日本語に切り替えず、英語のまま理解する
金沢優、3年ぶりの新作「もしなる2」連載中!

「もしなる2」第2部9章.死の魔法

9、死の魔法

「悪かったな、由璃。変なところに連れていってしまって」

「あ、いえ、そんな。全然です」

電車の中、隣に座る松尾さんが、申し訳なさそうな顔で呟いた。

そう、結局あれから、竹本教頭たちが更に食い下がろうとしたので、私たちは出直したほうがいいと判断し、教室を後にすることにしたのだ。

しかし、最後のあのサッカー少年が、まるでマシンガンのように英語をペラペラと口にした時点で、勝負は明らかに有紀さんの勝ちだった。そう、確実にあの教室では、バイリンガルキッズがすくすくと育っている。そのため、従来の英語教育の正当性を主張していた竹本教頭たちが、あまりにも惨めに見えた。

そしてもちろん、私たちの塾の英語指導でも、あのレベルには持っていくことは、到底できないだろう。いや、そもそも塾の指導者が、あの子供たちのレベルにすら達していないのだ。

そのため、吉原さんが初めに言ったように、私たちは今まで「全く違う山」に登ってきたような気がしてならない。

「お前は登る山が、全く分かっていない。ただ、『今までやってきた勉強を続けて、あとはネイティブと話していれば、勝手に頂上まで上がれる』と考えていないか? それは違うぞ。そんな山は『錯覚』だ、絵に描いた山と変わらん。実際に登れはしない」

今まで私は、いや私たちは「絵に描いた山」を登っていたのだろうか。

「いいか、言葉とは移ったり、もらったりするものではない。自分で声を出しながら、『育んでいく』ものだ。つまり、山登りではなく、山にしていくのが、本来正しい考え方なのだろう。そして、続ければ続けた分、高くなる。もちろん、山裾だって広がる。ドッシリともする。それは、私たちが覚えてきた日本語も一緒だったはずだ。日本語を生活の中で、聞き、話し、読み、書いて『育んできた』からこそ、山のように、揺るぎなくなったのだ」

初めはポカンとして聞いていたが、有紀さんと話した後だと、このセリフが重く響いてくる。

「世界との垣根がなくなったこの時代でも、受験に合格させることまでが、自分たちの仕事だと思っていませんか? その後の、その子の人生はどうなってもいいんですか? 書店に並んでいる、やり直し英語教材や一言フレーズ集などを買っている姿を見て、悔しくならないんですか? 英会話スクールや高額教材などで大金を払って、失敗していっている日本人たちを見て、心が痛まないんですか? そしてそれらは、自分たちのせいだと思わないんですか? 生徒たちの努力不足とでも言うんですか?」

そして有紀さんの放った言葉の数々が、まるで矢のように私の心に突き刺さり、抜けない。

「日本人は従順な国民です。上が『そうしろ』と言えば、逆らわないんです。そして、それが『美徳』だともされています。そういう教育を受けてきた。だから、塾や学校でも言われた通りに、英語を学びます。しかし、それが逆に仇になってしまっていたら、どうでしょうか?」

今まで私は、疑ったことなどなかった。教えられてきた英語が正しいものだと、ずっと思ってきた。そしてもちろん、私に教えてきた先生や母も、そう思って教えてきたに違いない。

しかし、その方法論が「聞く・話す」段階において、「足枷」になるものだとしたら、どうだろう。将来、「英語を使う」段階で、先代と同じように、苦しむことになってしまうのは、当然の結末ではないだろうか。

「有紀のヤツ・・・昔はあんなに、ひん曲がった性格じゃなかったんだけどな。もっと素直で、従順だったのに」

松尾さんが、ポツリと呟いたが、私は「ひん曲がっている」とは全然思わなかった。むしろその逆で、真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐだった。

