーチュー。アイムタケシ」
「ハイ、ナイストゥミーチュー、トゥー。マイネームイズシンゴ。プリーズコールミーシンゴ」

今日は、第二回目の英会話研修である。

ちなみに研修は冒頭にTOEICの小テストが実施され、その後は各自、5〜6人に分かれ、日本人同士で、グループレッスンが行われる流れとなっている。

「ハイ、シンゴ。ハウアーユー?」
「アイムファイン、サンキュー。ハウアバウチュー?」

レッスンで使われるフレーズは予め校舎に送られており、それに基づいてロールプレイングが行われるのだが、それらを覚えてきている社員はほぼ誰もいなかった。みんなチラチラとカンペを見ながら、話している状態である。

「You did a great job!」

そして今回から、アドバイザーとして、ネイティブ講師が一人加わっている。各グループを、それぞれフィードバックして回るのだ。

しかし、私はみんなの英語を聴きながら、どんよりとした気持ちになった。

「えっと、マイホビーイズ、リスニングトゥミュージック」
「オー、リアリー? ホワットカインドオブミュージック、ドゥーユーライク?」

そう、私は大学時代、こうやって英会話スクールでグループレッスンを取り、英語が口から全く出ず、モチベーションが折れてしまったのだ。

手元のレジュメを確認すると、今日が「自己紹介」で、来週以降は「道案内」、そして「日本の文化紹介」などのテーマがズラリと並んでいる。

きっと、大学生時代と比べて、何の成長もないはずだ。いや、それどころか、下手にさえなっているだろう。そう、最近はスピーキングなんて、何にもやっていなかったのだから。

「ええっと、マイフェイバリットバンドイズ、ミスチル? ドゥユーノー、ミスターチルドレン?」

それは、ここにいる社員たちもそうだ。彼らも毎日のように、子供に英語を教えているのに、英会話になった途端、中一レベルの英文すら怪しい。

「若松さーん!」

その時、いきなり廊下の方から大きな声が飛んできて、私はビクリとなった。

振り返ると、教務の黒川さんが、ドアの向こう側から、私を睨んでいた。

「少し、別室まで来てもらってもいいですかー?」

場内がザワザワとした。しかし、私にはどうして呼び出しを受けたのか、おおよその検討はついていた。

ー「このテストの結果は、一体何ですか?」

別室に呼ばれ、黒川さんは、今日の研修の冒頭に実施された小テストの結果を、バンと無造作に机に置いた。やはり、もう採点を終えたのか。

「ちゃんと勉強してきたんですかー? 今回、若松さんが一番点数が低かったですよ?」

100点満点中、私の結果は60点だった。合格ラインは80点だったので、あまりにも低すぎて、その場での呼び出しとなったに違いない。

もちろん、勉強はした。しかし、正直なことを言うと、身が入らなかったのだ。

「何があったんですかー? いつも、この手のテストがあったら、上位の常連じゃないですか? しかも、得意な英語でしょう?」

その得意だと思っていた、英語だったからだ。

「何かあったんですかー? 体調が悪かったとか? とにかく、理由を教えてください」

私は本当のことを答えたくはなかったが、ようやく小さい声で、

「その・・・あるのかな、と思いまして・・・意味が」

「え?」

「あの、その・・・この小テストの意味は何ですか? TOEIC対策ですよね? でも、本来の目標は『英語で授業をする』ということでしたよね? その・・・この勉強と、英語で授業をすることが、重なっているのかな、と・・・」

言っていて、自分でも驚いた。そう、私は普段、こうして上層部に意見をすることなど、今まで一度も無かったのだ。そのため、黒川さんも目を丸くしていた。

「意味はあるでしょう? 『同じ英語』なんですからー」

「でも、英語で授業をする、ということは、『子供たちとのコミュニケーションを英語でする』ってことですよね?」

「そうですよ」

「じゃあ、子供たちとの会話って、こんなTOEICの試験に出てくるような、堅苦しいものじゃなくて、『唇に青のりがついている』とか『うっそピョーン』みたいな、どうでもいいようなことなんじゃないかと思いまして・・・」

言った瞬間、黒川さんの顔がムッとなった。

「じゃあ、私にそんな『どうでもいい』ようなテストを作れ、と?」

「いや、そうじゃなくて・・・」

「でも今、あなたはそう言ったんですよ? 『唇に青のりがついている』や『うっそピョーン』みたいな、どうでもいいものが必要だー、って。でも、そんなことを一つ一つ出していたら、キリがないですよね?」

「そ、それはそうですけど・・・ただ、TOEIC対策が完璧にできても、それが授業に生きてくるのかな、と思いまして・・・」

すると黒川さんは、フンと鼻で笑い、

「いいですかー? 英語がペラペラな人は、みんなTOEICが高得点です。大は小を兼ねる、と言うでしょー? だからスコアが取れれば、そういったものも、自然と分かるようになるんです」

「・・・なるんでしょうか?」

「え?」

「そうじゃなくて、『TOEICのスコアだけ取れて、英語が全く話せない人』になっていくんじゃないでしょうか? ・・・そして、そういう、『生活に密着した言葉』は、いつまで経っても、身につかないような・・・」

「ねえ、若松さん。あなた、ただ単にテスト勉強をやりたくないだけなんでしょう?」

「ちっ! 違います! ただ私は、まずやるべき前に、そこを整理しないといけないと思うんです」

「もう、全くいつまで経っても、先週の桜井みたいな、学生気取りな社員が多くて困るんですよー。いいですか? 会社とは、理屈通りで動いているわけじゃないんですよ? TOEICのスコアアップは、会社の『決定事項』なんです。だから、意味があるとかないとか、そんなことはあなたにとってはどうでもいいでしょう? 上がやれ、と言った以上、やらなきゃいけないものなんです」

「そ、それは、分かりますけど・・・」

そう、その「社会の理屈」は分かるのだ。しかし、こと英語に関していうと、やはりどうしても気持ちが乗らないのだ。

「ねえ、若松さーん、まさか先週の桜井なんかに影響を受けたんじゃないでしょうねー?」

「い、いえ」

「じゃあ、何があったんですかー? 今までこんなことを言う人じゃなかったでしょう?」

「そ・・・それは、それはあの後、ゆ」

「ゆ」と言ったところで、私は何とか思いとどまり、言葉を濁した。そう、私が有紀さんと接触したことを、社内の人間に言うのは得策ではない。

「? ・・・まあ、ひとまず今回はイエローカードということでー。そしてまた次回、こういうことになれば、次の査定にも響きますので、注意して下さいね」

「あ、はい・・・すみません」

恐らく私の顔に、不満の色が出ていたのが、分かったのだろう。黒川さんは「他に何か、言いたいことがあるんですかー?」と、聞いてきた。私はこの際だから、と思って意を決し、

「・・・あの、その・・・実は、今日のグループレッスンなんですけど・・・」

「グループレッスン? TOEICじゃなくて、今度はそっちの方ですか?」

「あ、はい。あの・・・その、あれって、意味があるんでしょうか?」

「はいー?」

「あの・・・その、実は私、以前、英会話スクールに通っていたことがあるんですけど・・・」

それから私は黒川さんに、学生時代、英会話スクールで失敗したことを伝えた。

すると黒川さんは、鋭い目で私を睨みつけ、

「英会話スクールで話せるようにならなかったのは、ただ単に、あなたの努力不足のせいじゃないですかー?」

「え・・・」

「どこまで真剣にやられたんですかー? 本当に努力したんですかー? どうせ遊びに行ったり、アルバイトでもしてたんでしょー?」

「そ、それは・・・」

「結局、あなたの言う『努力』とは、その程度のものなんですよ。そもそもしっかり勉強していたんだったら、転職してうちになんか来ていないでしょー? 英語ができれば、外資系企業にだって就職できていたはずです。ツケが回ってきたんですよ、学生時代に遊び呆けていた」

思わず、グッと拳を握った。この人に、そこまで言われる筋合いはない。

「英語なんて『ただの慣れ』でしょう? 外国人と話していれば、ペラペラになるんじゃないですか? そしてこの研修だけで話せるようにならないと思うんだったら、家でオンラインレッスンでも取ればいいでしょう? そういうのを全部やって、本当に努力してから、私に文句を言ってくださいね」

反論したい気持ちを、グッと堪えた。そう、私は学生時代、出会い系にまで手を出したのだ。

「もう、今後のレッスンは全て発注済みです。この方針に変更はないと思って下さい。若松さんがしないといけないのは、それに意味があるかどうか考えることではなく、どうすれば研修で英語の結果を出せるか、です」

私は深く一礼し、別室を出た。情けなくて、悔しくて、涙が出そうだった。

そして研修室に戻った時だった。場内がザワザワとしているのに気付いた。何だろうと思い、みんなの視線を辿ると、そこには一人の若い女性の姿があった。

「I have a passion for helping all of my students become good English speakers.That’s why I chose to work at this school.Do you have any questions for me?」
「の、・・・・ノー。さ、サンキュー 」

まるでネイティブ並みの流暢さで、グループレッスンを無双している。え? 誰? こんな英語を喋れる社員、うちにいたっけ?

「急遽、中途採用されたんだってさ」

「え?」

私の気持ちを察した隣の同期が、小声で説明してくれた。

「帰国子女なんだと。どうやら、バンバン帰国子女向けに、採用広告を出しているらしい」

驚いた。でも、確かに初めから英語を話せる人材を登用したほうが、育成するよりも遥かに楽だ。

「ホント、英語が喋れると得だよなあ。それだけで今の時代、学歴だって軽く凌駕するからな」

それは私も、最近思っている。というのも、日本で頑張って、名の知れた大学を出るよりも、向こうの大学を出た方が、ウケがいいのだ。

「あいつ、まだ23とからしいけど、もう準マネージャー待遇らしいぜ」

「えっ!」

「だからうちらよりも、金もらってんだよ。でもそれって、おかしくないか? この会社で数年働き続けている社員よりも、評価が高いって」

あまり私は、お給料に関しては気にしない方である。しかし、私よりも若く、しかも入社したばかりの子が、勤続年数の長い私よりも待遇がいいのは、やはりムッとならざるを得ない。

「今後どんどん、校舎に配属していくらしいぜ。帰国子女がスタッフのスクールって言うと、聞こえもいいしな。そしてうちらみたいな、受験英語だけできて、話せないスタッフは、どんどん肩身が狭くなっていくよ」

「・・・」

つまりそれは、「英語の話せる年下」が上司になっていく、ということだろう。そうなったら、私は耐えられるのだろうか。

「あー、マジで英語をペラペラになりてえわ。でも、どうすりゃいいんだ? 出会い系でもやってみるかなあ・・・なあ若松、どうすればペラペラになれると思う?」

何なんだろう、一体。どうして私たちはここまで、英語に振り回されているんだろう。

3-3「彼女の名は」

「お次でお待ちの方、こちらへどうぞ」

「あ、はい」

研修の後、私は一人で例のカフェに寄ることにした。今日はこの後、授業が入っているので、校舎に戻らないといけないのだが、ひとまず私は一旦、気分を変えたかった。

「合計で760円になります。当店のカードはお持ちですか?」

「あ、はい」

半ばボーッとしていた私は、慌てて財布の中を探った。そしてそれと同時に、ハッとした。そうだ、確かこの店員さん、先週、ペラペラと英語で接客していた子だ。

どこをどう見ても、普通の日本人である。それなのに、この子はペラペラと英語を話せるのだ。何だかそれが、とても不思議に思えた。まるで一人の体の中に、「二つの人生」が宿っているような。

「? ・・・どうか、なされましたか?」

「あ・・・、あ、いえ。すみません」

よく見ると、顔も可愛い。もしも大学生だとしたら、在学期間中に留学でもしたのだろうか? いや、それとも生まれた時から向こうにいて、日本に帰ってきたのだろうか。

私は英語が話せる人を見つけたら、ふと一人一人「どうやって英語が話せるようになったんですか?」とインタビューして回りたい気持ちになる。一体、どんな集計結果になるのだろう。

私は窓際の席に座り、ぼんやりとこれからの英語学習について、考えた。

「鳥は翼を使って飛ぶんです。飛行理論で飛ぶんじゃないです。だから、鳥は産まれてから必死に、『翼を動かす練習』をします。同じく僕たちも生まれてから、必死に耳と口を使って、言葉を習得します。つまり、その器官の『運動』です。だから、私たち僕たちも、英語を『勉強』から『言葉』に捉え直した方がいいと思うんです。話者をゴールに考えるなら」

有紀さんはそう言っていたが、動かしようにも、頭の中で英文が作れないわけなのだから、動かしようもないではないか。まだ私には、分からないことだらけだ。

ふと私は、財布の中に入れた、有紀さんの名刺を取り出した。

「葛城有紀 英会話教室・学習塾」

その名前の下には、住所と電話番号が書かれてあった。

できれば、今すぐにでも電話をして聞いてみたい。しかし、もちろん私と有紀さんは、そんな距離感ではないし、そもそもこれは電話で話す内容でもない。

諦めて、名刺を仕舞おうと思った、その時だ。電話番号の下に、何か文字が書かれていることに気付いた。

「松尾さんに止められたとしても、いつでもどうぞ。口外はしませんので」

読んだ瞬間、思わず、ブルリと鳥肌が立った。あの人、いつの間にこんなメッセージを。

そう、確かこの名刺をもらったのは、一番初めの時だ。そして、その後すぐに私は名刺を仕舞ったので、つまり「貰う時点」で、このメッセージは書かれてあったことになる。

ということは、だ。有紀さんは読んでいた、ということか。私が会いに行くのを止められる運命を。

今までヤバい人だ、と思っていたけど、想像以上なのかもしれない。

もちろん私は行きたいと思ったが、やはり松尾さんのことも考え、校舎に戻ることにした。そう、やっぱり上司命令には従わないと。

一人、トボトボと駅に向かい、私はプラットフォームへと続く、長い階段を上がった。開けた視界は目が痛くなるほど、夕陽でキラキラと輝いていた。

私が乗るのは1番線である。約30分くらいで、塾のある駅に着く。しかし、逆の2番線の電車に乗れば、同じく30分くらいで、有紀さんの英会話教室がある駅に着く。

ーできれば、反対側の電車に飛び乗りたい。

そう考えていた時、目の前に学生服を着た、一人の女の子が現れた。そしてその顔を見て、思わず私は、「あっ」と小さな声を漏らした。

「? ・・・あっ、先ほどの」

どうやら向こうも私に気付いたようで、ちょこんとお辞儀した。

そう、その子は先ほどのカフェで働いていた、例の「英語の話せる店員さん」だった。シフトが明けたのだろう。「いつもどうもありがとうございます」と、私に頭を下げた。

「あの・・・すみません、高校生だったんですね。つい、ビックリして。てっきり、大学生かと」

「え? そうですか? 友達からは逆のこと言われるんですけど。高校生以下だって」

そう言って、クスクスと女の子は笑った。その笑い方が、どことなく有紀さんと似ているような気がした。

「あの・・・先週、英語・・・話していませんでしたか?」

「え? ああ、聞かれていたんですか? はい、英語は普通に話せるレベルだと思いますよ」

「ど! どうして話せるんですか? 帰国子女なんですか?」

思わず声が大きくなってしまい、向こうは少し驚いたようだった。

そして慌てて私は、自分が今、英語のスピーキングの勉強をしていることを説明すると、女の子は「ああ、そうなんですね、だからですか」と微笑み、

「私、学校で英会話サークルに入っているんです。そこに留学生が何人もいて、その子たちと話したり、遊んだりして・・・あと、アルバイトでも外国人の方が多いですからね。段々慣れてきました」

なんと。てっきり帰国子女だと思っていたが、国内で英語が話せるようになったのか。しかし、学校の英会話サークルやカフェのアルバイトは、もう社会人になった私が取れる方法ではない。

私が「そうなんですね。じゃあ、学校や職場で話せるようになったんですね」と、肩を落とすと、その子は、

「違うと思いますよ」

「え?」

「私、中3の時から、『英語の話者』になることを想定して、毎日音読をしたり、口頭練習をしてきましたから。それが一番大きいと思います」

私はポカンとなった。

「もちろん、英語を話す環境があるに越したことはないんですけど、サークルやバイトは毎日あるわけじゃないですし。それに私、メインは吹奏楽部ですから。だからあくまで、週にちょっとあるサークルやアルバイトは『実践する場』にすぎなくて、コアは『一人での練習時間』なんですよ」

「え? 練習時間・・・?」

こんなこと、高校生が言う? 言うのであれば、「勉強時間」じゃないの?

「結局『英語を話す』って、口を動かす運動ですからね。ネイティブから乗り憑ったりするものじゃなくて、『声に出して育んでいくもの』だと思っています」

「え! ・・・あ、あなた・・・もしかして、有紀さんの教室に通っているの?」

「え? 有紀さん? それってもしかして、葛城有紀さんのことですか?」

びっくりした。まさかこの子、有紀さんを知っているとは。

しかし、詳しく尋ねると、どうやらこの子は有紀さんの教え子ではなく、過去に一度、会ったことがあるだけのようだった。

そして私も、自分が塾講師であることと、また有紀さんが職場の古い先輩で、先週一度会ったことがあることを説明した。すると、向こうも私の大まかな状況を察してくれたようで、

「実は私が中学3年生の時の英語の先生が、有紀さんの教室に通っていたんですよ」

なるほど、そういうことか。それで納得がいった。きっと今の言葉は、有紀さんからその英語の先生に流れ、そしてこの子に辿り着いたのだ。

「私が今、こうして英語が話せるようになったのも、桜木先生のおかげです。あ、その英語の先生の名前です」

「桜木、先生・・・」

「桜木先生も昔、英語が話せなくて、苦労していて。だから私に、色々教えてくれました。『英語は日本語に訳して終わっていちゃダメだ。そうすると、英語が日本語の養分になっていくから、何度も何度もイメージして、英語を口にしていかないと。今まで通りの学び方をしていたら、自分みたいに将来、英語で苦労するよ』って」

英語が日本語の養分になっていく? どういうこと?

「でもそれって結局、有紀さんの言葉なんだと思いますよ。桜木先生、その教室に入ってから、教え方を色々と変え始めましたから。それで結構、上と揉めちゃったりしていましたけど」

そう言って女の子は、クスクスと笑った。恐らく、当時のことを思い出しているのだろう。一体、昔に何があったのだろう。

「あれ? じゃあ、その・・・お客様も、有紀さんの教室に通われるんですか?」

「あ・・・うん、いや、どうしよっかなあって思って・・・その、仕事で忙しいし」

うん、その可能性は、まずないだろう。そもそも、有紀さんに会うこと自体が禁止なのだ。

「ちなみに有紀さんと一緒に、変な人がいませんでしたか? 背の高い、美人の」

「え! あの人も知っているの?」

思わず声が大きくなった。

「本当にハンパないですよね、あの人」

そう言って、女の子はクスクスと笑った。

その時、プラットフォームにアナウンスが流れた。どうやら、1番線と2番線に、ほぼ同時に電車が到着するらしい。

「どちらに乗られるんですか?」

「私、1番線。これから授業があって」

「あ、じゃあ私と方向が一緒ですね」

何て落ち着いている子なんだろう。機転も効く。そして、これで英語だって話せるのだ。

横に並んでいて、何だか自分が、無価値なような人間に思えて、情けなくなってきた。

恐らくだが、私はこの子よりも英語を沢山勉強してきたと思う。お金だって掛けてきた。それなのに私のスピーキング力は、この子に全く及ばないのだ。なんて、なんて「張りぼての英語」なんだろう。

「あれ? どうかしましたか?」

私の顔が沈んでいることに気付いていたのか、女の子が心配そうな顔で覗き込んでいた。

「いや、大丈夫。全然」

無理に私は笑ったが、

「私は一人で帰りますよ。だから、大丈夫です」

「え?」

「違うんじゃないですか? 乗る電車が」

「! ・・・」

「行き先、本当に合っていますか?」

ーな、何・・・なの、この・・・子? どこ・・・まで・・・察しているの?

「すみません、桜木先生と雰囲気がよく似ていて。生徒想いで、そのためなら、上にも抗って。だからきっと今、あの時と同じシチュエーションなのかなあって」
「あの時・・・?」

一体、何があったんだろう。

「絶対助けてくれるはずですよ、あの二人なら」

「え?」

女の子は優しく微笑み、

「子供に英語を教えていて、色々とはあると思いますが、これだけは断言できます。私は桜木先生に出会えて、本当にラッキーだったって。心から」

「! ・・・」

ふと、この子の顔に、四葉の顔が重なった。

ー「しかも、このイラスト、昨日頑張って描いてきてくれたんやろ? どんだけ時間かかった? 昨日ちゃんと、寝られたんか? 顔、昨日よりも疲れとるやん。授業の始めから欠伸だって、何回も我慢しとるし。生徒だって、うちだけちゃうやろ? 生徒一人にどんだけ全力投球してんねん」

ー「とにかく英語だけは話せるようになりたいんや。向こうに行っても、全然英語話せんかったら、友達だってできへんやんやろ? 歌だって歌えんし。だから、日本におるうちに話せるようになっとかんと」

胸がギューッと、締め付けられるような想いがした。

「ほら、向こう側にも電車が来ましたよ」

「あ・・・うん、そ、そうだね、ありがとう」

私は小さく頷き、1番線へと踵を返した。

すると女の子が大きな声で、

「あ、すみません! 良かったら、皆さんによろしく伝えください。きっと私のこと、まだ覚えていると思うんで」

「あ、うん、分かった・・・あ、でも、ちょっと待って! あなたの名前は? まだ聞いていない」

「あ、そっか、そうでしたね。私の名前は、佐藤、・・・」

その時、2番線に電車が滑り込み、名前の部分が騒音で掻き消えてしまった。

「ゴメン、今、後ろの方が聞こえなかった! 佐藤何さん?」

「すみません、間違えました! 今の苗字でした、それは」

「え?」

電車に乗り込んだ女の子は、くるりと私の方を向き、

「当時と苗字が変わったんです。私、葵です」

「え?」

「月島、葵。そう、皆さんにお伝え下さい!」

同時に、電車のドアがプシューッと閉まった。月島、葵さん。それが、あの子の名前。

3-4「ピンクとオレンジ」

結局私は、嘘をついて授業を休むことにした。

「あ、ゴメン、砂ちゃん。研修が終わって、今から帰ろうと思っていたんだけど、実はちょっと熱っぽくて・・・今、笠原さんは? ・・・あ、休憩で出ているの? じゃあ、ゴメン、言っておいてもらってもいいかな? 後で自分からも連絡しておくから」

仮病で授業を休むのは、社会人生活で初めてのことだった。しかし、今日というタイミングを逃してしまうと、有紀さんに会いに行く踏ん切りがつかなかったと思う。

ー「行き先、本当に合っていますか?」

葵ちゃんがそう言ってくれなかったら、今頃私は校舎に戻って、悶々としながら英語を教え続けていたと思う。それこそ、今後ずーっと、だ。

英会話教室のあるビルに着き、私はエレベーターで3階に上がった。

しかし、エレベーターから降りた瞬間だ。

「声出せって言ってんだろが! このバカ! 言葉ってのはな、『音のやり取り』なんだよ。眺めてて、演奏が上手くなんのか? 野球見てて野球がうまくなんのか!」

「ひ、ひええ!」

なんと廊下で胴着姿で竹刀を持った吉原さんが、床を這っている山崎さんをズーンと見下ろしていた。

「いいか? 翻訳家になりたいんなら、今まで通りシコシコ文字を母国語に切り替えてな。音もいらん。聞かなくても、口に出さなくてもよい。しかし、『話者』を目指すのなら、話は別だ。ネイティブと同じものを見て、感じて、それに当たる英語を口にしていかないといけないだろう? 日本語に訳して満足していて何になる?」

「で、でも、訳さないと、理解が・・・」

「訳せれば理解なのか、お前の頭の中は? どこまでお花畑なんだ! いいか、訳は訳、理解は理解だ。『to translate』は『to understand』じゃねえ!」

「うへえええ」

す、すごい迫力だ。まるで本当の鬼みたい。

「ったく。今の英語教育、はこんな可哀想な人間ばかり産んでしまうのに、どうして何も変わろうとしねえんだ?」

そう悪態をついた吉原さんは、ふと私の存在に気付き、「何だ、金魚のフンか。遅かったな」と言った。え? どういうこと? 遅かった?

「有紀が『多分、今週くらいには来ると思いますよ』と言っていたけど、今まで何をやっていたんだ? そして唐変木のほうはやはり来ないのか? あのヘタレめ。生徒の未来のためではなく、現状維持に走ったか」

もう、理解が全然追いつかない。

「まあ、いい。有紀からはくれぐれも『優しく接してくれ』、と言われているからな。今、茶を淹れてやろう。そしてその分の厳しさは、そっくりそのままお前に分けてやる」

山崎さんは「ひえええ」とまた悲鳴を漏らした。

「ちなみに茶を煎れる、は英語で何と言う?」

「えっ」

言葉に詰まってしまった。何だろう、お茶を煎れるって・・・?

「おい。お前なら分かるな? 英語で茶を煎れる行為は」

いきなり振られた山崎さんは、私のように「え?」となった後、

「insert tea? あれ?」

その瞬間、吉原さんは悲しげな目で私の方を向き、「な? こんな頭になってしまうんだ。今の日本で英語教育を受けてしまったら」と言った。

その後、教室の中に入ると、時間はまだ7時前だったので、子供の数が多かった。そして教室の奥でまたジョンが、子供たちとカルタ を使いながら遊んでいるのが見える。

どうやら有紀さんは今、留守にしているようで、もう少ししたらこちらに来るようだ。

「茶を淹れている間、別に教室の中を見学しても構わんぞ。気になるだろう?」

そう言われたので、私はひとまず本棚のほうへ向かった。そう、もう一度ここの教室で読まれている本を確認したかったのだ。

相変わらず、大量の英語の本が詰まっている。そしてそのほとんどが児童書で、イラストと音声CDがついているものばかりだった。DVDも多い。

その時だ。一人の男の子が棚からひょいと絵本を取り、自分の席に戻っていったので、私は後ろを追ってみた。恐らく小学校3〜4年生くらいだろう。

しかしこんな子が、英語の本を読んでいるのは、違和感でしかない。恐らく、中3の四葉でも読むことはできないと思う。

もちろん絵本なので文章は少なめだが、主語・動詞などが組み込まれている、しっかりとした文章がズラリと並んでいた。

ー本当にこの子は、理解できているのだろうか。

そう、もしかして、ただ絵を眺めて、楽しんでいるだけなのかもしれないではないか。見たところ、SVOCの文型の文章もあれば、仮定法過去だって混じっている。

そして私はその中に、「sour」という単語を見つけた。日本語訳は「酸っぱい」で、発音は「サウアー」だ。高校で習う単語である。どうしても気になった私は、

「ねえ、ちょっといい? この単語、読めるの?」

すると男の子は、ニカッと笑い、「Sour!」とネイティブ発音で答えたので、私はビックリした。

そっか、でもこの子は音源だって聞いているのだ。そして、音も真似たのだろう。

「ちなみにこれは日本語でどういう意味か、分かるの?」

「え?」

戸惑う少年に、逆に私が戸惑った。そう、その子は「sour」の日本語訳を知らなかったのだ。

「ね、ねえ、君はこの意味、本当に分かっているの?」

「多分」

「どうやって?」

「こんな感じ」

レモン 酸っぱい sour

そう言って、男の子が指を指したのは、「挿絵の男の子の顔」だった。それはレモンを食べて、酸っぱそうな顔をしている。

「だから、梅干しもsourだと思う」

こうして、その子の口からは、一度も「酸っぱい」という日本語訳が出てくることはなかった。それが私にとっては、衝撃だった。そう、「忘れた」のではなく、「なかった」のである。

ちょうど、吉原さんから「さあ、用意ができたぞ。こっちに来い」という声が掛かったので、私は受付へと戻った。

「で、何か私に、英語について聞きたいことがあるんじゃないか? それで来たんだろう? 有紀が帰ってくるまで、今ある疑問は、偉大なる初代学院長が、全て簡潔に答えてやる」

「・・・は、はあ」

いきなり質問をしろ、と言われてもすぐに出るわけでもない。

「色々あるだろう、ここに来て。恐らく、摩訶不思議なものだらけじゃあないか」

それはそうだけど・・・私は辺りを見回しつつ、

「あの、その・・・どうして、ここの子供たちは英語を話せるんですか?」

「話しているからだ」

か、簡潔すぎて、答えになっていない。

「じゃ、じゃあ、何で私たち大人は、六年も英語を勉強しているのに、話せないんですか?」

「話してないからだ」

ひどすぎる。

「ちなみに今のは、質問がおかしい」

私は「え?」と返した。

「六年も勉強したのに、ではない。正しくは、『六年も勉強してしまったから話せない』のだ。勘違いするな」

「は・・・はあ」

頭がついていけない。詳しく説明をしてくれないと。

「で、でも話そうにも、話す環境がないじゃないですか?」

「口と耳があるだろうが」

「え?」

「それだけで環境は十分だ。他に何が必要だ?」

「他にって・・・」

「例えばフルートが上手くなりたいとしよう。その場合、フルートがなければ、練習ができない。それなら分かる。しかし、フルートを持っているくせに一向に練習をせず、『オーケストラやコンサートがないから、フルートを吹く環境がありません』と抜かしていたらどうだ? 力一杯、グーでぶん殴ってやりたくなるだろう?」

「あ・・・はい、それは・・・はい。で、でも、英会話にはネイティブがいないと、」

「だから、甘えるな、と言っているんだ。ネイティブがいなきゃ、話す環境がないと思っているのであれば、英語なんて無理だ。そんな甘っちょろい奴に限って、高い金を払って英会話スクールに行って、カモられて終わるんだ。どうせお前もその口だろ?」

「あ・・・あ・・・は、はい」

有紀さんから、私が英会話スクールで失敗したことを聞いたのだろうか。いや、でも今、そんな感じじゃなかった。

「そもそも『コミュニケーション』という言葉が悪いんだ。よく言うではないか? 英語とはコミュニケーションのツールだ、と」

言う。ハウツー本を見ても、大体そんなことが書いてある。

「いいか? 言葉とは『限定』を掛けてくるからな。誰かが『そういうものだ』と言っていれば、『そういうものだ』と無意識に思ってしまうんだ。そして実際に、自らもそう行動してしまう。言葉は行動を縛ってくる、怖いものなんだ。あの催眠術だって、使うのは『言葉』だろう?」

「さ・・・催眠術なんて、物騒な」

「物騒なことなど、何も言っていないぞ。言葉とは、お前が思っている以上に、すごいものなんだ。その裏に、大量の情報量が眠っているからな」

「は・・・はあ」

「そのため、『英語はコミュニケーションのツール』という言葉が蔓延すれば、いつの間にか『英会話は一人では上達できない』という認識が、社会に巣食ってしまう。ただこれは、『ペラぺラ』という言葉と同じで、偽りだと思え」

偽り? ・・・「英語はコミュニケーションだ」という言葉が?

