イメージを通し、世界を「英語のまま」切り取る
金沢優、3年ぶりの新作「もしなる2」連載中!

「もしなる2」第4部1章.「Yesterday once more」

1、「Yesterday once more」

「ハァッ、ハアッ! ・・・」

悪夢にうなされていた私は、その息苦しさから目を覚ました。まただ。また例の夢を見てしまった。

そう、実は最近、よく同じ夢を見る。流れに任せ、のんびりと海を泳いでいると、いきなり目の前に大きな溝が現れるのだ。そしてそこに私は、真っ逆さまに落ちてしまう。

そしていざ、戻ろうとするも、今度は目の前に大きな「水の壁」ができていて、その波がものすごい勢いで私を飲み込んでくるのだ。目が覚めるのは、いつだってそのタイミングである。

結局、これは英語学習のことなんだと思う。今まで何の疑問もなく、これでいいと思って勉強してきたのに、受験の後、いきなり溝に落ち、どう進めば分からなくなっているのだ。そしてあとはもう、波に飲まれるだけだ。どう進もうが、向かうべきあてもなく、ただただ漂流するしかない。聞けない、話せない。高い「音の障壁」に苦しむ。

私は一旦、「ふー」と大きく息を吐いた。ちなみに今日は夏期講習の切れ目で、10日ぶりのオフである。ここのところ、ずーっと忙しかった。私はズレていたブランケットを頭まで引っ張り、枕元に置いておいたケータイを手に取った。

壁紙は、去年の合格祝賀会の時の集合写真である。そう、ヘッドスタートでは毎年、中学生の公立高校合格発表日に、校舎内でパーティを開くのだ。アルバイトの大学生たちと一緒に、合格の喜びを分かち合う。もちろん塾の中には不合格の子も出てしまうが、まだまだ高校受験の倍率は大学に比べて、遥かに低い。去年の私たちの校舎の合格率は、95%だった。

そして、だ。私が担当する花塚中学の生徒は、なんと去年、100%の合格率を達成した。それはもちろん、生徒一人一人の頑張りもあったが、私なりにしっかりと進路面談をし、「無理のない志望校選び」を徹底できたことにある、と思っている。

しかし、だ。同時に私はこの集合写真を見ながら、一抹の寂しさを覚える。そう、私はこの子たちの「今」を知らないのだ。塾を辞めれば、そこまでの関係である。

つまり、あれだけ毎週、英語の基礎を教えてきたのに、今のこの子たちの英語力には何の責任も持たなくてもいいのだ。それはたとえ今、「話せなくて、聞けなくて、困っていても」だ。

いや、でも私自身が苦しんでいるわけだから、たとえ相談に来られても、何のアドバイスもできないだろう。「英会話スクールや留学にでも行って、頑張って」と言うしかない。

でもそれってやっぱり、無責任だと思う。「まずは受験が大事」で、私を含め、大人は国家レベルで誤魔化し続けているのだ。

そしてやはり私は、ぼんやりと四葉のことを思う。あの子は今、この夏休み、何をして過ごしているのだろう。

結局、あの教科書は今でも私の机の中にある。そう、次の週、返そうと思っていたのに、あの子はまた塾を休んでしまったのだ。そして、そのまま夏期講習に入ってしまった。

講習は任意である。受けたくなければ、別に受けなくてもいい。もちろん受験生は声を掛けなくても、全員受けるので、ちーちゃんを含め、花塚の中3生は毎日のように、塾で顔を合わせるが、四葉に関しては、受験は関係ない。そのため、結局あの日以降、ほぼ一ヶ月、顔すら合わせていない。

ただ、もしもあの子が学校でイジメの標的になっているのならば、この夏休みはあの子にとって、救いにはなっているだろう。というのも、わざわざ自宅にまで押しかけて、イジメにくる子はいないからだ。結局、いじめとは、教室内の「ストレスの捌け口」に過ぎない。

しかし、あの四葉がイジメの対象になっているのは、やはりどうしても信じられない。そう、あの子はそんなタイプではない。

私はそのことをちーちゃんに確認しようと思ったが、ちーちゃんは「知らない」と貝のように口を閉ざした。

こんな時、私はとてつもない無力感に襲われる。というのも、私はただの「雇われ一塾講師」でしかないのだ。学校の先生とは違う。だから、生徒たちのプライベートに踏み込み、イジメを解決する権利もないし、向こうだってそれは求めていない。何より、クラスの面子すら知らないのだ。私が知っているのは、ここに通っている花塚の生徒だけである。