「絶対にあの変な女のせいだ。あいつのせいで、あの素直で、可愛い有紀が変わってしまった。怖いな、教育というものは。まるで、洗脳されたみたいなもんだ」

洗脳・・・もしも、あれが洗脳だというのであれば、私たちが学校や塾で教えているのも、一種の洗脳行為ではないだろうか。

そう思った瞬間、私はブルリと震えた。もしかして私は既に洗脳をされて、子供に洗脳をしてしまっている立場だとしたら。

「言葉って、本当に怖いんですよ。時には、事実すら曲げてしまうことがありますからね。つまり、『暗示効果』です」

「どうした、由璃。今、何を考えている?」

「いや・・・その・・・本当に正しいんでしょうか、私たちが教えている英語って」

「何?」

「その・・・どうして、英語をいちいち、日本語に直さないといけないんでしょうか?」

「どうしてって・・・理解するには、日本語に直して当然だろうが?」

「で、でも・・・英語圏の子は、誰も日本語に直していませんよね?」

「そりゃあ、当たり前だ。向こうにとっては、英語が母国語なんだからな。そこに何の意味がある?」

「でも、私たちの英語のゴールは、彼らのように聞けて、話せるようになることなんですよね?」

「それは、そうだが・・・」

「いいか? 学ぶのは日本語なのか、英語なのか? この時代、『育んでいくべき音』はどっちだ? 【ringo】か【ˈæpl】か。お前は一体、英語を使って、何をしたい? 英語を口から出したいから、【ˈæpl】と出したいから、ここに来ているのではないのか? 翻訳家になりたいのなら、今まで通り黙々と文字を日本語にして、『リンゴ【ringo】』で終わってろ、明治時代みたいにな。それで構わん。しかし、英語の話者になりたいのであれば、【ˈæpl】でそのまま覚えて、何度も、何年も、口にし続けなくてはいけないだろうが。ネイティブはそうやって、英語の話者になったのだろう? なぜネイティブと同じ道を辿ろうとしない? なぜ大昔の日本人が敷いたレールの上を走ろうとする? いいか? 話者になりたければ、『リンゴ【ringo】』に変換して、そこで終わるな。単純に『2つの大きな作業』を残すことになるぞ。いや違う、2つではなく、『4つ』か」

「そもそもながら・・・英語圏の人は、どうやって言葉を理解しているんでしょうか?」

「そりゃあ・・・英語で、だろう」

「じゃあ、きっと『英語を英語で理解する』方法が、存在するんじゃないですか? 単に私たちが習っていないだけで」

「そんなバカな。無理に決まっているだろう、英語を英語で理解する、なんて。私たちは日本人なんだ。そんなの、いかがわしい詐欺商法と変わらん」

「で、でも・・・どこかの英会話スクールで、ネイティブ講師から、『いつも、日本語で考えているから話せないんだ。英語で考えろ』って言われたんですよね?」

「そ・・・それは、言われたことがあるけど、そりゃあ、あいつらはネイティブだからできるんだ」

「じゃあ私たちはいつまでも経っても、彼らのように考えられないってことですか? これだけ英語を学んできているのに、ですか?」

「・・・」

だとしたら、何なのだろう。私たちは彼らの考え方を、何も学んでこなかったとでもいうのだろうか。であれば、そんなの、悲劇ではないか。6年以上も必死に学んできて、彼らの考え方が全く分からないなんて。だとすれば、私たちが学んできたものは、一体何だったんだろう。

「結局、私たちの英語のゴールって、『英語を話す』じゃないですか? そのために、学んできているんですよね? でも、学校では文法を習って、英語を日本語に直しているんですよね? これって、『行き先』が合っているんでしょうか?」

「行き先?」

「はい。何だか、『あべこべ』なような気がするんです。本当は東に向かわなきゃいけないのに、いきなり西に向かっているような」

「一旦日本語で状況を理解し、それを英語で組み立てる。ここに無駄がないでしょうか? だったら、状況から英語を作った方が速いでしょう? 手間は単純に、二分の一にカットされます。6年かけなきゃいけないものも、3年で終わる。つまり、『ネイティブや帰国子女のようなやり方』で学ぶのが、英語話者への最短の道だと思います」

有紀さんが言っていた、「状況を、英語で組み立てる」方法・・・少なくとも私は、こんな教え方をされた記憶が全くないし、もちろんした覚えも全くない。

「まあ、あいつもあいつで大変なんだろう。生徒を沢山集めないといけないからな。嘘をついて注目を集めないと、やっていけないんだ」

「嘘・・・ついていたと思いますか? 有紀さん」

「・・・」

そう、嘘偽りもない、「真実」を伝えているような気がした。まるで宗教を広めている、宣教師のような「崇高さ」を感じた。

もちろん、宗教であれば、押し付けは良くはないとは思うが、もしも今教えられている英語も、「一つの教え」だとしたら、どうだろうか。そして、それで国民全体が報われていないのだとしたら・・・恐らく、宗旨を変えるべきなのではないだろうか。

「時代が変わった以上、教え方も合わせて、変えていかないといけません。あなたたちだって、江戸時代と同じ勉強をしていたら、世界についていけなくなるとお分かりになるでしょう?」