「確かに言葉はコミュニケーションで使うものだ。しかし、だ。いきなり練習ステージをすっ飛ばして、コミュニケーションから始めようとするから、事態がややこしくなっているのだ。フルートが、ぶっつけ本番のオーケストラで上手くなるわけがなかろう」

確かにオーケストラの前に、自己練習だ。

「いいか? 教えてやろう。お前に足りないのは、環境ではない。一人での『練習方法』だ」

私の胸のど真ん中に、豪速球が突き刺さった。

しかし、そうなのだ。私が追い求めてきたものは。それは、便利なフレーズ集や分かりやすい文法書でもなく、「効果が出る練習方法」なのだ。

「じゃ、じゃあ私、これからどんな練習をすればいいんですか?」

「それは有紀から聞け。説明が面倒臭い」

な、何て勝手なんだろう、ここまで言っておいて。しかし、そもそもながら私はここの生徒でもないし、お金も払っていない。そこまで求めるのは、図々しいのだろう。

「さあ、他にも質問はないのか? 早くしろ、簡潔に答えてやる」

詳しい説明はしないのに、質問だけは人一倍求めてくるのは何なんだろう、この人。

ひとまず辺りを見回し、先ほどの「sour」のことを思い出した私は、そのことを伝え、

「あの、ちなみにここの子供たちは、分からない単語が出てきた辞書を引かないんですか?」

「いちいちいちいち引くわけないだろうが。考える力が育たなくなる」

「は?」

「じゃあお前はどうだった? 子供の頃、絵本や漫画を読んでいて、分からない日本語が出てきただろう? その時、いちいち国語辞書を引いていたのか? 親に催促したことがあるのか? 『お母さーん、国語の辞書を買ってー、意味を調べたいのー』」

「そっ、それは・・・ないです」

「ではお前は、いつから辞書を引き始めた? 覚えているか?」

そんな昔のこと、覚えているわけが・・・と思ったが、不意に思い出した。

「た、多分、学校の授業で、だったと思います。小学校四年生くらい、かも」

そう、確かあれは、国語の授業だった。学校の先生がクラスの人数分の赤い表紙の辞書を用意し、引き方を教えてくれたのだ。

「ということは、だ。お前は小学校四年生くらいまで、辞書を必要としないで生きてきたことになるな?」

確かに。もちろんそれまで、沢山の分からない言葉に出会ってきたはずなのに、何不自由なく生きてきたことになる。

「ではお前は、『酸っぱい』はどうやって覚えた? 辞書で調べたのか、単語帳を使ったのか、国語の教科書で習ったのか?」

「えっと・・・それは多分、実物で覚えたんだと思います」

「だろう? 梅干しかレモンを食べて、恐らくビックリしたはずなんだ。何だこの食べ物は、と。そして、親が『どうだ、酸っぱいだろう?』と言ったのを聴き、そこで『酸っぱい』を理解した」

そうか、だから、辞書がなくても言葉が理解できたのだ。いや、でも例え辞書を引いても、「酸っぱい」は理解できない。舌で、味わわないと。

「そして『酸っぱい』だけではない、『熟れた梨』、『腐った梨』・・・お前はそこで類推していったはずなんだ。見ながら、感じながら、これはこういう意味ではないか、いや、そうじゃないと意味が通らない。そうやって日本語を、自分の感覚と擦り合わせていった」

感覚との擦り合わせ・・・

「では、話を英語に戻そう。もしも分からない単語が出てきたら、お前はそこに、類推する作業を挟んできたか? 想像力を使ってきたか?」

「想像力・・・ですか?」

使わなかった、と思う。分からない単語が出てきたら、すぐに英和辞書を引いてきた。私はそれを伝えると、

「そういうことなんだ、お前の英語との向き合い方は、『これは日本語で何だろう?』でベッタリなんだ」

「そ、それは・・・ダメなんですか?」

「ダメだ。目的地が大きくズレてしまう」

「目的地・・・ですか?」

「英語で何をしたい? 口から出したいのではないか、英語を?」

「そう、ですけど・・・」

「では日本語にしてどうする? 英語は英語のままでいいではないか? そこに英語があるんだからな。訳すなんて勿体ない。ハンバーガーに醤油をかけてどうする?」

も、勿体ない? 訳すことが? 何なの、その発想。

「いいか? お前の頭の中は『英語の対にあたる日本語訳』で一杯なんだ。中学からそれを、みっしりと詰めてきたと思え。そして英語を話す時、『日本語から英語への切り替え作業』を、全部残してきているんだ」

サラリと今、とんでもないことを言われたような気がした。

「しっかりとその勉強と、感覚の修正の時間が取るのであれば、そしてそれができる能力があるのであれば、それでも構わん。しかし、その訓練を全くしないで、いきなりネイティブと話しても、向こうは待ってくれないぞ?」

「うっ・・・」

「彼らは英語の天才なんだ。英作文の天才ではない。だから、その方式では、彼らから『やり方』を教わることはできん」

「だ、だったら・・・私、やっていません。英作文の練習もいつも途中で挫折しちゃいますし」

「なら、ここの子供たち以下だ」

「えっ?」

「聞こえなかったのか? お前はここの子供たちのレベルにも達していない。だから塾でも子供に英語を教えるな。受ける生徒が可哀想だ」

「ッ! ・・・」

反論のタイミングを失ってしまったが、さすがにこの言葉にはムッときた。確かに私のスピーキングはここの子供たち以下かもしれない。しかし、ここまで言われるほどでもないではないか。

その不満げな表情が表に出ていたのだろう、吉原さんは「フン」と言い、

「では、fingerは何本ある?」

「え?」

「お前の体の中に、fingerは何本あるんだ? 答えてみろ」

「そ、それは・・・」

先週、有紀さんが学校の先生に出していた問題だ。あの先生は20本だと答えたが、確かジョンは「two thumbs and eight fingers」と言っていた。

自信なく私は、「えっと・・・・two thumbs and eight fingers」と答えると、

「どうしてだ?」

「え?」

「今、どうして20と答えなかった。足の指はどこに行った?」

「そ、それは・・・」

そう、私が分かっていなかったことを、吉原さんはしっかり見抜いていた。どこまで鋭い人なんだろう。

すると吉原さんは、「Hey, Maki-chan,what do you call these?」と大きな声で、席に座っていた、一人の女の子に、足の指を見せながら尋ねた。そして振り向いたその子は、先週もいた「真希ちゃん」という子で、「They’re toes.」と大きな声で返した。え、トウズ?

「足の指は英語で、『toe』だ。聞いたことがないか? トウシューズとか、トウキックだとか」

「あ! あります。あ、そのトウって、足の指のことだったんですね?」

「だろう? お前の英語力なんて、そんなもんなんだ」

言われて、ギクッとなった。

「確かにお前は文法の知識があるのかもしれない。難しい長文問題も解けるだろう。そしてそれは、あの子にはできない。しかし、お前は足の指を英語で知らないのだ。だから私は親切心から、教えてあげてやっているんだ。お前は今まで英語で生きてこなかった、ずっとお勉強していた、と」

「! ・・・」

「いいか? ここの子供たちは数年後、お前が塾で得意顔で教えているものも、余裕で解けるようになるはずだ。しかし、お前は永久に、この子たちが手に入れているものを、自分のものにはできない。少なくとも、今までのやり方ではな」

目の前にガラガラガラと、鉄格子を下ろされたような気がした。しかしここまで断言されると、逆に心地良さも感じた。乱暴な言葉の裏に、「優しさ」も感じる。

「あ・・・あの・・・じゃあ、どうやって私は英語を覚えればいいんですか?」

「そのままだ。英語は英語で覚えろ」

「で、でも・・・」

すると吉原さんは、「仕方ない、教えてやろう。特別サービスだ」と言い、机の引き出しから、数枚の折り紙を取り出した。

「さて、ここに折り紙がある。私がこれを順不同で出す。そしてお前はそれを何色か、日本語で答えるんだ」

「えっ、日本語で、ですか?」

「ああ。行くぞ」

「えっと、黄色・・・赤・・・オレンジ、黒、青、ピンク、灰色、緑、水色、紫」

パッパッパッパッと出される色紙に、私は順に答えていった。もちろん、全部瞬時に答えられた。

「よろしい。ではもう一度だ。いいか? 今度は英語で答えろ」

「え、英語で、ですか?」

「いくぞ」

そう言って、吉原さんは先ほどと同じ順番で、折り紙を私に出した。

「ええっと、い、yellow, えっと・・あ、re, red, orange, えっと、く、いや、ぶ、black、えっと、ブ、ブラ、いやblue, pink、灰色・・・灰色ってええっと・・・」

もう、ガチャガチャだった。むしろ、こんなにスムーズに出てこない自分に、ビックリした。そして、「灰色」と「水色」が出なかった。

吉原さんは「フン」と鼻で息をし、次に真希ちゃんを呼び寄せ、同じようにして、折り紙を出した。すると真希ちゃんは、「Yellow, red, orange, black, blue, pink, gray, green, aqua, purple.」と、スンナリ答えられた。そうか、「灰色」は「gray」で、「水色」は「aqua」でいいのか。

「練習したからだぞ」

「え?」

「子供だから脳みそが柔らかいとか、間違えを恐れないとか、そんな造りあげられた『嘘っぱちの理由』じゃない。有紀が毎日のように、練習させたんだ。だから答えられたのだ」

・・・練習。

「私、中3の時から、『英語の話者』になることを想定して、毎日音読をしたり、口頭練習をしてきましたから。それが一番大きいと思います」

そう言えば、葵ちゃんもそんなことを言っていた。

「ちなみに、お前は先ほど、2色だけ『瞬時に答えられた色』があるが、覚えているか?」

「え? 2色・・・ですか?」

私は折り紙を渡され、その中から「ある2色」を選んだ。

「よろしい。では、なぜこの2色は、楽に言えたのだ?」

そう、それは「ピンク」と「オレンジ」の2色だった。

「そ・・・それは・・・もしかして、日本語でも『ピンク』、『オレンジ』と言っているからだと思います」

「そうだ。お前はこれを和名の『桃色』や『橙色』で覚えなかったのだ。そして、日常でもピンクなものを見て『pink』、オレンジなものを見て『orange』と呼んで、日々練習してきたんだ」

確かに、そのままスッと出た。脳内で変換がなかった。

「これで分かっただろう? 問題の本質が。『black』を『黒』で覚える必要が、本当にあるのか? どうして『blue』は『青』で覚えないといけない? 『blue』なものを見て、『blue』と覚えればそれでいいではないか? 口から英語を出したいなら、日々そうやって練習していけばいいだろう? それなのに、どうして学校や塾では今でも大昔と同じやり方で、『blue』を『青』と指導する? 『pink』は『ピンク』でOKなのに、どうして他の色はダメなんだ? その線引きはどこに引いている?」

「そ・・・それは」

「もちろん色だけではないぞ。『soccer』は『サッカー』だろう? 『蹴球』にしなくても『サッカー』と書けば丸だ。しかし、なぜ『baseball』は『野球』と書かせる? 『ベースボール』だと、ダメなのか? それなら『ruler』も『ルーラー』でいいではないか? なぜ『サッカー』は丸で、『ルーラー』はバツなんだ?」

あ・・・あ・・・あ・・・言われてみれば、確かに。

「いいか、お前らが必死にやっている勉強は、向こうのネイティブは1ミリたりともやっていないからな」

「え?」

「1ミリたりとも、だ。お前らが6年かけて、寝る時間を削ってシコシコやっているお勉強は、向こうでは誰一人、していないんだ。そうやって彼らと『全く別のこと』をしているくせに、『将来ネイティブみたいにペラペラになりたい』と、お前らは抜かしているんだ」

「・・・あ・・・あ」

頭の裏側から、ベリベリベリベリと、何かを乱暴に剥がされるような感覚がした。

その時だ。アップルが「ワンワン」と吠え、ドアが開いた。

「あ、若松さん。やっぱりお越しになられましたね」

入ってきたのは、有紀さんだった。私は「こ・・・こんにちは」と頭を下げた。

すると有紀さんは後ろを振り返り、「さ、どうぞ」と声を掛けた。あれ? 後ろに生徒さんでもいるのだろうか。

それから少し遅れて、ブスッとした顔で入ってきたのは、何と先週ここに乗り込んできた、例の女性教師だった。

3-5「数千時間の誤算」

「・・・里山中学で英語科を担当している、猫田と言います」

そう言って、猫田先生は受付に座った。有紀さんが前回指摘した通り、英語科の先生だった。

「下の名前は何だ?」

吉原さんが、相変わらずの態度で尋ねた。

「な、何で、そんなことを言わないといけないんですか?」

「大事だからだ、名前というものは。それが『言葉の基本』と言っていい」

猫田先生はどうしても、そのまま従いたくはなかったのだろう。名刺入れから自分の名刺を取り出し、机に無言で置いた。見るとどうやら、「猫田真紀子」と言うらしい。

「で? あなたの名前は?」

「上を見ろ」

そう言って吉原さんは頭上を指差した。すると、そこには額縁に入れられた「初代学院長 吉原龍子」という名前が見えた。そうか、吉原さんの下の名前は「龍子」というのか。だから前回、ジョンが「Dragon」と呼んでいたのか。

しかし、すごい構図である。学校の英語教師と、恐らく学校英語を忌み嫌う吉原さんが、真向かいの状態で座っているのだ。

「それで若松さんは今日は研修の後、そのままいらっしゃったんですか?」

あえてだろう、有紀さんが柔らかい口調で尋ねてきた。

「あ、はい。その後、少し喫茶店に寄って・・・あ! そ、そう言えば私、そこで葵ちゃんに会って! ご存知ですよね?」

「葵ちゃん、ですか?」

「あ、はい。その・・・以前、有紀さんたちと、会ったことがあるって。そして、その子の担任の先生が、桜木先生って方らしくて」

「あ、桜木真穂さんのことですね」

すると吉原さんがズイッと、

「あれだろ? 有紀の女の子版。ほら、柔道場で『一本』って叫んだ」

「あっ、あの葵ちゃん? 月島さんですね」

柔道場? 一本? 本当に昔、一体何があったのだろう。

「ちなみに私のことを何か言っていなかったか、葵ちゃんは?」

「あ・・・は、はい。その・・・綺麗な女の人だって」

「やはりな。分かる奴には分かるんだ」

そう言って吉原さんはニヤニヤと笑った。そして、もちろん私は言えなかった。葵ちゃんが同時に「変な人」とも言っていたことを。

その後、私はどうして葵ちゃんと知り合いになったのかを説明した。そしてその間、猫田先生はブスッとした表情で私の話を聞いていた。

「そうなんですね、じゃあ葵ちゃん、正しい道で英語を頑張られているんですね、良かった」

「まあ、桜木が生徒の将来のことを、かなり気にかけていたからな」

あえて「正しい道」というところを、有紀さんは強調したような気がした。

「まあ、今の時代、ああいう先生に出会えればラッキーだな」

そう言って、吉原さんは横目で猫田先生をジロリと見た。

「な、何ですか、その目は。まるで、私が教えている生徒はラッキーじゃない、とでも言いたそうな目ですけど」

「その通りだ、猫娘。よく分かっているじゃないか」

「ッ! ・・・」

は、半端なさすぎ、この人。まだ会って数分しか経っていないのに、な、何なのこの態度。しかも、もうあだ名をつけているし。

「わっ・・・私の何が分かるって言うんですか? どう教えているのか、まだ私は何にも言っていないんですよ?」

「それなら聞こう。どうして日本人は、英語を話せるようにならないのだ?」

「! ・・・そっ、それは・・・」

「この質問に瞬時に答えられないのであれば、普段何も考えずに英語を教えていることになるぞ。どうだ? どうして話せるようにならないんだ? 答えてみろ」

「そ・・・それは・・・話す環境がないから、でしょう?」

「て! てめえ!」

一瞬で導火線に火が点いたようだ。顔を真っ赤にした吉原さんは、近くにあった竹刀を手にした。そして猫田先生は、「ひ、ひいっ!」と身を引いた。

「指導者の分際で、未だに環境のせいだと? てめえ、その根性叩っ斬ってやる!」

何て気が早い人なんだろう。沸点が低すぎる。そして、竹刀が猫田先生の頭上に振り上げられた時だ。ギュッとその手を、有紀さんが抑え込んだ。

「ゆっ、有紀!」

「落ち着いて下さい、学院長。Calm downです」

「しっ、指導者の分際で、・・・それも学校の英語教師が・・・こっ、この時代に、まだ環境のせいにしているんだぞ! これを、どう落ち着けと言うんだ!」

「残念ながら、まだ猫田先生は気付かれていないだけです」

「しっ、しかし!」

「Calm downですって。また、前みたいに揉めちゃいますよ。いいんですか?」

「! ・・・」

有紀さんのその言葉で、急に吉原さんの力が弱まり、竹刀を持つ手が下がった。

「な・・・何だと言うんですか、一体」

ようやく猫田先生が、か細い声で尋ねた。

すると有紀さんはフウと一つ息を吐き、猫田先生に向かって、

「何一つないんですよ、環境がないことなんて」

「はあ?」

「いや、この時代、環境を作ってあげる、気づかせてあげるのが指導者の仕事なんです。だから指導者自らが『環境がない』と言ってしまったら、子供は大人になってから、苦しむことになるんです。環境だけを追い求める、英語ゾンビみたいになってしまう。だから今、学院長は抑え切れず、カッとなったんです」

「・・・どういうことよ?」

「だってこの時代、クリック一つでネイティブの英語は聴けるわけでしょう? ネイティブ が書いた文章だってどこにでも溢れているわけですよね? だからあとは真似をさせるよう、指導者が『適切な指示』を出してあげればいいんじゃないでしょうか? そして、あとは少しずつ実戦を積ませてあげればばいい」

ふと、その時だ。教室の一角から、子供の笑い声が聞こえた。見ると、奥で一人の小学生が、パソコン越しにネイティブと楽しげに会話をしている。

「How long have you been there? Really?」

すごい、まだ小学生なのに、中学3年生で習う現在完了形を、口にできている。 そして、それは猫田先生も同じ気持ちだったはずだ。口が半開きになっている。

「ひとまず、一旦お茶を飲んでからにしましょうか」

ニコリと有紀さんはいつものように笑い、お茶を勧めてきた。よかった。ちょうど私も一息つきたいところだった。

そして私たちは差し出されたお茶を飲みながら、少し雑談をした。しかし猫田先生は終始、ブスッとしていたので、基本的に私が話を振って、有紀さんが答える流れになっていた。

「ここ・・・内装もすごく変わっていますよね。まるで誰かが住んでいるみたいな」

「ええ。昔はもっと酷かったんですけどね。大分整えました」

「酷かったとは何だ、酷かったとは」

「だって学院長、やりたい放題だったじゃないですか。西洋甲冑とか阿修羅像とか」

「大事ではないか? 西洋甲冑があれば、それを見た時や、着ようと思った時に『armor』とすぐに言えるだろう?」

「いや、日常にないですから、西洋甲冑なんて。僕、ここで生まれて初めて、生で見ましたよ。そしてあのままだったら、完全にここ、ゴミ屋敷になっちゃっていましたよ」

「ゴミ屋敷とは何だ、ゴミ屋敷とは。失礼な」

「でも環境は限りなく日常に近づけた方がいい、って最終的に納得されたじゃないですか、学院長も」

「だから西洋甲冑は、私の日常だ」

「いや、多くの生徒さんには違いますから。それに、『教え方は、時代とともに変えなくてはならない』は、学院長から頂いたお言葉ですよ」

「・・・ふん」

すごい。手がつけられないこの人でも、有紀さんは対等に渡り合っている。

「それで、猫田先生は今日、どうしてこちらにいらっしゃっていたんですか?」

有紀さんが切り出した途端、猫田先生の顔が、「ギクッ」となった。そして小さい声で、

「その・・・あの子、いますか?」

「あの子って・・・かっちゃんのことですか?」

「・・・はい、多分」

恐らく鹿島アントラーズの男の子のことだ。そうか、やはり猫田先生は、あの子に衝撃を受けたのだろう。どうしてあんなふうに英語の話者になれたのか、知りたかったのだ。

「サッカーの試合があるって言っていましたから、今日は来ないとは思います」

「そ、そう・・・でしたか」

そう言い、猫田先生は残念そうな顔をし、

「ちなみに・・・あの子はここに通って、何年なんですか?」

「4年くらいだと思います」

「よ! 4年 ・・・ですか? たった?」

猫田先生が大きな声を出した。そして私も思わず口を覆った。た、たった4年であれだけネイティブ並みに喋られるようになったというの? 週に1回くらい、ここに通っただけで?

「真面目でブレないんです、目的が。それに、英語が大好きなんだと思いますよ」

「え?」

「ほら、よく『英語漬け』って言葉を聞きませんか?」

聞く。特に英語上級者がよく言っている気がする。

「言語を習得する場合、ある程度そういう期間が必要だと思うんです。つまり、『母国語をシャットアウトして、その言語を集中的に使う期間』ですね。かっちゃんがしたのは、それです」

「ど、・・・どうやって小学生が、そんな英語漬けにできたんですか?」

思わず、言葉を挟んだ。そう、ここでは普通の塾とは違う英語環境があるにしても、「英語漬け」というプログラムまでは、用意されていない気がしたからだ。

「家でずっと英語のDVDを見たり、CDを聞いたりして、口を動かしてきたみたいです。そして、お母さんも相当バックアップしてくれて。だから、見違えるほど上手くなって、逆に僕がビックリしたくらいです(笑)」

な、何と。あの子はここで「英語漬け」になったのではなく、家の中で「英語漬け」の環境を作ったのか。

「中学に入ったら、サッカー留学をしたいらしいんですよ。だから英語習得に本人がとても積極的で」

なるほど、そういうモチベーションがあるのか。そう言えば確か最近、日本でも有名なプロサッカー選手は、幼い頃からサッカー留学をしていて、ポルトガル語を初め、語学に堪能だと聞く。そう、やはり世界を舞台に考えると、言葉は「活躍の生命線」になってくるのだ。

「なーんだ。じゃあ、あなたが直接あの子に英語を教えたわけじゃないのね?」

「はい。僕はほとんど英語を教えませんよ。というのも、言葉は教わるのではなく、『自分で積極的に覚えていくもの』だと思っていますから。だから本来、教えてはいけないんです」

「教えてはいけない、ですって?」

猫田先生が、高い声で聞き返した。

「だって日本語は手取り足取り、誰かに教わったわけじゃないでしょう? はい、今日は『連体修飾語をやろうね』とか、やりませんでしたよね? 普通に家族や友達と話していたり、本を読んだり、『一人で貪欲に覚えていく力があった』から、自由に話せるようになったんです」

「え?」

「今、日本人は、英語とは『先生から、手取り足取り教わるものだ』という認識で、常識が固まってしまっています。しかし、そうやって癖づけてしまうと、子供はずっと『待ち』の状態になってしまいます。それは習っていないから、覚える必要がない。テストに出ないなら要らない。習っていない文法や単語が出ているものは、読めない。英語に対して、いつしかそんな姿勢になってしまう」

「別に・・・いいでしょう? 学校で習っていないのは、ひとまず受験が終わってからやれば?」

「ダメです、それだと間に合わなくなってしまうんです。英語が自分の人生に」

「はい?」

「本来、生きている限り、子供は色んなものを経験していくわけですよね? 例えば、歯一つとっても、グラグラになった、抜けた、虫歯になった、詰め物をした。こういったものを、僕たちはどんどん日本語で説明できるようになっていきました」

確かに、日本人なら、小学生以上であれば、誰でもその表現ができるだろう。

「そのため、ある程度小学校高学年くらいになれば、大人と意思疎通がしっかり取れるようになります。それは『膨大な経験』を日常を通しながら、日本語で説明できるようになったからです。言語習得にはこうした、『ボリューム』が必要不可欠です」

ボリュームが必要不可欠・・・そういえば以前、有紀さんも「繰り返しのパターン数」が大事だと言っていたっけ。

「そのため、この膨大な量を、後回しにしてしまうと、崩すのに大変になってしまうんですよ。社会人が英語でやられているのは、このボリュームの多さです」

確かに私は先ほど、「足の指」すら、英語で知らなかった。

「そのため、学校英語で生きてきた子供は、貪欲に身につけていった子に比べ、テストにしか通用しない、ヒョロヒョロな英語になってしまいます。でも、それって可哀想だと思いませんか? 本人は先生に言われた通りに、たっぷり英語を勉強してきて、いい成績も取ってきたのに、読書などを通じ、どんどん向こうで使われている英語を摂取している人と、圧倒的な差がついているなんて」

ふと、先ほどの男の子を思い出した。

「だから、梅干しもsourだと思う」

そう、あの子はあの年代で、高校で習う「sour」を手に入れていた。

「だから僕はまず、子供には『興味を持つ、貪欲になれる』という種を撒いておきたいんです。これは英語で何て言うんだろう、これはどう表現すればいいんだろう。こういう英語への好奇心を、できるだけ幼いうちに独り立ちさせてあげる。一人で学んでいく体質を作ってあげる。現地のアニメや本に、触れさせてあげる。聴けるよう、読めるようにさせてあげる。僕の役割は、そこだと思っています」

そうか、だから有紀さんはここで授業をしていないのだ。場所と教材を提供することに、徹している。

「一方で、待ち状態だった人は、受験が終わった後に、置いてきたものを一から覚えていかないといけません。これを働きながら埋め合わせるのは、本当に大変ですよ。なんせ数千時間の作業ですからね」

「すっ、数千時間!」

思わず大きな声が出てしまった。

「だって、名詞だけじゃないですからね。歯がグラグラになるのであれば、『My tooth is getting loose.』、歯が抜けたなら『My tooth fell out.』こうして、形容詞や動詞、そしてそこに副詞のニュアンスなど、全部入ってきます」

確かに知らない。歯がグラグラになるのも、抜けるのも。そもそも先週、歯を磨くことすら言えなかったわけだから。虫歯は? 前歯は? 奥歯は? 歯医者に行くって何て言うんだろう。

「だ、だったら・・・頑張ればいいんじゃないの?」

「どの面下げて言ってんだ?」

「ひいっ」

「そんなもん、どこでどうやって時間を作れると言うんだ? しかもすぐに仕事で英語を使わないといけなくなったら、どうする? そんな数千時間を、どこにはめ込む?」

「・・・」

「ただ単に若い時に、種を蒔いてあげておけばいいではないか? あとは一人でできるだろう? ここの子は誰も強制されて、覚えているんじゃないぞ? 好きで、楽しくてやっているんだ。でも、それも当然だ。教科書みたいに文法を教えるためのストーリーなんて、ここには一つも用意していないからな。現地の子供も食いつくような、面白いものばかりなんだ。だから、子供たちは好き好んで、英語を覚えてくる。それは、理解したいからだ」

「・・・」

「結局指導者が、子供に英語でどうさせたいか、なんです。もちろん、やるやらない、は本人の勝手です。でも、声だけは掛けて、教材も目の見えるところに置いておかないと」

なぜここまで大量に、絵本などを用意しているのが、今よく分かった。そう、子供によって、趣味は違う。だから、ジャンルも沢山揃えないといけないのだ。

「あと、覚えるのもそうだが、『忘れること』だって、ちゃんと計算に入れておくんだな」

「えっ?」

「人間の頭はコンピューターじゃないんだ。一回記憶したら、それが永久に残り続けるわけではない。何度も何度も、覚えなおさないといけない。その時間も計算に入れると、社会人になった場合のハードルは、更に上がる」

そうだ、それもある。日々英語を話す機会などないのだから、リカバリーも必要になってくるのだ。一方、あの子は「sour」を、これからどんどん梅干しなどにも被せていく。自分の人生の中で、少しずつ英語を消化していく。

