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新作「もしなる2」連載中!

「もしなる2」第3部9章.「小さなSOS」

前回「8、私たちの日常」はこちらから

9、「小さなSOS」

「・・・よっちゃん、今日は来るかなぁ」

菜純ちゃんは隣の空席を見ながら、ボソリと呟いた。

授業が始まって、既に10分が経っていた。単なる遅刻であればいいのだが、やはり何かおかしい。いつもの四葉ならこんな時、いつもよりも早めに来て、先週の無断欠席についての説明をしているはずである。

その時、パタンとドアが開いた。私たちはパッと振り向いたが、それは四葉ではなく、ちーちゃんだった。

「! ・・・こ、こんにちは、先生」

どうやら、一人だけで来たようだ。そしてちーちゃんは私の横を素通りして、自分の席ヘと移動しようとしたので、

「ねっ、ねえ! ちーちゃん、四葉は?」

「え? ・・・」

「一緒に来なかったの?」

「! ・・・あ、う、うん。そう・・・なんだ」

何か様子がおかしい。いつものちーちゃんじゃない。

「ねえ、どうして先週休んだの? 四葉も無断欠席だったし」

「え! あ、・・・えっと・・・ちょっと体調が悪くて」

「四葉も?」

「! ・・・い、いや、知らない」

「・・・」

この子、絶対に何かを隠している。ただ、今は授業時間中だ。聞くのであれば、授業が終わってからだ。

「ねえ、四葉は今日、来るのかな?」

「・・・うん、と。分からない。今日、まだ話してないから」

そう言って、ちーちゃんは自分の席へ向かった。

「・・・ケンカでもしたのかなあ」

菜純ちゃんがボソリと呟いた。さすがにこの子は勘がいい。そう、きっと二人の間に何かあったのだ。

その時だ。今度はもっと大きな音で、ドアが開いた。

「すまん、由璃ネエ、遅れたわ」

「四葉!」

「よっちゃん!」

二週間ぶりに見た四葉は、まるで数ヶ月以上も会っていなかったような気がした。

「どうしたの、先週? 何で休んだの?」

「あ? 先週? あ、すまん。体調不良や」

「あなたが?」

「何やねん、うちを誰やと思ってんねん。うちだって体調くらい、悪くなる時はあんねんで」

「何食べたの? よっちゃん」

「変なもん食ったんちゃうわ! 何やねん、その発想」

いつものようにワイワイと盛り上がる二人だったが、やはり私は四葉に何かがあったと、勘繰らざるをえなかった。先週休んだのは、きっとそんな理由じゃない。

「あっ、あと、由璃ネエ。これ」

そう言って、四葉はぶっきらぼうに、封筒を差し出した。

「5月分や。遅れて悪かったな」

「・・・」

中身を確認すると、一教科一ヶ月分9760円が綺麗に収まっていた。きっとだが、ここに来る途中に銀行でおろして来たのだろう。私は四葉に「ありがとう」とお礼を言い、後で領収書を渡すことを伝えた。

「ほんで、6月分なんやけど、もうちょっとだけ待ってくれや。今月中には何とかするわ」

胸がギューッと、締め付けられるような気がした。そう、四葉は何とかして授業料を工面しようとしているのだ。この子はまだ中学生だから、一人では稼げない。きっとあの父親に何度も何度も頼み込んでいるのだろう。それを思うと、更に胸が苦しくなった。

「あっ、そうだ。ねえ四葉、前回私と一緒にやった英作文、大丈夫だった?」

「! ・・・え?」

「ほら、『中学時代の思い出』って作文。ちょっと気になってて。ちゃんと提出できたかなあって」

「あ・・・ああ、あれな。ああ、うん。ちゃんと、提出できたで。助かったわ」

そっか、だったらいいんだけど。でも、何か様子がおかしい。目が泳いでいる。

ーすると、その時だ。

「遅刻ですか、熊田さん?」

ハッと後ろを振り向くと、笠原さんが険しい表情で立っていた。

「受験生ですよ? いくら夏休みが近いからって言って、気が緩んでいるんじゃないですか? 先週に関しては無断欠席だったそうですね?」

きっと笠原さんは確認に来たのだ。私がちゃんと授業料を回収し、授業追加の提案をしているかどうか。

私は子供の前で、大っぴらにお金の話をしたくなかったので、授業料の入った封筒をチラリと見せて、回収したことをジェスチャーで伝えた。

すると笠原さんはその封筒をサッと奪い取り、なんと私たちの目の前でお金を数え始めた。そんな・・・何もわざわざここで確認しなくてもいいじゃないか。私にはその姿が、お金をむしり取る悪徳業者のように見えて、軽く吐き気がした。

