第2部『光と影の時代』
1、「一昨日来やがれ!」
それから約30分ほど電車に揺られ、私たちは、その葛城有紀さんが勤めているという、英会話教室の最寄り駅に降り立った。ちなみに、そこは私が今までに聞いたこともない駅名だった。
また、電車に乗る前、松尾さんが事前にLINEを送ったところ、「今日ならいつでもどうぞ」と、分かりやすい地図付きで、すぐに返信が届いた。恐らく、有紀さんという方は、かなり気が利く人に違いない。
そしてその地図を頼りに、迷うことなく目的地に辿り着いたのだが、それがかなり古びた建物だったので、思わず私たちは面食らった。
「何か・・・二、三体、棲んでそうなビルだな」
「ええ・・・」

一階には寂れたカラオケ屋さん、二階には流行っていなさそうなインド料理屋さん、そして三階には、その教室の看板が掛かっていた。
「それにアイツ・・・いつの間にか、看板背負ってやがる」
どうやら松尾さんも、初めて知ったらしい。そう、看板には『葛城有紀 英会話教室・学習塾』となっていたのだ。明らかに、教室長に昇進を果たしている。そもそもあの「聖典」を仕事の合間に作ってしまうくらいなのだから、恐らく相当、仕事もできる人に違いない。
「ちなみにあれって、何なんでしょうか?」
私は看板の下の方に書いてある、キャッチフレーズのようなものを指差した。そこには「もしも高校四年生があったら、英語を話せるようになると思いますか?」の文言があった。
「分からないが、怪しさが半端ないな」
うん、確かに。普通の社会人であれば、ひとまずここに入会することはないと思う。そして、そもそも『学習塾』と謳っている時点で、ここは学校の授業のサポートがメインなのだろうか。であれば、私たちとしていることは、結局は一緒か。
ただ、だ。そう言えば私も以前、「もしも高校に四年生や五年生があったところで、英語を話せるようにはならない」と、ちょうど同じことを考えたのだ。
そう、日本人が英語を話せないのは、「時間の問題」ではない。そもそもながら、「語学習得」とは時間がかかるものなのだろうが、日本人は中高と英語を真面目に勉強し、その後も沢山時間を費やすものの、一向に話せるようになっていないのだ。それは、英会話スクールに通っても、オンラインレッスンを受けても、だ。いまだに英語を話せるようになるため「だけ」に、海を渡る者も多い。上がるのは、資格試験のスコアのみだ。
そのため、そのキャッチフレーズが、妙に私の心に引っ掛かった。もしかしてだが、どうして日本人はこんなに英語に失敗し続けているのか、「私がずっと探していた答え」が、この建物の中にあるのではないか。そんな淡い期待を、私はうっすらと抱いた。
そして私たちは、古びたエレベーターに乗り、三階に降り立った。すると、目の前に壁が現れ、左手には階段、そして右手の廊下の奥に、木製のドアが見えた。恐らくあそこが、教室の入り口なのだろう。
あのドアの向こうに、「有紀さん」という方がいるのか。私はゴクリと唾を飲み込んだ。
「聖典」を作ったという以上、白ヒゲを生やした、教祖様のような人なのだろうか。いや、でも数年前、新入社員だったということは、まだ、30手前か。では、かなりの老け顔の若者ということだろうか。もはや、どんな風貌なのか、イメージすらつかない。髪は残っているのだろうか。