「だから、大人になってからの英会話は、極めて効率が悪いんです。覚える量も多いし、その分忘れてもいく。覚えたら覚えた分、復習時間も雪だるま式に増えていく。そのため、一日一時間の勉強でも、形になるのは、確実に3年以上はかかる計算になってくるでしょうね。文法の知識がなければ、もっとです。その場合、少なくとも、5年はみないと。そこまでの長期的なプランを、描けるかどうか」

3年から5年・・・もう、気が遠くなる。

「だからこちらにいらっしゃる社会人の方を見ると、そういうのは、子供のうちから癖づけておいた方がいい、とやっぱり思います。だって子供は生きていくだけで、有り余るほどの時間を消費していくわけですから。そこに『英語の種』だけは、撒いておいてあげないと。英語と生きていく、という感じでしょうか」

そう言って有紀さんは、山崎さんの方を見た。山崎さんは、ネクタイを着けながら、「I’m putting on my tie.」などと、呟いている。とても大変そうだ。

「もちろん資格や入試も大事ですから、それを無視するな、とは言っていませんよ。ただ、英語とは入試や試験のためのものだ、という入り口に入らせてしまうと、生活感が削ぎ落とされてしまう。子供たちとの会話を思い浮かべて下さい。みんな、『日常に根差したこと』を口にしていませんか?」

私は思わず「あっ」と小さく叫んだ。

「唇に青のり」
「ま、マジか。給食の焼きそば、食い過ぎたか」
「うっそピョーン」
「おい、なず! 今、必死にこすったやろが」

そう、四葉たちが口にしているのは、こんなことだ。

ふと私は、教室の中を見回し、ゾクッとした。そう、ここにはベッドや犬小屋など、まるで「自分の日常」がゴッソリと再現されてあったからだ。そうか分かった、この教室のコンセプトが。英語と生きる、をしたいのだ。

その時タイミングよく、真希ちゃんがやってきた。そして、その手には一本のマジックがあった。

「Yuki, can I borrow a marker?  Mine ran out of ink. I should ask my mom for a new one.」

その言葉の奥に、真希ちゃんの「日常」が、みっしりと詰まっていた。

3-6「和訳の刃」

「あと・・・英語を日本語に切り替えてもいいんでしょうか?」

「え?」

まるでスパッと一太刀浴びせるように、有紀さんが切り出した。

「『今までやってきて当然』だと思っていたことを、やっぱりゼロから疑う時代に来ているんだと、僕は思っています」

有紀さんは、「はい、Here you go.」と真希ちゃんに、マジックを一本渡した。そして真希ちゃんは「Thank you!」と言い、再びパソコンの方へ戻っていった。

「例えばこれはよくある問題ですが、トイレを貸して欲しい時、英語では『Can I borrow your bathroom?』ではなく、『Can I use your bathroom?』と言わないといけませんよね?」

そう、それは有名な引っ掛け問題だ。そう、確か「borrow」はペンなど、「移動できるもの」にしか使えない。

「しかし日本語では、ペンもトイレも『借りる』ものです。家や土地だって借りられます。それなのに学校では、『borrow』を『借りる』と覚えさせます」

「そ、そんな・・・『覚えさせる』って、人聞きの悪い」

猫田先生はフンと笑って否定したが、

「ではお前は、子供たちがそういう細かいニュアンスを理解した上で、『借りる』と覚えていると思っているのか? 頭がお花畑なのか?」

「! ・・・」

吉原さんの強烈なツッコミに、猫田先生は一瞬言葉を詰まらせたが、

「で・・でも、私はちゃーんと、授業で教えられていますよ。そういう細かいニュアンスを」

「でも実際にテストに出すのは、『borrow』の日本語訳ですよね? 『借りる』と高速に変換すれば、丸が来るような問題を作られていませんか?」

「! ・・・」

「それに仮に猫田先生がそういう教え方ができていたとしても、他の方はどうでしょう?」

有紀さんがこちらを見たので、思わず私は俯いた。

そう、有紀さんは分かっているのだ。私たちの塾では、そんな細かいニュアンスは何一つ教えていない。一律に「borrow」を「借りる」へと高速変換するよう、指導している。

というのもテストにはそう出るし、何よりも「制限時間」だってあるのだ。そういう細かいニュアンスを考えている暇があったら、沢山問題に当たった方がいい。

と、そこまで考えた瞬間に、私はハッとした。すると有紀さんは悲しい表情をしながら、

「結局ですが、最終的にそう流れてしまうんですよ。英語のゴールは、『テスト』にあるわけですからね。そしてそのテストが『borrow』の日本語訳を書く、もしくは日本語訳して、高速に問題を解くというものであれば、子供たちは『borrow=借りる』と、ワンセットで覚えてきます。だから、たとえ単語帳の欄外にそういった細かいニュアンスの説明があったところで、すっ飛ばしてしまうんですよ。『最短で訳せる=正しい』と、思っていますから」

背筋がゾクッとした。そう、有紀さんの言う通りで、そんな細かいニュアンスまで、知ろうとしている子供など、誰一人いない。

「そうなると、です。受験の後に、『borrow』のニュアンスをもう一度学び直さないといけなくなるのは、当然のことだと思いませんか?」

確かに。「borrow」を「借りる」と丸暗記して、「borrow」できるものを想定していなかったわけだから、何が「borrow」できるのか、一からやり直しだ。

吉原さんは、じっと俯いている猫田先生に向かって、

「いいか? 新しく学ぶより、修正の方が何倍も何倍も時間がかかるんだぞ? お前らは、どれだけ子供たちの将来に、負債を残し続けるつもりだ?」

「しょ、将来に負債って・・・そ、それは、言い過ぎでしょう?」

「では受験を潜り抜け、どれだけの日本人が話者になれている? みんな『話者』への段階を前にして、大金を払って散り続けているのを、まさか知らないわけではないだろうな?」

「! ・・・」

「こうして、日本人はどんどんどんどん『英語の深み』にハマっていってしまうんですよ。ただ単に『話せるようになりたい』だけなのに、いつまでたっても『borrow/useの違い』などを繰り返し、それでも何かピースが欠けているように思ってしまう。なぜなら『どれだけそれらを学んでも、全く話せるようになっていない自分がいる』わけですからね。そして、まだまだ自分が勉強不足だと思い、また違う本を買ってきては、何度も何度もやり直す」

家にはそういう類の本が何冊もある。もはや英語で何をしたいのか、意味が分からなくなっている。

「だから僕はもう、『分かりやすい』から、脱する時期だと思うんです。分かったって、話せるわけじゃないんですから」

「え? ・・・違うんですか、『分かる』と『話せる』は?」

「僕たちの日本語も『借りる』のニュアンスを理解したから、『借りる』が使えるようになったんじゃないんですよ? 『借りる』を日常で繰り返し口にしてきたから、『借りる』が使えるようになったんです。そしてその中で、ニュアンスが切り分けられていく」

その時ふと私は、先ほど真希ちゃんがしっかりと「borrow」と口にしていたのを思い出した。

「本当に、英語を日本語との『1:1』で捉え続けてもいんでしょうか。ネイティブは誰一人、そんなことをしていませんよ?」

「そ、それは、でも、当たり前でしょう? なんせ、向こうにとっては、母国語が英語なわけなんだから」

「ということはつまり、『母国語のように英語を学べ』ば、それでいいわけですよね?」

「そ! ・・・そんなこと・・・で、できるわけないでしょう!」

「試されたんですか?」

「! ・・・」

スッと真正面から返す有紀さんに、猫田先生は目を泳がせながら、

「・・・そ、そんなの、試さなくたって、分かりますよ」

「誰がそう言った?」

「ひっ! ・・・」

こ、怖い、吉原さん。

「お前自身、悩んだのか? 手段を考えたのか? 時間をかけたのか? そして、どこまで辿り着いた? その上での結論か、それは?」

「そ・・・それは、、、」

「どうせそんなのは無理だろう、とバカにしているんだろう? まるでうちらを変な新興宗教みたいな」

そう、先週竹本教頭と乗り込んできたとき、明らかにそんな感じだった。

「結局、ここがずっと英語教育の『タブー』になっているんですよ。国内でも『英語を日本語と対にして覚えるな』という声も出ています。しかし、その声は掻き消え、従来通りの教育がドカリと腰を下ろし、いつまで経っても日本の英語教育は何の変化もありません」

確かに何も変わらない。そして、話せるようになるためには、テストにスピーキングを入れればいい、みたいな話になっている。

「そして和訳に関して、僕が見過ごせないのは・・・やはり『リスニング』のことなんですよ」

「リスニング・・・ですか?」

そして、次の瞬間だった。

「I used to practice tennis when I was young.」

いきなり吉原さんが流暢な英語を口にしたので、私たちは「えっ」となった。

「さて、今皆さんの頭の中はどうなっていますか?」

ど、どうなっているって・・・今、私は「tennis」しか聞き取れなかった。

「恐らく、です。今、頭の中は『文字の書き起こし』で、いっぱいいっぱいになっていませんか?」

図星だ。そう、今私は必死に文字データを書き起こそうとしている。

「そ、そんな・・・いきなり英語を聞かされても、こっちにだって『心の準備』ってものがあるでしょう?」

「でも今、『tennis』という音には、反応できていますよね?」

「! ・・・」

「なぜならそれは、生まれてからずっと『て、に、す』という音を聞いて、口にしてきたからです」

確かに、「tennis」の音だけふわりと浮き上がり、耳の中に飛び込んできた。

「結局何年間、英語をどう『癖づけられてきたか』なんですよ。日本人は英語の入り口を、全て文字にしてしまっているので、リスニングをしても、頭の中に必死にテキストデータを書き起こさないといけません。ここを、英語の『起点』になっている」

起点が文字・・・確かに私たちは英語学ぶ際、参考書だったり、字幕だったり、全て文字ありきで学んでいる。

「そして学校や塾では、先ほどのように『英語の文字は全部、日本語に変換しろ』と指導していますよね? ということは、そのテキストデータをさらに全部、日本語順に入れ替えないといけなくなります。もちろん、筆記試験がゴールであれば、別にそれでもいいんですけど・・・やっぱり問題は『聞く』方なんですよ。両言語の語順は、ハッキリ言って『真逆』ですよ。であれば、頭の中に構築したテキストデータを、最終的に『逆回転』させる作業が必要になってきます」

嫌だ、何だか洗濯機に入れられたみたい。

「和訳は読解には有効なんです。漢文のレ点のように、好きなように料理できますから。しかしリスニングは基本、一回しか流れません。だから、日常の会話では一瞬で置いていかれていってしまう。そのため私たち日本人は、会話で分かったフリをして、誤魔化してしまう」

よくある日本人の、英会話レッスンの光景だ。そして私自身、何度も経験してきた。

「もちろん、聞き直す癖をつけるのは大事なことなんですが、やはり限界があります。それに向こうだって、何度も聞き直されれば、嫌がるでしょう? 特にビジネスの現場だと、不利益を被ります」

そうだ。相手は全員、ネイティブ講師ではないのだ。

「それに、当然リスニングテストなどでは『Pardon?』はできませんよ。そのため、『聞き直す癖をつける』よりも、『日本語に訳さないで理解する癖をつける』方が、よっぽど本人のタメになると思いませんか?」

本当にその通りだ。

「『tennis』は『テニス』で、刷り込んできました。だから、不意打ちを食らっても、耳に飛び込んできます。しかし、ほとんどの英単語は和訳する癖がついてしまっている。そもそも、和訳とは『日本語の音に切り替える行為』ですからね。理解するには全部一度、頭の中で日本語の音を再生させないといません」

「頭の中で、日本語の音を再生・・・ですか?」

「はい。ちなみに今までリスニングをしていて、『これ、物理的に和訳作業が追いつくんだろうか?』と思ったことがないでしょうか?」

ある。特に早口でベラベラと機関銃のように話されたら、もう一瞬で置いてけぼりになる。

「一文だけで終わるなら、まだ変換処理は可能なんですよ。音が流れた後に、一度テキストを頭の中で構築し、日本語に切り替える時間が取れますから。しかし問題は、『文章が連なった時』です」

文章が・・・連なった時?

「文字に書かれているものは、同時並行で変換処理ができます。しかし、リスニングは同時並行で変換をするわけにはいかないんですよ。まず音を拾い、一旦文章をテキストで脳内に書き起こす必要がありますから。だから今、日本人のリスニングは、『音を拾う、文字化する、そして和訳する』という3つの作業を同時に行わないといけなくなってしまっているんです」

やだ、もう。槍でグサグサ刺されているみたい。

「そのため日本人の急所は、必然的に『短い音が連なった時』になります。例えば動詞であれば『get』や『take』、前置詞であれば『at』や『on』や『of』、それに接続詞の『if』などです。これらがリスニングに入ると、頭の中が大パニックになりませんか?」

な、なる! しかもそれらが連結されると、もはや音も拾えなくて、ぐっちゃぐちゃになる。

「元々日本語は、音として『ダラダラしている言語』なんですよ。一息で一気に言い終わる英語に対し、日本語は一音一音はっきり母音を付けて、ドタドタしていますから。つまり、向こうが運動靴なら、日本語は下駄みたいな感じでしょうか」

げ・・・下駄と運動靴? そんなの、追いつけないに、決まっているじゃない。

「その中でも厳しいのが、『of』と『if』です。だって、『of』は『〜の』でしょう? 例えば『a member of the team』という言葉が出てくると、私たちはこれを逆回転させて『チームの一員』と訳して理解しなくてはいけません。『the team』の音が出揃わない限り、『a member of』が噛み砕けないんですよ。だから、『of』が出る度に、後ろの音が出揃うのを待たないといけなくなる」

確かに「of」が入ると、頭がフリーズすることがよくあった。

「『if』だってそうです。僕たち日本人は『もし〜だったら』で覚えます。『if節』が全て聞こえた後に、『だったら』という音を付け足して、意味を噛み砕かないといけません。しかし、節がどこで終わるのか分からない上に、その音で拾うのでいっぱいいっぱいになり、どうしても脳の負担が大きくなる」

なぜ、こんな指摘がされてこないんだろう。

「読解は、全部後ろまで書いてありますから、目で文の構成を確認しながら、同時に処理できます。何度だって読める。しかし、そのやり方をリスニングにまで当てはめようとするから、どうしても両言語の『差異』が浮き上がってしまう。その結果、日本の教育現場ではリスニングの問題はどんどん後回しにされ、文字学習に磔(はりつけ)にされているのが、今の英語教育なんです」

ズドンと両手両足首に、太い釘を打ち込まれたような気がした。

「だから僕は、英語を訳し、日本語順に綺麗に並び替える学校の指導方法は、やはりどうしても見過ごせないんですよ。将来、『音』を前に、急所を作り続けることになりますからね。もちろん、『情報処理が速い人』はそれも克服できるのかもしれませんが、学校成績で結果を出せなかった人は、永久に理解できません。だって『まな板の上に置かれた文字の変換』すら、できなかったわけなんですから」

重い沈黙ができた。

すると猫田先生が漸く、重い口を開いて、

「じゃ、じゃあ・・・あなたは一体、どうすればいいって言うの?」

「もちろん、『日本語訳しない道』を模索するしかないでしょう。つまり、『日本語を抜き、音と同時並行で理解する方法』です」

「そ、そんなの、・・・ど、どうやって・・・無理、でしょう」

「だって、『tennis』は日本語にしないで理解できているんでしょう? だったらそれと同じように、『borrow』も『借りる』ではなく、『borrow』するで覚えれば、それでいいんじゃないでしょうか?」

「つ・・・つまり、『日本語を捨てろ』と?」

「いえ、僕が言っているのは、日本語は日本語で、英語は英語で切り分けるべきだ、ということです」

「わ、分ける? ど、どうやって?」

「マジックとトイレさえあれば、可能です」

「え?」

「あとは、『口』ですね。言語の本質は『音』ですから」

「はあ?」

私も「え?」となった。どういうこと?

「習うよりは慣れろ、です。よければ今日、ここの体験授業をやっていきませんか?」

3-7「ついに溢れ出た英語」

その次の日、私はマスクをして、少し遅めに出社した。というのも、昨日は「熱っぽい」と嘘をついて授業をサボってしまったわけなので、具合の悪さを引きずった方がリアリティが増すと思ったのだ。姑息な考えで、我ながら自分のことが嫌になる。

そしてスタッフルームに入ると、案の定、笠原さんと砂ちゃんはもう出社しており、本日の授業についての打ち合わせをしていた。

「あ、おはようございます、若松さん! もう大丈夫なんスか、体調」

心配そうな顔で、砂ちゃんが声を掛けてきた。私の嘘を心の底から信じているから、ますます申し訳なくなる。

「あ、うん・・・ありがとう、大丈夫」

その後、すぐに私は笠原さんの前に行き、早退の件について謝罪した。昨日、電話で直接謝ってはいるのだが、笠原さんはとにかく体調不良による早退や欠勤を嫌う。ここは丁重に頭を下げて謝っておかないと、今後もずっとネチネチと言われそうだ。

「しっかりして下さいね。声だって、まだ本調子ではなさそうですし。今日はずっとマスクをして、生徒には絶対に移さないように。クレームに発展すると、後で困ります」

手厳しいが、確かにその通りだ。すると砂ちゃんが、

「あ、そう言えば若松さん。先月の模試結果ってどこに行ったか、分かりますか? ずっと探しているんですけど、どこにも見当たらなくて」

「模試結果? だったら、over there」

「え?」

「ほら、Over there. On the desk under the clock.」

言った自分が、誰よりも驚いていた。そう、私は今、模試結果の場所を指さしながら、英語で説明したのである。そして、砂ちゃんは首を傾げつつ、私が指さした方向に向かった。

「いい感じじゃないですか、若松さん」

「え? ・・・何がですか?」

「ほら、英会話ですよ。確か『over ther』の意味は、『あそこに』でしたよね? それと、そのあとも場所の説明が英語でできていましたし。どうやら2回目にして、もう英会話研修の成果が出始めているんじゃないですか?」

少し満足げな笠原さんに対し、

「あ・・・いえ、それは違うと思います」

「え?」

「だってそんなフレーズ、研修では一つも練習しませんでしたから」

「え? ・・・では、今どうして?」

「それは昨日、研修の後、」

と、そこまで言いかけて、思わず私は自分の口を塞いだ。そうだった、昨日は仮病で早退したんだった。加えて、あの話は笠原さんには絶対にタブーだ。

「研修の後、どうされたんですか?」

「あ、いえ・・・その、何でもないです」

何とか私は、笑って誤魔化した。そしてそのタイミングで砂ちゃんが、模試結果を手に戻ってきた。よかった、場所がちゃんと英語で説明できたようだ。

そして、だ。この日は私にとって、本当に本当に『不思議な一日』となった。そう、ふとした時に、英語が口から飛び出るのだった。

「ええっと・・・Where is my highlighter?」

私の独り言に、隣の砂ちゃんが「え?」と反応した。

「あ、そっか。四葉に貸して、そのまま持って帰っちゃったのか。ねえ、砂ちゃん。Can I borrow your highlighter?」

「はあ?」

砂ちゃんは眉間に皺を寄せながら、

「じ、自分・・・タバコ、吸わないッスよ。っていうか、若松さんって、タバコを吸う人だったんスか。なんか・・・全然、似合わないッス」

「え・・・あ、ゴメン、蛍光ペンのことね。タバコの『ハイライト』じゃなくて」

「え?『highlighter』って言うんスか、蛍光ペンって。で、何色がいいスか?」

「Blue or yellowで」

「はい?」

「あ、ゴメン。青色か黄色で」

「・・・」

眉間に思いっきり皺を寄せながら、砂ちゃんは私に蛍光ペンを差し出した。

「Thanks.」

「・・・」

そして私は蛍光ペンを使い終わった後、砂ちゃんに「Thank you for lending me your pen. Here you go.」と言って返した。

「さて、と・・・I will go to the bathroom.」

そう言って、私が席を立とうとした瞬間だった。

「おかしいッス!」

と、砂ちゃんがバンと机を叩いた。

「え? ど・・・どうしたの、砂ちゃん」

「どうしたもこうしたもないッスよ。若松さん、今日変ッスよ。朝からずっと、英語が口から出まくりじゃないッスか?」

「え・・・いや、出まくりってほどでもないでしょ? ちょっとだけ、じゃない?」

「で、でも・・・そんなこと、今までなかったじゃないッスか。すごいッスね、社内の英語研修って。そうやって、どんどん英語が出てくるようになるんスか? いいなあ、自分も受けたくなってきました。どんなネイティブ講師が指導しているんスか?」

目を輝かせて聞いてきた砂ちゃんだったが、

「いや・・・その・・・日本人なの、講師」

「はあ?」

私はキョロキョロと周りを見渡した。よし、笠原さんはいない。

ー「結局、言葉にするのは、まずは自分のことですからね」

昨日の体験レッスンは、有紀さんのその一言から始まった。

「自分に関することで、他人にそれを伝えたい、分かってもらいたい、共有したいところから、言葉は生まれたはずなんです」

今までの英語勉強の中で、聞いたこともないことを言われ、私と猫田先生はポカンとなった。

「そのため、言葉のスタートは、『自分の身の回り』になるはずです」

「自分の身の回り・・・ですか?」

「日本語を覚えたときのことを考えてみて下さい。いきなり、難しい話から始めたわけじゃないでしょう? まずは『お腹空いた』くらいの、簡単なレベルから始めたはずです。そういう基本から、たくさんのバリエーションを、繰り返し繰り返し口にしていく。言葉を音として『体に馴染ませていく』感じですね。英語の話者は、無意識にせよ、意識的にせよ、確実にそのステップを辿ったはずですよ」

その言葉に、有紀さんの揺るぎない自信が伝わってきた。

「俗に日本人の英会話は、いつも日本語で話しているような、『難しい状況』をいきなり即興で頭で組み立てようとして、それができず、ストレスを抱えてしまっているのがほとんどのパターンです。例えば、『夜になって急に冷え込んできた』とか。今まで何の口頭練習もしないうちに、いきなり日本語と同レベルの英語を、即興で出そうとする。しかしいくら何でも、それは無理です。だって、日本語で『今日は寒い』も言えない子が、いきなり『急に冷え込んできた』と口にしたら、おかしいしょう?」

確かに・・・塾に通う子供で「冷え込む」を使うのは、中学生以上だろうか。

「つまり、大人ほど、英会話は苦しむ構図になります」

「えっ?」

「だって、日本語がハイレベルで完成しているんですよ? その高い日本語力から、まだまだ拙い英語力に、そのまま強引に、瞬時に移そうとするわけです。両者が全く釣り合っていないのに、できるわけがない。そして無理に変換しようとすれば、変な英語にもなります」

思わずハッとなった。思い当たる節が沢山ある。

「一方、子供は日本語が完成していません。変換しよう、とならない。逆に、新しく覚えた英語を、繰り返し繰り返し声に出して、練習するのに長けているんですよ。つまり、ストレスを感じることなく、英語がそのまま根付きやすい」

するりとその説明が入ってきた。

「そして僕たち大人は難しい英文が訳せるから、文法が分かるからといって、『簡単な文章を口にする練習』をすっ飛ばしてしまうんです。そんなの分かっているからって。こうして『分かる』と『話せる』を、同列に考えてしまうから、描いた自分の理想イメージと、実際の会話力の乖離も激しくなる」

分かる。難しい文章が訳せるのに、口から出てくる中学生以下のレベルの英語に、耐えられなくなるのだ。

「自分が描いている英語力と『話す』には、実は『大きな隔たり』があるんです。そしてそれが意識できていないので、自分の能力も責めてしまう。でもこれは能力不足ではなく、ただの『練習不足』です」

「練習、不足?」

猫田先生が裏返った声で、聞き返すと、有紀さんは机の引き出しから、数枚の折り紙を取り出した。

「あ! ・・・それ」

そう、先ほど吉原さんが私に出した色紙のテストだ。

そして、そのテストを受けた猫田先生は・・・なんと、私以上にボロボロな結果だった。青なのに「red」と言ったり、「yellow」が口から出なかったりした。

「ね? 『blue』や『yellow』が高速に日本語訳できても、口からはなかなか出ないでしょう?」

クスクスと笑う有紀さんに、猫田先生はグッと唇を噛んだ。

しかし、本当にその通りなのだ。頭では分かっていても、口がついてこない。そして、単語レベルでこれなのだから、文章になったら、更にボロボロになるのは当然のことだ。

「そのため、よく目にするもの、まずは文房具から少しずつ練習していきましょう」

そう言って、有紀さんは猫田先生に向かって、蛍光ペンを掲げた。

「蛍光ペンは『highlighter』です。そして、私たちはよくこれを仕事で使います。だから、まずはこういった仕事道具から覚えて、そこに動詞や形容詞、前置詞などをぶら下げていけば、恐らく効率的に英語が使えるようになっていくはずですよ」

そう言って有紀さんは、「This is a highlighter.」と、口にした。そして、「じゃあ、一緒にやりましょう」と私と猫田先生に、それぞれ蛍光ペンを一本ずつ渡し「This is a highlighter.」と、10回ほど私たちにリピートさせた。

そして有紀さんはまた蛍光ペンを掲げて、「Waht is this?」と私に尋ねた。

「It’s a highlighter.」

「どうです? 口からすぐに出たでしょう?」

そう、確かに今、スルリと英語が口から出た。そしてそれは、今まで通った英会話スクールやオンラインレッスンにはなかった感覚だった。

「とりあえず今日は文房具と色の名前、場所を表す表現。そして、せっかくですから、それを借りる表現とトイレに行く表現などを、一緒に練習してみましょうか」

ー「そんな感じで、1時間ほどずっと口を動かし続けたの」

砂ちゃんの口が、半開きになっていた。

「そんなところ、行ってたんスか・・・」

「ゴメンね、砂ちゃん。嘘ついちゃって。でも、どうしても昨日、そこに行っておきたくて」

「それは別にいいッスけど・・・変な英会話教室ッスね、そこ」

有紀さんのくだりを丸々抜いて話しているので、「おかしな英会話教室」として認識されているようだ。

「だから、何ていうか・・・ないの、日本語が」

「え?」

「例えば、『over there』は『向こうで』って私たちは習うでしょう? でも違うの。『over ther』は、あそこら辺の感覚なの」

そう言い、私は先ほど、模試結果が置かれていた机の方を指さした。

ちなみに昨日は教室の中で、少し離れたアップルを指差しながら、「Apple is over there.」と繰り返し口に出す練習をした。「on」も「under」も、実際の場所と合わせて練習した。

「もちろん蛍光ペンや色の名前、『Can I borrow your highlighter?』『I need to go to the bathroom.』とかも、何度も何度も口頭練習させられたの」

そう、今日口から飛び出た英語は、全て昨日、口頭練習したものだった。

「私・・・あんなに口を動かしたの、人生で初めてだったかもしれない」

「え?」

「そして・・・これだけは確実なんだけど、昨日口にした英語の発話量は・・・その昔、数年間通っていた英会話スクールやオンラインレッスンでの発話量を、軽く超えちゃっていると思う」

「はああ?」

「すごい不思議なの・・・何というか、声に出せば出すほど、英語が乗り憑ってくるみたいな・・・」

「・・・」

「ねえ、砂ちゃん。もしかして、私たちって大きな『勘違い』をしているのかもしれない。ダメなのよ、きっと。『分かりやすい』で、満足してちゃ。その先が、ある」

「はあ?」

「多分掴めそうな気がする・・・どうして私も含めて、日本人がここまで英語に苦しみ続けてきたのか、その『真の理由』が。あの人なら、私が納得できる答えを返してくれると思う」

そう、そしてこの大人がたち迷い込んだ「ダンジョン」からの脱出方法も、有紀さんなら教えてくれるに違いない。

「でも一体どんな人なんスか、その・・・さっきから言っている『日本人講師』って」

「ここの『聖典』を作った人」

「はああああ?」

3-8「私たちの日常」

誠に物事とは、順風満帆とはいかないものである。そう、私はあの日、これからずっと英語が口から飛び出るようになっていくんじゃないか、とワクワクしていたのだが、結局口から無意識に出てたのは、その一日だけだった。

なぜたった一日で、あの感覚が消えてしまったのか。その時、ふと思い出すのは、葵ちゃんのセリフだ。

「私、中3の時から、『英語の話者』になることを想定して、毎日音読をしたり、口頭練習をしてきましたから。それが一番大きいと思います」

そう、葵ちゃんは確か「毎日」と言っていた。

「ちゃんと毎日、口は動かしているのか? このお勉強クソバカ野郎め」

そして吉原さんも確か、山崎さんにこんなセリフを言っていた。つまり、英語が話せるようになるには、「毎日」口を動かして、音を根付かせないといけないのかもしれない。

その瞬間、私は絶望的な気持ちになった。もしも仮にそれが真実だとしたら、一体どうすれば英語を毎日口にできるというのだろう。

その時、目の前の電話が鳴り、私は慌てて受話器を取った

「はい、ヘッドスタートでございます」

「あのー・・・すみません、退塾の相談はこちらで大丈夫でしょうか?」

聞いた瞬間、私は「またか」と思った。そう、退塾の電話はこれで今週、7件目である。

ちなみに7月下旬は新しく生徒が入ってくるタイミングだが、それと同時に退塾件数も多くなる。成績が上がらなければ、違う塾の無料講習の体験に行くからだ。

しかし、だからと言って、いくら何でもペースが速すぎる。そして、私が担当する花塚中学の生徒の比率がやけに多い。そして今の電話も、やはり花塚の生徒の保護者からだった。