笠原さんは授業料が回収できて、ひとまず安心したのだろう、封筒をスーツの内ポケットにしまい、今度は四葉に成績の話を切り出した。

「何やねん。うちの成績と、あんたに何の関係があんねん」

「関係はありますよ。あなたはここの生徒なんですから。それを管理するのが、教室長の私の仕事です」

「ええわ、そんなん。ノーサンキューや」

「いいえ、そんなわけにはいきません。あなたはここで数学も取るべきです」

「はあ? 何でや?」

騒ぎが大きくなりそうだったので、私は二人の間に割って入り、「後は私がやりますから」と、何とか笠原さんを説得し、引き取ってもらった。そう、きっと笠原さんは私のことを、何にも信用していないのだ。そしてそれを行動で伝えにきたに違いない。お前がやらなきゃ、自分がやるぞ、と。

「何やねん、アイツ。マジで腹立つわ」

四葉が吐き捨てるように言った。

「ゴメンね、四葉。でも笠原さんは、別に悪い人じゃないの。四葉に、一つでも偏差値の高い高校に行って欲しい、と思っているだけで、」

「だからそんなもん、余計なお世話や。いつも言うとるやろ? うちは別に高校なんてどうでもええねん。それに数学なんか習うても、何の役にも立たん」

「そうなの?」

菜純ちゃんが割って入ってきた。

「当たり前や。日常、角度とか計算するか? あー、あの木の枝と幹の間、何度やろかー? 分からんとうち、困るわー。なるか? こんなん」

いや、それはならないけど。

「『弟が先に家を出ました。その10分後、兄が弟の忘れ物に気づき、時速10キロで自転車で追いかけました。時速5キロで歩く弟に追いつくのは、何分後のことでしょうか?』アホか、この兄貴。そんなん、ケータイで電話して『お前、忘れ物しただろ、帰ってこい、ボケ』言うたら一発やん。頭使わんかい。いつの時代や」

それに関しては正論かもしれないけど、そんなことじゃないでしょ。

「うちは受験とかそんなん、どうでもええねん。高校卒業したら、アメリカに住むんやからな。ここで通うとるんは、英語を話せるようになりたいからやねん」

「! ・・・」

「色んな国の人と友達を作りたい。海外ドラマみたいに、バカな話をして、笑い合ったりしてみたい。こんな日本から飛び出したい。そのためにも、英語だけは絶対に話せるようになっておきたいんや」

「・・・向こうでずっと暮らすん?」

菜純ちゃんが、泣きそうな声で尋ねた。

「すまんな、なず。でもまあ日本におったら、うち、幸せになれへんからな」

「どうして? 国内にいても、四葉は幸せになれるかもしれないよ?」

「無理や。日本におったら、一生うちの親父に振り回されながら生きてかなあかん。母ちゃんもきっと、それが嫌やったんやわ」

「そ、そんなにお父さんのこと、嫌わなくてもいいんじゃない? いいお父さん、じゃない?」

「由璃ネエは、酔うた時の親父知らんから、そう言うんや」

「!・・・」

その時私は、四葉が抱えている「別の闇」に気付いた。そう、恐らくこの子は15歳にして、暗い道を歩んでいる。

「だからうち、高校に入ったら、ずっとバイトして、向こうで生活できるためのお金貯めんねん。母ちゃんと一緒に暮らすねん。ほんで、歌を歌ったりしたいねん。だから勉強やったら、英語だけで十分や」

「そ・・・そっか。そうだよね」

それを聞き、同時に私は少しホッとした。そう、これで数学の提案はした。そしてやはりこの子には、他の教科をここで学ぶ必要がないのだ。そう、これでいい。

しかし四葉は吐き出すように続けて、

「それなんに、や。いっつもエリートは学校で、うちの気持ちを折ろうとしてくる。うちが『英語を話せるようになりたい』言うても、『そんなの、学校のテストで70点取ってから言え。まずは文法や。単語書けるんが基本や』とか、そんなこと言うよる」