そして、だ。仮に踏み込めたところで、解決する時間も取れない。日々の業務でいっぱいいっぱいなのだ。そのため、正直なところ、四葉の存在すら忘れてしまう時もある。

ー「由璃ネエの悪口を言う奴は、誰であろうが許さん。ぶん殴ってやる!」

そう言って、私の名誉のために立ち向かった四葉に、自分は何をしてあげられるのだろう。

もちろん、オフを潰して、校舎に四葉を呼び、英語を教えてあげることだってできる。しかし、それをすれば、不公平だと思う生徒も出てくるだろう。そう、四葉だけを特別扱いはできない。

結局のところ、授業料が発生しない限り、私はあの子に何もしてあげられないのだ。

「はあー」

私はまた大きく息を吐いた。転職したい。できることなら、四葉の担任になりたい。そして、イジメの問題はもちろん、ズカズカとプライベートにも踏み込んでいきたい。

ふと窓の方を見ると、レースカーテン越しに、ギラギラと日差しが部屋に入り込んでいた。どうやら今日も、暑くなりそうだ。今日のオフは何をして過ごそうか。まだ何も決めていない。

その瞬間、私はハッとなった。そうだ、「英語」だ。私はあと数年で、英語がペラペラにならないといけないのだった。

しかし、ただでさえ、いっぱいいっぱいなのに、どうしてここに英語を組み込むことができるだろう。

「言語を習得する場合、ある程度そういう期間が必要だと思うんです。つまり、『母国語をシャットアウトして、その言語を集中的に使う期間』ですね。かっちゃんがしたのは、それです」

ふと、有紀さんの言葉が頭をよぎった。そう、有紀さんはあえて「集中的に使う」という言葉を使っていた。

つまり、「スキマ時間では無理」ということを言いたかったのだろうか。だとすれば、私は今の生活スタイルでは無理だ。集中的に時間なんて取れない。しかも、社内の英語研修の勉強だってある。

ダメだ、出口がない。どれも中途半端で終わりそうな気がする。仕事もうまくいかず、英語も話せない。何とか、何とかしないと。

「・・・行ってみようかな、今から有紀さんのところに」

結局あの体験レッスンを受けてから、私は何の連絡もしていなかった。そう、次回のアポイントメントも決めていなかったので、ついついそのままになっていた。

「これが国内で英会話をしている辛さなんです。覚えても使う機会がない。そして、覚えても口から出てこない。まるで、『波打ち際にお城を立てている』ような感じです」

全くその通りである。結局、国内の英語学習とは、自分自身との戦いだ。相当のモチベーションがないと、やはり継続は難しい。

であれば、ある程度の「強制力」も必要になってくるのではないか。スクールに申し込めば、「通わなければ授業料を無駄にしてしまう」という、心理的なストレスがかかる。情けないが、それに頼るのも一つの手だ。

しかし、だ。例え申し込んだとしても、私に通う時間など取れるだろうか。ただでさえ、フリーな時間など、取れていないのに。段々と出席率が下がり、結局授業料を無駄にしてしまう可能性だって大いにある。

ひとまずもう一度、有紀さんに相談してみよう。そう思った私は、ようやくベッドから跳ね起きて、外に出る身支度をした。

しかし後悔したのは、それから1時間半後のことだった。そう、有紀さんの教室に着くと、ドアに大きく、『本日より1週間、夏期休暇に入ります』の張り紙が貼ってあったのである。

「そ、そんなぁ・・・」

しかし、それもそうか。いくら風変わりな英会話教室だとしても、夏休みくらいあって当然である。でもせっかく暑い中、ここまで来たのに・・・やはり、事前に電話で確認くらいしておくべきだった。

私はこのまま家に引き返すのも勿体ない気がしたので、電車には乗らず、ひとまず駅舎の隣のカフェで2時間ほど英語研修の勉強をして、買い物でもしていこうかと考えた。

かなり外が蒸し暑かったので、冷房が適度に効いた、居心地のいい店内の雰囲気に、思わず「ふー」と声が出てしまった。見ると、奥にはソファが幾つか置いてある。何だか、誰かの部屋に来たみたいな感じだ。うん、ここなら落ち着いて勉強ができそうだ。

