英語を日本語に切り替えず、そのまま理解する
金沢優、3年ぶりの新作「もしなる2」連載中!

「もしなる2」第1部12章.彼の名は

12、彼の名は

「しっかし、桜井のヤツ、とんでもないことをしてくれたよ」

研修終わり、私は松尾さんと一緒に、本社近くのカフェに立ち寄っていた。

元々私がアルバイト時代、教室長として私の面倒をみてくれた松尾さんは、この会社で、私が一番話しやすい上司である。そして、松尾さんも私のことを妹のように可愛がってくれているので、こうして研修などで会えば、必ずお茶をすることになっていた。

「あれだけ全部ぶちまけられたら、上層部のメンツが丸潰れだ。絶対にあいつに釣られて、退職を考える奴だって出てくる。ったく、爆撃機みたいな奴だ」

「・・・やっぱり、クビですよね」

「当たり前だ。何より、アイツがその道を選んだんだ。歯向かった時点で、もう覚悟もしていただろう」

そう言って、松尾さんはストローも使わずに、グビグビとアイスコーヒーを喉元に流し込んだ。やはり上層部の松尾さんの口からそう言われると、事実が重く響いてくる。

ちなみに松尾さんは、笠原さんの2つ上の42歳で、結婚はしていない。そういうものとは無縁の、バリバリの仕事ウーマンだ。そして、人事部も兼ねており、私の時もそうだったが、よく採用時の面接官も務める。

「・・・やっぱり、別なんですよね、『スコア』と『話せる』のは」

「要はそこに『絞っちゃう』、ってところなんだろうな。スコアが欲しければ、『それに特化した対策』をやるだろう? できるだけ、最短距離で行きたい。そして、そこに『話す』がなければ、何もやるわけがないじゃないか。こうして、TOEICだけ高くて、全く話せない人間が大量に生産されてしまうわけだ。不思議でもなんでもない」

確かに「スコアだけ」を求めてしまうと、「スコアだけ」の人間が生まれてしまう可能性を、限りなく孕んでしまう。

「ただ、私も黒川さんの話を聞いていて、どうかと思ったぞ。今後、お付き合いしていく会社に恩を売って、良好な関係を気付いていくのもいいかもしれないが、点数を操作するのは、さすがにアンフェアだ」

松尾さんが言うには、これは「ダイエット商法」と同じらしい。例えば「1日○○キロ落とせる」と謳う錠剤があったとしよう。しかしこれを、事前にドカ食いした後に摂取すれば、排泄後の体重は、ある程度は落ちる。

そして、これと「○○点アップ」は同じで、一番最初の数字さえ甘く設定すれば、実績は簡単に作れてしまうのだ。

私は聞いていて、なるほどと思った。そう、迂闊に「数字だけ」を信じてはいけないのだ。そう言えば私が英会話スクールに入会したのも、チャートを信じてしまったからだ。数値は客観的な判断材料としては有効だが、「利用される」のも宿命である。結局は消費者がその都度考えて、選んでいかないといけないのだ。

「ただ、就職や転職は、TOEICのスコアで決まる。みんながそれに走るのも、仕方がない。しかし、いざ仕事で使う時になったら、全く喋れなくて、困っている社会人は、沢山いる。別に本人が、『TOEICはあくまでそういうものだ、話せるとは関係ない』と分かってやっていればいいんだが、そこをごっちゃにした切り口で営業を掛けるのは、桜井的に許せなかったんだろう」

恐らく前のスクールでも、スコアで釣り、話せるように全くならず、中身のない、空箱ばっかりになる生徒さんを、桜井くんは、目の前で沢山見てきたに違いない。だから、今日、爆発したのだ。「誰のための、何のための英語」だと。上がスコアや体裁だけを求め続ける限り、この空洞化は止まらない。

ちなみに桜井くんの採用は、松尾さん一人による判断だったらしい。

「うちにはああいう、本音を言える社員が一人、必要だと思ったんだよ。ほら、うちの社員は、意見を持たない兵隊ばっかりだろう? 橋詰さんや黒川さんが『1+1=3』と言ったら、みんな『1+1=3』です、って繰り返すんだ。たとえ間違っていてもな。だから、桜井を見た時、コイツならもしかして『アイツの代わりになれるかも』、と思ったんだ」