確かに教え方は、何も変わっていない。少なくとも今「私が教えている英語」は、「私が子供の時に教わった英語」だ。だから、全く同じものが出来上がるのは、当然のことである。

ふと私は、目の前に座っている、一人の女子学生に気づいた。学校か塾の帰りだろう、制服を着ている。そして、その手元をチラリと見やると、どうやら英単語帳のようだ。それをじっと見つめている。頭の中で、暗記しているのだろう。

「結局、『言葉』として機能させるのであれば、声に出して、育んでいかないといけないと思うんです。それこそ感情を込めながら、何年も掛けて。『言葉の話者』は、誰だってその過程を辿ってきているはずですよ。だから、生きている限り、使い続けている限り、段々上手くなる。体の器官を使って、少しずつ少しずつ。それこそ、野球やピアノみたいな感覚です。だから、英語を話せるようになるのであれば、勉強するんじゃなくて、声に出して練習していかないといけないんじゃないでしょうか。口と耳を使い続けて」

有紀さんが言っていた学び方と、この子の学び方が、全然違う。何だか、根本からズレているような。

「まあ、ひとまず私たちは、フレーズを覚えていけばいいんだよ。それしかないんだ」

そう言って、松尾さんはバッグからまた一言フレーズ集を出して、ペラペラとめくり始めた。するとそこには、「Awesome! / すっげー」みたいな、短いフレーズが、まるで単語帳のようにズラリと並んでいた。

その瞬間、また有紀さんの言葉が、頭をよぎった。

「そして更に問題なのは、日本人はみんな受験が終わっても、学校での学び方を『自動延長』してしまうんです。学びの初動の目的が『受験英語』にあり、そこで国家レベルで『話せるようにならない英語』の型がついてしまった。教育とは『初動』が全てです。だから、日本人はいつまで経ってもこの『型』に縛られてしまい、『声に出して覚える練習』に移れなくなってしまっている。これで、『日本人が英語を話せない』という、摩訶不思議な現象が、一本の線で繋がります」