私はパンを2個選び、ブレンドコーヒーと一緒に、窓際の席に座った。窓から差し込む陽の温かさが肌に心地良かった。

そして私は、バッグの中からTOEICの問題集を取り出し、ページを広げた。次回の英語研修の試験範囲の復習を先に仕上げよう。

そして、始めて少し経ってからだ。私の耳に、聞き覚えのある歌が流れてきた。

「When I was young I listened to the radio, Waiting for my favorite songs…」

カーペンターズの「Yesterday once more」だ。

そう言えば、だ。母もカーペンターズが大好きだった。そしてこの歌もよく、車の中で一緒に歌った記憶がある。

もちろん、当時は英語が全く分からなかったので、ただただ音を真似ただけである。そして学生時代、歌詞を読み、音源と一緒に何度も口ずさんだ覚えがある。それは特に、母が亡くなった直後のことだ。

「When they get to the part where he’s breaking her heart. It can really make me cry. Just like before. It’s yesterday once more…」

不思議と、歌詞が口から出た。いや、口自身が覚えていたような。不思議な感覚である。

「結局、『言葉』として機能させるのであれば、声に出して、育んでいかないといけないと思うんです。それこそ感情を込めながら、何年も掛けて。『言葉の話者』は、誰だってその過程を辿ってきているはずですよ。だから、生きている限り、使い続けている限り、段々上手くなる。体の器官を使って、少しずつ少しずつ。それこそ、野球やピアノみたいな感覚です。だから、英語を話せるようになるのであれば、勉強するんじゃなくて、声に出して練習していかないといけないんじゃないでしょうか。口と耳を使い続けて」

また有紀さんの言葉が、ふわりと飛んできた。

「何なんだろう、言葉って一体・・・」

私は開いている問題集を見ながら、ポツリと呟いた。そう、これは言葉を発する必要がない。問題を解くための「お勉強」である。だから、これを極めたところで「話せる」にはならないだろう。ここまでは、自分の中で整理ができている。

であれば、どうすればこれを「話せる」に持っていけるのだろうか。どう練習していけばいいのだろう。ただ文章を音読するだけで、話者になれるのだろうか。

「いいか? 教えてやろう。お前に足りないのは、環境ではない。一人での『練習方法』だ」

そう、吉原さんのセリフは、私を真正面から捉えた。本当にその通りだ。

「つまり、ずっと独り言をしていれば、話者になれます。それこそ毎日数時間を年単位でできれば、確実に上達するでしょうね」

そうやって私は有紀さんと一緒に、実際にマジックやトイレを使いながら、口頭練習をした。そして、それから約一日間、頭の中が「英語モード」に切り替わった。

結局それはすぐ消えてしまったが、あの感覚が私の中に今でも確かな手応えとして残っている。そう、あれなのだ、「英語を話す道」は。声に出して、育む。それは葵ちゃんも同じことを言っていた。

「私、中3の時から、『英語の話者』になることを想定して、毎日音読をしたり、口頭練習をしてきましたから。多分、それが一番大きいと思います」

やはり私は、無理にでもあの教室に入会した方が良さそうである。そうすれば、自分も話者になり、四葉にだって「話せる英語」を教えていける。

「ふうー」

また大きなため息が出た。最近、本当に増えてきたような気がする。

ダメだ、勉強に身が入らない。このままモヤモヤしながら続けていても、結局どっちつかずになる。読書にでも切り替えようか。確か文庫本も持ってきたはずである。

そんな時だ。私の耳に、今度は「幼い子供の英語」が飛び込んできた。

「Mommy, I wanna have one more.」

ハッと、その方向に振り返ると、少し離れたソファに、長身の女性と女の子が、一緒に座っているのが見えた。そして、英語を口にしていた女の子は、なんと有紀さんの教室に通っている、真希ちゃんだった。

「あっ・・・」

思わず小さな声が出てしまった。そしてそれが聞こえたのか、女性が私の方に目を向け、私にちょこんと、笑顔でお辞儀した。

そうだ確かあれは・・・有紀さんの教室に通っている、「藤川さん」と呼ばれていた方だ。そうか、藤川さんとは、真希ちゃんのお母さんだったのか。

(次回第四部「2、音の突然変異に続く)

「英語」という「教科」を、「言葉」に変える


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