「アイツの代わり? 誰ですか?」

「昔、いたんだよ。ちょっとした『希望の星』がな。桜井とは真逆のタイプだったけど、会社を正しい方向に導けるとしたら、もうアイツしかいなかった。ちょうど、笠原の下で働いていた」

「え? 笠原さんの、下? ですか?」

ーそれは、初めて聞いた話だった。

今から数年前、違う校舎で教室長だった笠原さんは、全校舎の中で月間営業成績1位を取り続け、ブロック長への昇進目前だったらしい。

というのもそれは、あるゴールデン・ルーキー(最強の新入社員)を部下に持ったからである。その社員は、生徒や保護者からも抜群の人気を誇り、また教えるのも上手く、校舎は「地域で一番成績の上がる塾」として、一躍評判になったようだ。

しかし、だ。その社員は暫くして、いきなり退職届を提出したのだ。しかもそれは、「学期中」のことだったそうだ。

ちなみに私たちの塾は、学校の学期と連動しており、社員はもちろん、アルバイト大学生ですら、学期中の退職は原則、認められない。というのも、先生が学期中にコロコロと変わってしまえば、指導方針にバラつきが出て、生徒の学力にも悪影響が出るからだ。そして、そこから不満や退塾にも繋がってくる。

そのため、社員が学期途中で退職するのは、異例中の異例である。そして、もしもそういう部下を出してしまった場合、それは上司の責任にもなってくる。しかも、それが「ゴールデン・ルーキー」だったのであれば、社内での笠原さんへの風当たりの強さは、相当なものだっただろう。出世の道も、遠のいたに違いない。

そうか、そういうことが過去にあったのなら、笠原さんが私たち部下に対して、神経質になるのも分かる気がする。普段、どこか疑った目で見てくるのは、そういうことだったのか。

しかし、だ。どうしてその社員さんは、学期途中で退職したのだろう。

「教え方について、自信が持てなくなったんだと」

「え?」

「『英語の指導方法が分からなくなりました。もう子供の隣に座れません。だから、辞めさせて下さい』それが退職の理由だ」

何だ、その理由は。私たちの会社で辞めていく人間は、「体力が続かなくなった」や「時間的拘束が長い」などの理由がほとんどである。教え方を理由に辞めた社員など、今までに聞いたことがない。そして、なぜ「英語」なんだろう。

私はもっと深く、その人のことについて聞こうと思ったが、ちょうどその時、私たちの隣に、大きな荷物を持った2人の外国人カップルが座り、楽しげに会話を始めたので、話の流れが一旦、途切れてしまった。

「△※○×□÷△☆□○+※※⇔/○☆△※」

「※□△×△※○××キヨミズデラ△÷×※☆□○※△×/☆」

英語ではない。雰囲気からして、ヨーロッパからの旅行者だろうか。

しかし、よくこんな、私たちからしたら「意味不明な言葉」を、正確に理解できるな、と感心してしまう。かろうじて分かったのは、「キヨミズデラ」ぐらいだ。これから京都に行くのか、もしくはもう行ってきたのか。

「本当に最近、増えてきたな、外国人も」

周りを見回しながら、松尾さんはそう言った。本当にその通りだ。店内を見渡すと、この2人以外にもチラホラと見える。

「おいほら、あっちは手話だぞ」

松尾さんが示す先を見ると、外のテラス席で、年老いた男女が忙しなく手を動かしていた。夫婦だろうか、繋がれた犬が退屈そうに寝そべっている。

本当にいつも感心してしまうが、手話の話者の「手の動き」は速い。よく手と目だけで、あんなにも不自由なく、意思疎通ができるものだ。

そしてふと私は、斜め前のテーブルに座る、女子高生たちに気づいた。参考書を広げ、黙々と勉強をしている。単語帳があったので、教科は英語だろう。

私はその女子高生たちと、隣の外国人カップル、そして外の老夫婦を見比べた。扱っているのは、同じ「言語」であるはずなのに、女子高生たちには、何かが決定的に「欠けている」ような気がした。