「何か・・・最近、多いッスね、花塚の退塾」

電話を終えた後、砂ちゃんが慰めるように声を掛けてきた。

「また怒られるかなあ、笠原さんに」

そう、花塚の退塾の責任は全て私にある。ちゃんと学力サポートができていなかったか、コミュニケーションが希薄だったか。そういう分析をしっかりし、一件ごとにレポートを書かないといけない。

「フー」と、私は大きなため息をついた。そう、こんな感じではとてもじゃないけど、「毎日口頭練習する」なんて、できそうもない。

「だからこちらにいらっしゃる社会人の方を見ると、そういうのは、子供のうちから癖づけておいた方がいい、とやっぱり思います。だって子供は生きていくだけで、有り余るほどの時間を消費していくわけですからね。そこに『英語の種』だけは、撒いておいてあげないと。つまり、英語と生きていく、という感じでしょうか」

有紀さんの言葉が、骨の髄にまで響いてくる。

一体私は学生時代、何をやっていたんだろう。あんなに時間に余裕があったのに。

「そう言えば今日は四葉ちゃんの日ッスよね。来ますかね、ちゃんと」

その言葉に私は、ハッとした。そうだ、確かに今日は、四葉の授業の日だ。

実は先週、四葉は、無断欠席をしたのだ。そしてそれは入塾以来、初めてのことだった。そう、あの子はたとえ体調が悪くても、部活の後でどれだけ疲れていても、授業には必ず来た。

それなのに、あの子は先週、何でもない日に、ふいっと休んでしまった。それが私の中では不吉だった。ちなみにちーちゃんも、その日は無断欠席だった。

次の瞬間だ。ドアが開き、笠原さんが険しい表情で、私に声を掛けてきた。

「ちょっと今、別室までいいですか?」

何だろう、一体。あの様子じゃ、絶対に怒られる。もうやめて、これ以上、私の日常をかき回さないで。

「え・・・ま、まだ、なんですか、5月分」

話は四葉の授業料のことだった。まだ2ヶ月前の分の授業料が、支払われてないようなのだ。

この問題は、かなりデリケートである。というのも、子供にこの手の話はできない。直接するのは残酷だし、今後の関係も悪くなる。

「父親の方にはちゃんと振り込むよう、連絡しているんですか?」

「あ・・・いえ、その・・・はい、連絡はしているんですけど、その、繋がらなくて」

つい嘘をついてしまった。そう、いつ掛けても繋がらないので、ここ数ヶ月、電話を掛けたことすらないのだ。

「その代わり・・・四葉本人には伝えているので、そこから父親には伝わっているかと」

そう、四葉だけは、直接本人と話すようにしている。

「その確認はちゃんと取れているんですね?」

「あ・・・は、はい。そして前回、すぐに振り込むという話だったんですが・・・」

しかし、先週無断欠席をしたため、その確認ができなかったのだ。私は今日の授業時に、必ず確認することを、笠原さんに伝えた。

そして、私はそこで話は終わりかと思っていたが、笠原さんは次に四葉の授業のことについて、質問を続けてきた。

「え? もう一教科増やさせる、ですか?」

「ええ。確か今、熊田さんは英語しか受講されていませんよね? いいんですか、それで? 高校は英語だけでは行けませんよ? 先ほど、あの子の学校成績を確認しましたが、英語の点数は着実に上がってきてはいるものの、他は全て30点以下です」

「で・・でも」

そう、四葉は「倍率が1倍を切った高校」を受けるのだ。入れれば、どこだっていい。それが本人の要望であり、父親は四葉以上に興味がない。

しかし、だ。笠原さんにはその理論は全く通用しない。一つでも偏差値が高い高校を目指させるのが、「自分の務め」だと思っている。

そして恐らくだが、中3生にここぞとばかりに受講科目を増やさせ、売り上げを伸ばそうという、本部からの司令だって来ているのだろう。

「今日、本人を説得してみて下さい。本人に『やりたい』と言わせられれば、親はお金を出してくれます。いいですか? 分かりましたね?」

もはや、有無を言わさないような口調だったので、私は渋々「分かりました」と返した。ここで反論しようが、意味はない。それに、四葉に聞けば、一瞬で却下するに違いない。

しかし、恐らく私が不満げだったからだろう、出て行こうとした笠原さんは私を呼び止めて、

「若松さん、ちょっといいですか? 私たちの『企業理念の一つ目』は何でしたっけ? 言ってみて下さい」

「えと・・・『私たちは子供たちに、最高の教育サービスを提供し、光溢れる人生を提供します』」

「できていますか?」

「え・・・」

「最近、花塚の退塾が続いています。これは明らかに、若松さんが子供たちに未来を見せられていないことを表していますが、その点はどう頭の中で整理しているんですか?」

「そ、それは・・・は、はい」

「ちゃんと分析が出来ていますか? 学校でどんなテストが出されていて、どんな問題が出るのか。対策さえしっかりやり切れていれば、退塾なんて防げるはずなんですけど」

「す・・・すみません」

「変ですよ、若松さん。ここ最近。特に英語研修が始まったあたりから。ふわふわしているというか。てっきり先週、英語が口から出てきていましたから、上手くいっていると思ったら、先週の研修結果は酷かったですよね? 筆記試験は合格ラインギリギリだったじゃないですか?」

「そ・・・それは、はい、すみません」

「あと、教務の黒川さんにも意見したそうですよね? あんな研修は意味がないって」

「! ・・・い、いえ! い、意味がない、なんて言っていません!」

「でも『どれだけ資格試験対策をしても、生活に密着したことを言えるようにはならない』とか、『英会話レッスンでは話せるようにならない』とか、言ったそうじゃないですか?」

「! ・・・そ、それは、は、はい。言いました・・・けど」

どうやらあの時の会話は、全て笠原さんに伝わっているようだ。

「言いたいことがあるなら、黒川さんに言う前に、まず私に相談するのが筋でしょう? 一スタッフが教務部のトップにいきなり意見するのは、社会人としてありえないと思いませんか?」

笠原さんの怒りがプスプスと伝わってきた。そう、恐らくだが、笠原さんは自分に何の相談もなく、勝手に黒川さんに意見したことが気に食わないのだ。

「一体、何を考えているんですか、最近?」

これはもう、逃げられない。私は「ふー」と息を吐き、

「・・・その・・・いいんでしょうか。今のやり方のまま、英語を教え続けても」

「はあ?」

「その・・・私たちの英語教育のゴールって、英語を聞けて、話せるようになることですよね? だったら、もっと聞いて、もっと口に出したりしないといけないんじゃないでしょうか?」

もしかして、笠原さんにここまで意見をしたのは、初めてのことかもしれない。

しかし、笠原さんは眉間に皺を寄せながら、

「そんなの、受験の後に、本人がやればいいことでしょう? ここでやることではありません」

「で! でも、私たち、子供たちに英語を教えていますよね?」

「当たり前です。受験科目の一つなんですから」

「で、でも将来、話せるようになりたいから英語を学んでいるんですよね?」

「だから、そんなの、人によりけりでしょう? 誰もが話せるようになりたくて、英語を学んでいるわけじゃありませんよ?」

「でっ! でも、話せるようになったほうがいいじゃないですか、せっかくやるんだったら」

「もちろんですよ。だから、その場合は受験の後に本人が頑張ればいいだけの話です」

「でも、こうして大人になってから、英語を話せずに失敗している人が沢山いるんですよ? それは考えなくてもいいんですか?」

「ハッ、何で私たちがそんな人たちのケアをしないといけないんですか? ここに英語を話せるようになりたい社会人が、一人でも通っていますか?」

「そ・・・それは・・・」

「学習塾はあくまで学習塾です。高校や大学に受かるためのものです。であれば、筆記テストでいかに結果を出せるか、が全てでしょう?」

いや、しかし学生時代、筆記のみに特化しては、ダメなのだ。

「後でやり直すのは、本当に効率が悪いんです。直して、新しく正しい型を入れて、また時間をかけて、その型をつけていかないといけませんからね。今までと同じくらい時間を掛けないといけなくなる。しかし、すぐに今までの古い型が顔を出してきます。だから、ここと抗う努力も必要になってくる。時間がどんどん増えていく」

「こと、『音』の話ですから、本当に厄介なんです。だから、とりあえず受験だー、文字学習だー、発音なんて後だー、ってやっちゃうと、後で何が起きてしまうか、分かりますよね?」

そう、有紀さんだって、こう言っていたではないか。

「何なんですかその顔は? 言いたいことが他にもあるんなら、今ここで全部吐き出して下さい」

笠原さんが、ペンをカチカチとさせた。ダメだ、やはりここで引き下がることはできない。私はもう一度深く息を吐き、

「その、私たちが・・・教えていることは、子供たちに未来を見せられているんでしょうか?」

「え?」

「子供たちは将来、できるんでしょうか。日本語から英語に切り替えて、世界の人たちと会話をすることが。ただでさえ、ここには英語から日本語にできない子がいっぱいいるんですよ? そんな子たちが将来、英語で希望を抱けるんでしょうか?」

きっと私はまた反論されると思ったのだが、笠原さんからはため息まじりに、意外な言葉が返ってきた。

「・・・まーた、ですか」

「え? ・・・また?」

「いや、数年前にも、若松さんと、全く同じことを私に言ったスタッフが一人いましてね」

「! ・・・」

きっと有紀さんのことだ。そう、有紀さんもここに辿り着いたのだ。

「理想だけじゃ、ご飯は食べてはいけませんよ? もちろん、今は変わりつつありますが、やはり日本はまだまだ『学歴社会』なんです。どこの学校を出たか、で人生が決まるんです。そしてその入学試験のど真ん中に、英語があり、その出題形式が現行のままである以上、ここで変革を考えてはいけないんです。文科省や学校の先生に任しておきなさい」

ダメなのだ。その文科省自体が、迷走を続けているのだ。政策だって二転三転しているではないか。

「そんな社会の仕組みも分からず、自分の考えを押し通そうとする者は、ハッキリ言って『甘ちゃん』です。この業界で生きてなんていけません。競争のない職種にさっさと転職した方がいい」

私はグッと拳を握った。恐らく有紀さんも、笠原さんに同じことを言われたのだろう。

「しかし、お給料を貰っている以上は、しっかりと仕事はして下さいね。今日、熊田さんからしっかり授業料の確認をし、数学も増やすよう、提案をする。そして授業後は、退塾が増えていることに対しての分析をする。もちろん、空いた時間は英語の研修の準備をする。これが今、あなたに割り振られた仕事です。分かりましたか?」

「・・・」

「返事は? 分かられたんですか?」

私は俯きながら、小さい声で「・・・はい」と返事をした。この瞬間、私の中で何かが「プチッ」と、音を立てて潰れたような気がした。

3-9「小さなSOS」

「・・・よっちゃん、今日は来るかなぁ」

菜純ちゃんは隣の空席を見ながら、ボソリと呟いた。

授業が始まって、既に10分が経っていた。単なる遅刻であればいいのだが、やはり何かおかしい。

その時、パタンとドアが開いた。私たちはパッと振り向いたが、それは四葉ではなく、ちーちゃんだった。

「! ・・・こ、こんにちは、先生」

どうやら、一人だけで来たようだ。そしてちーちゃんは私の横を素通りして、自分の席ヘと移動しようとしたので、「ねっ、ねえ! ちーちゃん、四葉は?」と声を張った。

「一緒に・・・来なかった」

何か様子がおかしい。いつものちーちゃんじゃない。

「ねえ、どうして先週休んだの? 四葉も無断欠席だったし」

「え! あ、・・・えっと・・・ちょっと体調が悪くて」

「四葉も?」

「! ・・・い、いや、知らない」

そう言って、ちーちゃんは自分の席へ向かった。

「・・・ケンカでもしたのかなあ」

菜純ちゃんがボソリと呟いた。さすがにこの子は勘がいい。

その時だ。今度はもっと大きな音で、ドアが開き、「すまん、由璃ネエ、遅れたわ」と四葉が入ってきた。

「四葉! どうしたの、先週? 何で休んだの?」

「あ? 先週? あ、すまん。体調不良や」

「あなたが?」

「何やねん。うちだって体調くらい、悪くなる時はあんねんで」

「何食べたの? よっちゃん」

「変なもん食ったんちゃうわ! 何やねん、その発想」

いつものようにワイワイと盛り上がる二人だったが、やはり私は四葉に何かがあったと、勘繰らざるをえなかった。先週休んだのは、きっとそんな理由じゃない。

「あっ、あと、由璃ネエ。これ5月分や。遅れて悪かったな」

差し出された封筒の中身を確認すると、一ヶ月分9760円が綺麗に収まっていた。きっとだが、ここに来る途中に銀行でおろして来たのだろう。私は四葉に「ありがとう」とお礼を言い、後で領収書を渡すことを伝えた。

「ほんで、6月分なんやけど、もうちょっとだけ待ってくれや。今月中には何とかするわ」

ギューッと、胸を締め付けられるような気がした。そう、四葉は父親に頼み込んで、何とか授業料を工面しようとしているのだ。

「あっ、そうだ。ねえ四葉、前回私と一緒にやった英作文、大丈夫だった?」

「! ・・・えっ?」

「ほら、『中学時代の思い出』って作文。ちょっと気になってて。ちゃんと提出できたかなあって」

「あ・・・ああ、あれな。ああ、うん。ちゃんと、提出できたで。助かったわ」

そっか、だったらいいんだけど。でも、何か様子がおかしい。目が泳いでいる。

ーすると、その時だ。

「遅刻ですか、熊田さん?」

ハッと後ろを振り向くと、笠原さんが険しい表情で立っていた。

「受験生ですよ? いくら夏休みが近いからって言って、気が緩んでいるんじゃないですか? 先週に関しては無断欠席だったそうですね?」

きっと笠原さんは確認に来たのだ。私がちゃんと授業料を回収し、授業追加の提案をしているかどうか。

私は子供の前で、大っぴらにお金の話をしたくなかったので、授業料の入った封筒をチラリと見せて、回収したことをジェスチャーで伝えた。

すると笠原さんはその封筒をサッと奪い取り、なんと私たちの目の前でお金を数え始めた。そんな・・・何もわざわざここで確認しなくてもいいじゃない。

笠原さんは授業料が回収できて、ひとまず安心したのだろう、封筒をスーツの内ポケットにしまい、今度は四葉に成績の話を切り出した。

「何やねん。うちの成績と、あんたに何の関係があんねん」

「関係はありますよ。あなたはここの生徒なんですから。それを管理するのが、教室長の私の仕事です」

「ええわ、そんなん。ノーサンキューや」

「いいえ、そんなわけにはいきません。あなたはここで数学も取るべきです」

「はあ? 何でや?」

騒ぎが大きくなりそうだったので、私は二人の間に割って入り、「後は私がやりますから」と、何とか笠原さんを説得し、引き取ってもらった。そう、きっと笠原さんは私のことを、何にも信用していないのだ。そしてそれを、行動で伝えにきたに違いない。

「何やねん、アイツ。マジで腹立つわ」

四葉が吐き捨てるように言った。

「ゴメンね、四葉。でも笠原さんは、別に悪い人じゃないの。四葉に、一つでも偏差値の高い高校に行って欲しい、と思っているだけで、」

「だからそんなもん、余計なお世話や。いつも言うとるやろ? うちは別に高校なんてどうでもええねん。それに数学なんか習うても、何の役にも立たん」

菜純ちゃんが、「そうなの?」と割って入ってきた。

「『弟が先に家を出ました。その10分後、兄が弟の忘れ物に気づき、時速10キロで自転車で追いかけました。時速5キロで歩く弟に追いつくのは、何分後のことでしょうか?』アホか、この兄貴。そんなん、ケータイで電話して『お前、忘れ物しただろ、帰ってこい、ボケ』言うたら一発やん。いつの時代や」

それに関しては正論かもしれないけど、そんなことじゃないでしょ。

「うちは受験とかそんなん、どうでもええねん。高校卒業したら、アメリカに住むんやからな。ここで通うとるんは、英語を話せるようになりたいからやねん」

「! ・・・」

「色んな国の人と友達を作りたい。バカな話をして、笑い合ったりしてみたい。こんな日本から飛び出したい。そのためにも、英語だけは絶対に話せるようになっておきたいんや」

「・・・向こうでずっと暮らすん?」

菜純ちゃんが、泣きそうな声で尋ねた。

「すまんな、なず。でもまあ日本におったら、うち、幸せになれへんからな」

「どうして? 国内にいても、四葉は幸せになれるかもしれないよ?」

「無理や。日本におったら、一生うちの親父に振り回されながら生きてかなあかん。母ちゃんもきっと、それが嫌やったんやわ」

「そ、そんなに嫌わなくてもいいんじゃない? いいお父さん、でしょう?」

「由璃ネエは、酔うた時の親父知らんから、そう言うんや」

「!・・・」

その時私は、四葉が抱えている「別の闇」に気付いた。

「だからうち、高校に入ったら、ずっとバイトして、向こうで生活できるためのお金貯めんねん。母ちゃんと一緒に暮らすねん。ほんで、歌を歌ったりしたいねん。だから勉強やったら、英語だけで十分や」

「そ・・・そっか。そうだよね」

それを聞き、同時に私は少しホッとした。そう、これで数学の提案はした。そしてやはりこの子には、他の教科をここで学ぶ必要がないのだ。そう、これでいい。

しかし四葉は吐き出すように続けて、

「それなんに、や。いっつもエリートは学校で、うちの気持ちを折ろうとしてくる。うちが『英語を話せるようになりたい』言うても、『そんなの、学校のテストで70点取ってから言え。まずは文法や。単語書けるんが基本や』とか、そんなこと言うよる」

またズキンと胸が痛んだ。

「もちろん、スペル書くんも大事やと思う。でもな、うち、覚えられへんねん。何回書いても『Wednesday』がうまく書けん。dがbになったり、入れる場所も忘れたりしてしもう。和訳だって下手っぴや。文が上手く組み立てられんのや。漢字だって、よう間違う。でも、誰も分かってくれへんねん、この難しさが」

「・・・」

「自分でも自分のことが、アホやと思う。でもな、うちは書くんよりも、まずは話したいねん。そもそもスペルがうまく書けたところで、気持ちを分かり合えるんか? 筆談するわけちゃうやろ? 『d』だって発音せんのやろ? じゃあ、ええやん、うまく『d』が書けんでも。それよりか、声出して会話する方が大事ちゃうんか? ほんで漢字の正しさなんて、必要なんか? 向こうはうちみたいなアホでも、ちっちゃい子供でも、英語ペラペラ話してるやん? スペルだってよう書けへんやん」

「! ・・・」

「それにエリートの言う通り、まずはテストが大事なんやったら、うちの学校の英語一番のヤツは、一番英語を喋れるはずや。でもそいつ、全然や。ジェニファーが来たら、何の発言もせん。隅っこで隠れとる。それにそもそもエリート自体、ちゃんと英語喋れへんねん」

確かジェニファーとは、四葉の学校に来るALTのことだ。

「なあ、由璃ネエ、ホンマか? ホンマにこんな勉強しとって、将来英語喋れるようになるんか? ちゃんと繋がっとるんか? 繋がっとらんから、日本人は大人になってから、英語が喋れんで困っとるんとちゃうんか?」

この子、・・・色々と気づき始めている。

「うち、みんなと違って、いい成績取るために英語やっとるんちゃうねん。将来英語ペッランペッランになって、アメリカ行くねん。この腐り切った日本、脱出すんねん。本当なら、今すぐにでも出ていきたいねん」

急に四葉の声が湿った。それに気づいた私と菜純ちゃんは、ハッと四葉の顔を覗き込んだ。

「ね、ねえ・・・四葉、どうしたの? 何があったの?」

四葉がこんなに取り乱すのは、初めてのことだった。

「もう、どうすればええんか、全然分からん。将来、やりたいこと沢山あるんに、夢もあるんに、今やっとることが、ほんまにそれに繋がっとるんか、何も分からん。そして誰もうちのこと、理解してくれへん。だから、時々、生きとるんのがすごい辛くなる」

四葉の目に涙が盛り上がっていて、鼻の奥がツーンとなった。

「先週な・・・学校で英語のスピーチ・・・あってん」

「え?」

「ほら、一緒に書いた英作文あったやろ? ・・・あれをみんなの前で発表したんやけどな」

「えっ! ・・・」

あれをみんなの前で発表したの? そんな! ・・・あれは、ただ単に、「提出に間に合わせるためだけ」に作った、即席の英作文だ。

「ジェニファーが大笑いしてな。そこにエリートも乗っかってきて、『変な英語や、間違いだらけの英語や』とかボロクソに言われて。ほんで、その場で書き直しさせれてもうて」

そ・・・そんなことがあったのか。で、でも、その場で英文を作らせるなんて、四葉には無理だ。

「うち、由璃ネエに頼らんと、ちょっとくらいは一人でできると思うたんや。だから大見得切ったんやけど、、、何も書けんかった。何もや」

「え? ・・・何もって?」

「まず、日本語作って、それを英語にしようとしたんやけど、もう全然わからん。主語も何から書き始めたらいいんかもわからんし、動詞も出てきーへん。時制も名詞もわからん。ほんで、何よりも元の作文が誤字や脱字ばかりでおかしかったらしくて、『お前は英語の前に、まずは国語力や』って」

そう言って四葉はカバンから、数冊の本を取り出した。それは図書館によくある、古臭い文学全集だった。もしかしてこの子は、英語を話せるようになるために、こんなものを借りてきたというのか。

「ほんでエリートに、お前はいつも話しとる言葉も理路整然としとらんから、これからは『私は○○だと思います。なぜなら○○だからです』みたいな話し方しろって。そもそも関西弁が良くないとか、漢字ドリルやれとか、幼稚園からやり直せとか、クラスん中でフルボッコになって」

ひ・・・ひどい・・・私は思わず、口を覆った。

「なあ、由璃ねえ。うち、ここで英語、1年やってるやん? テストだって、上がってきたやん? でもな、自分の言いたいこと、何一つ書けへんかってん。何一つも、や。これって一体、何やねん? うち、ここで一年、一体何してたん? それ思うたら、苦しくなって」

そうか、四葉が先週休んだのは、そのせいだったのか。

「うち英検とかの勉強した方がええんか? エリートがな、『お前はまず英検6級受けてみろ』って言うたら、教室で大爆笑になって。何でみんな、そんなに笑うんかと思って、その後、調べたんよ。そしたらなかった。英検は5級からやった。うち、5級にも届いとらんのかな? 英語を話す権利もないんかな? やっぱり幼稚園からやり直しなんかな?」

何て・・・何て、残酷なことを言うんだろう。

「それともうち、TOEICってやつの方がいいん? その方が喋れるようになるん? 大人、みんなそれやってるやん。その勉強したら、うち英語、ペラペラになるん? 何点取ったらええん? それも70点か?」

違う、あなたに必要なのはスコアじゃない。そしてあなたは、スコアは取れない。

「それともYoutubeで誰かが言うとったけど、海外ドラマとか映画とか、ずっと見とればペラペラになるん?」

違う、あなたは、見ても無意味。何も聞き取れないって。その人たちはある程度、英語ができるから、そんなことを言っているの。

「それともフレーズ集とか覚えればいいん? 本屋さんに、ペラペラフレーズみたいなの、いっぱい売ってるやん」

違う違う。そもそもあなた、単語一つ覚えられないじゃん。それなのに、どうしてセンテンス単位で覚えられるっていうのよ。それに、たとえ覚えられたとしても、それだけしか言えなくなるでしょ。どうやって自分で、自分の文章を作っていくの?

「それか英作文テキストとかの方がいいん? ああいうのも、いっぱい売ってるやん? あれやったほうががいいんか?」

違う違う違う! あなたは「英語→日本語」も満足にできないんだから、「日本語→英語」ができるわけがないでしょ。その道は、もっともっと難しいのよ?

「それとも塾やなくて、英会話教室とかに行けばいいん? それかオンライン英会話とかやればいいんか? 外国人と話しとったら、英語が乗り憑ってくるん、ちゃうんか?」

違う違う違う! あなたが英会話レッスンを取ったところで、どうせ一方的に喋られて終わりだって。そもそも、私がそうだったんだから。

「なあ、由璃ネエ、どうしたらうち、ペラペラになんねん? もう、どうしたらええんや?」

私は思わず、グッと拳を握った。何なの、このペラペラって! 何なの、この病気! 一体、何が私たちの頭に巣食っているの?

そして、だ。私は四葉の目の前に、刑務所以上の「分厚くて高い、英語の壁」を感じた。そう、この子には無理だ。日本にいる以上、一生英語を話せるようになんかならない。この子は「日本語を英語に切り替える能力」や「対で覚える能力」が、そもそもない。努力すら、、、できない。

「怒り」だ。マグマのような「怒り」が、腹の底から込み上げてきた。どうしてだ? どうして日本にはここまで「話者への道」がついていないんだ? 今まで私たちは、ずっと学校で英語を勉強してきたじゃないか。

「それに、英語が話せるようになりたいんだったら、受験の後でだっていいじゃないか。その後に、好きなように頑張ればいいだろう? だから、まずは受験だ」

「そんなの、受験の後に、本人がやればいいことでしょう? ここでやることではありません」

そうだ、、、結局私たちはずっと、「まずは受験が大事だ」で、話者から逃げ続けてきたのだ。ずーっと、ずーっと、だ。そして、今も誤魔化し続けているのだ。

「なあ、教えてくれや、由璃ネエ! うち、やっぱり関西弁も捨てなあかんのか? まずは標準語に切り替えたら、英語を話せるようになるんか? 英作文の問題はみんな標準語や。関西弁が全部いかんかったんか? でもな、関西弁なんて、『うちが今まで生きてきた、自分の人生そのもの』やん! うち、それも全部捨てなあかんのか? もう、何も喋ったらあかんのか? うち、もう喋るん、怖い! 怖い! 怖いぃぃぃ!」

オイオイと泣き始めた四葉に、教室の中が騒然となった。ただでさえ泣き声は目立つのに、その声の主はあろうことか、あの「熊田四葉」なのだ。

私は泣き止むように、背中をさすって必死に四葉をなだめたが、自分も涙を堪えるのに必死だった。そう、四葉の涙は、私が流してきた涙でもあるのだ。いや、私だけではない。日本人が流してきた涙だ。

ふと右隣から、綺麗に折り畳まれたハンカチがスッと差し出された。振り向くと、菜純ちゃんが目に涙をためて、同じように必死に堪えていた。

何だろう。現場にいる私は、子供たちに何をしてあげられるんだろう。そして一体今、何が起きているんだろう。どうして私たちは、こんなに英語で苦しまなきゃいけないんだろう。ただただ私たちは、英語を話せることを夢見て、頑張ってきただけじゃないか。誰か救って。私たちをここから救いあげて。

「そっか・・・じゃあ、四葉が言っていた通りなんだね」

その授業終わり、私は四葉を早めに帰し、ちーちゃんと急遽面談を行った。そう、学校で何があったのか、一応ちーちゃんからも事実を確認しておきたかったのだ。

「あと・・・よっちゃん、スピーチの中で、『Wednesday』のこと、『うえどんずでー』って言っちゃったの。そしたら、クラスの一人がそれを拾って、『バカだ、バカだ』って大笑いになって」

「・・・」

きっとスペルを覚えるために、語呂で覚えていたものが、そのまま口から出てしまったのだろう。

しかし、だ。そういう単語の覚え方を許容していたのは、講師の私自身なのである。

「そして、スピーチの原稿なんだけど・・・よっちゃん、『これは由璃ネエと一緒にやったやつやから、間違いなんて何にもないんや。間違ってんのはお前らの方や』って騒ぎ始めて」

「そ、そんな・・・!」

「そしたら、エリートがカチンときて、『熊田の通っている塾の先生は、こんなデタラメな英作文を指導しているのか? おいお前ら、駅前のヘッドスタートに通っている子は、違う塾に行った方がいいぞ。熊田みたいにバカになる』って」

私はハッとなった。そうか、「花塚の退塾」が今週、爆発的に増えたのは、これが理由か。私が自分で、その種を蒔いてしまったのだ。

「そしたらよっちゃん、完全にブチ切れちゃって・・・『由璃ネエの悪口を言う奴は、誰であろうが許さん。ぶん殴ってやる!』って」

私は口を覆った。そんなことまで言ってしまったのか、あの子は。それは恐らく学校中、大騒ぎになったに違いない。

「それからよっちゃん、ずっと荒れちゃってて・・・」

そうか、だからちーちゃんは今、四葉とうまくいっていないのか。いや、それはちーちゃんだけではなく、恐らく四葉が学校の中で孤立しているんだろう。

「それとあと・・・」

「あと何?」

「・・・」

「どうしたの?」

「・・・あ、いや、やっぱり、何でも・・・ない、です」

ちーちゃんは更に何か言いたそうだったが、それ以降は全く喋らなくなった。そして急に立ち上がって一礼し、逃げるように面談室を出ていった。

私はそれがとても気がかりだった。きっとまだ、、、何かあるに違いない。

そして面談室を出て、自分の席に戻った時だった。隣の砂ちゃんが心配そうな顔で、

「先輩、大丈夫スか? 授業中、四葉ちゃんが泣いたって聞いたんスけど」

「あ、うん。大丈夫。ちょっと四葉の情緒が不安定だったから」

その時、私は砂ちゃんが、英語の教科書を持っていることに気づいた。

「これ、授業が終わった後、菜純ちゃんが持ってきたんス。四葉ちゃんが机の中に忘れていったらしくて」

私は砂ちゃんから、教科書を受け取った。私がずっと面談室に入っていたので、菜純ちゃんは砂ちゃんに届けたのだろう。私は砂ちゃんにお礼を言い、仕事に戻ろうとしたが、

「先輩、それ、・・・・中を確認した方がイイっすよ」

「え?」

砂ちゃんが深刻な顔をしていた。その瞬間、ピーンと「嫌な予感」が走った。そして、パラパラと中を見ると、その予感は的中した。

「それ、大問題かも・・・しんないっスよ」

「・・・」

そう、四葉の教科書の中の、挿絵のキャラクターのすべての目に、「無数の穴」が空いていたのだ。

ー熊田四葉は恐らく、学校で「イジメの標的」になっている。

4章「言葉とイメージ」

4-1「Yesterday once more」

「ハァッ、ハアッ! ・・・」

悪夢にうなされていた私は、その息苦しさから目を覚ました。まただ。最近、よく同じ夢を見る。流れに任せ、のんびりと海を泳いでいると、いきなり目の前に大きな溝が現れるのだ。そして私はそこに、真っ逆さまに落ちてしまう。