そう、やはり一緒なのだ。今、松尾さんがしている英会話の勉強は、学生時代だったときの英語の覚え方と、全く変わっていない。

<学校英語>

<英会話>

クラクラと、目眩がしてきた。もしかして私たちは、英会話の段階になっても、学生時代の英語の勉強を、そのまま自動延長してしまっているのではないだろうか。

「もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになると思いますか?」

例の看板の文言が、見計ったようにフラッシュバックした。そう、私たちは英会話も、まるで単語帳のように、「1:1」の丸暗記で済まそうとしているのではないだろうか。

だとすれば、「話者への道」が全く見えてこない。数限りない日本語の数を、全部暗記していくなど、あまりにも非現実的だ。どこかで必ず、限界が来る。

「お、おいどうした、由璃。大丈夫か、気持ちが悪いのか?」

「松尾さん。今までしたきた勉強は・・・何だったんでしょうか、一体」

「何だった? って・・・そりゃあ、英語だろう?」

「英語の何ですか?」

「英語の何って、英語は英語だろう」

「でも、あそこの教室の子供たち、こんな感じで全く勉強していませんでしたよ? フレーズ集なんて一冊も覚えていなかったのに、ネイティブと普通に会話をしていました」

「そ、そりゃあ・・・あいつらは、子供だからな」

「子供だから、何なんですか?」

「ほ、ほら・・・そりゃあ、うちらと、吸収力が違うんだよ」

松尾さんの歯切れが、途端に悪くなった。

「じゃあ、子供の方が頭がいいってことですか?」

「そ、そりゃあ、まあ・・・そうだろう」

「でも私たち、いつも子供相手に塾で勉強を教えていますよね? それだと、向こうの方が頭がいいってことになりませんか?」

「それは違うだろう。吸収力は向こうのほうが上だが、知識は私たち大人の方が、断然上だ」

「でも、計算問題を教えても、あの子たち、すぐに忘れちゃいますよ? 吸収力だったら、大人の方があるんじゃないですか?」

「そ、そりゃあ、英語と数学は、違うんだよ」

「どう違うんですか? どうして英語だけ特別なんですか? 数学と何が違うんですか?」

「そ・・・そ、それは分からん。何かあるんだろう。言語的な何かとか」

納得できない。こうして一言フレーズ集が覚えられず、苦しんでいる大人が沢山いるのに、そんなものを覚えなくても、ペラペラと英語を文章単位で話している子供がいるのだ。

「まあ、子供は気楽なんだよ、テストなんてないからな」

「じゃあうちらも気楽に学べば、英語が話せるようになるっていうんですか?」

「そりゃあ、ほら・・・よく言うだろう? 日本人は間違いを恐れるから、話せるようにならないって」

「じゃあ、テストも全部取っ払えば、話せるようになるんですか? 気楽ですよね?」

「いや・・・それは、どうかな。いや、どうだろう」

言っていて、自信がないのだろう。目が完全に泳いでいる。

そう、これは有紀さんも言っていたが、教科から英語を外せば、事態はもっと悪くなるはずだ。というのも、義務教育に英語がなければ、日本人は英語を勉強しなくなるからだ。ある程度、理解できるのは、学校で教えられ、その都度、テストを強制的に受けてきたからである。だからそれらを取っ払ったところで、話せるようになるイメージが全く浮かばない。

「何だか私、英語との向き合い方が、根本的に違うような気がするんです。私たちと、あそこの教室のやり方が」

「どう・・・違うんだ?」

「・・・『音』です」

「音?」

「はい、私たちの塾で、英語の音を聞いたり、ましてや口にする、なんてマニュアルは、一切ないじゃないですか? でも、あの教室は初めっからずっと、『英語の音』が溢れていたんです。それが一番印象に残っていて」

「『言葉の本質は音』ですから」

そう言えば有紀さんは、何度もそう言っていた。「言葉は文字ではなく、音だ」と。

「そりゃあ、受験にスピーキングはまだないんだからな。リスニングだって、ほんのちょっとの配点だ。だから、私たちの塾では、あんなスタイルを取らなくたって別にいいんだよ」

「でも、この私たちの英語教育のゴールって、『英語が話せる』なんですよね?」

「! ・・・そ、そりゃ・・・まあ、そうだが」

「何だか私、大学時代から、ずっとモヤモヤしていて。受験前まではそんなに気にしていなかっったんですけど、終わった途端に、聞いたことがないアドバイスばかり耳にするんです。『発音が一番重要だ』とか『海外ドラマをシャドーイングしよう』とか。でもそんな学び方、今までの英語教育に、一切なかったじゃないですか?」

「まあ・・・な」

「本当に私たちの指導の行き先は、ちゃんと『話せる』に繋がっているんでしょうか? 頑張っている子供たちは将来、報われるんでしょうか? 今日、有紀さんの話を聞いて・・・そして、あそこの子供たちの、そして特に最後のあの子の英語を聞いたら、今まで築いてきたものや信じてきたものが、ガラガラガラって、紛い物のように、崩れ落ちるみたいな感じがして」

言っていて、何だか泣きたくなってきた。

そう、私は今までずっと、英語を勉強してきたのだ。そして受験の後、英会話スクールやオンラインレッスンなど、色々経験してきたのだ。そしてフレーズ集も、英作文教材も沢山買ったのだ。話せるようになりたいがために、出会い系まで使ったのだ。今まで英語に割いてきた労力やお金などを計算すると、相当なものになるだろう。

しかし、だ。あの少年のレベルは、私が一生掛けても到達できないものだと、瞬時に分かった。

「What Yuki said is totally true. As you can see, thanks to their help, we’re English speakers here. But there are many people who failed to be English speakers even though they studied for a long time at school. Why don’t you think the way of learning English in Japan isn’t effective for speaking and listening skills? Why don’t you change how you teach? I think you are all really stupid. When I become a junior high school student, I definitely won’t listen to you because you suck!」

あの子の英語が、耳にまとわりついて離れない。どうしてあの子は、あんなにペラペラ話せたのだろう。今までの短い人生の中で、何をやってきたのだろう。有紀さんは、あの子にどんな魔法を掛けたのだろう。そして私が必死に勉強してきた英語は、一体何だったのだろう。

「何だかあの子、全然違う回線から、英語が出ていたような気がするんです。ほら、私たち日本人って、日本語を一回組み立てて、それから英語に切り替えるじゃないですか? でもあの子、そんな作業をする雰囲気が、一切なかったんです。何というか、日本語を介さず、そのまま英語が口から出ていたような。心と言葉が揃っている、というか」

「・・・」

そう、松尾さんだって、私たちと何かが根本的に違う、と思ったはずだ。

そして、恐らくだが、あそこの子供たちは四葉のように、「There are two uncles for me.」などと書くことはないような気がする。そう、日本語と英語が、完全に切り離されている感じなのだ。