また、私の心の中に、プスプスと黒い煙が立ち上がってきた。何なんだろう、この「違和感の正体」は。

「どうした、由璃? 深刻な顔して」

「・・・ねえ、松尾さん。よく言いません? 中学英語さえできれば、英語は話せるって」

「何だ? 英語の話か?」

「ええ。ハウツー本とかを読んでいたら、やっぱり上級者は、みんなそう言っているんですよね。あと、有名人のスピーチも、本当にシンプルな英語しか使っていないとか」

「ああ、言うなあ、それは」

「じゃあ・・・あそこの高校生たちって、今、何をやっているんでしょう?」

「何?」

「だって、あの子たち、中学英語は終わっているんですよね? じゃあ今、あの子たちが必死に頑張っているのは、何のための勉強なんですか?」

「そりゃあ、『受験のための勉強』だろう」

「それは『話せる』とは全くの別、ってことですよね?」

「全くの別ってことはないだろう。同じ英語なんだからな」

「うーん・・・何だか、そこが見えないんですよね。だって、中学英語で話せるなら、中学卒業時点で、話せる子が出てきてもいいじゃないですか? でも、今までに、聞いたことがありませんよね? そして高校生で、英語を話せる子もほとんどいません。そして、大人になって勉強を継続しても、日本人は国内では話せるようにならないんです。そして、話せるようになるために、大人はまた『話せるようにならなかった中学英語』をやり直して、そして、また失敗しているんです。でも、中学英語で話せるんですよね? 何なんですか、この現象は?」

そう、日本人全員が、グルグルと同じ道をループしている。

「そりゃあ・・・ネイティブと話していないからだろう?」

「つまり、単純にアウトプットの問題ですか? インプットはもう、正常に終わっていて、外国人と話す機会さえ増やせば、解決するんでしょうか?」

そこが分からない。日本人が話せないのは、インプットに原因があるのか、それともアウトプットにあるのか。

そして私は松尾さんに、自分が今まで英会話スクールやオンラインレッスンに失敗し続けてきたことを伝えた。そう、どれだけアウトプットの機会を設けても、私は一向に話せるようにならなかったのだ。

すると、だ。なんと松尾さんも今まで、英会話スクールを3軒ハシゴして、全部失敗に終わったらしいのだ。そんなの、初めて聞いた。

「まあ、私の場合、飽き性だからな。英語を話せるようになりたいと思って、その場の勢いで契約するものの、すぐに行かなくなるんだ。仕事が忙しくてな。でも、今度は違うぞ。ほら、見ろ」

そう言って、松尾さんはカバンの中からドサリと、大量の本をテーブルにぶちまけた。それらは、「中学英語で魔法のように話せる!」「ネイティブ発音を手に入れる!」「イメージとマンガで分かる、やり直し英文法」「ここが変だよ、日本人の笑われる英語」「簡単に英作文ができるようになる本」「便利フレーズでペラペラ話す!」「CDを聞くだけで、魔法のように英語が話せる」「ネイティブ講師が提言! こうすれば英語を話せるようになる!」「英語は子供のようにシンプルに考えれば、ペラペラ話せる!」などという本だった。そして、その他にもバッグの中に、まだまだありそうだった。

「ど、どうしたんですか? これ?」

「桜井の奴、『どうせ上層部は英会話の勉強なんかしないんでしょ?』って言っていたけど、ハン、私は違うぞ。むしろ私たちが話せなければ、部下への示しもつかないだろう? だから、私は今、こうしてまた、一からやり直しているんだ。まあ、全部経費で落としたんだがな」

私はそれらの本を手に取りながら、少し嬉しくなった。そう、やはり上層部の中で、松尾さんだけは、部下に一方的に押し付けたりはしない。

しかし、だ。やはり日本の英語は「カオス」である。一体、どの本をどれだけやったら、英語が話せるようになるのだろうか。一冊一冊見ていると、頭の中が、イヤホンのコードのように、どんどんと絡まっていきそうだ。

「・・・私、思うんですけど、英語って宗教みたいですよね」

「宗教?」

「はい。意見が乱立していて。例えば『学校英語は意味がない』って人もいれば、『学校で習ったものが大事だ』って人もいますし、『赤ちゃんは文法を知らないから、学ばなくていい』って人もいれば、『いや、母国語と第二言語は違う』って人もいます。でも不思議なことに、みんな英語が話せるんですよね」

「確かになー」

「あと、『学校で全くできなかった元・英語落ちこぼれのボクが、現地に住んで、ペラペラになりました』みたいなものも沢山あって。そして、そのやり方を知ろうと思ったら、それは有料なんです。そして、その教義を買っても、結局幸せになれなくて、また私たちは、違う教祖様を探して、延々と旅を続けているんです」