そして松尾さんは、ドンドンドンと、ドアを3回叩いて、「おーい、有紀ー。来たぞー」と声を上げた。
しかし、向こう側からの反応は、全くなかった。聞こえていないのだろうか。壁にはチャイムのようなものも、何もない。
仕方なく松尾さんは、ドアノブを回し、中に入ろうとした。しかし、だ。
「あれ、おかしいな。動かないぞ」
そう、どうやら鍵が掛かっているようなのだ。
「なんだ? 誰もいないのか? おーい、有紀ー」
松尾さんが大きく叫んでも、出てくる気配は一向になかった。
「・・・有紀のヤツ、『いつでもどうぞ』とか言っておきながら、あの野郎」
ケータイを取り出し、松尾さんは何度も通話を試みたが、どうやら全く繋がらないようだった。「チッ」という舌打ちが、フロア中に響いた。
「ど、・・・どうしましょうか?」
すると松尾さんはしゃがみ込み、ドアノブをガチャガチャといじり始めた。
「ちょ・・・ちょっと松尾さん、何やっているんですか?」
「いや、ボロいから、ちょっと強引にやったら、鍵が外れるかもしれないと思ってな」
「ちょっ、・・・やめたほうがいいですよ、松尾さん。それじゃあ、まるで泥棒みたいじゃないですか」
「誰が泥棒だ。こんな暑い中、ここまで来たんだ。このまま帰られるか。おい由璃。お前、ヘアピンとか持っていないか? なかったら、バールのようなものでもいい」
「立派な泥棒ですよ、それ」
ーその時だった。
「ワワワワン!」
大きな犬の鳴き声が背後から突然響いて、私たちは「わああっ!」と飛び上がった。そしてバランスを崩した松尾さんが掴まってきたせいで、私たちはマンガのように、ズドドドと床に倒れた。
「いててて、だ、大丈夫ですか、松尾さん?」
打った腰を押さえつつ、私は後ろを振り返った。
すると、何とそこには、「ハッハッハッ」と太った柴犬が、私たちにお尻を向けた状態で座っていた。

ど、どうしてこんなところに柴犬なんているの? ふと私は小学校時代、教室の中に、犬が迷い込んできたときのことを思い出した。すっごい違和感。
「泥棒か? お前ら」
「えっ!」
私たちはその声で、柴犬の2、3メートル後ろにいた、モデルのようにスラッとした、スーツ姿の女性に、初めて気づいた。年齢は30代半ばだろうか。そしてまるで女優のような、整った顔立ちをしている。
「泥棒ならここじゃあない。下の階に行け。1階のカラオケ屋の方だ。2階は全然儲かっていないからな、行っても無駄足になる」
「あ、い、いえっ、ち、違います。私たち、ここの、」
「なんだ、生徒か」
「え?」
「有紀の奴に全部、経営を任せてしまったからな。もう誰が生徒か、私も把握しておらん。そして、せっかく久しぶりに来てやったというのに、犬の世話を私に任せて、自分は子供たちと一緒に『道案内の課外授業』など、やりたい放題だ。何が『いいところに来てくれましたね、学院長。どうかアップルを散歩に連れて行ってくれませんか?』だ。ひどい扱いだと思わんか?」
「は・・・はあ」
「ったく、自分が学院長になった途端、勝手に新しいレッスンをどんどん作りやがって。そもそも、だ。私には、物を拾ってくるのを禁じたくせに、自分は犬を拾ってくるとは、不公平にもほどがあろう。それに、私に全く懐かないのは何なんだ、そのバカ犬は。それが一番、気に食わない。しかも、なぜ人に尻を見せつけてくる? 下品にもほどがあろう」
まるでそれに相槌を入れるように、「アップル」という名前らしい、その柴犬が「ワンッ」と小さく吠えた。

ー「ちなみに、そのドアは英語ではどんなだ?」
いきなり質問が飛んできて、松尾さんは「え?」となった。
「だから、そのドアを英語で表現しろ、と言っているんだ。どんなだ、そのドアは?」
何たる威圧感だろう。もはや、「答えなければ、斬るぞ」くらいの勢いである。これにはあの松尾さんすらも気圧されて、
「えっと、『ドアが動かない』を、英語で、か ? ド、ドア・・・ドントムーブ、か?」
「馬鹿か、お前は」
「え?」
「何だ、頭が悪い上に、聞き取りもできないのか? 私は『馬鹿か』と言ったんだ」
「な・・・」
な、何たる暴言。私は、松尾さんの顔が、すうっと真顔になる瞬間を見た。
仮にも全国に校舎を持つ塾のブロック長で、しかも年下っぽい、見ず知らずの人から、こんな侮辱的な発言を受けるのは、松尾さんの辞書にはない。
「お前・・・何なんだ、初対面の人に向かって。馬鹿とは何だ、馬鹿とは」
こんなにドスの効いた松尾さんの声を、私は初めて聞いた。しかし、だ。そのモデルのような女性は怯むどころか、更に追い討ちをかけた。
「では唐変木だ。日本語の文字だけ取り出して、頭の中で馬鹿みたいに慌てて変換したからそうなる。冠詞がない。冠詞もなければ、動詞もまともに使えていない。お前の頭の中は、英語を使う時も、丸々日本語だ。英語ではない。どうせ、所有格の性別も、単数形・複数形もズレ続けているに違いない。いいか? 日本語から英語を作るな、状況から英語を作れ。この文字馬鹿野郎め」
「はあ?」
「よいか? 本来、『英語を話す』というのは、一語一語、日本語の文字を英語に変換して、文法順にツギハギする行為ではないぞ? それではフランケンシュタインだ。不格好な英語になる。そして何よりも、その言葉には、心がない。自動翻訳機と一緒で、血が通わなくなる」
松尾さんはもちろん、私もまるで漫画のように、口がポカンとなった。何だろう、「異次元の世界の住人」に出会ったような感じだ。