「じゃあ・・・あれだ、きっとあの子は帰国子女なんだ。発音を聞いたら、一発で分かっただろう? あれは絶対、向こうに何年も住んでいたんだ」

「いや、彼は埼玉育ちですよ。だって、Youtubeでもそう言っていたんですから」

「そ、それは・・・嘘をついているんだ、きっと」

「何のためにですか?」

「そ、それは・・・あれだろう、あの教室の宣伝のためだ。広告塔なんだよ、あの子は」

「でもそのYoutubeに、教室のリンクは貼ってありませんでしたよ? 何の情報も載っていなかったんで、宣伝ではないと思うんですけど」

「じゃ・・・じゃあ、あれだ、きっと貼り忘れたんだよ」

「あの有紀さんが、そんなミスをすると思いますか?」

「! ・・・」

松尾さんは黙った。そう、もしも宣伝ならば、有紀さんは絶対にあそこに、教室のHPのリンクを貼るだろう。でも、それをあえて「しなかった」ということは、きっとそこに意図があったに違いない。

「恐らく、ただ単に・・・有紀さんは、知って欲しかったんじゃないでしょうか? 今行われている英語教育と、全く違うやり方があるって。それを証明したくて、あの動画をアップしたんじゃ」

「考えすぎだ、由璃。アイツに、そこまでの意図はない」

「そうだとしても、あの子が国内にいながら、あそこまでの英語の話者になったのは事実ですよ? それを無視して、私たちは今まで通りの英語指導をしてもいいんでしょうか?」

「いいか、由璃。英語の指導は一つしかないんだ。そしてあの子が話せるようになったのは・・・恐らく、始めた時期だ」

「始めた時期ですか?」

「そう、幼い時からやったから、あれだけペラペラになったんだ」

「つまり、英語の話者になれるかどうかは、始める時期次第だ、と」

「そうだ。そして、それは有紀自身も言っていただろう? 英語はスポーツや楽器と同じで、早くから始めた方がいいって」

「じゃあ・・・中学から習い始めた子は、みんな手遅れってことになりませんか?」

「! ・・・」

「そればかりか、今、大人になってから英語を始める人だって、沢山いますよ? だったら、それも全部、手遅れじゃないですか? もちろんそれは、私たちの英語研修だって。だって私、もうすぐ30代になるんですよ?」

言っていて、腹が立つと同時に、情けなくなってきた。だとしたら、今までの20年近くの努力は何だったのだ。スタートが、既に手遅れだったとでもいうのか。だとしたら、こんなに頑張る必要がなかったじゃないか。英語話者を夢を見てきた自分が、馬鹿みたい。

「いや、それは・・・違うだろう。今から始めても、遅くは、ない、はずだ」

「でも松尾さんが先に言ったんですよ? 英語を話せるようになるんだったら、始める時期が大事だって」

「・・・」

私はまた、目の前に座る女子学生を見て、モヤモヤとなった。この子は将来、英語の話者になれるのだろうか。また私のように何度もやり直して、英語難民になるんじゃないだろうか。でも私と同じ道を辿っているなら、そうなる確率が高い。

そして私は再び、有紀さんの教室にいた、子供たちを思い浮かべた。

そう、やはりだが、同じ英語の勉強なのに、この女子学生と、あそこの「学び方」が、劇的に違うのだ。それは年齢だけの差ではない。

ふとその時、女の子のケータイが鳴った。

慌てて女の子は、小さい声でボソボソと話し、通話を切った。恐らくお母さんなのだろう。帰りの時間を、電話で尋ねてきたに違いない。

「見えるものではなく、本来、見えないものを見るべきなんです」

確か有紀さんは、そうも言っていた。

何だろう、私たちは言葉において、「何か大事なもの」を見落としてきているんじゃないだろうか。私は女子学生を見ながら、今日有紀さんから聞いたことを、頭の中で反芻した。

「だから、話者を目指す以上、英語を『勉強』から『言語』に捉え直した方がいいと思います。というのも、意識的に動かさないと、動かなくなってしまいますからね。衰えるというか、錆びつくというか。『日本語が無意識に話せるから、英語だって無意識に話せる、口が滑らかに動く』と思ったら、それは『錯覚』ですよ。結局のところ、どんなやり方をしようが、どんな素晴らしい教材や講師に出会おうが、『本人が口を動かさないといけない』のは、話者になるための必要不可欠なプロセスなんです」