そう、こうして色んなものに手を出し、結局、自分の手元には何も残らず、お金だけを散財しているのが日本人だ。これは、宗教と全く変わらない。

「本当に不思議なんです。中学英語はできるんです。でも、いざ話せる機会を作っても、それこそ中学生レベル以下の英語しか話せないんです。これって何なんですか? 一体、私に何が起きているんですか? 実は私、中学英語ができていないんですか?」

「いや、でも、テストを受けたら、100点だって取れるだろう?」

確かに取れると思う。ただ、それは「話せる」とは、関係がないのだ。今日、桜井くんが言った通り、「スコアはスコアで、話せるは話せる」だ。

再び私は、目の前の女子高生たちに視線を戻した。この子たちのしている勉強は、どうして「話せる」に繋がっていかないのだろう。

「だからそれを今日、こうして出し合ったんじゃないか」

・・・あのプレゼンの中に果たして、「正解」があったのだろうか。私は今日取った、ノートを広げた。しかし、やはりどの意見も、ピンとこないのだ。

まるで沢山の迷探偵がいて、色んな容疑者をしょっ引いてくるはいいものの、全員が「白」だったような。そして、「真犯人」は今も上手く隠れていて、のうのうと生活しているのではないだろうか。

「まあ、自分が学生だった時の先生が、もっと英語を話せるようだったならな、と思うよ」

「・・・関係あるんですか? それ」

「何?」

「今日だってみんな、『学校の先生が英語を話せないせいだ』って言っていましたけど、私、やっぱりそれがピンとこないんです。だって私、少人数制の英会話スクールに通っていたんですよ? もちろん講師は毎回、英語がペラペラなネイティブでした。でも、私の英語は、何の変化もなかったんです」

「それは、回数が足りなかったんじゃないのか?」

「週1~2回で、半年間くらい通いましたけど?」

そう、そんなに多くはないとしても、変化が出るには十分な回数だろう。そして、回数を増やしても意味がないと思ったから、ドロップアウトしたのだ。

すると松尾さんも、「そう言われれば、私もマンツーマンを受けていたけど、あんまり効果を感じなかったな」と言った。そう、やはり「移らない」のではないだろうか、指導者のスピーキング力は。

そうすると、「先生が話せる、話せない」も、問題の核心ではなくなってくる。そう、恐らく問題の核心は、「英語を話せる必要がない先生」が中高6年、「英語を教えることができる」、という「構造」自体に隠れている気がする。

「じゃあ、始めた時期が遅かったとかじゃないか? だから今、小学校3年生にまで、英語を前倒しすることになったんだろう?」

「じゃあ、それってつまり、私たちみたいに中学校から始めた大人は、もう手遅れだったってことですか? それって、酷くありません? そしてもしもそうだったとしたら、社会人になってから始めた人は、もう全員、手の施しようもない状態で、病院に駆け込んだみたいな感じになりますよ?」

自分で言いながら、段々と怒りがこみ上げてきた。もしも初めっから話せるようにならないと分かっていたのに、ずっと無駄なことをさせられていたとしたら。その場合、誰に文句を言えばいいのだろうか。

それに、もしもそれが真実なら、私が塾で英語を必死に教えているのも、全て無意味ということになってしまう。なぜなら、私たちの塾には小学英語はなく、英語は中学生からの指導だからだ。

であれば、中学2年生から入塾した四葉はもちろん、過去の生徒も含め、今いる生徒、そしてこれから受け持つ生徒、全てが手遅れということになる。もしもそうなら、茶番もいいところだ。

ーその時だ。

私たちの耳に、どこかから、英語が聞こえてきた。

見ると、なんと先ほどのカフェの受付の人だった。外国人のお客さん相手に、流暢な英語で接客しているのだ。

「What would you like today?」

「Do you have hot chocolate?」

「Yes, which size would you like? Medium or large?」

私は、ゴクリと唾を飲み込んだ。すごい。先ほど、私たちと普通に日本語で接客していたのに、まさかの英語話者だったとは。

帰国子女のアルバイト大学生だろうか。というのも、流暢さはもちろん、発音が日本人離れしているからだ。明らかに私のような普通の日本人と、「別の環境」を背負ってきたことが、言葉から透けて見えた。

羨ましい。私もああいう風になりたかったのに。どこで私は道を間違えてしまったのだろう。

ふと、テーブルの上に載っている大量の英語教材が、「オモチャ」のように見えてきて、急に恥ずかしくなってきた。

「どうした、由璃? 今、何を考えている?」

「その・・・何だか、学生時代、あれだけ必死にやってきたものが、全然、『話せる』に繋がらなくて、悔しいんです。そして、日本人は『maybe』の使い方が全員間違っているとか、ネイティブは『What time is it now?』なんていきなり尋ねません、とか、受験の後に、いきなりそんなことを言われるんです。もう英語に関しては、何を信じたらいいのか」