「ドアがムーブしたら、ドア自体が動いてしまうぞ」
「何?」
「いいか? この場合、ネイティブなら、『The door won’t open.』と、表現するだろう。または、『The door’s locked.』や『I can’t open the door.』などでいいではないか? どうせ何も考えずに『move=動く』と一語で丸暗記していて、『ドアが動かない』という文章から英作文したから、そんなアホみたいな文章になったんだろう、この唐変木め。どうせ、ろくに英語も聞けないに違いない。典型的な日本人だ。英語を話す前に、いつまでも日本語で引っかかってんじゃねえ。一昨日来やがれ!」
何度も強烈にディスられている気がするが、もはやその迫力に、私たちは一言も挟めない。
「いつも有紀から言われているだろうが。『日本語と一緒ではなく、場面を想定しながら英語を学べ、本質を見ろ』と。普段、アイツから、何を教わっているんだ? あのへなちょこ、全然指導がなっていないではないか。これでは『見習い』に格下げだな」
全然、話についていけない。
そしてその女性は、「日本人は英語を習っておきながら、『使おう』なんて、誰一人考えていやがらねえ。大人ですら、『文字を日本語に訳せれば、テストで点が取れれば、あとはネイティブと話すだけだ』と思ってやがる」と、毒付いた。
「よろしい。それでは偉大なる初代学院長から、直々に教えてやろう。いいか、そもそも『apple』は【ˈæpl】で覚えればいいではないか。なぜ『【ringo】リンゴ』と、音と文字を変換して、理解しようとする? そこに、何の意図がある? 理解から遠ざかるだろうが。それに、そうすれば、いちいち聞くときも、話すときも、読むときも、書くときも、『【ringo】リンゴ』から変換しないといけなくなるだろう? 面倒くさい。例えば、だ。英語で『bed』や『bench』が出てくると、楽だと思わんか? なぜなら『そのまんま』だからだ。日常と直接リンクし、『そのまま理解できる』だろう? そのまま『呼べる』だろう? そのまま音が載せられるだろう? そのまま言葉を育めるだろう? いいか? 言葉の本質は『音』だ、『文字』ではない。会話とは筆談でなされるわけではない。いい加減、目を覚ませ。誰のための、何のための英語だ?」
え? 誰のための、何のための英語?
「なぜ将来、『日本語から英語に作り直す』という、『どでかい作業』を残しておく? どうして自ら、苦しむ道を選ぶ? どうして感覚をつける作業を後回しにする? 学び始めほど、感覚を大事にしないといけないだろう? 将来、『英語が話せない』という、間抜けな事態を招いてしまうぞ? いいか、お前がドMというなら仕方ない。好きなように血反吐はいて、のたうち回って、英語と日本語の狭間のダンジョンの中で、一生苦しんでろ。ただ、そのやり方を他人に押し付けるんじゃあないぞ。英語を使って何をしたいのか、本人に選ばせるべきだ。そして、幼い子供を持つなら、親がしっかりと進むべき道を、選んであげないといけない。もう、そういう時代だ」
言っている内容が理解できないが、ミシミシと声が脳に響いてくる。凄まじい迫力だ。
そして、だ。この人は今、「ダンジョン」と言ったのか? そ、そんな馬鹿な。それは、「私の頭の中だけに出てきた言葉」だ。誰にも、言ったことがない。それを、なぜこの人は今、口にできたのだ? さっきの「誰のための、何のための英語」も含めて、この人は私の心を読んでいるのか?