またズキンと胸が痛んだ。

「もちろん、スペル書くんも大事やと思う。でもな、うち、覚えられへんねん。何回書いても『Wednesday』がうまく書けん。dがbになったり、入れる場所も忘れたりしてしもう。和訳だって下手っぴや。文が上手く組み立てられんのや。漢字だって、よう間違う。でも、誰も分かってくれへんねん、この難しさが」

ゴクリと私は唾を飲み込んだ。そう、この子は「国語力」が圧倒的に足りていないのだ。

「自分でも自分のことが、アホやと思う。でもな、うちは書くんよりも、まずは話したいねん。そもそもスペルがうまく書けたところで、気持ちを分かり合えるんか? 筆談するわけちゃうやろ? 『d』だって発音せんのやろ? じゃあ、ええやん、うまく『d』が書けんでも。それよりか、声出して会話する方が大事ちゃうんか? ほんで漢字の正しさなんて、必要なんか? 向こうはうちみたいなアホでも、ちっちゃい子供でも、英語ペラペラ話してるやん? 絶対にあいつら漢字知らんやん。スペルだってよう書けへんやん」

「! ・・・」

「それにエリートの言う通り、まずはテストが大事なんやったら、うちの学校の英語一番のヤツは、一番英語を喋れるはずや。でもそいつ、全然や。ジェニファーが来たら、何の発言もせん。隅っこで隠れとる。それにそもそもエリート自体、ちゃんと英語喋れへんねん」

確かジェニファーとは、四葉の学校に来るALTのことだ。

「うち、最近本屋さん行ったら、よく英会話コーナーに行くねん。そしたら書いとる人みんな、『英語なんて間違うてもいい、間違えれば間違うほど覚える、どんどん間違えよう』とか言うとる。でも学校は、『間違うな』って言いよる。うち、どっちを信じればいいねん?」

「! ・・・」

「なあ、由璃ネエ、ホンマか? ホンマにこんな勉強しとって、将来英語喋れるようになるんか? ちゃんと繋がっとるんか? 繋がっとらんから、日本人は大人になってから、英語が喋れんで困っとるんとちゃうんか?」

この子、・・・色々と気づき始めている。

「うち、みんなと違って、いい成績取るために英語やっとるんちゃうねん。将来英語ペッランペッランになって、アメリカ行くねん。この腐り切った日本、脱出すんねん。本当なら、今すぐにでも出ていきたいねん」

急に四葉の声が湿った。それに気づいた私と菜純ちゃんは、ハッと四葉の顔を覗き込んだ。

「ね、ねえ・・・四葉、どうしたの? 何があったの?」

四葉がこんなに取り乱すのは、初めてのことだった。

「もう、どうすればええんか、全然分からん。将来、やりたいこと沢山あるんに、夢もあるんに、今やっとることが、ほんまにそれに繋がっとるんか、何も分からん。そして誰もうちのこと、理解してくれへん。だから、時々、生きとるんのがすごい辛くなる」

四葉の目に涙が盛り上がっていて、鼻の奥がツーンとなった。

「先週な・・・学校で英語のスピーチ・・・あってん」

「え?」

「ほら、一緒に書いた英作文あったやろ? ・・・あれをみんなの前で発表したんやけどな」

「えっ! ・・・」

あれをみんなの前で発表したの? そんな! ・・・あれは、ただ単に、「提出に間に合わせるためだけ」に作った、即席の英作文だ。

「ジェニファーが大笑いしてな。そこにエリートも乗っかってきて、『変な英語や、間違いだらけの英語や』とかボロクソに言われて。ほんで、その場で書き直しさせれてもうて」

そ・・・そんなことがあったのか。で、でも、その場で英文を作らせるなんて、四葉に限らず、中学生には無理だ。そう、この子たちができる英作文なんて、たかが知れている。ほとんど自分のことなんて、表現できないはずだ。