私はテーブルの上の「ここが変だよ、日本人の笑われる英語」という本を見つめた。悲劇ではないか、もしも、今まで必死にやってきたものが、笑われるものだったとしたら。

「何だか、全然違う山に登っているみたいで。私たちの先に、本当に『英語の山頂』はあるんでしょうか? いい景色が全く見えてこなくて・・・」

「病んでるなあ、由璃」

「はい・・・本当に英会話だけは、摩訶不思議なんです。でもこれって、国内にいる日本人は、みんなそうだと思いますよ。みんな話せるようになりたいのに、受験が終わった後、何から始めればいいのか分からないんです。唯一、上がるのは、資格試験のスコアだけで」

でも、スコアが取れても、「話せる」とは別なのだ。

「だから今、受験にスピーキングを入れようとしているんだろう? 要は今までやってきたのは大量のインプットで、アウトプットが一切試されなかった。だからそれを民間試験を使って解決しよう、となったんじゃないか」

「じゃあ、私たちは、受験制度の被害者だった。もしも、受験にスピーキングがあったら、今頃話せるようになっていた、ってことですか?」

松尾さんが、「うーん・・・」と唸った。

そう、やはりそんな単純な問題でもない気がする。たとえ入試にスピーキングが組み込まれたとしても、恐らく私たちは、『それに特化した対策』をするはずだ。『できるだけ絞って、最短距離で行きたい』という発想は変わらない。

つまり、過去問や予想問題を買い、パターンを丸暗記し、解き方の研究に走るだろう。そして、テストが終われば、綺麗サッパリ忘れてしまうような、張りぼての「話せる」になるに違いない。

「Excuse me, could you tell me where the bathroom is?」

「It’s over there, right next to the smoking area.」

「Thanks. Your English is very good, by the way.」

「Thank you for saying so. Are you a tourist?」

また、あの受付の人と、先ほどの外国人の会話が聞こえてきた。丸暗記などではなく、どんどん言葉を自由に紡いでいる。張りぼてではない。

思うのだが、あの人は「テストに向かわなかったからこそ」、英語を言葉として、身に付けられたのではないだろうか。

「じゃあ、メンタルに原因があるっていうのは、由璃はどう思うんだ? ほら、みんなこう言っているじゃないか」

そう言って、松尾さんが次に広げたのは、あるネイティブ講師の書いた、ハウツー本だった。そしてそこには、「日本人は、間違うことを恐れすぎているから話せない。どんどん間違えよう!」と書いてあった。よくあるアドバイスである。

昔は一旦信じてしまったが、私はこの「メンタル論」も、どこか「ピントが外れている」と、今は思っている。

「だって私、別に間違えることなんか、全然怖くないんですもん。特に最近受けたオンラインレッスンは、周りの目も気にしませんし、相手だってモニター越しです。怖いとかじゃなくて、ただ単に、言葉が出なかったんです」

そう、日本語が英語に、上手く切り替えられなかったのだ。

「たとえば私、『傘をさす』が英語で言えなかったんです。それで、主語で止まっちゃって。で、何とかジェスチャーで伝えたら、『Oh, You opened your umbrella?』って言われて、『あ、この場合、openでいいんだ』って初めて知って。だって、『open』は『~を開ける』じゃないですか? でも、『傘を開ける』って言いませんよね? だから、そんな発想ができなくて」

「ふーん、傘をさすのは『open』を使うのか。私も初めて知った」

「結局なんですが、私たちが英語を話せないのは、『日本語が英語にならない』っていう、『物理的な問題』なんじゃないでしょうか? そしてそれが、ネイティブには『間違いを恐れている』って、映っているだけのような気がして

自分で言いながら、これが「当たり」のような気がしてきた。そう、やはり問題は、口から英語を出す前の、「脳の段階」にある気がする。では、インプットに問題があるのか。

少なくとも、傘をさすことが出なかったのは、メンタルのせいではない。どれだけメンタルが強靭であろうが、知らないものは口から出ない。

そして、だ。たとえレッスンでどれだけ間違えても、そこに「上達もなかった」のだ。いつまで経っても、冠詞は抜け続けるし、所有格の性別もズレるし、時制だってボロボロで、ガチャガチャな英語のままだった。