結局、これは自分の英語学習のことだと思う。今まで何の疑問もなく、これでいいと思って勉強してきたのに、受験の後、いきなり溝に落ち、どう進めば分からなくなっているのだ。そしてあとはもう、波に飲まれるだけである。

私は一旦、ふーと大きく息を吐いた。ちなみに今日は夏期講習の切れ目で、10日ぶりのオフである。ここのところ、ずーっと忙しかった。私はズレていたブランケットを頭まで引っ張り、枕元に置いておいたケータイを手に取った。

壁紙は、去年の合格祝賀会の時の集合写真である。ヘッドスタートでは毎年、中学生の公立高校合格発表日に、校舎内でパーティを開く。もちろん塾の中には不合格の子も出てしまうが、まだまだ高校受験の倍率は大学に比べて、遥かに低い。去年の私たちの校舎の合格率は、95%だった。

しかし、同時に私はこの集合写真を見ながら、一抹の寂しさを覚える。そう、私はこの子たちの「今」を知らないのだ。どれだけの子が、英語を使えるようになっているのだろうか。

そして私は、ぼんやりと四葉のことを思った。あの子は今、この夏休み、何をして過ごしているのだろう。

夏季講習は任意である。受けたくなければ、別に受けなくてもいい。もちろん受験生は全員受けるので、ちーちゃんを含め、花塚の中3生は毎日のように、塾で顔を合わせるが、四葉に関しては、受験は関係ない。そのため、あの日以降、ほぼ一ヶ月、会っていない。

しかし、だ。あの四葉がイジメの対象になっているのは、やはりどうしても信じられない。私はそのことをちーちゃんに確認しようと思ったが、ちーちゃんは「知らない」と貝のように口を閉ざした。

こんな時、私はとてつもない無力感に襲われる。というのも、私はただの「雇われ一塾講師」でしかないのだ。学校の先生とは違う。

ふと窓の方を見ると、レースカーテン越しに、ギラギラと日差しが部屋に入り込んでいた。どうやら今日も、暑くなりそうだ。

その瞬間、私はハッとなった。そうだ、「英語」だ。私はあと数年で、英語が話せるようにならないといけないのだった。

「・・・行ってみようかな、今から有紀さんのところに」

結局あの体験レッスンを受けてから、私は何の連絡もしていなかった。そう、次回のアポイントメントも決めていなかったので、ついそのままになっていた。

今後の進め方を、ひとまず、有紀さんに相談してみよう。そう思った私は、ようやくベッドから跳ね起きて、外に出る準備を始めた。

しかし後悔したのは、それから1時間半後のことだった。そう、有紀さんの教室に着くと、ドアには大きく、『本日より1週間、夏期休暇に入ります』の張り紙が、貼ってあったのである。

「そんなぁ・・・」

しかし、それもそうか。いくら風変わりな英会話教室だとしても、夏休みくらいあって当然である。やはり、事前に電話で確認くらいしておくべきだった。

私はこのまま家に引き返すのも勿体ない気がしたので、ひとまず駅の隣のカフェで、2時間ほど英語研修の勉強をしていこうと考えた。

会計を済ませ、私は窓際の席に座り、バッグからTOEICの問題集を取り出した。まずは次回の英語研修の試験範囲を先に仕上げよう。

そして、しばらく経ってからだ。私の耳に、聞き覚えのある歌が流れてきた。

「When I was young I listened to the radio, Waiting for my favorite songs…」

確かこれは、カーペンターズの「Yesterday once more」だ。

そう言えば、母もカーペンターズが大好きだった。そしてこの歌もよく、車の中で一緒に歌った記憶がある。

「When they get to the part where he’s breaking her heart. It can really make me cry. Just like before. It’s yesterday once more…」

学生時代、CDを買い、歌詞カードと一緒に何度も声に出した。一度全部の歌詞を覚えたが、結局今でも覚えているのは出だしとサビくらいだ。

「つまり、『話す練習』とは、声に出して上手くしていくこと、どう伝わるかのニュアンスを考えること、が必要になってきます。そして、『心を宿す』ということでもあります」

その時、また有紀さんの言葉が、ふわりと飛んできた。

「何なんだろう、言葉って一体・・・」

私は開いている問題集を見ながら、ポツリと呟いた。そう、これは言葉を発する必要がない。であれば、どうすればこれを「話せる」に持っていけるのだろう。

ふと私は、有紀さんと一緒に、実際に蛍光ペンやトイレを使いながら、口頭練習をした日のことを思い出した。そして、それから約一日、頭の中が「英語モード」に切り替わった。

結局それはすぐ消えてしまったが、あの感覚が私の中に「確かな手応え」として残っている。そう、あれなのだ、「英語を話す道」は。

そんな時だ。私の耳に、英語の声が飛び込んできた。

「Mommy, I wanna have one more.」

ハッと振り返ると、少し離れたソファに、長身の女性と女の子が、一緒に座っているのが見えた。そして、英語を口にしていた女の子は、あの教室の「真希ちゃん」だった。

「あっ・・・」

思わず小さな声が出てしまった。そしてそれが聞こえたのか、女性が私の方に目を向け、私にちょこんと、笑顔でお辞儀した。

そうだ確かあれは・・・有紀さんの教室に通っている、「藤川さん」と呼ばれていた方だ。そうか、藤川さんは、真希ちゃんのお母さんだったのか。

4-2「英語で考える力」

「藤川ひとみです、私」

どうやら、藤川さんは4年前にあの教室に出会い、一度は休会したが、去年から再び通い始めたらしい。

「だから、実質2年半くらいかな、あそこに通って」

「どうして一回、辞められたんですか?」

「色々あって。プライベートとか仕事とか。転職もあったし。時間が全然取れなくて」

聞くとどうやら、今は事務の仕事をしていて、職場でも英語は全く使わないらしい。

「その点、この子は本当にいいなあって。時間も沢山あるし、一旦好きになったら、朝起きてから夜寝るまで、ずっと英語をやっているんだもん」

そう言って、藤川さんは真希ちゃんの頭を優しく撫でた。

「The big rocket is going up…」

絵本を小声で読んでいる真希ちゃんは、物語に没頭している。

「特にこの本が大好きで。もうずーっと読んでいるの、朝から晩まで」

そしてふと私は思った。もちろん私も英語が好きだが、こんなに目を輝かせることは、絶対にないだろう。日々忙しいので、時間だってすぐに気にしてしまう。そして今やっているTOEICや英会話の勉強は、もはや「苦痛」でしかない。

本当に不思議だ。なぜ学生時代、「あんなに好きだった英語」が、最後は「苦しみの花」を咲かせてしまうのだろう。本来、海外の友達もでき、海外ドラマも楽しめ、英語人生を謳歌できるはずだったのに。

「本当は私自身、英語が話せるようになって、真希に色々教えていきたいと思っていたんだけど、やっぱり自分の力だけじゃ、どうしても無理だって分かっちゃって」

「無理、だったんですか?」

「うん。自分じゃ教材も選べないし、分からないこともいっぱいあって。だったら、真希も一緒に通わせたらどうかな、って。そうしたら、有紀君も『親子割』っていうのを新しく作ってくれて」

そして藤川さんは自分から、シングルマザーだと教えてくれた。

「だから本当は高い教材とか買ってあげたいんだけど、ちょっと経済的に片親じゃ難しくて。でもあそこだったらほら、本やDVDとかも沢山貸し出してくれるでしょう?」

確かにあの教室は、貸し出しの素材は豊富に揃っている。自分で買うよりかは、通わせた方がコスパがいい。

「私ね、絵本とかは簡単に読めちゃうと思ってたの。でも違った。受験にも出てこなかった単語もいっぱいだし、前置詞や副詞も自然に組み込まれてて、逆に難しいのよねー」

そう言って藤川さんは、持っていたパラパラと絵本をめくった。どうやら藤川さんも、真希ちゃんと同じレベルの絵本を読んでいるらしい。

「じゃあ、藤川さんはまだ、英語がペラペラじゃないんですか?」

聞いた瞬間、「あっ」となった。そうだ、「ペラペラ」という言葉は、有紀さんが嫌う言葉だった。藤川さんもそれに気付いてか、

「大丈夫よ、『ペラペラ』って言っても(笑)私だってすぐに出ちゃうんだから。『ペラペラになりたいなあ』とか『ペラペラなんですか?』って。でもね、これはもう、『条件反射』なんだと思うの。繰り返しすぎたから、もう無意識に出ちゃうのよ。だから繰り返すのって、本当に恐ろしいなって」

恐ろしい? 繰り返すのが? どういうこと?

「そう、繰り返すと、無意識に響いてくるの。つまり、言葉って、結局『分かる』じゃなくて、『どれだけ繰り返し言ったかの総量』なのよ。そして、繰り返す中で、いつの間にかその言葉が先行して、自分を縛ってくる」

「え?」

「これ、自分の中じゃ整理がついているんだけどね。有紀君たちもこれと近いこと、何か言ってなかった?」

ふと思い返し、私は思わず「あっ」となった。

「言葉って、本当に怖いんですよ。時には、事実すら曲げてしまうことがありますからね。つまり、『暗示効果』です」

「いいか? 言葉とは『限定』を掛けてくるからな。誰かが『そういうものだ』と言っていれば、『そういうものだ』と無意識に思ってしまうんだ。そして実際に、自らもそう行動してしまう。言葉は行動を縛ってくる、怖いものなんだ。あの催眠術だって、使うのは『言葉』だろう?」

このことを言っているのだろうか。

「繰り返し言葉に出すと、そう考えるようになってくるの。そして、この子もそう。同じものを繰り返しすぎて、その状況になったら、日本語ではなく、まず英語が出てくる。だからこの子はね、英語脳なの」

ゾワッとなった。そして、それこそが私が追い求めている宝物だ。

「ど、・・・どれくらい掛かったんですか、英語脳になるまで」

私があまりにも切羽詰まった表情だったのだろう。藤川さんは目を丸くした。

そして私は、今塾講師をしていて、一年以内に話せるようにならないといけないこと。そして、教え子に一人、真剣に英語を話せるようになりたい子がいることを伝えた。

「へー、大変ね、本当に。そしてその子、関西弁なんだ?」

「はい。中一の途中まで、向こうに住んでいて」

「ふーん。じゃあ、これからもずっと関西弁ね」

「え?」

「何ていうか、ずーっと引きずるのよね、幼少期に育んだ『音』って。例えば『幼少期に関西で暮らした10年』と、『大人になってから関西で暮らした10年』を比べてみるでしょう? どうなると思う? その人の言葉の成分は」

「え? ・・・え、えっと・・・多分、幼少期に関西に暮らせば、関西弁になると思いますけど、大人だと・・・ならないと思います」

「ね? そういうことなの。つまり、一番初めに覚えた音が、その人の人生の言葉の基準になるの」

「一番初めに覚えた音・・・」

「人間って、幼少期の音やリズムをずっと背負っていく生き物なのよね。そして言葉って、その地域に根ざした『音の暗号』ね」

そう言えば有紀さんも、「言葉とは、『同一コミュニティの中で、代々受け継がれてきたもの』」と言っていたっけ。

「ほら、 少しでも違ったアクセントを使うだけで、『よそ者』かどうか、一瞬で分かるじゃない? だからきっとその女の子、周りから浮いていない?」

「! ・・・」

見破られた。そして今、四葉はイジメの対象にもなっている。

「そりゃ『異質』に映って、当然よね。だって、自分たちと全然違うところに生まれ住んでいることが、話し始めた時点で、一瞬でバレるわけだから。言葉ってね、絶対に誤魔化せないの。その人が全部出ちゃう。そして、自分たちと出どころが違うものを、排除しようとするのが、人間の心理。そして特に日本は、この傾向が高いんだと思う」

「えっ」

「ほら? 少しでも綺麗なネイティブ発音をすると、周りはバカにしてくるでしょう? だから、発音が綺麗な子は何とか馴染もうとして、わざと日本語訛りの発音に変えたりしない?」

する。少しでもネイティブ発音をしようものなら、クスクスと笑われる。

「日本ってね、本当にまだまだムラ社会なんだと思う。陰湿っていうか。違う音を認めようとしないで、『自分たちの音』に強制させようとする」

藤川さんの言い方に、なんだかゾッとした。でも確かに、日本人にはそんな「下地」があるのかもしれない。音を飲み込む、というか。

「ほら、英語って、日本語と音が全然違うじゃない? 独特のリズムだってあるでしょう? だから、もしも英語を『聞く、話す』を最終ゴールに置くなら、本来、初めのうちに『英語の音の型』をつけていかないといけないのよ」

つまり、それが有紀さんの教室のやり方だ。

「それなのに、やっぱり学校って、自分たちの音に変えようとする。ローマ字とかね。『a』を『ア』とか、英語の文字を全部、日本語の音に塗り変えちゃっているでしょう?」

そう言えば有紀さんも、ローマ字の悪影響について話していた。

「これって、本当にとんでもないの。だって初めにそう習うと、これから出会う英文は全て、『日本語読みしよう』ってなっちゃうじゃない? つまり、『The big rocket is going up.』は、『ザビッグロケットイズゴーイングアップ』になる」

そう読んでいる子が、塾には沢山いる。

「私にはなぜ、これが止められないのかが分からない。そこから入れば、これから出会う英文が、全部ズレちゃっていくわけじゃない? だからどうしてもローマ字をやるんだったら、その前に正しい英語の音を、ちゃんとインプットさせないと。そうしないと、その子が人生で出会う英文は、音程がズレたピアノみたいに、ずーっとズレ続けちゃう」

つまり日本人は全員、序盤で「英語音痴」になっちゃっているのだ。

「それでも学校は動かない。かつ集団でやっちゃっているから、指導者一人一人もそれに倣おうとする。それなのに、『将来、英語を話せるようにさせる』とか、大層な目標を掲げちゃっているわけだから、もう言っていることとやっていることが、チグハグすぎて」

本当に胸が痛い。そして、私も塾講師として、そういう逃げ方をしてきたし、今でもそうしている。

「私、思うんだけど、人間って無意識に『使い慣れてきたものに頼ろう』とするんだと思うの。だから大人は、『使い慣れてきた母国語』に、無意識に変換したがる。これは、よく分かるの。でも、子供は使い慣れてきたものがない。本当に空っぽなの。だからこそ、正しく、そのまま入る。使い慣れてきたものに、影響されることがない」

ということは、やはり大事なのは「一番最初に正しいものを与えられるかどうか」、になるだろう。

「だから大人が英語で苦しんでいるのは、結局日本語を使い慣れすぎちゃったからなんだと思う。音はもちろんそうだけど、どんな状況だって、まずは日本語で考えるでしょう? 『雨が上がりそう』とか『体がだるくなってきた』とか。でもそうすれば、英語を話す時、必然的に『雨が上がる』って英語で何? 『体がだるい』って英語で何? ってなるじゃない? でも、真希は『雨が上がる』や『だるい』がまだ、自分の言葉になっていない。そして、絵本などで、基本的な英単語に、沢山出会っている。そして、それを繰り返し読んでいる」

どんどん、英語脳になっていくわけだ。

「英語圏の子供も、基本的な単語を使い回しているから、何不自由なくペラペラと話せているの。絵本とかを見ていると、本当に沢山出てくる。だから真希も、『雨が上がる』は『The rain stopped.』とか、『体がだるい』は『I’m getting tired.』みたいに、シンプルに表現する」

出るだろうか、私。そんなにサラッと。いや、無理だ。多分「上がる」から「rise」を発想し、「tired」は「疲れる」と覚えたので、「だるい」を一度頭に描いたらそこでフリーズする。そう、和訳に慣れ過ぎてしまっているのだ。

「だから学校も本来、難しい単語の和訳を覚えていくんじゃなくて、そういう『基本単語だけを使い回す』って期間を、たっぷり取らないといけないのよ。将来、英語を使えるようにするなら。でも今って、文法事項を一つ学んだら、次に行こうってなるでしょ?」

確かに、その文法事項が終わったら、また新しい文法を習っている。そして繰り返しがない。つまり、積み上がっているようで、積み上がっていないのだ。

「例えば先週、牛乳が腐っていた時も、真希は『The milk went sour!』って言ったの。それって、酸っぱくなった意味だけど、『go=行く』で終わった私たち大人は、『え?』ってなるじゃない? で、真希に『どこで覚えたの?』って、聞いたら、『ここに書いてあった』って」

そう言って、藤川さんは開いていた絵本を私に見せた。すると、確かにそこには腐った牛乳と一緒に「The milk went bad.」の文章が書かれてあった。

「こうして真希は、絵本を通しながら、自分の日常に変えて、どんどん基本単語の練習をしている。そして、牛乳や他のものが腐り続ける限り、その表現を繰り返し、バリエーションを増やしていく。だから、英語の根が着実に脳に植わっている」

絶望的な気持ちになってきた。そう、私たちは「go=行く」と覚えたら、どんどん難しい単語を、日本語と対で摂取していく。そうなると、「腐る」に「go」が使えなくなる。こうして、どんどん石化していくのだ。

「だから、結局削いでいるのよね、学校の教え方は。『英語で考える力』を。その状況に、どんな単語を使えばいいか、考えようとさせない。だから、例え牛乳が腐っていても、学校英語を習った大人は、これをどうすれば英語で表現できるか、と考えられない。『牛乳が腐った』というフレーズを覚えているかどうか、と流れる。だって、今まで英語は『暗記科目』だったんだから」

思わず、悲鳴が出そうになった。どこまで私たちの英語教育は、将来に負債を残し続けているのだろう。

「本来、子供って勉強よりも、真似をする習性なのよね。私たちだって子供の時、大人の真似をしたでしょう? おママごととか。そして言葉ってね、私は『音のおママごと』なんだと思っているの」

言葉は音の・・・おママごと・・・

「そして発音だけじゃない。言っていたことまで、引きずってくる。そして、いつの間にかそれと同じことをしている」

「あっ」

「お前はいつの間にか、母さんと同じことを言うようになってきたな」

そう、これは実家に帰るたびに、よく父に言われることだ。

ではなぜそうなったかというと・・・それは、幼い頃から「母の言葉」を守ってきたからだ。

「いい? 由璃。もしも男性とお付き合いするなら、一度、その人の本棚を見なさい。どんな本を読んできたのか、何を培ってきたのか、何に興味があるのか、そしていつも何を考えているのか。その人のことは全部、その本棚が教えてくれるの」

そう、この母の言葉が、今でも私の中に生き、今の私の行動とも重なってくる。

「お母さんも学生時代、英語は得意だったんだけどね。やっぱり話せるようにならなかったなー。残念無念」

全身に電流が駆け抜けたような気がした。そ、そうだ、母も英語が話せず、苦しんでいたじゃないか。それと全く同じことが、今、私の身に起こっている。

「結局今の日本人は、上の言葉を引き継いできたから、英語が聞けなくて、話せないの。ずーっと、ずーっと引きずってきている。日本語にしなさい、ローマ字読みしなさい、文法が大事だ、発音よりもスペルだ、、、上に言われた言葉を守り、刷り込まれ、同じ状況を作り出し、そして英語に失敗し続けている」

・・・日本人が英語に苦しんでいる理由は、かなり深いところにあるとは思っていたが、もしかして、私が思っていた以上なのかもしれない。何十年も、いや、何百年も「英語が話せない遺伝子」を守り続けてきてしまっているのだ。

「じゃ、じゃあ・・・もう、無理なんじゃないですか、日本人に英語なんて」

思わず、低い声が出てしまった。

「だから、有紀君が言うには、この根を断ち切るには、一つしかないって」

「な・・・何ですか、それって」

「幼少期に、大量に聞き、大量に繰り返し、集中的に『英語の音』を根付かせる。『突然変異』を起こさせる。このスパイラルを断ち切るなら、そこしかない」

「! ・・・」

「今の社会に子供を放り込んだら、この国は英語の音を飲み込もうとさせてくる。昔の言葉を守り続けようとする。同じ状況を作り出す。だから結局、親がこの時代の『正しい目的地』に、手を引いてあげる必要がある。時には、周りに抗がおうとも。それがこの時代の親の役目だって」

周りに抗っても・・・確かに、有紀さんは乗り込んできた猫田先生たちに、一歩も退かなかった。

「だから有紀君、今の日本には、英語を『二段階』で考える必要があるって。子供にはしっかり英語を言葉として、正しい順番で向き合わせてあげる。そして、大人は大人で、今まで習ったもの、日本語とうまく付き合いながら、英語を育んでいく。ただし、その際はペラペラを考えるのではなく、学校で習ってきた文法知識を運用して、自分が言いたいことを正しく表現できるようにする。だから、私が目指すゴールはそこかなって。どう考えても、これが私の現実路線」

「・・・文法知識を運用して、自分が言いたいことを正しく表現できるように」

「そう、だから大体私は、この2年半で、だいぶ言えるようになってきた。もちろんそれは、私が初めに思い描いていたペラペラ像とは、程遠い。真希には負ける。でも、それは別に恥ずべきことでもない。なぜならそれは、私が今まで頑張って、日本語で生きてきた証なんだから」

ニコリと藤川さんは微笑んだ。そして私は、自分の目的地は、ここだと思った。

4-3「ボタンの掛け違い」

「この場合は、前置詞の『at』ね」

夏期講習の後期日程が始まり、私は再び塾で、子供たちに英語を教え始めていた。

「ねえねえ先生、これはどういう意味? 『The cars had an accident.』って、『その車たちは、事故を持っています』?」

「ええっと・・・『車は、事故を起こした』って、日本語訳ね」

「あ、そういうことか。『have』は『起こす』か」

いや、違う。「have」を「起こす」で覚えたら、ダメでじゃない。

フーと、大きく私は息を吐き、顔を上げた。教室内は、見慣れない顔で溢れていた。そう、ほとんどが夏期講習の無料体験でやってきた、新しい生徒たちである。

「ねえ先生、次は何をすればいい?」

「あ・・・うん。じゃあ次、その問題を解いておいて」

「分かった!」

私の指示に従い、生徒はガッツリと長文を全て視界に入れ、「えーっと、トムはその時、友達と一緒に」と、後ろから訳し始めた。

ち、違う、違う、違う。違う。

そう、「英語の語順」に慣らしていかないといけないのだ。頭から順に、そして音のまま理解していかないと。いや、でもこのテキストは音源すらない。

「ねえねえ、先生! この『have』も上手く訳せない! どう訳したらいい?」

「先生、こっちも! この『to do』って、『〜するために』?『〜するための』? どっち?」

キラキラと目を輝かせて聞いてくる子供たちを見て、私はグッと歯を食いしばった。

「? ・・・先生?」

「ご、ごめん・・・」

「え?」

「先生、・・・分からなくなっちゃった」

その瞬間、生徒の目が、飛び出るくらいに大きくなった。

「大丈夫っスか、先輩? 顔が真っ青ですよ。寒いんスか? 冷房切ります?」

その日の授業終わり、砂ちゃんが心配そうに尋ねてきた。

「あ、ううん・・・ちょっと気分的な問題で」

「・・・それ、英語のことっスよね?」

「・・・」

「先輩今日、生徒に『分かんない』って言ったらしいッスね? 噂で聞きましたよ。結構、広がっている感じッス。多分まだ、笠原さんにまでは届いてないと思いますけど・・・」

やっぱり、もう知れ渡っていたか。そう、私は今日、英語の授業で、何度も「分からない」を連発してしまったのだ。

「その・・・いいのかな、って。このテキストを使っても。だってほら、『日本語に直しなさい』っていう問題の、オンパレードじゃない?」

「でも、そうしないと、子供達が理解できているかどうか、分からないじゃないスか?」

「じゃあ、砂ちゃんの中では、訳せればそれでいいの?」

「はあ?」

「例えば、ほらここ。『He gave the present to me.』って文があるでしょう? 訳したら、『彼は私にプレゼントを渡しました』になるよね? そしてこれ。『I bought a present for him.』って文。訳したら、『彼にプレゼントを買いました』でしょう? 今、正確に訳したよね?」

「ええ・・・」

「でも、違うの、感覚が。一文目は、彼にgiveしたんだから、到達点の高いtoを使って、二文目はboughtしただけなんだから、まだforなのよ。でも訳しちゃうと、どっちも『〜に』になっちゃう。だから、ここをそのままにしちゃってもいいのかな? 将来、やり直したりしない? 『to』と『for』の違いはって」

「じゃあ・・・どうすればいいって言うんですか?」

「だから、・・・見なきゃいけないのよ。『He gave the present to me.』っていうからには、誰が何をしたのか。もちろん、『I bought a present for him.』の場面も。でもこのテキストには、状況が描かれていない。ただ、二つの文章を高速に訳せってなっている。そして、訳せたら丸がついて次に行く。こんなので勉強して、本当に英語を学んだって言えるのかな」

言っていて、恐ろしくなってきた。そして、どうして今まで何も疑問も持たずに、得意げに英語を教えられていたのだろう。

「だから、結局削いでいるのよね、学校の教え方は。『英語で考える力』を」

そう、このテキストは、英語力を育てるどころか、削いでいるのだ。「高速に、機械的に訳して、問題が解けるようになるため」のテキストである。

「・・・じゃあ、どうすれば、このテキストが使い物になるって言うんスか?」

今までに聞いたこともないくらいの低い声で、砂ちゃんは私を睨んだ。

「そ・・・そりゃもちろん、状況がなきゃ、ダメなんだと思う。つまり、『He gave the present to me.』や『I bought a present for him.』が表す、イラストが欲しいの」

「でもそれって、・・・カンニングじゃないスか?」

「え?」

「だってこの問題は、『Tomorrow will be rainy.』がちゃんと訳せるかどうか、を試しているんスよ? それなのに、そこに絵が描いてあったら、意味がないじゃないスか」

「あ・・・」

確かにその通りだ。全部に絵が書いてあったら、問題を出す意味すらないのだ。じゃあ、意味がないじゃない、この問題。

「それに仮に、ッスよ。理解に絵が必要だったとしたら、全部の文章に絵を付けないといけなくなってきませんか? そんなの、労力的に無理っスよ?」

それはそうだ。仮に絵が必要だとしたら、全部の文章に絵をぶら下げる必要がある。

「何か、言いたいことは分かるンスけど、ただ正直、『お遊び』みたいな感じがして。絵を使って覚えるんでしょう? じゃあもう、和訳すればいいんじゃないスか? そして、後で日本語とズレているところがあれば、修正すればいいだけの話で」

もっともな意見である。しかし、それが今の私なのだ。つまり、真希ちゃん以下のスピーキング、リスニング能力だ。そしてそれは今後、ひっくり返ることはない。

「結局うちら、日本人の大人ッスからね。全部日本語で考えるッしょ? じゃあ、日本語から英語を作った方が、効率がいいんじゃないスか?」

それも分かる。しかし、そうなると、日本語の表現に足を掬われてしまうことにもなるのだ。

もう、どうしてなんだろう。どうしてこんなにも悩まなきゃいけないんだろう。私はただ普通に、日本語を習得したように、子供たちに英語を正しく学ばせてあげたいだけなのに。

「もしかして、また行ったんスか? あの教室に」

「・・・」

私はその後、砂ちゃんに、藤川さんと真希ちゃんのことを話した。そして、英語を英語のまま学ぶことが、一番効率が良いことを説明した。

「でもそりゃあ、その子が幼いからッしょ? うちらはその子じゃないんスよ?」

何だろう、今日はやけに砂ちゃんの当たりがキツい。

「じゃ、じゃあ、砂ちゃんは、私たち大人はもう『手遅れ』だって言いたいわけ?」

「・・・そういうことッス」

「じゃあ、塾の子供たちは? 中学生はもう手遅れなの? 小学生は? 何年生から、手遅れになるってわけ? その線引きはどこにあるの?」

「そ・・・それは、・・・自分、専門じゃないから、分からないッス」

「それも分からないのに、一律に英語を全部、日本語に切り替える勉強を強制させちゃっていいの? 後で『ゴメン。まだぶっちゃけ全然間に合っていたんだけど、塾のやり方がこうだったから』って言っても、もう遅いのよ?」

「で、でも! 受験は全部、和訳して問題を解く方式ッスよ?」

「! ・・・」

「そもそも、そこまで深く考える必要はないんじゃないスか? だって、みんながみんな、英語を話せるようになる必要なんてないんスから。話者になりたい人が、受験の後に個人でやればいいだけの話ッショ?」

いやいや、だから、その発想が良くないんだって。

「じゃあ、砂ちゃん。四葉の場合はどうすればいいの? あの子は話せるようになるために、この塾に通っているのよ?」

「そ、そりゃあ、・・・来る場所が違うんじゃないスか?」

「どこ? 英会話スクール? あの子が英会話スクールに行って、話せるようになると思う?」

「じゃあ、無理なんス」

「はあ?」

「土台、無理なんスよ。だって、先輩でさえ無理だったんだったら、あの子にできるわけないじゃないスか」

「そんな・・・!」

しかし、だ。有紀さんの教室の子供は、みんな英語を話していた。能力に関わらず、だ。

「一方、子供は日本語が完成していません。変換しよう、とならない。逆に、新しく覚えた英語を、繰り返し繰り返し声に出して、練習するのに長けているんですよ。つまり、ストレスを感じることなく、英語がそのまま根付きやすい」

そうだ、四葉は子供なんだから、まだ間に合うはずだ。いや、少なくともあの子は従来の方式では、話者への道はない。

「正直、・・・マジで困るんスよよね」

「え?」

「だって、うちらはこのテキストでやっているんですよ。だから、もしも『このテキストは良くない』とか言っちゃったりすると、・・・周りに伝染するっていうか。それも、社員ッスからね、先輩は。アルバイトと違って、言葉の影響力が違うんスよ」

「す・・・砂ちゃん?」

不機嫌そうに、砂ちゃんは頭をかきむしった。

「今日、授業で『分からない』って言ったのも、絶対に良くなかったと思いますよ。今の子供たちって、何でもすぐにネットに上げますからね。ツイッターで拡散でもされたら、今回の夏休みは、うちらの校舎にとって大ダメージになりかねませんよ? いいんスか? ボーナスも昇進も、軒並みパーッスよ?」

「! ・・・」

「やっぱり、英語を話せるようになりたいって子は、こんなところに来るべきじゃないんスよ。それって寿司屋に来て、スパゲッティ出せ、みたいな話なんス」

「で、でも・・・同じ英語じゃないの?」

「いや、うちらは受験英語ッスよ? 英会話じゃないんス」

「! ・・・」

「もちろん、今後入試に入ってきたとしても、スピーキングの割合はそんなに多くないっしょ? だから、今のままでいいんスよ。個人プレーで、勝手に変えられると、正直迷惑なんス」

全体のことを思っているのに、これが個人プレーなの?