「結局、言葉とは文化を吸収しながら、育んでいくものです。だから、時間も絶対に掛かります。いや、本来、掛けるべきものなんです。数ヶ月で習得できるような、ペラッペラなものじゃないんです」

「つまり、言葉を使って、『生活してきた』形跡があるんです。勉強したのではなくて。だから、『音』が生きている」

言われた言葉の一つ一つがまるで、真珠のように繋がり、何か真実が見えてきそうな気がした。

そうだ、そもそもこの子はなぜ今、電話で通話ができたのだろう。そして、この子に限らず、私たちはどうやって日本語を話せるようになったんだろう。

思うのだが、私たちがまず先に考えないといけないのは、「どうしたら英語が話せるようになるか」よりも、「どうしたら言葉は話せるようになるのか」という、根源的なアプローチなのではないだろうか。

そしてそこに、「英語が話せるようにならない原因」もきっと潜んでいて、それを解決しない限り、前には進めないし、進んでもいけないような気がする。

やはりあそこに行って、もう一度有紀さんと話をしないと。

しかし、その時だった。

「由璃、お前、もう二度と有紀と会うなよ」

「えっ!」

思わず大きい声が出て、私は松尾さんの方を振り向いた。

「今、何て言ったんですか?」

「聞こえなかったのか? 『もう金輪際、有紀とは会うな』と言ったんだ」

「な、何でですか!」

「上司命令だ。あそこに行って、有紀と話すと、面倒なことになる」

「面倒なことって、何ですか?」

「いいか、お前は学校の先生じゃないんだ。ただの一塾講師なんだ。じゃあ、塾講師の役割は何だ? それは『生徒を受験で合格させること』だろう? それで保護者から授業料をもらって、お前は食べているんだ。でも、アイツは違う。英会話講師なんだ」

「で、でも、あそこは学習塾でもありますよ!」

「しかしアイツ自身が、学校の授業を否定している以上、それは生徒のためには良くないだろう? 受験で必要なものは何だ? 通信簿だ。じゃあ、通信簿はどうやって付ける? 定期テストの点数だけじゃないぞ? 出席状況も授業態度も提出物も、全部含むんだ。でも、有紀の言っていることを守ったらどうなる? 評点が下がるだろう?」

「そ・・・それは、」

「確かにアイツはアイツなりの考えがあって、ああやっているんだろうけど、その考えをうちの塾にまで持ち込んでもらったら、生徒に良くない。ましてやそれが響いて、校舎の雰囲気や運営に悪影響を及ぼしたら、私がお前をあそこに連れて行ったこともバレる。勝手な真似をした、となれば、私の責任問題にもなる」

「・・・」

少し失望した。まさか松尾さんが、ここまで会社側の人間だったとは。

「いいか? お前の気持ちは分からんでもない。ただ、今、一番大事なのは、生徒の成績だ。しっかりと点数が取れるようにサポートするのが、お前の役割なんだ。英語を話せるようにさせることじゃない。それとこれとは、分けて考えろ」

そう言って、松尾さんはまた一言フレーズ集をパラパラとめくり始めた。もう、この話を続けたくないのだろう。

「で、でも・・・だったら、四葉はどうなるんですか?」

「何?」

「英語が話せるようになりたくて、私しか頼る大人がいなくて、姉のように慕ってくれて、将来に夢を描いている子供は、どうしたらいいんですか? 私はこれから、どうやってあの子に英語を教えていけばいいんですか?」

「それは、『イレギュラーな生徒』だろう?」

「将来英語を話せるようになりたくて、必死に勉強している子が、どうして『イレギュラーな生徒』になるんですか?」

「! ・・・」

「そんなの絶対に、おかしいじゃないですか? 『誰のための、何のための英語』なんですか?」

思わず、桜井くんが言っていたセリフが、私の口から出た。

すると松尾さんは低い声で、

「おい、由璃。お前、綺麗事を言ってんじゃないぞ。お前は、ただの塾講師なんだ。教育制度を変える力もないし、ただの一会社員なんだよ。寝言を言うのは、有紀だけで十分だ」

「寝言ですか? 生徒の将来を考えることが」

「生徒のことを考えるなら、受験に徹しろ。それ以外は考えるな」

「・・・でも、」

「受験をしっかり受けさせるのが、お前の仕事だろう? 夢を持つのはいいが、現実はそんなに甘くないんだ。いい高校に行って、しっかり勉強して、いい成績を取れば、いい就職先だって見つかるだろうが」