だから、「どんどん間違えよう!」は、私の心には何にも響かない。どうして間違い続けるのか、そしてどうすれば間違えなくなるのか、が欲しいのだ。

そして、恐らくこの日本人の「英語が出ない」苦しみは、ネイティブには、絶対に分かってくれないと思う。なぜなら彼らは「日本語を英語に切り替える苦労」なんて、一度たりともしたこともないからだ。それは生まれてから太ったことがない人が、「こうすれば痩せられるよ」と、言うのと変わらない。

「じゃあ由璃は、よく言う『恥の精神』とかも、違うと思うのか?」

「ええ。だって、あれだけ頑張ったのに、『いや、日本人は生まれながら、恥じることを気にして、語学には向いていない民族なんです』って言われたら、キツくありませんか? それに、もしもそれが問題だったとしたら、路上で歌ったり、裸で街中を歩いたりすることが、『英語を話せる』に繋がるってことになりません? だって、『恥の精神』を捨て去る訓練をすれば、話せるようになるんですよね?」

「うーん、確かになあ・・・」

そう、やはり精神論に原因を求めるのは、どこかピントがズレている気がする。そこを掘ったところで、何も出てこないだろう。

暫くの間、私たちは無言になった。松尾さんが何を言っても、否定してしまったので、私は少し申し訳なくなった。ただ、間違ったことは一つも言っていないと思う。

すると松尾さんが、「まあ、ただ、今回、妙だなあと思った」と、呟いた。

「妙? 何がですか?」

「いやな、これを買うために、大宮駅前の本屋に行ったんだ。ほら、Y書店だ」

Y書店は大宮駅前にある、大型の本屋である。

「まず初めに、英会話コーナーに行ったんだ。するとそれは、本館の7階にあった。そしてその後、英語の参考書コーナーにも寄っておこうと思って、売り場を探したんだ。そうしたらそれは、別館の2階にあった」

「はあ・・・それの、何が妙なんですか?」

「普通、近くにあってもいいものじゃないか? 『同じ英語』なんだからな。でもな、行ってみて、納得した。売っているものの、テキストの質や著者、そして購買層が全く違うんだ」

「え?」

「受験コーナーは文字ばかりの、いかにも『ザ・参考書』っていう本ばかりで、中高生しかいなかったが、英会話コーナーには、こういう発音やリスニングの本だとか、イラストやマンガみたいなやつばっかりで、客は社会人のみだった。あとな、学習参考書を書いているのは『全員日本人』で、英会話コーナーの著者は、『ネイティブとか帰国子女』ばかりなんだ。つまり、ゴッソリと『英語の発信者』がすり変わっている。何だろう、あの違和感は。同じ英語なのに、『世界がズレている』というか」

ふと、私の頭に「パラレルワールド」という言葉がよぎった。

「そう、それなんです! 私が抱いている『違和感の正体』は。高校を卒業してから、英語の中身がガラリとすり変わるんです。今まで難しい単語や文法問題や長文をみっちりとやってきたのに、英会話になった途端、一言フレーズの勉強になっているんです。途端に『陳腐になる』というか」

そうだ、やっぱりこの国には、英語が「2個存在している」のだ。

「そして『英語を話せるようにはどうすればいいか』ってネットで検索したら、海外ドラマを見ろだとか、洋楽を完コピしろだとか、今まで学校の先生に聞いたこともないことばっかりなんです。あれ、今までやってきた文法は? 単語帳は? 長文問題は? あれは一体何だったの、っていうくらい、夢や幻のようになって」

松尾さんは、パラパラとフレーズ集をめくりながら、「うーん、確かになぁ」と呟いた。

「それにもしも、ですよ? フレーズを覚えることが、『話せる勉強』だったら、中学校の時から、フレーズ暗記だけ、やっておけばいいじゃないですか? だって将来、『話せる』ようになりたいから私たち、英語を勉強しているんですよね?」

「いや、それは違うだろう? ちゃんとこうして英語を読めるようになったのは、学校でキチンと文法を学んだからだろう?」

「でもどれだけ読めても、『話せる』ようになっていないわけですよね?」

「・・・まあ、な」

「語学番組でも、『キーフレーズ』みたいなの、やっているじゃないですか? でも、それを覚えても、その他の文章が言えないんですよ? 何だか、そっちは予め、『話せる前提で語られていて』、教えられるのは、『フレーズ一言』なんです。こうして英会話は、学生時代に習ったことがないフレーズだけどんどん詰め込まれて、今までやってきた勉強が、トイレの水みたいに、ジャーッて流れていて」