「うち、由璃ネエに頼らんと、ちょっとくらいは一人でできると思うたんや。だから大見得切ったんやけど、、、何も書けんかった。何もや」

「え? ・・・何もって?」

「まず、日本語作って、それを英語にしようとしたんやけど、もう全然わからん。主語も何から書き始めたらいいんかもわからんし、動詞も出てきーへん。時制も名詞もわからん。ほんで、何よりも元の作文が誤字や脱字ばかりでおかしかったらしくて、『お前は英語の前に、まずは国語力や』って」

そう言って四葉はカバンから、数冊の本を取り出した。それは図書館によくある、古臭い文学全集だった。もしかしてこの子は、英語を話せるようになるために、こんなものを借りてきたというのか。

「ほんでエリートに、お前はいつも話しとる言葉も理路整然としとらんから、これからは『私は○○だと思います。なぜなら○○だからです』みたいな話し方しろって。そもそも関西弁が良くないとか、漢字ドリルやれとか、幼稚園からやり直せとか、クラスん中でフルボッコになって」

ひ・・・ひどい・・・私は思わず、口を覆った。

「なあ、由璃ねえ。うち、ここで英語、1年やってるやん? テストだって、上がってきたやん? でもな、自分の言いたいこと、何一つ書けへんかってん。何一つも、や。これって一体、何やねん? うち、ここで一年、一体何してたん? それ思うたら、苦しくなって」

そうか、四葉が先週休んだのは、そのせいだったのか。

「うち、全然勉強できへんやん。スポーツは他人よりも上手いほうやけど、うちよりもっと上手い子はいっぱいおる。ほんで、うちよりも可愛い子もいっぱいおる。うちよりお金ある子もいっぱいおる。うち、みんなに比べたら、何の取り柄もないやん。だからせめて英語だけでも喋られたら、と思うてたんやけど、全然や。点数だって取れへんし、何も喋れんし、自分が情けのうなって、情けのうなって・・・」

「四葉・・・」

「なあ先生、うち英検とかの勉強した方がええんか? エリートがな、『お前はまず英検6級受けてみろ』って言うたら、教室で大爆笑になって。何でみんな、そんなに笑うんかと思って、その後、調べたんよ。そしたらなかった。英検は5級からやった。うち、5級にも届いとらんのかな? 英語を話す権利もないんかな? やっぱり幼稚園からやり直しなんかな? もう何が何だか全然わからん」

何て・・・何て、残酷なことを言うんだろう。

「それともうち、TOEICってやつの方がいいん? その方が喋れるようになるん? 大人、みんなそれやってるやん。その勉強したら、うち英語、ペラペラになるん? 何点取ったらええん? それも70点か?」

違う、あなたに必要なのはスコアじゃない。そしてあなたは、スコアは取れない。そして、「スコアを取るだけの勉強」になってしまうかもしれない。

「それともYoutubeで誰かが言うとったけど、海外ドラマとか映画とか、ずっと見とればペラペラになるん? それとも誰かの演説真似したらええん?」

違う、あなたは、見ても無意味。何も聞き取れないって。その人たちはある程度、英語ができるから、そんなことを言っているの。そもそも、この私だって聞けないんだから。だから、どうしてあなたが聞けるっていうのよ。継続なんてできるわけがない。

「それともうち、発音を直さなあかんのか? 誰かが言うとったんけど、発音ができたら海外ドラマとか全部分かるようになるん? それとも聞き流し教材とかがいいん? 聞いとったら、ペラペラになるん?」

違う違う。どんなに発音を直しても、分からない単語は聞き取れないの。そんな、ちょっとやそっとで英語が全部聞き取れるようになるなんて、全部詐欺。そして「聞く」と「話す」は全く別。聞き流していて話せるようになるんなら、有紀さんも言っていた通り、私は電車の車内アナウンスくらいできるはずなの。だって、毎日聞き流しているんだから。

「それともフレーズ集とか覚えればいいん? 本屋さんに、ペラペラフレーズみたいなの、いっぱい売ってるやん。それか、『Fuck you!』みたいな一言フレーズ集とか。ああいうの全部覚えたらペラペラになるん?」