「日本ってね、本当にまだまだムラ社会なんだと思う。陰湿っていうか」

ふと、藤川さんの言葉が思い出され、私は底無し沼にハマっているような気持ちになった。そう、この「引力」なのだ、私たちが引きずり込まれるのは。

「今すぐに変わるべきなのは、指導者側の『教え方』なんです。そしてそれは学校の先生はもちろん、塾講師を初めとして、大人全員が変わらないといけません。そうしないと、どんな政策を導入しようが、日本は変わりようもないんです」

そして私は今、有紀さんが何と戦っているのか、ハッキリと見えた。そう、「英語を話せない原因」は「私たち自身」、つまりこの「長年に渡り、染み付いてきた常識・歴史」と「雁字搦めの教育システム」なのだ。

「あと、俺・・・先週、駅前で、四葉ちゃんを見ましたよ」

「えっ!」

「その、・・・髪を染めて、ちょっとガラが悪い奴らと一緒にいました。声、掛けられなかったッスけど」

「ど、どうして、私に言ってくれなかったの? 先週の話でしょ?」

「だって言うと・・・また、心配するじゃないスか、先輩」

「そ、そりゃ、するでしょう! だって、一ヶ月もあの子に会ってないんだよ?」

「ねえ先輩、うちらはただの塾講師ッスよ? プライベートなんて、立ち入る権利なんかないんス。学校の先生と勘違いしないで下さい」

「す、砂ちゃん・・・」

「それに、本人もどこまで英語に本気なのか、分かんないじゃないスか」

「で、でも! あの子は、高校を卒業したら、アメリカに行くのよ?」

「それは、ただの願望ッしょ? どうせ、すぐに変わるんじゃないスか?」

「でも生き別れた母親のところに行く! って言っているんだから」

「それだって本当かどうか、分かんないじゃないスか? 全部嘘かもしんないし。アメリカどころか、近場でブラブラしてんじゃないスか? それを隠したいだけで、嘘を塗り固めている可能性だって、否定できないッス」

ーパンッ!

思わず、砂ちゃんの頬を張ってしまった。

そして、張った自分が、誰よりも驚いていた。そう、私は今までの人生の中で、人をぶったことなど、ただの一度もないのだ。

「・・・ご、ごめん、砂ちゃん。痛くなかった?」

「いえ・・・だ、大丈夫ッス」

砂ちゃんも、まさか私が手をあげると思っていなかったのだろう。頬を押さえ、ビックリした様子だった。ただ、悪かったとも思っていたのだろう。小さく、「すんませんでした」と謝り、

「俺、先輩の四葉ちゃんを想う気持ちは、分かるんス。そして、そんな先輩を、尊敬だってしているんス。自分はそんな、生徒一人に、そこまで全力投球できないスからね。ただ、先輩が持っている生徒は、四葉ちゃんだけじゃないんスよ? 担当の生徒みんな、なんス。そしてみんな、成績を伸ばしたいから、受験に受かりたいから、ここに通っているんス。だから、他の子供たちにも、気持ちを割いて欲しいんス。現に今、退塾だって相次いでいるじゃないスか? そして、・・・その噂が、・・・うちの担当の生徒にも、届き始めているんス」

「す・・・砂ちゃん」

「もちろん自分の生徒数が上がれば、会社からの評価にも繋がるからっていうのもあるんスけど、・・・何よりも自分の生徒には、まず成績を上げて、志望校に合格して欲しいんス。でもそれって、筆記試験が解けるってことッスからね。であれば、『for』も『to』も深く考えなくてもいいんスよ。そんなことより、問題が解け、高速に訳せるようになってくれた方が、よっぽどいいんス。それが本人も、親も望んでいることなんス」

「・・・」

「だからもう、うちの生徒は、先輩に受け持って欲しくないッス。特に受験生には、会話すらして欲しくありません。そして、先輩だって・・・そんなに教え方に疑問があるなら、英語は外して、数学とかを専門にした方がいいんじゃないスか?」

胸に、ズキーンと響いた。そして、砂ちゃんの言う通りだとも、思ってしまった。

しかし、もしも私から英語を取り上げたら、一体何が残るというのだろう。もちろん、数学や国語なども、教えることはできる。ただそれは、プロでも何でもない。唯一、英語だけが他の先生よりも得意だ、と自負していたのだ。それではここにいる意味が、ない。

4-4「グッバイ」

その翌週から再開された英会話研修は、今まで以上に、全てが色褪せて見えた。

「Excuse me, I’d like to go to the station. Do you know where it is?」

原稿に書かれてある道案内のフレーズを、その通りに喋って終わる研修に、何の意味があるのだろうか。

「The station? Actually, I’m not familiar with this place. You could go to the police station right down the street and ask there.」

そして今日は、あの例の帰国子女の子と、一緒のグループになった。私はもちろん、周りのメンバーも、かなりやりづらそうな顔をしていた。そう、グループに一人、英語がペラペラな子が混ざれば、自分の英語力の低さが一層際立ってしまい、尚更話しずらくなるのだ。

「ぱ、Pardon?」

「It should be over there! You can’t see it?」

もう、書かれてある原稿を無視して、どんどんアドリブを入れてくる。そして、少し見下し感じが、表情や言葉の節々から感じ取れる。きっと、全然話せなくて、呆れているのだろう。

すると、その時だ。その子は、隣に座る私の腕を取り、

「This is my co-worker. We’re in a hurry to get back to our office. See you.」

と、ダイアログを大きく脱線した。な、何なの、この子。

「ねえ先輩、後で一緒に、お茶しません?」

馴れ馴れしいけど、もしかしてこれが、向こうのノリなのかもしれない。

ー「いらっしゃいませ」

研修終わり、私たちはいつもの喫茶店に寄ることにした。

すると、ちょうど葵ちゃんが働いており、私を見つけた途端、手を振って近づいてきてくれた。

「あれ? ご同僚の方ですか?」

「初めまして。私、後輩の加藤ユカって言います」

そう言って、ユカさんはスッと手を差し出し、葵ちゃんと握手を交わした。その仕草が、一つ一つネイティブっぽい。

そして私はユカさんに、葵ちゃんが現在高校生で、つい最近ここで知り合ったことを軽く説明した。

「今日はバイト、何時までなの?」

聞くと、どうやらもう終わりで、その後ここで、友達と待ち合わせをしているらしい。

「じゃあ、それまで私たちのテーブルに来ない?」

いきなりユカさんが誘ったので、私も葵ちゃんも思わず「えっ?」となった。

「現役の高校生の意見も聞いておきたいから。ねえ、いいでしょ?」

もはや、有無を言わさぬ強引な誘いに、葵ちゃんも戸惑いつつ、「分かりました。じゃあ、後で」と言い、カウンターの方に戻っていった。

「ね、ねえちょっと、ユカさん、強引すぎない?」

「いいじゃないですか、先輩。こうやって色々と人脈を作っていくのが、日本人って、本当に下手なんですから」

そう言って、ユカさんは先に注文を済ませて、「席、自分が取っておきますね」と奥の方へ向かった。何とも日本人離れした動きをする子だ。

そして、私が席に着くや否やだ。

「ねえねえ先輩、どう思います、あのくっだらない研修」

いきなりこう切り出したので、私は思わずコーヒーを吹き出しそうになった。

「く、くだらないって、そんな・・・ストレートすぎない?」

「だってえ。あんな道案内なんて意味あるんですか? この時代、GPSがあるじゃないですか。それさえあれば、一発でしょう?」

その発想はなかった。

「それに研修の時点であんなにしどろもどろなんですから。実際に聞かれたら、もっとしどろもどろですよ? だから見てて可哀想で(笑)」

ケラケラと笑うユカさんに、私はじわーっと嫌な汗をかいた。そう、私だって、ところどころ詰まってしまったのだ。

「ね、ねえ・・・どうして私を誘ったの?」

「だってぇ、他の男はなんかヒョロヒョロしているし。それになんか私が英語を喋れるってだけで、みんなねちっこい目で見てくるんですよね。いいよなあ、お前は帰国子女って。だからちょっと、大人の同性の友達が欲しくって」

聞けばどうやら、研修が始まってから、私と話す機会が来ないか、伺っていたらしい。そして今日、ちょうど同じグループになったので、これを機に私と仲良くなろうと思ったようだ。

「で、どこに生まれたの? ユカさんは」

「サンディエゴです。高校までずっと向こうで。その後、こっちに来ました」

じゃあ、もう完璧なバイリンガルだ。すごく羨ましい。

「どう? 仕事は。もう慣れてきた?」

「いや、まだ全然です。っていうか、もう辞めよっかなあーって」

またコーヒーを吹きそうになった。そう、だってまだ、入社して数ヶ月しか経っていないじゃない。

「だってぇ・・・意味が分かんないんですもん。to不定詞』とか『動名詞』とか(笑)」

一瞬戸惑ったが、私はすぐにユカさんの言っていることが理解できた。そう、彼女は英語を第二外国語として学んだわけではないので、文法用語を知らなくて当然なのだ。

すると、そのタイミングでバイトが終わった葵ちゃんが「終わりましたぁ」と、席にやってきた。学生服姿だと、グッと幼く見える。

葵ちゃんが「何について話していたんですか?」と聞いてきたので、私が簡単に説明すると、

「あ、それはわかります。『話せる』と『教えられる』は、全く別なんですよね」

さすが葵ちゃんだ、よく分かっている。きっと、留学生のお世話をしていると、そういう経験もするのだろう。

「だから先輩。本当にダメなんですよ、日本の英語教育って。そんな面倒くさい文法ばかりやっちゃって。要らないんですよ、そんなの全部」

その言い方に、少しイラッときた。そう、それでは私たちがいつも教えている英語を、全面否定しているように聞こえるではないか。

「日本の英語の教科書ってもう、全然ダメです。何ていうか、堅っ苦しくて」

「堅っ苦しい?」

「そう。だって、『want to』とか『be going to』で習うじゃないですか? でも、ネイティブだったら違いますよ。『wannna』や『gonnna』って、省略して使っているんです。だから、教えていて、子供たちが可哀想だなあって」

「want to」や「be going to」を教えていて可哀想・・・この子は、そんなことを思うのか。

「だから私、授業中に『wanna』や『gonna』を教えてやったんです。これが実際に現地で使われている英語だよー、って。そうしたら、大喜びして」

その気持ちは分からなくもない。そう、子供は少し脱線して教えてもらった方が、喜ぶものだ。

「そうしたらですよ、その子がテストでそれを書いて、バツを食らっちゃったんです」

「えっ!」

「で、保護者がそれを知って、先週塾に乗り込んできたんです。誰がこんな教え方をしたんだー、って」

そうなって当然だ。相当揉めたに違いない。

「そうしたらうちの塾長、反論するどころか、『社員の不手際で、申し訳ございません』って、保護者の前で、土下座までしちゃって(笑)」

「えっ! そこまで?」

「はい。もう、呆れちゃいますよね(笑)だって、今の英語教育って、『将来話せるようになる』が目標じゃないですか。だったら、ネイティブが生で使っている表現を、現場に取り入れていけばいいでしょ? それなのにそれは認めないで、バツにするんですよ。呆れちゃいますよね。だって全然、間違ってないじゃないですか」

そ、それは、そうかもしれないけど、もしも私が学校の先生だったら、やはりバツにするだろう。

「それから塾長、私をその子の担当から外して、『もう二度とカジュアルな表現を教えるな、教科書通りにやれ』って言ったんです。でもそれって、私を雇った意味、あります?(笑)」

「・・・」

モヤモヤとした。確かにその気持ちも分からなくはないが、学校は「正しい文法を教える場所」なのだ。そして、塾はその学校のテストで、結果を出させるための場所だ。

恐らくこの子はもう、英語の教え方に息苦しさを感じて、今の職場に嫌気が差し始めているに違いない。いや、職場というよりかは、「日本の英語教育」に、だ。

「もう、ハッキリ言って、あんな教え方や教科書じゃ、絶対に無理です。子供たちは100年経ったって、英語を話せるようになんかなりません(笑)だって、馬鹿すぎるじゃないですか、『This is a pen.』とか。誰に言うんですか、そんなもの」

ナメられている。ただ、確かにそれで育った私たちは、英語を話せるようにならなかったのだ。そして、それを教えている私を含め、ほぼ全社員、英語が話せないのだ。

そしてユカさんは、葵ちゃんに向かって、「ね? あなたもそう思うでしょ? もっとカジュアルな表現を教えて欲しいと思うよね?」と、意見を求めた。そうか、だからユカさんは葵ちゃんを誘ったのだ。自分の意見を、私の前で、現役の高校生に肯定されたかったのだ。

「あの・・・カジュアルって、例えばどんな表現ですか?」

「そうね、例えば、『How are you?』じゃなくて、『What’s up?』とか『Sup?』とか。あと別れ際は『See you soon.』じゃなくて、『Catch you later.』とか。ね? 習わないでしょ、学校でこんなの。これ、ネイティブなら、普通に使っている表現なのよね」

そう言って、ユカさんは得意げな顔をした。すると、葵ちゃんは眉を顰めつつ、

「あの・・・どうしてですか?」

「は?」

「どうしてそんなのを覚えないといけないんですか?」

「そ、そんなの?」

「はい。大事なんですか、そんなの」

「! ・・・」

ちょ、ちょ、ちょっとちょっと葵ちゃん。

「だって『How are you?』も大事じゃないんですか? 普通に使っているんじゃないですか? 私、英語圏の留学生ともよく学校で話していますけど、よく聞かれますよ? 『How are you?』って」

「そ・・・それは、もちろん、死語じゃないけど、、、ほ、ほら、現地でカジュアルで使われている表現もあるじゃない?」

「もちろんあって当然ですけど、それを覚えたら、英語は話せるようになるんですか? そんなのが、今の日本人に足りなかったんですか?」

「そ、そんなのってあなた・・・さっきから何なの、一体?」

「いや、私、そういうのを覚えていても、逆にそれしか話せるようにならないんじゃないのかな、って思って。ちなみにどこまで使えるんですか、その表現? それを知っていたら、その後も会話が続けられるんですか?」

「! ・・・」

あまりにも険悪になりそうだったので、慌てて私は中に割って入った。すると葵ちゃんは表情を崩して、「あ、すみません、つい」と謝ってから、

「ただ私、『ネイティブがよく使う表現』とかって、そんなに大事じゃないと思っていて。だって、英語ってもう、ネイティブだけのものじゃないですから」

「は?」

「英語はもちろん、英語圏で育まれてきましたけど、もう、役割が違うんです。『世界中の人とコミュニケーションが取れるツール』になったんです。だからネイティブだけが使っている表現が、全世界に通用するわけじゃない。スタンダードな英語表現で、世界中の人と意思疎通を図れることが、この時代に求められているんです。それなのに、ネイティブがよく使う表現を優先して、スタンダードをおざなりにするのは、英語の指導者として、どうなのかなあって」

「! ・・・」

「学校で習う文法ってめちゃくちゃ大事じゃないですか? 『to不定詞』が使えるようになったら、『理由』を付け足すことができるんですよ? 『I’ m here to work.』『I’m learning English to communicate with a lot of people from all over the world.』ほら? 色々説明できるじゃないですか? こっちを学んだ方が、そんな『Sup?』や『Catch you later.』よりも、遥かに汎用性が高いと思いません?」

やっぱり、有紀くんの女の子版みたいだ。

「確かに『This is a pen.』って文は、人には言わないと思いますよ。でも、使うじゃないですか、人を紹介するときに『This i s Saori. She is my sister.』とか。『This is a pen.』の応用ですよね? これを応用させられれば、色んなことが英語で表現できるようになるはずなんです。加藤さんは文法を教えながら、そういう可能性を、子供たちに見せられているんですか?」

「な・・・何なの、あなた、偉そうに? そ、そんなあなたは、英語が話せるわけ?」

「話せますよ、当然じゃないですか。だってもう、5年も学んでいるんですよ?」

「! ・・・」

その言葉が突き刺さったのは、もしかして私の方だったかもしれない。

「もちろん私も『以前の学び方』だったら、話せないままだったと思いますけど、桜木先生と出会って、やり方を変えられたから、今こうして話者になっている、と胸を張って言えるんです」

まっ、また出てきた、桜木先生だ。

「やり方を変えたって・・・何のことよ?」

「加藤さんが学んできたような、やり方です。つまり、音とイメージです」

「え?」

「加藤さんは、そうやって学んだんでしょう? 覚えていませんか?」

「・・・」

ユカさんはポカンとしていた。恐らく、それについて、深く考えたこともなかったのだろう。

「自覚がないわけですよね? じゃあ、この問題の『本質』に気づいてないんじゃないですか? 日本人が英語を話せないのは、そんなカジュアルな表現を丸暗記すれば解決するような、単純なお話じゃないんですよ?」

「あ・・・あなた、さっきから何なの? まるで全部分かっているような口調で。それで、私よりも英語が上手いわけ?」

「いや、ド下手ですよ(笑)だって、年季が違いますから。私はまだ17歳で、日本で生まれ育ったんですよ? 向こうで生まれ育ち、英語で長年生きてきたあなたとは、バックグラウンドが違いすぎます。でも、『英語の上手さ』と『教え方の上手さ』を、ごっちゃにしないでください。私の担任だった桜木先生の方が、加藤さんよりも100倍英語の教え方が上手いですから」

「! ・・・」

な、何なんだろう、この自信は。そして益々気になる、「桜木先生の教え方」というものが。

「授業中、イメージはちゃんと使っているんですか? そこまで言うんだったら、単語帳だけを渡して、それを丸暗記してこい、みたいな教え方はしていませんよね?」

ユカさんは、「イメージ?」とキョトンとした。

「じゃあ聞きますけど、加藤さんはアメリカで育った時、お母さんやお父さんから、英単語帳を渡されて、それを日本語訳で覚えるような勉強をしてきたんですか?」

「そ・・・そ、そりゃ、していないわよ、そんなこと。そ、そもそも単語帳なんて、向こうには売っていないんだから」

「でも私たち日本人は全員、英単語を覚えるときは、単語帳で日本語訳を覚えてこい、ってなっているんですよ? 英語教育の批判をするんだったら、本来、そっちの方じゃないですか?」

「で、で、でも・・・単語帳がなかったら、単語は覚えられないじゃないの?」

「でも単語帳を使われなかったんですよね、加藤さんは?」

「だから、そ、それはそうだけど、・・・でもそりゃあ私は、向こうで生まれ育ったんだから」

「じゃあ、あるんじゃないんですか、『単語帳を使わなくても、単語を覚える道』が。加藤さんは、それについて、深く考えたことがあるんですか?」

「・・・」

「あと、フレーズを覚えさせるにしても、それも英語と日本語の『1:1』でいくつもりですか? 『昨日、お母さんと一緒にスーパーに行ったら、卵が売り切れだった』っていう長い文も、全部丸暗記させるんですか? そしてそれにも、カジュアルなネイティブ表現があるんですか? どれだけ生徒を苦しませるつもりなんですか?」

「! ・・・くっ、苦しませる?」

そんな、苦しませているなんて、考えたこともなかったのだろう。いや、しかし、子供たちは単語一つ覚えるのにも苦労しているのだ。そんな、長い文章を覚えるなんて、できるはずがない。

「・・・あっ、あなたね! 深く考えすぎなのよ。言葉なんてね、ネイティブが言っているフレーズをただ真似していけばいいの。単純に、考えなさいよ!」

そして、その時だ。

「Hi, Aoi. I’m sorry to keep you waiting!」

ハッと振り返ると、そこには一人の外国人の女の子が、手を振りながら立っていた。

「No proplem. I didn’t wait long. How are you?」

「I’m good. How about you?」

「I’m good too.」

そ、そうか、葵ちゃんがここで待ち合わせていたのは、留学生のお友達だったのか。

「This is Lucy. She’s from Australia.」

そうやって葵ちゃんはルーシーと呼ばれた女の子を紹介してから、私に「すみません、もう行かないといけなくて」と、申し訳なさそうに言った。

一方、ユカさんは呆気に取られたような顔をしていた。もしかして、葵ちゃんがここまで普通に英語が喋れるとは、思ってもいなかったのだろう。

葵ちゃんは自分のバッグを持って、すっくと立ち上がった。そして私は、とても心細くなった。そう、今、このユカさんと張り合えるとしたら、情けないけど、葵ちゃんしかいないからだ。

すると、去り際だ。葵ちゃんはユカさんの方に、くるりと向き直って、

「あの、加藤さん。その・・・失礼を承知で、あえて言わせて下さい」

「な、何を?」

「今の職種、全然合っていないと思うんで、すぐにでも転職された方がいいと思いますよ。加藤さんのためにも、もちろん子供たちのためにも」

「なっ! 何を?」

「だって、今の英語教育に不満だらけなんですよね? いい要素が何も見つからないんでしょう? だったら、教わる方だって可哀想ですよ。そしてそこにネイティブしか知らないようなフレーズを教えて、テストで減点食らわせているんですよね? そんなの、迷惑以外の何物でもないじゃないですか」

「めっ、迷惑!? 私が?」

「よくできていますよ、学校の英語って。あれさえうまく応用できれば、自分が言いたいことは、何不自由なく伝えられるようになるはずです。そしてその後で、ネイティブアメリカンと現地並の会話を楽しみたい、というなら、その上でカジュアルな表現を足していけばいいでしょう? それなのに、基本的な文法を教えも練習もさせないで、『カジュアルだから、ネイティブがいつも使っているから』って、その場限りしか使えない、汎用性の少ない短い表現を丸暗記させて、おもしろおかしく手軽に話者にさせよう、って甘く考えているんだったら、英語は教えない方がいいと思います」

「なっ・・・何を!」

「あんまり馬鹿にしないでください、日本人の英語を。うちらの苦しみも知らないくせに、言葉の上っ面だけ見て、英語教育を語ってほしくない。この問題は、もっともっと深いんだ!」

「! ・・・」

まるで稲妻が突き抜けたように、葵ちゃんの言葉が全身を駆け巡った。な、何なの、この子。そして、何てかっこいいの。

ユカさんと同様、あんぐりと口を開けたままの私に、葵ちゃんはくるりと笑顔を向け、

「多分、あの二人がここにいたら、こう言っていたと思います」

「! ・・・」

「じゃあ。See you againです!」

そう言って、葵ちゃんはルーシーと一緒に、颯爽と店の外に出て行った。その足取りがとても軽やかで、そして激しい嫉妬に襲われた。

そう、あの子はまだ、若い。何でもできる。何にだってなれる。これから道をつけていくのだ。そして、言葉の壁が何一つない。日本でなくても、どこでだって生きていける。

思わず私は、ガタリと立ち上がった。まるで足が勝手に立ち上がった気がした。そう、やっぱり行かないと。

店内を出る時、後ろからユカさんの「先輩!」と呼ぶ声が聞こえてきたが、アブラゼミの音と一緒に掻き消えた。そう、今はあなたに構っている時間は、一分もないの。ゴメンね、後輩。

4-5「言葉とイメージ」

「お久しぶりですね」

教室を訪ねると、中には有紀さんとアップルしかいなかった。

「あれ? 生徒さんは?」

「今日まで夏季休暇なんです。ただ、ちょうど準備しないといけないことがあって」

「あっ、そう・・・なんですね、すみません。てっきり始まっていると。また、出直します」

「あ、別にいいんですよ。それに、できれば僕と一対一で話したかったんじゃないですか?」

「! ・・・」

やはり、見抜かれている。

有紀さんは犬小屋の前にアップルを座らせ、受付席に私を案内した。

「もしかして、また葵ちゃんに会ったんですか?」

「! ・・・え、な、、、何で分かったんですか? 超能力者ですか、有紀さん」

「いいえ、今のは単にヤマを張っただけですよ(笑)ただ、前回も会ってからこちらにいらっしゃいましたからね。今回もそのパターンなのかな、と」

さすが有紀さんだ。勘の冴えが鋭すぎる。

すると、ちょうどその時だった。夕空がピカッと、光った。

「あれ? ・・・今日って、雨が降るんですか?」

しまった、天気予報を全く見てきていなかった。すると有紀さんが「大丈夫ですよ、置き傘なら何本もあるんで」と言ってくれた。

「で、葵ちゃんは元気でしたか?」

「あ、はい」

そして私はそれから、ここに来るまで何があったのかを、有紀さんに順を追って説明した。

すると有紀さんはクスクスと笑って、

「そっか、やっぱり桜木さんが、言っていただけありますね。葵ちゃんが、一番、物事の飲み込みが速い生徒さんだったって」

「その、・・・桜木先生って、どんな方だったんですか?」

「若松さんによく似ていますよ。生徒さん想いで、そのためには上や周りに抗ってでも、何とか変えたいという気持ちがあるところは、特に」

「・・・」

「結局なんですが、今の英語教育では、どれだけ先延ばししても延長しても、『話せる』は難しいんです。結局、『話す』というのは、今までどれだけ『音の経験を積んできたか』の話なので。音を抜いて学んでいる以上、それは時間の問題ではありません」

そうだ。文字学習をどれだけ引き伸ばしても、結果は変わらない。

「知っている、分かる、の裏にある、『もっと太い導線』を引っ張り出さないといけないんです。例えばですが、若松さん、1から5まで数えてもらってもいいですか?」

「え? あ、はい・・・いち、に、さん、し、ご」

「じゃあ、今度は逆に、5から1まで数えてもらってもいいですか?」

「え・・・あ、はい。ご、よん、さん、に、いち」

すると、有紀さんはクスッと笑い、

「今、気付きました? 『4の音』が変わったこと?」

「え?」

「ほら、1から5まで数えた時、4のことを『し』と言いましたよね? それなのに、5から数えると、『よん』に変えたんです」

その後、私は実際にもう一度言ってみて、確認した。確かに。順番を変えと、『4』の音が自然と切り替わる。

「どうして変えたんですか?」

「ど、どうしてって・・・別にただ、そう言ってきただけで」

言った瞬間、ハッとなった。

「そういうことなんです。言葉って、こうして『どう言ってきたか、の経験』が、やはりバックボーンになるんです。他にも例を挙げると、『いっぽん、にほん、さんぼん、よんほん』ですね。全てに共通の『本』が付いているだけなのに、数によって変わっていますよね? それが言えるようになるには、『今までそう呼んできたかどうか』が全てです」

確かに。「言いながら」、その法則性を身につけた。

「もちろんそれは、英語にだって当てはまるでしょう。歯が一本なら『a tooth』ですし、2本以上になれば『teeth』になる。彼らは自然と、そう呼べます。であれば将来、バイリンガルを目指す以上、僕らも『言い続ける練習』をしてこなくてはいけなかったんです」

「それって例えば、、、音読練習だったり?」

「そういうことです。言葉を覚えるのは、母国語であろうが、声に出すのがデフォルトなんです。この声に出す行為を、『ネイティブがいる空間だけ』に限定してしまうと、圧倒的に量が不足してしまいますからね」