そう、「学生時代にやってきた勉強」と「英会話の勉強」が、重なっていないのだ。中学英語で話せるはずなのに、英会話の勉強は「中学で習っていないフレーズ暗記」になっている。何なんだろう、これは。

そして私が英語で言いたいことは、結局、「四葉が弁当箱と筆箱を間違えた」などのような、フレーズ集に載っていないことばかりだ。だから、フレーズ集をどれだけやっていても、話せるようにはならない。

「じゃあやっぱり、最終的には、これをやんなきゃいけないんだろうな」

そう言って、松尾さんが広げたのは、英作文テキストだった。左のページに日本語、そして右に英語がビッシリと書いてある。そう、やはりこれが、日本人にとって、「最後の砦」なのだろう。

「じゃあ、もしも英作文に、挫折しちゃったら、どうなるんですか?」

「それはもう、英会話自体、諦めるしかないだろう」

そんな・・・英語を話せるには、そんな「辛い道」しか残されていないのか。

受験までひたすら「英語→日本語」の切り替えを行い、高校を卒業した途端、今度は「日本語→英語」と、逆方向へ走らないといけないなんて。まるで、マラソンで「折り返し地点」をターンしたようなものだろうか。

しかし、だ。やはり英作文をすると、以前の四葉の「There is one my uncle.」や「There is Tokyo Disney Land in Chiba.」のように、一見日本語では正しそうでも、「ネイティブはこう言うよ、その英語は変だよ」という、訂正がビシバシ入ってくるのだ。

加えて、だ。「What brings you to Japan?」みたいな文章は、日本語発想からでは紡げない。つまり、ここはフレーズ暗記でいくしかない。もう、グチャグチャだ。

そして、もうこの時点で、四葉は100%、英語が話せないことになってしまう。そう、なぜならあの子は「英語→日本語」すら、上手くいかないのだ。「折り返し地点」にも到達できない子が、復路に入れるわけがないではないか。

そしてあの子は、日本語に限らず、文字を覚えることも苦手だ。単語一つ、覚えるのにも苦労しているのに、フレーズ単位で覚えられるわけがない。ダメだ、もう、あの子には「走る道」がない。

ー「とにかく英語だけは話せるようになりたいんや。向こうに行っても、全然英語話せんかったら、友達だってできへんやんやろ? 歌だって歌えんし。だから、日本におるうちに話せるようになっとかんと」

ゴメン、四葉。その夢、やっぱり「無理」だと思う。

そして、だ。これは別に四葉だけではない。塾には「英語→日本語」にできない子は沢山いる。今までにも、何百人以上も見てきた。できない子は、本当にできない。

恐らく彼らはみんな、英語を話せないまま、人生を終えることになるだろう。そして、仮に折り返し地点に到達できたとしても、往路で一人残らず、バタバタと死んでしまうはずだ。

なぜなら、英語が得意な私が、英作文と表現集でギブアップしているからだ。そして、それだけではなく、私は英会話スクールやオンラインだって試したのだ。そう、復路は往路より、何十倍も「過酷」なのだ。

ダメだ、いつも英作文の問題を白紙で出してくるあの子たちが、将来、英語を話せるようになるビジョンが全く見えない。そして、恐ろしいことに、この中に、リスニングや発音などの勉強は、一つも入っていないのだ。

無理だ。どう進もうが、光が見えない。どう足掻いても、今世紀では、ほとんどの日本人は英語を話せるようにならない。そして、詐欺業者などに騙され続けて、ボロボロになっていく。

「お、おい、由璃。そんなに落ち込むなよ。ま、まだ、手はあるぞ」

「・・・何ですか、まだある手って?」

自分でも思った以上に、低い声が出た。

すると松尾さんは、あるハウツー本を広げた。それは、「英語は子供のようにシンプルに考えれば、ペラペラ話せる!」という本だった。

「ほら、たとえば『日本経済は今、危機に瀕している』という日本語を英語にしようとしたら、『日本経済って英語で何?』『危機に瀕するって何?』ってなるだろう? これを、『日本は貧しい』とシンプルに言い変えて、『Japan is poor.』にする。こうやって、どんどん簡単な文章に言い換えていけば、英作文も楽になるんじゃないか?」