違う違う。そもそもあなた、単語一つ覚えられないじゃん。それなのに、どうしてセンテンス単位で覚えられるっていうのよ、無理に決まっているじゃない。それに、たとえ覚えられたとしても、それだけしか言えなくなるでしょ。どうやって自分で自分の文章を作っていくの? それとあと、「Fuck」なんて汚い言葉使ってたら、できる友達だって、できなくなるでしょ。騙されちゃダメ。

「それか英作文テキストとかの方がいいん? ああいうのも、いっぱい売ってるやん? あれやったほうががいいんか?」

違う違う違う! あなたは「英語→日本語」も満足にできないんだから、「日本語→英語」ができるわけがないでしょ。その道は、もっともっと難しいのよ? それに何よりもあなた、文法がボロボロでしょ? 関係代名詞だって、まだ何一つ教えていないのよ?

「それとも塾やなくて、英会話教室とかに行けばいいん? それかオンライン英会話とかやればいいんか? 外国人と話しとったら、英語が乗り憑ってくるん、ちゃうんか?」

違う違う違う! あなたが英会話レッスンを取ったところで、どうせ一方的に喋られて終わりだって。そもそも、私がそうだったんだから。そして、何にも乗り憑ってこなかったの。全部失敗したの。

「なあ、由璃ネエ、どうしたらうち、ペラペラになんねん? もう、どうしたらええんや?」

私は思わず、グッと拳を握った。何なの、このペラペラって! 何なの、この病気! 一体、何が私たちの頭に巣食っているの?

そして、だ。私は四葉の目の前に、刑務所以上の「分厚くて高い、英語の壁」を感じた。そう、この子には無理だ。日本にいる以上、一生英語を話せるようになんかならない。この子は「日本語を英語に切り替える能力」が、そもそもない。つまり、着実に進める「話者への道」が、何一つ残されていない。努力すら、、、できない。

「怒り」だ。マグマのような「怒り」が、腹の底から込み上げてきた。どうしてだ? どうして日本にはここまで「話者への道」がついていないんだ? 今まで私たちは、ずっと学校で英語を勉強してきたじゃないか。それは一体何だったんだ?

ー「それに、英語が話せるようになりたいんだったら、受験の後だっていいじゃないか。その後に、好きなように頑張ればいいだろ? だから、まずは受験だ」

ー「そんなの、受験の後に、本人がやればいいことでしょう? ここでやることではありません。頭は大丈夫ですか?」

不意に松尾さんと笠原さんの言葉が、フラッシュバックした。

そうだ、、、結局私たちはずっと、「まずは受験が大事だ」で、話者から逃げ続けてきたのだ。「話す環境がない、時間がない、まずは目の前の受験だ」などと言い訳をしながら。ずーっと、ずーっと、だ。そして、今も誤魔化し続けているのだ。だから話者になりたい人に、挫折や絶望しか見せられていないのだ。

「なあ、教えてくれや、由璃ネエ! うち、やっぱり関西弁も捨てなあかんのか? まずは標準語に切り替えたら、英語を話せるようになるんか? 英作文の問題はみんな標準語や。関西弁が全部いかんかったんか? でもな、関西弁なんて、『うちが今まで生きてきた、自分の人生そのもの』やん! うち、それも全部捨てなあかんのか? もう、何も喋ったらあかんのか? うち、もう喋るん、怖い! 怖い! 怖いぃぃぃ!」

オイオイと泣き始めた四葉に、教室の中が騒然となった。ただでさえ泣き声は目立つのに、その声の主はあろうことか、あの「熊田四葉」なのだ。

私は泣き止むように、背中をさすって必死に四葉をなだめたが、自分も涙を堪えるのに必死だった。そう、四葉の涙は、私が流してきた涙でもあるのだ。いや、私だけではない。日本人が流してきた涙だ。だから、ここで今、子供に英語を教えている私が泣いちゃいけない。私はグッと歯を食いしばった。

すると右隣から、綺麗に折り畳まれたハンカチがスッと差し出された。振り向くと、菜純ちゃんが目に涙をためて、同じように必死に堪えていた。

何だろう。現場にいる私は、子供たちに何をしてあげられるんだろう。そして一体今、何が起きているんだろう。どうして私たちは、こんなに英語で苦しまなきゃいけないんだろう。ただただ私たちは、英語を話せることを夢見て、頑張ってきただけじゃないか。誰か助けて。私たちをここから救いあげて。