確かに。そして対等に話そうとし、即興で英作文をし、挫折をしている。

「さて、どうします? 僕が全ての質問に答えていくスタイルにしますか?」

ゴクリと私は唾を飲み込んだ。そう、今日で全部聞きたいことは聞いておかないと。

「その・・・あの、まずYoutubeのことなんですけど。あの、かっちゃんという男の子が、浅草を案内しているビデオがありましたよね?」

「あ、ご覧になられたんですね、あれ」

「はい。その・・・あれを上げられた理由は何ですか? この教室の宣伝じゃないですよね?」

すると有紀さんは、クスリと苦笑いして、

「告発ですよ。今の英語教育で、果たしてあんな子が生まれるのか。あれを見た人がそれぞれ、考えて欲しかったんです」

やっぱり、私が思った通りだった。

「お気づきのように、日本人は英語を全て、母国語で意味を理解するよう、学校で癖づけられています。そして受験後に、個人の努力で『日本語→英語』をしないといけなくなっている。しかし、言葉とは『どれだけ言ってきたか』が、バックボーンになるわけでしたよね? そうすると、全ての文法事項を履修しないと、話す練習に移れなくなることになります」

「え?」

「だって、いつも話している日本語は、それこそ比較級や最上級、仮定法過去など、色んな文法事項が入り乱れているでしょう? これを『日本語→英語』のルートで行くなら、全部の文法事項を網羅した上で、初めて『話す』のゴーサインが切られるわけです。しかし、そうなると、必然的にスタートの時期は、高校以降になってくる」

「あ・・・あ・・・」

また違った「事態の深刻さ」が、分かってきた。そう、この「ズレ」は思っていた以上に、致命的なのかもしれない。

「言葉は幼少期から、どれだけ言ってきたか、その『経験年数』がモノを言うんです。しかしこの方式だと、『話す』練習がどんどんどんどん後ろ倒しになっていく」

ああ・・・どんどんハードルが高くなっていく。そして、全て日本語で考えるようになっている。基本単語も全部、日本語のゼッケンがついてしまっている。かつカタカナ発音で覚えている。

「話者を目指すのであれば、文法はある程度でいいわけで、話すための手段なんですよ。つまりそれが、中学の英文法レベルです。あとは沢山口頭練習していけば、高校の3年間である程度の話者にはなれるはずですが、ここに受験がドーンと居座っている」

そうだ、だから筆記試験のために、もっともっと対訳を詰め込まないといけないのだ。

「そして、ここで見過ごせない、大きな落とし穴がもう一つあります」

「な、・・・何ですか?」

「それは日本人はみんな、英語を話せるようになるには、頭の中で『日本語→英語』ができれば、そこで終わりだと、錯覚してしまっていることです」

「え?」

「英作文とは、頭の中の言語の切り替え作業です。しかし、言葉は声に出すことで、育まれていきます。つまり、英作文をメインでするなら、本来、声出しまでやらないといけないんですよ。しかし、どうでしたか? 若松さんは」

や、やっていない。模範解答を見て、「合っているかどうか」で終わった。

「そう、実はまだ続きがあったんですよ。模範解答をしっかり声に出して、型までつける。しかし、ここまでやれている日本人が、ほぼいないんです」

道理で、英作文をやっていても、手応えを感じなかったわけだ。

「でも状況から英語を作ってしまえば、こんなことにはならなかったんです。ほら、以前僕とやった『Can I borrow your pen?』を覚えていますよね? 訳せば、『ペンを貸してくれますか?』でしょう? 実際の場面を作り、声に出せば、ここの変換作業がごっそりなくなるんです。声出しまでいける」

確かにあの日、私は砂ちゃんにそのまま「Can I borrow your pen?」と口にできた。

「向こうの人はただ、ペンを貸して欲しい時に、『Can I borrow your pen?』と言っているだけなんです。だから、僕たちも同じ場面を想定しながら、『Can I borrow your pen?』と練習していけばいい。ここを日本語に変換し、『borrow:借りる』と頭でお勉強するから、あとあと苦しむことになっている」

そうだ、言葉とは本来、変換も要らないシンプルなものなのだ。

「イメージって、本当に大事なんです。だって、僕たちはイメージの中に住んでいるんですからね」

「は?」

「証拠を見せましょうか? 若松さん、先ほどから、髪型がピーンとはねていますよ?」

「ええっ!? うそ!」

私は慌てて、両手で髪型を触った。しかし、だ。手で髪を触っても、その感覚がなかった。

「ウソですよ(笑)」

「え?」

な、何でそんな嘘を・・・?

「今、頭の中に何が起きましたか?」

「何が起きたって・・・」

「イメージしませんでしたか? 自分の髪の毛がピーンとはねている姿を」

確かに、イメージした。

「じゃあ、髪の毛がピーンとはねているって、どういうことですか?」

「え? それは、・・・髪の毛がピーンとはねている、って意味です」

「つまり、そういう『状況(イメージ)』ですよね? その絵を伝えるために、言葉で説明したんですよね?」

「は、はい」

「言葉って、こうして『イメージを説明するために生まれた』んじゃないでしょうか?」

「! ・・・」

そう言って、有紀さんは紙を取り出し、何かを描き始めた。そして、それは髪の毛がはねた女の人のイラストだった。

「ほら、この状況が『髪がはねた』ですよね」

「は、はい」

「じゃあ、その表現を若松さんはどうやって覚えましたか?」

「どうやってって・・・多分、私か誰かの髪が実際にはねていたんだと思います。そしてそれを『髪がはねている』という表現だと、聞いた」

「そう、絶対にそのプロセスを辿ったはずなんです。『カミガハネテイル』という音と、『髪がはねている状態』を重ねた瞬間があった」

イメージと言葉の繋がりが、ジワジワと繋がってきた。

「あと、先ほど若松さんが、僕にここに来る前に、何があったのかを説明してくれましたよね?」

「あ・・・は、はい」

「研修の後、後輩の加藤さんに誘われてカフェに行き、そこでバイトのシフトに入っていた葵ちゃんが、加藤さんの考えを否定し、それに触発されて、ここにいらっしゃった」

すごい、よく正確に覚えている。

「それを説明するとき、若松さんはずっと上を見つめていらっしゃったんです」

「え、上?」

「人は起きた事柄を説明するとき、上を見て、それを説明しているんです」

、、、考えたこともなかった。

「試してみましょうか。昨日の夜は、何をどこで食べましたか?」

「え? 昨日の夜ですか? えっと・・・コンビニ弁当です。授業が終わった後、職場で」

「ね? 今、上を見ましたよね」

「え?」

「ほら、もう一度思い出してください」

た、確かに。昨日の夜ご飯を思い出す時、私は上を見る。そこに、私の「昨日の場面」が詰まっている。そして、その絵を有紀さんに説明した。

「そうすると、僕の頭には昨日若松さんがどこで何を食べたかの、絵が届くんです。そして、その絵が、僕の頭の中に残る」

「え?」

「ほら、先ほど僕が正確に若松さんの話を説明できたのは、そのためですよ。若松さんが経験した場面を、僕は絵で受け取り、ストックし、それを暗唱したわけです。こうした『音を使った、場面のやりとり』が、言葉の本質なんです」

そんなこと、今までに聞いたこともない。

「どうして言葉が生まれたのか。その発祥は、人に『自分が経験したこと』を分かってもらいたかったからだと思うんです。例えば、『向こうに鹿がいたよ』ということを伝えようと思ったら、相手に『鹿』が、音で分かってもらわないといけません。そのためにはどうすればいいか。二人、同じものを見て、『し・か』と『同じ音の響きの癖づけ』をすることが求められます」

音の癖づけ・・・そう言えば藤川さんも、言葉は「地域に根ざした『音の暗号』」と言っていたっけ。

「二人の間で『し・か』と音を発したら、同じものを描けるようにする。これが、言葉の発明です。情報の共有。そして、その音をコミュニティ間で統一させていった。そのため、『こ・ん・び・に・べ・ん・と・う』という音を聞くと、僕の頭の中にはコンビニ弁当の絵が届く。中身は二人の間で異なりますが、『コンビニで売られている、安くて、便利で、美味しいけども、少し栄養価が落ちてしまうお弁当』が、この音が持つ、社会的な『意味』です。こうした、音とイメージの癖づけを、僕たちはずーっとやってきたんです。それこそ、名詞から動詞、形容詞まで色んなものまで」

その後、私は有紀さんと色々と言葉を交わして、試してみた。そうすると、確かに有紀さんの言っている通りで、私たちは人と話している時、まず何かを描き、それについて説明する、というプロセスを辿っているのが、よく分かった。

「よく学院長から言われたのは、『桜の花が満開だ』という言葉ですね。それを聞けば、頭に描くのは、文字ではなく、一面ピンク色の『絵』でしょう?」

確かに。音を聞けば、頭に絵が浮かぶ。不思議だ。

「ここが大事なんです。言葉ができる前に、まず『状況』があったんです」

「言葉ができる前に、状況があった・・・」

「『桜の花が満開』という言葉が先にできたのではなく、先に『桜が満開な状況』があった。そしてそれを、『さくら・の・はな・が・まんかい』と、先代が名付けたんです。だから、『桜の花が満開』と聞けば、絵が浮かび、その絵を見ても『桜の花が満開』と言える。こうした『音』の記憶を、生活の場面の中で、僕たちは引き継いできたんです」

今まで、欠けていたところが、完全にピタッと埋まった気がした。

「試しに今、新しい言葉を作ってみましょうか?」

「え?」

「今アップルは後ろ向きに座っています。そして、この後ろ向きに座る動作を、『うさる』と名付けてみましょう」

「うさる、ですか?」

「はい。今、アップルはうさっている、と考えます。じゃあ見ながら、『うさる』と10回言ってもらってもいいですか?」

アップル

「えっと、うさる、うさる、うさる、うさる、うさる、うさる、うさる、うさる、うさる、うさる」

私は後ろ向きに座るアップルを見ながら、10回繰り返した。

「では、僕がアップルを拾ってきた時です。河原に置かれた段ボール箱の中で、アップルはうさっていたんです。さて、今、若松さんの頭の中はどうなっていますか?」

「どうって・・・河原に置かれた段ボール箱の中に、後ろ向きに座っていたんですよね?」

うん、そういう絵が頭の中に浮かんだ。

「ね? 今、僕たちは言葉を作ったんですよ。『うさる』という、『音の暗号』を。そして、その元になったのは、『後ろ向きに座るイメージ』です」

「・・・」

「繰り返します。言葉とは、『場面を引きずる、同一共同体の間に長年引き継がれてきた、音の暗号』です。そしてその音を辿っていくと、そこにはイメージがある。その音が伝えたかった『意味』です。だから、イメージや音を抜いて、言葉を学んじゃいけないんです。いや、そもそも学べないんです。これを何も見ず、違う言語に変換してズレて理解してしまったら、あとで全部、イメージと音を使って、修正しないといけなくなってしまう。そして特に『聞く』は、言語間距離が遠ければ、壊滅的なものとなる。これが、大人が英語で苦しんでいる真相です」

その時、また雷がピカッと光り、うさっていたアップルが立ち上がった。

4-6「日本英語教育の失敗」

「問題は、英語とイメージが、切れてしまっていることなんですよ」

「え?」

有紀さんは机の中から、一冊の本を取り出し、

「見てください。これは、僕が中学校の時に使っていた教科書です」

確かに、かなり古そうなテキストだった。

すると、有紀さんはそれをパラパラとめくりながら、「ここを訳してみて下さい」と、ある一節を指さした。するとそこには、「A dog barked at me.」と書いてあった。

「えっと、・・・『一匹の犬が私に向かって吠えました』、です」

「ね? 今、高速に訳せましたよね?」

「あ・・・はい」

「こうやって、僕たちは英語を文字から入り、ずーっとそれらを一語一語日本語に高速に切り替え、点を取り、英語と向き合ってきました。それも、中高6年も、です。でもやっぱり、、、話者になるには、ここが良くなかったんです」

「・・・」

その時だ。また雷が光った。そして、うさっていたアップルが、外に向かって「ワンワンッ」と吠えた。

「さて、若松さん。質問です」

「え?」

「先ほど、若松さんは『A dog barked at me.』の文章を高速に訳すことができましたが、今、頭の中で、アップルが『bark』したと、、、『1ミリ』でも反応できましたか?」

「・・・! い、いえ」

そう、「bark」なんて言葉、1ミリも今、頭をよぎらなかった。

すると有紀さんは、フーと大きく息を吐いてから、

「ね、ここなんですよ。日本人がやられちゃったのは。日本語は全て、イメージと音を重ねてきました。『桜の花が満開だ』と聞けば、ピンク色の絵が出る。そして、桜の花が満開だったら、『桜の花が満開だ』と言える。しかし、日本人が学んできた英語は違うんです。『bark』している場面を見ないのに、『bark』を覚えちゃったんです」

「あ・・・あ・・・あ・・・」

「もちろん、『bark』と聞いても、絵は出ませんよね? その代わりにスペルが出るでしょう? そして、『吠える』と訳しますよね? 日本語と反応が全然違うでしょう?」

確かに。「bark」に犬が、引きずられてこない。出てくるのは、文字のみだ。

「つまり、そういうことなんです。日本人は英語を、覚えているんじゃないんです。日本人は、英語の日本語訳とスペルを覚えているんです。だって、英語を学ぶ目的は、ひとまず筆記試験をパスすることだったんですから」

「あっ! ・・・!」

「大人になってからのやり直しは全部、こういうところから来ているんです。例えば学生時代、僕たちは『borrow:借りる』と、覚えました。でも、『borrow』は、単独では存在しません。誰かが何かを『borrow』したんです。そういう場面の説明なんです。そしてその行為を先代が、『borrow』と名付けたんです。でもそれを、『borrow:借りる』の文字だけの対訳で覚えちゃったら、語感が全部、日本語にすり替わっちゃうんですよ」

そうか、場面を見ずにただの対訳で覚えると、「borrow」は「借りる」に化けるのか。そうすると、トイレも土地も「borrow」できる、となってしまう。そのため、本来「borrow」を覚えるなら、「移動可能なもの」が必要なのだ。

そして、真希ちゃんは日頃、蛍光ペンを使いながら、「can I borrow your highlighter?」と声に出して、練習している。そのため日々、英語の語感が正しく植わっていっているのだ。

「本当にこの問題は、根深いんです。例えば僕が、『昨日、スイカを食べた』というと、若松さんの頭の中には『赤いスイカ』のイメージが伝わるはずですよね?」

そう言って、有紀さんはメモ用紙に、スイカの絵を描いた。

「では若松さん、『hand』の意味は何ですか?」

「『hand』ですか? えっと、『手』です」

「どこですか?」

「え?」

「『hand』の位置ですよ。体の『どこの部分』ですか?」

そう言って、有紀さんは腕を伸ばして見せたが、私の頭の中は、「?」でいっぱいになった。

「ね? 分かっていないでしょう? どこが『hand』か」

「! あ・・・は、はい」

完全に頭の中を読まれた。

「これっておかしな話だと思いませんか? スイカは絵が出るんでしょう? でも、『hand』になった途端、なぜ絵が出ないんでしょうか?」

「え・・・だって、『hand』は『手』ですから・・・」

「いや、だからそれはただの『訳』です。 先ほどからもお伝えしている通り、言葉はまず『状況』がスタートなんです。だから『hand』という言葉が生まれた以上、『hand』と呼んでいる『体の部位』があったはずです」

確かにそうなる。目の前に「スイカ」があれば指差せるのに、目の前にある「hand」は指差せない。つまりそれは、「hand」のイメージが、私の頭の中に丸々ないのだ。嫌だ、何これ。

有紀さんは、メモ用紙に新たな絵を描き足しながら、

「こうやって、僕たちは学校教育の中で、まず英語の文字を確認してから、それを日本語に高速に切り替えて、理解する方法を取ってきました。そのため、『hand』は『手』、『foot』は『足』、『finger』は『指』にしました。しかし、もちろんネイティブはそんな作業をしていません。彼らには日々『hand』や『foot』などと呼んできている、『体の部位』があったんです。『hand』はこの、『手首から上の部分』です。手首部分は『wrist』、腕部分は『arm』ですよね。『foot』も、『足首から下の部分』です」

今まで沢山、その単語と出会ってきたが、意識したことは、今までに一度もなかった。

「例えば、日本人に『体にfingerは何本あるのか?』と尋ねると、『20本』と返します。しかし、ネイティブに尋ねると、『20本』はありえません」

そう、それは以前、ここで教えてもらった。足の指は、『toe』だ。

「しかし日本人は学校で、『finger』を『指』で覚えさせます。しかし、日本語では足にも『指』がある以上、手と足がごっちゃになる。そのため、足の指を怪我した時、ネイティブにその場所がちゃんと伝えられなくなるんですよ」

確かに。その覚え方だと、「finger」と言ってしまうだろう。そうすると、「怪我の場所」が相手にズレてイメージされてしまうのだ。

「『訳』と『理解』は違うんです。『hand』を『手』とするのは、『訳』です。しかし、本来『hand』は、『手首から上部分』なんです。これが『理解』です。だから、英語でよく言うでしょう? 『分かりました』は『I see.』だと。つまり、『見える=理解』なんです」

「あっ・・・」

「繰り返しますが、人は物事を話す時、考える時、必ずイメージを描いています。そして、私たちが日本語が話せるようになったのは、その状況に一つずつ、日本語を重ねてきたからです。『正しい音』を大人から聞き、真似、やがて『同じ音』を習得した。そして英語ネイティブも同じように、まずは状況があり、そこに正しい英語の音をぶら下げてきた。そのため、英語話者を目指すのであれば、同じプロセスを辿るのが、最短になります。つまり、『絵と音を、追っかけていく』イメージですね」

つまり、私たちは同じ英語をやってきたつもりだったのに、中身が違っていたのだ。置き忘れてきたものは、その言葉が意味する「イメージ」と、それにぶら下がった「英語の音」だ。

「そして、ここで大事なのは、やはり『繰り返し』です。言えば言うほど、音は刻まれていきますから。正しく歌がそうでしょう。例えば若松さんが今までに、沢山聞いてきた歌は何ですか?」

「歌? え・・・沢山、ですか?」

パッと、すぐには思い浮かばなかったが、私はカーペンターズの「Yesterday once more」の話をした。昔、よく聞き、今覚えているのは出だしとサビくらいだと。

「じゃあ、『君が代』はどうでしょうか? 僕に続いてください」

そう言って、有紀さんは「きみーがーよーはー♪」と先に歌い出したので、私もそれに続いた。うん、普通に歌える。

「今、頭の中はどうなっています? 頭に歌詞が浮かんでいましたか?」

「あ・・・いえ、ありません」

そう、勝手に口が動き、君が代を歌った。

「それはどうしてだと思います? なぜ国歌は歌えたんでしょう?」

「そ、それは、、、幼い頃から、何度も声に出して、歌ってきたからでしょうか? ことあるごとに式典などで」

「そういうことです。何度も行事で歌い、口を動かしてきたから、覚えているんです。繰り返すことで、勝手に動くレベルにまで達している。それは、指がピアノを奏でるのと同じ理論です」

確かに。繰り返す中で、手の筋肉が、勝手に鍵盤を正しく叩けるようになる。

「先ほどの『Yesterday once more』もそうです。出だしとサビは覚えているのは、繰り返したからですよ。出だしは何度も口ずさむし、サビは曲中、何度も訪れるでしょう?」

そっ、そうだ、だから私はそれが、その歌詞の音が、頭に残っているのだ。繰り返し、口にした。

「小学校の時に覚えた九九もそうですよね? あれを覚えた時、文字を眺めていたわけじゃないでしょう? 家に帰って、何度も暗唱してきましたよね?」

した。何度も何度も、口から出せるように頑張った。

「だから、結局『話せる』はピアノと同じで、繰り返し口を動かして覚えるものなんです。そしてピアノが3ヶ月でプロ級になれないのと同じで、英語も3ヶ月ではペラペラになりません。動かしてきた年季、そしてバリエーションが必要になってくるんですよ。そのため、ピアノが上手くなるのと、言葉が上手くなるのは、基本的に同じスパンになるはずです。そして、やればやるほど、繰り返せば繰り返すほど、上達する。定着する。そして、いつしか楽譜も要らなくなる。即興で弾けるようになる。これが僕たちが、習得した日本語なんです」

「あああ・・・・」

完全に腑に落ちた。そして、今まで何もやってきていない。ずっと文字を見て、日本語に切り替えて、そこで終わってきた。「話せる」要素が、入っていない。

「だから、結局のところ、国語だったわけです、僕たちの英語は」

「え?」

「だって、英語は全部、訳して、ずっと日本語の音で処理しているわけですよね? 語順を組み替えて、『てにをは』をつけて、漢字を使って。英語に向かいながら、頭の中は全部日本語です。だから、やっていることは『国語』ですよ。それが証拠に、塾の生徒たちの、国語と英語の成績は、ピタリと合致するはずです」

「!!!!!! ・・・・・・・・・・・・・・」

「なあ、由璃ネエ。思うんやけどな、こんなん、別にどうでもええやん。だって英語やで? 英語に句点や漢字があるかいな。もしも英語の文章を書いて、ピリオドがなくてバツになるんは、さすがにうちでも納得するで? あと、大文字やなくて小文字やったとか、スペルが間違うとるとか。でも英語やで?」

「でも、うちが英語を勉強してるんは、将来、英語を話せるようになりたいからやねん。っていうか、そのためにうちらはみんな、英語を勉強してんねやろ? そんなら、『句点があるない、漢字が書ける書けない』が何になんねん?『先生、句点打つの忘れたから、漢字が上手く書けなかったから、英語話せませんでした』変やろ? これ」

そ、そうだ! これらの四葉の減点は、全て「日本語」で引かれているのだ。そして、四葉の国語力は、もちろん低い。

「そんなものをする前に、まずは『国語力』でしょう。国語ができない子は、揃いも揃って、英語もできません。だからまずは、母国語の基礎をしっかりとやってから、第二外国語を学び始めるべきです」

そう言えば、笠原さんもこう言っていたではないか。しかし、それも当然だ。日本では英語は「日本語に切り替える教育」なのだから、「国語力」がないと点が稼げないのだ。

「そのため、帰国子女やネイティブが日本に来ても、英語のテストは100点が取れないと、よく言いますね。しかし、それは当然です。なにせ彼らには、『訳す能力』がないんですから。日本語で何と言うかが分からない。日本語の音を知らない、感覚が分からないわけです。しかし、彼らは英語を読んでも、聞いても、そこに状況が浮かぶ。だから、日本人よりも、遥かに理解できているんです。しかし、理解しているかどうかを試すために、訳せないと認められない」

何ということだ。これで、今までずーっと抱いてきた疑問が、全て氷解した。そうだ、日本の英語は結局、「母国語に切り替える能力」を測っているのだ。

「なー、由璃ネエ、うち、将来、英語が話せるようになるんかなあ?」

「なあ、由璃ネエ、ホンマか? ホンマにこんな勉強しとって、将来英語喋れるようになるんか? ちゃんと繋がっとるんか? 繋がっとらんから、日本人は大人になってから、英語が喋れんで困っとるんとちゃうんか?」

涙が盛り上がってきた。そう、私はあの子の期待に対して、何にも応えられていなかったのだ。英語なんて、何一つ教えていなかった。ずっとずっと、「国内の英語テストの取り方」を指導していた。あの子は受験なんて要らないのに。ただただ、将来、英語が話せるようになりたくて、苦しい家計の中、1年以上も私のところに通っていたのに。

「だから、やっぱり大人は変えてあげないといけないんです、日本の英語教育を。子供たちのためにも」

「有紀さん・・・」

「大人は仕方がありません。子供にはもう、戻れないんですから。イメージを使ってやり直しながら、声を出し、頑張っていくしかないでしょう。しかし、子供たちに同じ道を歩ませる必要はありません。だから、学び方を変えてあげることが、大人である、僕たちの務めなんです」

有紀さんは、グッと口を真一文字に結んだ。

4-7「これから」

有紀さんと話してから、1週間が経った。夏期講習も終わり、ずっと新学期準備に追われていたが、頭の中はずっと、教室で言われたことでいっぱいだった。

「結局、国語だったわけです、僕たちの英語は」

その衝撃が、今でも生々しく残っている。試しに塾の生徒の成績をざっと確認してみたが、確かに有紀さんの言う通りだった。そう、英語も高い子は国語も高く、英語が低い子は国語も低かったのである。

「そして更に問題なのは、日本人はみんな受験が終わっても、学校での学び方を『自動延長』してしまうんです。学びの初動の目的が『受験英語』にあり、そこで国家レベルで『話せるようにならない英語』の型がついてしまった。教育とは『初動』が全てです。だから、日本人はいつまで経ってもこの『型』に縛られてしまい、『声に出して覚える練習』に移れなくなってしまっている。これで『日本人が英語を話せない』という、摩訶不思議な現象が、一本の線で繋がります」

繋がった。そう、私たちが向き合ってきた英語は、「翻訳作業」である。だから、音を抜いて学べるのだ。そして話者になるための練習だって、音を発しなくなる。ここが国家レベルで、英会話が「上達しない」原因になっている。「分かりやすい」で終わり、「borrow」を使った文章の練習をしなくなるのだ。

また既に全員、ローマ字を習っていることが、更に悪い方向に流れている。そう、文字があればネイティブの発音は聞かなくていいや、となるのだ。そのため、日本人は四葉のように、音源を聞かず、ローマ字読みで単語を覚えるようになる。

しかし、英語をローマ字で捉えた時点で、「日本語の音」になっているわけである。全部に母音が付くし、「r」や「l」も同じになる。そうすれば確実に将来、「音の直し」が入り、後の作業が借金のように、どんどん増えていく。

加えて、「日本語訳」でクセづけるので、聞く時も話す時も、いちいち「日本語の感覚」を経由しないといけない。語順だって、全部組み替える必要がある。こうして、本人も知らない間に、「何重ものハンデ」を未来に背負ってしまっているのだ。

「わっ、何やねん、『wonderful』のスペル。長すぎるやろ。覚えられるかい。語呂で覚えよ。『ウヲンデルフル、ウヲンデルフル、ウヲンデルフル・・・素晴らしい、素晴らしい、素晴らしい』・・・『見る』は『see』か。『セエ、セエ、セエ・・・見る、見る、見る』。『聞く』は『listen』か。何やねん、腹立つわ。『t』を読まんのなら、取らんかい、嫌がらせか。えっと、『リステン、リステン、リステン・・・聞く、聞く、聞く』」

今思うと酷すぎて、全身にブルブルと震えが来る。

「先ほど、若松さんは『A dog barked at me.』の文章を高速に訳すことができましたが、今、頭の中で、アップルが『bark』したと、、、『1ミリ』でも反応できましたか?」

あとは、「意味」だ。そう、私たちは「wonderful」なものを見ていないのに、「wonderful」を覚えてしまっているのだ。「wonderful」を表す絵が、テキストには何も載っていない。

もちろん、「wonderful」は、訳せば「素晴らしい」になるかもしれない。しかし、その覚え方では、たとえ目の前に素晴らしいものがあっても、「wonderful」だとは思えないのだ。そして、思えないものは、もちろん口から出ない。それが証拠に私自身、今まで「Oh, it’s wonderful!」と口にしたことが、一度もないではないか。

そもそも言葉とは、自分自身を相手に伝えるものである。「素晴らしい、お腹が減った、暑い、苦しい、楽しい、ありがとう」、、、こうして、「自分の状態、気持ち」を相手に分かってもらうために、言葉は生まれた。だから子供は声に出し、社会の一員になろうと練習する。

そして、その習得プロセスの始まりは、その状態や感情が、大人からどう言うのかを聞き、真似、「しゅびゃらしい」から「素晴らしい」へと、音を少しずつ整えていくところにある。

そして、文字が読めるようになってから、爆発的に言葉が飛躍する。表現がどんどんと増え、長文にもなり、理路整然にもなっていく。こうして自分なりの言葉が育ち、「人格」が形成されていく。読書がいいのはこういう理由だ。

もちろん、英語圏の子供も、全く同じプロセスを辿っている。状態や感情に、英語の音を合わせ、練習するのだ。そのため、5歳児にもなれば、普通にコミュニケーションが取れるレベルになっている。発音だって、当たり前のように上手い。悪ければ相手に通じなく、社会にも認めてもらえないからだ。

それなのに、私たちは何も見ず、「wonderful」を「素晴らしい」とノートに書いて、英語を「お勉強」してしまっているのだ。

「六年も勉強したのに、ではない。正しくは、『六年も勉強してしまったから話せない』のだ。勘違いするな」

もう、真芯を捉えすぎていて、ブルリと震える。吉原さんが言っていた通りだ。

そしてこうやって私たちは、筆記試験のために、どんどんと英語の日本語訳を、「1:1」で刷り込んでいく。ただ同時にそれは、自分自身と英語が、「乖離」していくことを意味する。学んだものが、「言葉の養分」にならず、全部「筆記テストの養分」へと変わっていくのだ。「パラレルな現象」は、ここで生じている。テストは取れるのに、話せなくなる原因だ。

こうして青年期にもなれば、全ての感情や経験が、英語と構造が全く真逆である日本語と、ピッタリと重なってしまう。そうなると、英語話者になるには日本語を起点として、「1:1」で丸暗記した英単語をツギハギしていくしか、道は残されていない。