「で、でも、あの子は違うん、」

「そんなの、子供が言っていることだ! これから高校に入って、夢なんてコロコロ変わる。そもそも海外に渡って、歌手になんてなれるわけがないだろう? 馬鹿も休み休み言え」

「・・・」

「それに、英語が話せるようになりたいんだったら、受験の後だっていいじゃないか。その後に、好きなように頑張ればいいだろ? だから、まずは受験だ」

「そ、それが、今の・・・今の、私たち大人じゃないですか!」

「! ・・・」

思わず大きな声が出て、近くの人が一斉に私たちの方を見た。

「そうやって、そうやって・・・指導者や大人がひとまず受験に向かせて、『話せる』に向けて誤魔化し続けているから、みんなそれが終わってから、こうして困り続けているんでしょう?」

「わ、分かった、由璃! 落ち着け! 声をもう少し落とせ!」

「教壇の上で、胸を張って言えますか? 今、生徒たちに与えている指示が、将来、報われるものになる、と。自分たちの教え方を、今までに疑ったことがありますか?」

その瞬間、有紀さんの言葉が、心の奥に湧き上がってきた。

「私はただ、今は、英語を話せるようになりたかっただけなんです! それなのに、全然口から言葉が出てこなくて・・・英会話スクールに行ったって、全然上達しなくて・・・発音を直せばいいのかと思ったら、発音が下手でもペラペラ話している人だっているし。シャドーイングしろって言われても、全然ついていけないし・・・フレーズ集を買ったって、全然覚えられないし。英作文だって、うまくできないし。海外ドラマがいいって言われても、全然分からないし。研修でTOEICだって、やんなきゃいけないし。もう、何が何だか、全然分かんないんですよ。どうすればいいんですか、私? どうすれば英語で報われるんですか? 単に私は、答えが欲しいんですよ、何をやればいいかの」

「・・・由璃」

「努力してきたんですよ、私は。上に言われた通りに、必死に頑張ってきたんです。それなのにどうして、『話す』になったら、これまで以上に苦しまないといけないんですか? 何か私、悪いことをしましたか? ただ純粋に、話せることを夢見てきただけじゃないですか?」

「・・・」

「本当に今まで通り、子供たちを指導していてもいいんですか? そして四葉も、他の子と同じように扱っていいんですか? あの子はただ、話せるようになりたくて、私を信じて、毎週通ってくれているんですよ?」

ー「とにかく英語だけは話せるようになりたいんや。向こうに行っても、全然英語話せんかったら、友達だってできへんやんやろ? 歌だって歌えんし。だから、日本におるうちに話せるようになっとかんと」

そうだ、私は子供たちの将来のために働いているのだ。会社のためじゃない。

「だから、それは・・・来る場所が、間違っているんだよ。そんな子は学習塾じゃなくて、英会話スクールにでも行けばいいんだ」

「だからそうやって、スピーキングをたらい回しにし続けているから、日本人はいつまで経っても英語を話せるようにならないんじゃないでしょう? 有紀さんだって言っていたじゃないですか? ネイティブにスピーキングを丸投げしちゃいけないって。そして松尾さんだって、それで失敗したんでしょう? そこでネイティブに『英語で考えろ』って、言われたんですよね?」

「! ・・・」

「絶対に私たち、何か置き忘れちゃったんですよ。だからこんなに、おかしいことになっているんです」

「・・・」

そう、やっぱりおかしい。指導者がどうすれば話せるようになるのか、全く分からず、コンセンサスが取れていないのに、子供に英語を教えているのだ。そんなの、ありえない。

「いいか、『真実』を見ろ。決して、周りに流されるな。流されれば流されるほど、多くの日本人のように、英語が話せないという、馬鹿げたことになるぞ。鳥は翼があれば飛べるように、人間なら誰だって、話せるんだ。口さえあればな。たとえ何語であろうが、努力さえすれば、時間さえかければ、誰だって話せるようになるんだ。そもそも言語とは、『上手いか、下手か』だ。『話せるか、話せないか』ではない。少なくとも、中高で6年もやっているなら、尚更だ。だから、『英語が話せない』なんてくだらない茶番は、もうこの時代でケリをつけろ。少なくとも今、子供たちのために働いてんならな」

「そして四葉には、英会話スクールに行くお金なんてありません。うちらの授業料が低いから、何とか通えているんです。だからあの子を救えるのは、私だけなんです」

「・・・」

「そもそも、同じ英語ですよね? それなのにどうして『話せるようにならない英語』の存在を認めているんですか? 『英語が話せるようになる』ために、今の勉強があるんでしょう? それなのにどうして、こんな馬鹿みたいなことになっているんですか?」