「そっか・・・じゃあ、四葉が言っていた通りなんだね」

その授業終わり、私は四葉を早めに帰し、ちーちゃんと急遽面談を行った。そう、学校で何があったのか、一応ちーちゃんからも事実を確認しておきたかったのだ。

「あと・・・よっちゃん、スピーチの中で、『Wednesday』のこと、『うえどんずでー』って言っちゃったの」

「え?」

「そしたら、クラスの一人がそれを拾って、『バカすぎる』って大笑いになって」

「・・・」

きっとスペルを覚えるために、語呂で覚えていたものが、そのまま口から出てしまったのだろう。

そうか、だから先ほど四葉はスペルよりも発音のほうが大事、と言っていたのか。でも確かに四葉にとっては、まずは「話す」が大事なのだ。

しかし、だ。そういう単語の覚え方を許容していたのは、講師の私自身なのである。音よりも、スペルを重視させてしまっていた。なぜならテストに出るのは、発音ではなく、スペルだからだ。

「そして、スピーチの原稿なんだけど・・・よっちゃん、『これは由璃ネエと一緒にやったやつやから、間違いなんて何にもないんや。間違ってんのはお前らの方や』って騒ぎ始めて」

「そ、そんな・・・!」

「そしたら、エリートがカチンときて、『熊田の通っている塾の先生は、こんなデタラメな英作文を指導しているのか? 最低な塾だな。おいお前ら、駅前のヘッドスタートに通っている子は、違う塾に行った方がいいぞ。熊田みたいにバカになる』って」

私はハッとなった。そうか、「花塚の退塾」が今週、爆発的に増えたのは、これが理由か。私が自分で、その種を蒔いてしまっていたのだ。

「そしたらよっちゃん、完全にブチ切れちゃって・・・『由璃ネエの悪口を言う奴は、誰であろうが許さん。ぶん殴ってやる!』って」

私は口を覆った。そんなことまで言ってしまったのか、あの子は。それは恐らく学校中、大騒ぎになったに違いない。

「それからよっちゃん、ずっと荒れちゃってて・・・」

そうか、だからちーちゃんは今、四葉とうまくいっていないのか。いや、それはちーちゃんだけではなく、恐らく四葉が学校の中で孤立しているんだろう。

私はフウと、大きくため息をついた。

「それとあと・・・」

「あと何?」

「・・・」

「どうしたの?」

「・・・あ、いや、やっぱり、何でも・・・ない、です」

ちーちゃんは更に何か言いたそうだったが、それ以降は全く喋らなくなった。そして急に立ち上がって一礼し、逃げるように面談室を出ていった。

私はそれがとても気がかりだった。きっとまだ、、、何かあるに違いない。

そして面談室を出て、自分の席に戻った時だった。隣の砂ちゃんが心配そうな顔で、

「先輩、大丈夫スか? 授業中、四葉ちゃんが泣いたって聞いたんスけど」

「あ、うん。大丈夫。ちょっと四葉の情緒が不安定だったから」

その時、私はふと砂ちゃんが、英語の教科書を持っていることに気づいた。

「これ、授業が終わった後、菜純ちゃんが持ってきたんス。四葉ちゃんが机の中に忘れていったらしくて」

私は砂ちゃんから、教科書を受け取った。私がずっと面談室に入っていたので、菜純ちゃんは砂ちゃんに届けたのだろう。私は砂ちゃんにお礼を言い、仕事に戻ろうとしたが、

「先輩、それ、・・・・中を確認した方がイイっすよ」

「え?」

砂ちゃんが深刻な顔をしていた。その瞬間、ピーンと「嫌な予感」が走った。そして、パラパラと中を見ると、その予感は的中した。

「それ、大問題かも・・・しんないっスよ」

「・・・」

そう、四葉の教科書の中の、挿絵のキャラクターのすべての目に、「無数の穴」が空いていたのだ。

ー熊田四葉は恐らく、学校で「イジメの標的」になっている。

第3部「私たちのSOS」完

(次回第四部「1、Yesterday once moreに続く)

「英語」という「教科」を、「言葉」に変える


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