その結果、「どうして日本にいらっしゃったんですか?」も「Why did you come to Japan?」となり、ネイティブから「失礼だ」と言われる羽目になる。ツギハギだらけの、「モンスターのような英語」が、どんどんと口から出てくる。

「よいか? 本来、『英語を話す』というのは、一語一語、日本語の文字を英語に変換して、文法順にツギハギする行為ではないぞ? それではフランケンシュタインだ。不格好な英語になる。そして何よりも、その言葉には、心がない。自動翻訳機と一緒で、血が通わなくなる」

そう言えば、初めて吉原さんに出会った時、こんなことを言われたが、この発言も真芯を捉え過ぎていて、全身に鳥肌が走る。

そして私はふと、ジェーソンのことを思い出した。私はジェーソンと会っていた時が、一番英語が話せていたように思っていたが、その理由が今、ようやく分かった。そう、ジェーソンは、「私の日常」に現れたのだ。

「Excuse me? Who is Yukako? I’m Yuri.」
「Oh, my God.No, it’s nothing.」
「Whose hair is this?」
「I have no idea.It’s yours, isn’t it?」
「え? But…」

そう、私はあの時、英語を使いながら、ベッドの上状況を説明していだ。ジェーソンと同じ場面にいることで、「自分の経験」と「英語の音」を刷り合わせていた。

だから、どんな英会話レッスンを受けるよりも、遥かに「言葉」として、練習ができていたのだ。加えて「継続」できていたことで、私の英語回線が日々、太くなっていった。恐らくあのまま、ジェーソンと付き合っていけば、私は英語話者になれただろう。

フーと、私は大きく息を吐き、明日の授業の準備を、一時中断することにした。今後、私はどうやって、英語を教えていけばいいのだろうか。ひとまずこの文字だらけの教材は、テストは取れるようにできるが、絶対に話者にはできない。そもそも音源もなく、ルビが振ってある時点で、子供に渡すべき代物ではない。

頭を掻きむしり、私はそのままベッドの上に雪崩れ込んだ。ものすごい罪悪感。「無自覚」にやっていたからこそ、更にタチが悪い。今までの自分の「無知さ」に、腹が立つ。

ひとまず今、私の目の前にある課題は、大きく考えて「二つ」ある。「今後、どうやって英語を教えていくか」、そして「どうやって私自身が語話者になるか」だ。

そして私は、有紀さんから渡された、他の二冊の本を手に取った。一冊目は英語圏でも売られている、日常の生活を英語で表した、「生活図鑑」のようなものだった。

例えば「City」のページを開くと、街のイラストがあり、そこに「crosswalk」や「sidewalk」などの英単語が、絵で示されてあった。

「いいですか、発想を変えて下さいね。今までは筆記テストのために、『この英単語は日本語で○○』と覚えていたものを、『これは英語で○○だ』に変えるんです」

そんな覚え方、今までにしたことがなかった。そう、英単語は全て、文字から入っていた。道理で生活しながら、英単語が増えなかったわけだ。

そして、もちろん英語圏の人たちは、日々そうやって、言葉を着実に増やしている。だから、音を聞けば、情景が浮かぶ。頭に描けば、音が出る。つまり今の私の、「pink」や「bench」の状態だ。

そして次のページを開くと、そこには体の名称が書かれており、人差し指は「index finger」とあった。

「『分かった』とか『訳せる』じゃないんです。繰り返し言うことで、英語が音として、根付いていくんです」

私は言われた通り、右手の人差し指を見ながら、「index finger」と何度も何度も呟いた。すると不思議なことに、「index finger」が、自分の中に落ちてきた。言えば言うほど、「人差し指」が、「index finger」としか思えなくなってくる。

うん、ひとまず、この本を使っていけば、日常のものは何とか英語で呼べるようになるだろう。もちろん、ここに載っていないものは自分で調べていけばいい。

ただ、問題は「文章」である。そして私は次に有紀さんから借りた、もう一冊の本を手に取った。

「上手くいくかどうか分かりませんが、四葉ちゃんとは授業中、これを使ってみるのはどうでしょうか?」

それはネイティブも使う、「子供用の英語辞書」だった。アルファベット順に単語がズラリと並んでおり、一文章につき、一つのイラストがついていた。

「言葉とは、『状況を説明するもの』です。いつも話している日本語もそうだと思いますが、『誰がどうだ、何した。何がどうだ、何した』それを基本的な単語を駆使して、説明してきたから、僕たちは日本語を話せるようになったんです。そしてもちろんこれは、英語も同じです。色んな状況を基本的な単語を使って、説明する練習をする。ここには子供でも理解できるような、簡単な単語しか載っていませんから、その四葉ちゃんでも理解できると思いますよ」

例えば、「open」の項目を見ると、そこには「Jenny opened her umbrella.」と書かれており、その隣には、女の子が傘をさしていた。

そうだ、これだ。「傘をさす」を英語で覚えるのではなく、「傘をさしている場面」を見て、「open」と感覚をつけていけばいいのだ。そうすれば将来、「傘をさす」って英語で何? とはならない。あとは色んな「open」の場面を見つけて、声に出し、感覚をつけていく。それが「英語で考える」だ。

そしてこの辞書は、ネイティブの音源もついているので、四葉にも安心して使える。そう、あの子は文字を読むのが苦手なので、音から入れるだろう。難しく考えるより、音真似することが、あの子の性に合っている。うん、何だか少しずつ、指導の方向性が見えてきた。

ふと、窓から外を見上げると、雨雲は去り、星がぼんやりと輝いていた。

これから、私はどうやって英語を教えていくか。それはこの星空のように、ハッキリと見えない。しかし私の中で、今できること、そして子供たちの将来のタメになることを、模索していくしかない。

「子供に英語を教えていて、色々とはあると思いますが、これだけは断言できます。私は桜木先生に出会えて、本当にラッキーだったって。心から」

明るく笑う、葵ちゃんの顔が浮かんだ。

そう、私はその言葉を、いつか四葉に言われたいのだ。「由璃ネエのおかげで、英語が話せるようになったわ。ありがとうな」、と。

そしてそれはもちろん、四葉だけでなく、これから出会う子供たちからもだ。そう、「英語の種」を蒔くのだ。それが今、「先生」と呼ばれている、「私の生きる道」だ。

4-8「逆転満塁ホームラン」

ついに新学期が始まった。夏休みを境に、辞めた生徒もいるが、幸い同じ数ほどの新入生も入ったので、何とか私は営業成績をキープすることができた。

そしてそんな中、私は花塚中学の生徒から、「嫌な噂」を聞いた。そう、四葉が学校で、塾を辞める、と言っているそうなのだ。

それを聞いた時、私はビックリして、慌ててちーちゃんに確認しのだが、どうやら何も聞いていなかったらしい。恐らくだが、二人の仲はもう、完全に冷えてしまっているのだろう。

そしてあれ以来、私は有紀さんのLINEの連絡先を聞き、色々と相談に乗ってもらうようになった。もちろん、自分の英語学習についてのアドバイスを貰うのが当初の目的だったのだが、次第に四葉のことも聞くようになった。

「そのパターンは、塾を辞める確率が高いですよ、今までの経験上」

有紀さんらしく、率直な意見が返ってきた。

「恐らく初回の授業で、説得できるかどうか、でしょうね。今、その子はきっと『ここに通っても意味がない、英語なんか勉強しても話せるようにならない』と思っているはずです。そこを覆して、希望を抱かせることができるかどうか。それが全てだと思いますよ」

厳しいが、その文面に温かさも満ち溢れていた。

私はどうすれば希望を抱かせられるか、も尋ねようと思ったが、それは自分で考えないといけないと思い直し、そこで切り上げた。そう、四葉の先生は、私なのだ。

そしてひとまず私は今後、例の「子供用の英語辞書」を、授業中に使うことに決めた。幸いなことに、今学期から四葉の授業の日は、笠原さんのオフと重なったので、授業中にバレることはないだろう。

もちろん、四葉と違うテキストを使っている、という噂が広まるかもしれないが、ひとまず先生にだけ口止めをしておけば、そんなに早く知れ渡ることもないはずだ。もしもバレたら、その時は言い訳をして、何とか誤魔化せばいい。

ひとまずそこまでシミュレーションして、私は今日の授業を待った。そう、今日が新学期の、四葉の授業の初日である。そして隣に座るのは、もちろん菜純ちゃんだ。

「よっちゃん、今日は来るかなあ」

いつだって四葉のことを心配している菜純ちゃんが、たまらなく愛おしい。そう、本来、この子は塾に来なくても、一人で勉強できるのだ。それでもここに通っているのは、四葉と一緒に勉強したいからである。

「あれ? 先生、それ何?」

ふと菜純ちゃんが、私の持っていた子供用の英語辞書に気付いた。

「あ・・・うん、今日からこれ、四葉と一緒に使おうと思っていて。見る?」

私が菜純ちゃんに辞書を渡すと、

「これ・・・うちの学校の友達も持っていた」

「え?」

「その子、英語ペラペラ喋れる」

「えっ!?」

ビックリした。もしかしてその子は、有紀さんの塾の生徒かもしれない。

「先生、もう今までのテキストは使わないの?」

「あ、うん。多分、四葉にはこれがちょうどいいかな、と思って。ほら、これ音声CDもついているの。あとは、この本かな」

そう言って、私は菜純ちゃんに「生活図鑑」を見せた。

すると菜純ちゃんは、「あ、これも持っていた、その子」と、その図鑑にも飛びついた。うん、絶対その子は、有紀さんの塾生だ。

ふと、時計を見た。もう、授業が始まって10分が経過しているが、まだ四葉の姿は見えない。ちゃんと来るだろうか。どんなにプランを立てても、塾に来なければ、何もできない。

すると、その時だった。

「すまん、由璃ネエ。遅れたわ」

ハッと後ろを振り返ると、そこには約二ヶ月ぶりくらいの、四葉の姿があった。

「四葉!」

「よっちゃん!」

若干、背が伸びたようだ。髪も伸びて、以前よりもグッと大人っぽく見えた。

「元気しとったか? あれ? なずも背が伸びたか?」

そう言って、四葉はいつものように、ドカリと私の隣に座った。

「ちょ、ちょっと! 久しぶりじゃないの、四葉。あなたこそ、元気だった? 全然顔見せないんだもん、心配だったんだよ」

「だって、うち夏期講習取ってないやん。ここに来る理由、あらへんやろ。来たって、他の生徒の邪魔にもなるし」

「そ・・・そんな、邪魔ってことはないけど・・・でも、ずっと何をやっていたの? 夏休みの間」

そう言えば、砂ちゃんが以前、こんなことを言っていた。

「あと、俺・・・先週、駅前で、四葉ちゃんを見ましたよ」

「その、・・・髪を染めて、ちょっとガラが悪い奴らと一緒にいました。声、掛けられなかったッスけど」

私はマジマジと四葉の髪色を確認した。しかし、色は真っ黒で、染めた跡が見えなかった。

「何やねん、ジロジロと。うちの髪の毛に、何か付いとるんか?」

「いや・・・その、、、夏の間、髪を染めていたって、誰かから聞いたから・・・」

「何や? 染めたら何か悪いんか? ええやん、そんなん。うちの勝手やろ?」

隠さず、いきなり認めたのでビックリした。しかし、これが四葉の性格でもある。

でも、やはり染めていたのか。どうやら砂ちゃんが言っていたのは、本当のことだったか。ということは、ガラの悪い奴らとも一緒にいたのも、恐らく間違いないだろう。

「何やねん、由璃ネエ。ここ、塾やろ? 生活指導室ちゃうで」

言葉の節々から、四葉との「心の距離」を感じる。

「言葉というものは、『その人の全て』が出るんです。生まれた場所、育ってきた家庭環境、どう生きてきたか、いつも何を思っているか、どう感じるのか。その人の『生き様の全て』が言葉なんです」

有紀さんの言う通りだ。言葉の一音一音から、今の「四葉の全て」が滲み出ている。

「その・・・夏の間、英語の勉強はしてたの?」

意を決し、私は四葉に尋ねた。その返しが、とても怖かった。

「は? 英語? そんなん、全部忘れたわ(笑)」

笑いながら放たれたその一言が、私の体を一瞬で凍らせた。

「復習、・・・何にもやっていないの?」

「だって、やったって無駄やん(笑)ほら、由璃ネエだって覚えとるやろ? うち、全然英作文できへんかったやん? ほんで学校でも、笑い者になって。もうあれで、心が折れてもうたわ。根本からポッキリや。どうせ無理やねん、うちには英語なんて」

「そっ、そんなことないでしょ? ここに来たときは、be動詞も分かんなかったじゃない?」

「でもうち、頭悪いから無理やねん。単語だって全然覚えられへん。ウエンズデーのスペルも、もう書けん。中に入っとんの、bやったっけ、dやったっけ? 入れる場所も忘れてもうた。ほんまアホや。それなんに、表現集みたいなやつを覚えられるわけないやん。文字ばっかりや」

ううん、違う。日本人はみんな表現集が覚えられていないの。あなただけじゃないの。

「単語もできん、表現集もできん、文法もできん、英作文もできん、聞いても何にも分からん。英語に関しては、うち、何もできへん。やること、もう何にもない。だから、そもそもながら、英語学ぶ資格ないねん。うちみたいな、頭パッラパーは、どんだけやっても無理やねん。まあ、あの親父の子供やからな。だから、もう打ち止めや。全部辞めることにした」

「ぜ、全部・・・って?」

「今日で辞めるわ、ここも」

「! ・・・」

心臓がドクンと脈打った。隣の菜純ちゃんも、思わず手で口を塞いだ。

「もちろん、由璃ネエには感謝しとるで。会えてよかったと思うとる。でもうち、所詮無理やってん、英語を話すなんて。だって英語がそんなに得意な由璃ネエでさえ、話せんのやろ? そんなん、うちにできるわけあらへん。単語も文法もできんヤツは、英会話のステージにまで、辿り着けるわけないねん」

「でっ、でも!」

「授業料のことやろ? 安心せえ。踏み倒したりはせえへん。溜まっとったものやったら、ATMから毎月、振り込むわ。もうここには、来づらいからな。あっ、ちなみに今月分は、今日までにしといてもらうこと、できるか?」

「ちっ、違うの! お金のことじゃなくて、」

「すまんな由璃ネエ、出来の悪い生徒で。今までえらい迷惑かけてもうたわ。70点も取れへんで、ホンマにすまん。あんだけ補講もしてもろうたのに、申し訳なくて、もう合わす顔すらないわ。ホンマ、うちがアホすぎたねん。ほんで、なずもすまんかったな、ずっと勉強の邪魔してきて。うちと喋っとったら、アホが移るから、一緒におらん方がええねん。これからは、授業中、由璃ネエにもっと色々聞き。まあ、恋愛相談だけは、違う先生にしたほうがええけどな」

カッカッカッと笑って、四葉はガタッと立ち上がった。

「四葉!」

「よっちゃん!」

恐らくだが、この子は授業の初めに、こう切り出すことを、ずっと決めていたのだろう。今の謝罪の言葉だって、ずっと練習してきたのかもしれない。

ただ、違うのだ。私はこの子に、こんなことを言わせたいんじゃないのだ。そう、この子に言わせたいのは、「由璃ネエのおかげで、英語が話せるようになったわ。ありがとうな」なのだ。

「手続的なことはこれでええか? それとも何か、やっぱり書かなあかんのか?」

無造作に、ポケットからペンを取り出した四葉に、

「ねえ・・・諦めるの、四葉?」

「はあ?」

「たかが一年やってダメだったからって、もう諦めちゃうの?」

「だからええって、もう。英会話の本の著者とか見てみいや。みんな東大卒とかハーバード卒とか、ええとこの大学ばっかりや。うちとスペックが、もともとちゃうねん。うちなんて、英語はいつも1か2や。ハナから無理ゲーやん、そんなん。そういや、前にエリートにも言われたわ。もしもお前が英語話せるようになるんなら、犬や猫も会話し始めるわって」

グッと私は、拳を握った。たとえ冗談だとしても、それはない。そうやって、心のない言葉を掛け続けることで、この子は自分のことをバカだ、英語は無理だ、と思い込んでしまったのだ。

「言葉って、本当に怖いんですよ。時には、事実すら曲げてしまうことがありますからね。つまり、『暗示効果』です」

やはり、有紀さんの言葉を思い出した。そう、この「暗示」は私が解かないと。

「それに将来、完璧な翻訳機もできるんやし、だったらもうそれでええやん。今、英語真剣に勉強したって、青春の無駄使いやわ(笑)」

その瞬間、だ。ふと私の体に「何か」がすうっと、乗り移ったような気がした。

「ねえ・・・心は、あるのかな? 翻訳機に」

「はあ?」

「四葉は確か、将来英語を使って、人と分かり合いたい、とか言ってなかったっけ? 世界中に友達を作るんじゃなかったっけ?」

「何や、どうしたんや、いきなり。真面目な顔して」

「機械を通して伝わったものって、心がないでしょう? ただ、文字を変換しただけみたいな。声だって、機械音じゃない? そんな翻訳機に頼って、本当の友達ができるの? 四葉だって、日本に来た外国人が日本語を覚えようとしなくて、ずっと翻訳機に頼っていたら、やっぱり嫌じゃない? こいつとは別にもういいやってならない?」

「な・・・何やねん、由璃ネエ。なんか、いつもとちゃうやん」

四葉は眉間に皺を寄せて、「この後、友達と遊ぶ約束しとるから、もう帰ってええか?」とぶっきらぼうに言った。

いや、ダメだ。ここで今、真剣に向き合ってあげないと。そうしないと、この子は一生を台無しにしてしまう。この子の将来に手を差し伸べられるのは、世界で「私だけ」だ。

「ねえ、四葉はさっきから、自分の頭が悪いから、英語が話せるようにならないって何回も言うけど、だったら英語圏の人はみんな頭がいいわけ?」

「はあ?」

「だって、向こうは誰でも英語を話せるよね? それこそ、小さい子供でも。ってことは、『頭のいい悪い』は関係ないんじゃないかな、『英語を話せる』って」

「・・・」

私は自分の人差し指を見せて、

「例えばこれ、何? 日本語で」

「なんや。人差し指がどうしてん?」

「ねえ、どうして四葉は『人差し指』って言葉を言えるの? 頭がいいから? 『人差し指』って漢字が書けるから? 国語の成績が4や5だから? 英語でその名称を知っているから?」

「はあ? ちゃうやろ。そんなん、誰でも知っとるやん(笑)」

「じゃあ、どうやって覚えた? 人差し指は」

「そんなん・・・忘れたわ。でも、誰かが言うとってんの、聞いて真似したんやろ、どうせ」

「でしょ? ノートに漢字を書いて、勉強したんじゃないよね?」

「・・・」

「でね、この指はね、『index finger』っていうの、英語だったら」

四葉は再び眉間に皺を寄せた。

「さあ、私に続いて、言ってみて。『index finger, index finger, index finger,』」

「はあ? 何でやねん」

「言って、ほら。『index finger』って。ほら、『index finger, index finger,』」

「嫌や。そんなん、アホらしい。もううち、帰んねん。英語なんてもう、大っ嫌いなんや」

食いさがる私に、かなり苛立っているのが、見て分かった。こうなると、四葉はますます頑固になる性格だ。どうすれば私の言うことを、聞いてくれるだろう。

しかし、その時だった。背後から、可愛い声で「インデックスフィンガー、インデックスフィンガー」という声が聞こえてきた。ハッと振り返ると、菜純ちゃんが、自分の人差し指を見ながら「インデックスフィンガー、インデックスフィンガー」と繰り返していた。その目が、涙で盛り上がっている。

「な、菜純ちゃん・・・」

「ねえ、よっちゃんも私と一緒に言おう? ほら、インデックスフィンガー、インデックスフィンガー」

「なず・・・」

その姿を見て、さすがの四葉も申し訳なくなったのか、「わーったよ」と言って、私の人差し指を見ながら、「index finger, index finger,」とぶっきらぼうに、20回ほど繰り返した。良かった、これで繋がった。ありがとう、菜純ちゃん。よし、でもこれできっと、四葉のインプットはOKだ。

「はい、じゃあ、これなーんだ?」

そう言って私は、今度は四葉の人差し指に触れた。

「何って・・・だから、『index finger』やろ?」

「ほら、覚えられたじゃない、単語。こんな一瞬で。1分くらいでしょ」

「・・・あっ」

四葉の瞳に、一閃の光が差したような気がした。ここだ、突破口は。

「なーんだ、全然、馬鹿じゃないじゃん、四葉。私、もっともっと、お馬鹿だと思ってた。何回口にしても、何にも覚えられないような子だって」

「な・・・何やねん、由璃ネエ。流石にそれは、失礼ちゃうか」

「何やねんって、今、証明したんじゃない、四葉は全ッ然、馬鹿なんかじゃないって。だって、知らないよ、みんな。これを『index finger』って言うんだって。明日学校行ってから、聞いてみなよ。もしかして、エリート先生も知らないんじゃないかな。いや、絶対に知らないよ。だって、試験には出てこないもん」

「そっ・・・それが何やねん、偉いんか?」

「偉いよ。だって、ネイティブがみんな知ってて、ほとんどの日本人が知らないことを知っているんだよ? こうやって、ただ単に、ネイティブが知っている言葉を一つずつ口にして、覚えていけばいいんでしょう? 『英語を話せる』って」

「・・・」

「頭のいい悪い、は関係ないの。勉強だと思うから駄目なの。単に、繰り返して言うだけの話なんだから。日本語だって、何度も繰り返し言ってきたから、覚えられたんでしょう? 言葉はね、『音と場面の記憶』なの」

言っていて、自分でも驚いた。まるでこれは、有紀さんみたいなセリフだ。もしかすると、先ほど私にすうっと乗り移ったのは、あの人か。そうか、いるのか、あの人が、ここに。

ふと、足元からみるみると、力が漲ってきたように思えてきた。うん、いける。あの人がここにいるなら、私はこの子の気持ちを、ひっくり返せる。絶対。

「ねえ、四葉。私と勝負しない?」

「はあ? 勝負? 何のや」

「私、あなたを英語話者にさせる」

「はあ!?」

「絶対に、させる。だから、ここを辞めないこと。これが条件。そして、もしも話せるようにならなかったら、私が授業料を全額返す」

「はああああああ!?」

四葉の目が、真ん丸になった。

「どう、受けてみない、この挑戦? その代わり、メチャクチャ課題を出すけど、やれる?」

「や、やれる? って・・・でも、うち、無理やで。頭悪いんやぞ? エリートからも、お前は日本語からやり直せって、」

「だーかーらー、向こうの人は日本語ができるの? アメリカ人は日本語ができるから、英語を話せるの?」

「い・・・いや、全然できへんと思うけど・・・」

「じゃあ、そもそも要らないんじゃないの? 英語を話せるようになるには、日本語なんて」

「でっ、でも、エリートが、」

「じゃあ、間違っているんじゃないの? エリート先生が」

「はあ?」

「だって、エリート先生だって、英語が話せないんでしょう? それなのに、英語を話せるようになるためには、って言っているの、なんか矛盾していない? 本当に正しいの? エリート先生の言っていることが」

「でっ、でも・・・うち、スペルだってまともに、」

「ハッ、要らないでしょ、スペルなんて(笑)向こうだって、スペルが書けないのに、ペラペラ話している人、いっぱいいるじゃん! それに日本人だって、漢字が書けるから話せているわけじゃないでしょ? 例えば四葉は、『檸檬』って漢字書ける? 書けないでしょう? でも、『れもん』って言えるでしょう? 『憂鬱』って漢字もあなた、書けないでしょう? でも『ゆううつ』は、会話で使えるじゃない? スペルだってそれと一緒! だから、『Wednesday』が書けなくたって、今はどうでもいいの。それよりかはまず、ちゃんと発音できること。スペルはその後でいい。そもそも英語圏だって、そうなんだもの。いい? 言葉はまず『音』なの、『文字』じゃない。順番を間違えないで」

「で、でも、学校じゃ、スペルを正しく書けんと、」

「だから、学校教育で誰も話せるようになっていないんじゃないの。あれはね、そもそも『話者にさせよう』って教育じゃないんだから! 受験のための英語。そして言葉として、大事なものを、置き忘れちゃっているの。だから、大人は受験の後に全員、やり直して挫折ばっかり繰り返しているの。それは先生だって、気付いてないの。そしてたとえ気付いていたって、知らんぷりしているの。だってあの人たちは、『話す』よりも、受験しか見ていないんだから。だから、大人が英語が話せなくて苦しんでいても、ずっと黙ってんの」

「でっ、・・・でも、うち、文法もできへんで?」

「そんなの、話しながら覚えていけばいいじゃない? 四葉だって、国語の文法0点なのに、日本語が話せているでしょう? 格助詞とか接続助詞とか知らなくても、『てにをは』を間違ったりしないでしょう? 英語もそれと一緒。同じ『言葉』なんだもん。いい? 日本人はね、文法ができるのに、全く話せないの。だから文法と『話せる』とは別。大事なのは、文法を使って、声に出していくこと。そして、やっていれば、そのうち分かるようにもなるから。でも、一番ダメなのは、諦めちゃうこと。それをやっちゃったら、今までしてきた努力が、全部無駄になっちゃうの!」

「でっ、でも、」

「でも、って何度も言わないの! あなた、ここに入った時、『将来、英語を話せるようになる』って私たちに宣言したじゃない? 忘れたの? それにソフトボールだって、予告ホームランして、実際に打ったんでしょう? それなのに何で英語になった途端、簡単に諦めちゃうのよ。自分の言ったことに、責任持ちなさいよ!」

「でっ、でもうち、英作文も全然できへんかったんやで?」

「そんなの、できなくて当然なの! 大人だって、ほとんど失敗しているんだから。できないのは、あなただけじゃないのよ。それにね、あるの! 英作文ができなくても、英語を話せるようになる方法が! だから、それをこれから、あなたに教えていく! 教材だって、指示だって、宿題だって、全部変える! だから、だから・・・お願いだから、そんな、辞めるとか、すまんな、とか、自分のこと、出来の悪い生徒だとか、頭パッパラパーとか、そんなこと、そんなこと、絶対に言わないでよ・・・そんなこと言ったら、あなたが、四葉が可哀想じゃない! そんなこと、もうしないでよ。そんなこと言っていたら、それがこれからのあなたを作っていってしまうから・・・」

「ゆ、由璃ネエ・・・」

涙で化粧がグチャグチャになっているかもしれないけど、もうそんなのどうなっていい。今日ここで止められなかったら、もう二度とこの子に英語を教えるチャンスはない。そうなれば、私は絶対、一生後悔する。

「ねえ、よっちゃん、先生、これから、これ使うって」

ふと、横から菜純ちゃんが四葉に、子供用の辞書を渡した。

「な・・・何やねん、これ?」

「ほら、見て。日本語がないでしょ? イラストと英語だけしかないよ。それで、このまま音を聞いて、言って、覚えていくの。かっちゃん、これで英語ペラペラになったよ」

「かっちゃん? ああ、お前の好きな男の子か」

かっちゃん!? え、もしかして、あのかっちゃん? え、菜純ちゃんが好きで、さっき言っていた友達って、あの有紀くんの教室の?

「ねえ先生、私もここで英語取ってもいい? 私もこれを使って勉強したい。ねえ、よっちゃんも一緒にやろうよ。絶対、・・・絶対に、楽しいから!」

「な、なず・・・」

何て子だ。この子、至って普通の顔をしながら、今、涙を必死に堪えている。何て強くて、そして何て、何て友達思いなんだろう。

「ねえどう、四葉? 私の勝負、受けてみない? 別に今、結論を出さなくてもいいから。今日、これを持って帰って、一旦冷静に考えてみて。ほら、これはCDもついているから。音を聞いて、繰り返し声に出して練習していくの。勉強っていうより、さっきの『index finger』みたいな、練習ね。でも四葉、さっき一瞬で、単語を覚えられたでしょう? だから、普通に、話せるようになる。いや、むしろ四葉は音を真似するのが上手いから、他の人よりも絶対に上手くなる。私が保証する。あなたは全然馬鹿なんかじゃない。誰よりもセンスがあるの、あなたは」

「ゆ、由璃ネエ・・・」

「どう? もう一回だけ。もう一回だけ、私の言葉を信じてみて。私、あなたのために頑張るから。だからもう一回だけ、私にチャンスをちょうだい! お願い!」

そして私は四葉に向かって、音声CDを差し出した。うん、今、言えることはもう全部言った。あとは、この想いが、言葉が、四葉の心に届いたかどうかだ。

長い沈黙があった。

そしてずっと下を向いていた四葉だったが、、、数十秒だ。ふとその左手がゆっくりと動き、私が持っていたCDを、ふわりとかすめ取った。

ありがとう、有紀さん。どうやら私、勝ったみたいよ。

※画像提供:PIXTA(表紙イラスト:中丸みつ)

(お読み頂き、どうもありがとうございました。ひとまず、こちらで物語は終了です。本来、この続きも描きたかったのですが、現状未定です。一人でも多くの方に届き、英語の苦しみから解放される日本人が増えることを、心の底からお祈り申し上げます。また、内容に関して何かあれば、yukanazawa2000@gmail.comまで、よろしくお願いいたします)

なぜ日本人は何度も英語をやり直し続けているのか?


文庫本は完売しました。
まだの方は【電子書籍版】でお読み下さい。