また、怒りがこみ上げてきた。

「まあ、一旦落ち着くんだ、由璃。家に帰ってから、もう一回考えろ。な?」

ちょうどその時だ。電車がターミナル駅に止まり、乗客が沢山入ってきたので、私はそれ以上、議論することをやめた。

どうせ今、ここで松尾さんに何かを言ったところで、何かが変わるわけもない。それに何を言っても、否定されるだけだろう。

ふと見ると、先ほどの女子学生がいなくなっていた。恐らく先ほどの駅で降りたに違いない。

私はフウと大きく息を吐き、ひとまず音楽でも聴いて、気持ちを落ち着かせようと思い、バッグからイヤホンを探した。

振り向くと、隣の松尾さんは、引き続きフレーズ集を眺めていた。チラリと見えた、その本のタイトルは、「すぐに使える便利フレーズ集」とあった。

その時だ。ちょうど開いていたページに、「Calm down./落ち着け」と書いてあるのが、私の目に入った。

ーそんなフレーズを覚えているんだったら、今、私に向かって、言ったらよかったのに。

そう思った瞬間、思わず「あっ」と、小さな声が出た。

「ん? ・・・どうした、由璃?」

「あ、いえ、その・・・」

「何だ?」

「い、いえ・・・何でもないです」

「いや、何かあるんだろう? 言えよ」

問い詰めてくる松尾さんに観念して、私はポツリと、

「あの・・・それって・・・意味、あるのかなって思って」

「は? ・・・何のことだ?」

「あ、いえ、その・・・やっぱり、何でもないです」

私は何とか誤魔化したが、自分の鼓動がドクドクと、速くなっているのを感じた。

そう、松尾さんは今、「calm down」して欲しい時のフレーズを覚えているのだ。それなのに、実際にそれが使える場面になった時に、「Calm down」という言葉が、一ミリたりとも頭をよぎっていなかったのだ。

その瞬間、私は「深い闇」に、ズブリと手を突っ込んだような気がした。

そう、もちろん、私は日本人なので、松尾さんが私に向かって「Calm down.」と言う必要は毛頭ない。しかし、もしも私がネイティブだったとしたら、松尾さんは果たして私に「Calm down.」と、言えたのだろうか。

「言葉は、『感情の産物』だからです」

そう言えば、有紀さんはそんなことも言っていた。

そう、「Calm down」という言葉があるなら、本来そこに「感情」があるべきなのだ。しかし、松尾さんの覚え方は、感情が何一つ動いていないのだ。

「日本の英語教育は、『使いものにしよう』なんて、サラサラ考えられてないんですよ」

有紀さんの言葉が、私に覆いかぶさってきた。

その瞬間、松尾さんが今、ウンウンと覚えているこのフレーズたちが、将来使い物になる日が、永遠に訪れることがなさそうな気がした。そう、これは違う。言葉に見えて、言葉じゃない。恐らく松尾さんは今、「死んだ言葉」を、ウンウンと頭に詰め込んでいる。

不意に全身に、ゾゾゾと鳥肌が立った。そう、日本人が必死に覚えている英会話フレーズというものは、結局は使い物にならず、こうしてどんどん腐っていくだけなんじゃないだろうか。

かくいう私自身、覚えた「使える便利フレーズ」が、口から出てきた経験などない。それは例え、ネイティブとどれだけレッスンをとっても、だ。

「僕は『英語を話せるようにならない魔法』の存在だけは信じています」

そう、まるで日本人の英語に、「死の魔法」がふり掛かっているのだ。

「日本人は全員、義務教育が終わった後に、『どうやったら英語って話せるようになるの?』とそこで初めて考えます。つまり、それまで『話す』を全く想定せずに、学んできたことになります。しかし本来これは、ありえないことなんです。なぜなら、目的地を考えずに進んできたわけですからね」

やはり有紀さんは、この現象のカラクリに気付いているに違いない。やはりもう一度会って、この答えをハッキリと聞かないと。一体、私たち日本人の頭に、何が起きてしまっているのか。

フウと私はもう一度、大きく息を吐いて、ミュージックをONにした。耳から流れてきたのは、SEKAI NO OWARIの「Rain」だった。

第2部『光と影の時代』完

(次回、第3部第1章「I don’t think so」に続く)

日本人が学んできた「英語」とは何だったのか?


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