「いいか? 学ぶのは日本語なのか、英語なのか? この時代、『育んでいくべき音』はどっちだ? 【ringo】か【ˈæpl】か。お前は一体、英語を使って、何をしたい? 英語を口から出したいから、【ˈæpl】と出したいから、ここに来ているのではないのか? 翻訳家になりたいのなら、今まで通り黙々と文字を日本語にして、『リンゴ【ringo】』で終わってろ、明治時代みたいにな。それで構わん。しかし、英語の話者になりたいのであれば、【ˈæpl】でそのまま覚えて、何度も、何年も、口にし続けなくてはいけないだろうが。ネイティブはそうやって、英語の話者になったのだろう? なぜネイティブと同じ道を辿ろうとしない? なぜ大昔の日本人が敷いたレールの上を走ろうとする? いいか? 話者になりたければ、『リンゴ【ringo】』に変換して、そこで終わるな。単純に『2つの大きな作業』を残すことになるぞ。いや違う、2つではなく、『4つ』か」
私は松尾さんと、顔を見合わせた。私たちは、何を言われているのだろう。
「もう今は、『世界に向かって英語を使う時代』だ。『日本語で言ったら、えーっと』みたいなことを、考えている暇などない。チンタラチンタラ、大昔と同じ学び方してんじゃねえ。先人たちのように、英語が聞けなくて、話せない人間になってしまうぞ? 話者になりたいのであれば、音も意味も、相手のルールを真似して、覚えろ。勝手に和風に作り変えるな。そんなもの、たらこスパゲッティだけにしておけ。ったく、つくづく日本人ってのはどうしようもない、ノロマで、周りの顔色を伺うだけの、情けない国民だよ。世界に取り残されて当然だ。同じ日本人として、嫌になってくるぜ」
近所でも有名な、ヤバい人なのだろうか。ここは一旦、有紀さんという方が来るまで、ビルの外で待った方がいいのかもしれない。このままでは、この柴犬まで立ち上がって、話し始めてもおかしくない。
ーすると、ちょうどその時だった。
「Hey, guys. What’s going on?」
今度は別方向から、男の声が飛んできた。
くるりと後ろを振り向くと、そこには何と、金髪の外国人男性が立っていた。そして、こちらもまるで俳優のように、綺麗な顔立ちをしている。
「Hey, Dragon. Who are they?」
「You don’t know them? I thought they were your students.」
「I don’t think so. I’ve never seen them.」
再度私たちは、口がポカンとなった。
え、何なの、この女の人。まさかの、帰国子女だったの? ネイティブと寸分違わぬ流暢さじゃない。もう、色々と半端なさすぎる。
ー「あれ? 松尾さんじゃないですか? 早かったですね」
今度は階段の方から、幼い声が飛んできた。
するとそこには、栗色の髪をした、童顔の青年がちょこんと立っていた。そして、だ。奇妙なことに、袴姿なのである。また、その後ろには恐らく小学生だろう、数人の子供たちがこちらを興味津々に覗いていた。

矢継ぎ早に、沢山のキャラが登場してきて、私は頭の整理が追いつかなくなった。一体、私の目の前で、何が起きているのだろう。
「あ・・・有紀。久しぶり」
ようやく松尾さんがホッとした表情で、声を出した。
な、なんと。そうか、この人が、例の『葛城有紀』さんなのか。何だか、私が想像していたのと、全く違った。若い。見方によっては、私よりも年下に見える。

そして同時に私は、自分の胸がドキドキと高鳴っているのを感じた。というのも、だ。その面影が、私のタイプである天沢聖司くんと、どこかしら似ていたからである。
「あ・・・もしかして、まーた学院長から何か言われましたか?」
状況を察したのか、有紀さんは女性の方に、冷ややかな視線を送った。恐らく、よくあることなのだろう。
「何だ、生徒ではなく、お前の客か。なら、仕方がない。おい有紀、この唐変木も、立派な『英語教育の被害者』だ。もう、手遅れに近い。ICU行きだ」
やっぱりこっちは、確実にヤバい人だ。私は確信した。