「あの・・・逆に、難しくありません? それって」

「え?」

「だってそれってつまり、『難解な日本語→簡単な日本語→英語』って、英語を口にするまで、頭の中で『三段階も踏まないといけなくなる』んですよ? だったら私からすると、『日本経済』や『危機に瀕する』に当たる英語を、丸暗記しちゃった方が、まだ楽なんです。二段階で済んじゃいますから。そんな、『子供のようにシンプルに』って簡単に言いますけど、もう私は大人なんで、その発想が逆に難しくて」

そう、それは私にとって、「後出しジャンケン」と変わらない。「ほら、こんな簡単に言えるでしょう?」と言われても、そんな発想を今までに習ったことがないのだ。しかも、ネイティブと会話をしていく中で、そんな瞬時に処理できるものだろうか。絶対に難しい日本語が先に出て、何度もフリーズするだろう。

それに、だ。やはり私が言いたいのは、『日本経済は今、危機に瀕している』ということなのだ。これを「切り替えたい」のだ。だから、『Japan is poor.』で終わったら、ちゃんと伝え切れていない、とも思ってしまう。

「そして今後、私たちスタッフは、TOEICだってやっていかないといけないんですよね? それって、『recession:不況』みたいな、難解な単語を覚えていくってことですよ?『英語→日本語』は、難解なものばかり詰め込んでいって、『日本語→英語』の時はその発想を殺して、子供のようにシンプルに考えるって、そんな都合よくできるんですか? もう、この時点で私、頭の中が日本語と英語でグッチャグチャで」

そう、これは以前、私が直面した問題だった。基本単語が使えないまま、どんどんマニアックな単語が増えていき、自分の頭が「石化」していきそうな気がしたのだ。

そして、だ。何よりも四葉には「言い換える力」はない。そう、なぜなら、あの子は「絶望的に国語センスがない」のだ。であれば、このやり方は、あの子にとって、何の救いにもならない。かえって、頭がパンパンになる。

そしてこれは別に、私や四葉だけに限らない。そう、日本人にとって、「丸暗記」の方が、「考える」よりも、遥かに楽なのだ。なぜなら英語は、「have:~を持つ」などと、丸暗記で教えられてきたからだ。

一語一語丸暗記したものをツギハギして学んできた以上、英文を作る時も丸暗記したものをツギハギして組み立てたいのが、私たち日本人だ。

ー「やらなきゃいけないのは、『どう教えるか』じゃないスか?」

ふと、桜井くんの声が響いてきた。そう、それだ。やはり教え方を「劇的に」変えない限り、四葉はもちろん、全ての子供たちに『英語を話せない遺伝子』を受け継がせてしまうことになる。

そして、上がテストや外国人だけを用意し、方法論を現場に投げ続ける以上、私たちの手で見つけていかないといけない。なぜなら、子供たちの隣に座っているのは、私たち「現場の指導者」だからだ。

現状維持の指導方法では、将来あの子たちが、往路や復路でバタバタと死んでしまう。指導者が「自分が学生時代、先生や大人からそう習ったから」とか「そう周りがやっているから」とか「受験がこうだから」と流されては、『英語が話せない遺伝子』は、止まりようもない。

「ハアー・・・」

悲壮なため息が出た。何とかしたいのだが、解決方法が、見当もつかない。そして、私が両手で、頭を抱え込んだ時だ。

「・・・You should think in English.」

ポツリと松尾さんがそう呟いたので、私は「え?」と顔を上げた。

「いや、そういえばな、どこかの英会話スクールで、あるネイティブ講師から、そう言われたことがあるんだ。『アカネはいつも、日本語で考えているから話せないんだ。英語で考えろ』って。ふと今、それを思い出した」

「You should・・・think in English・・・」

そう言えば、私も以前、英会話スクールで、講師にそんなことを言われたことがあった。ただ、それまで聞いたこともないアドバイスだったので、その時は適当に流してしまった。何なんだろう、その「英語で考える」って。

そしてふと私は、例のYoutubeの少年を思い出した。そう、あの子は「日本語から英語に切り替える、変換の間」が全く見えなかった。そのまま自由に、英語を紡いでいるような感じだった。

ー「なあ、由璃ネエ。うちなあ、心の底から思うねんけどな、英語を話す外国人ってどんな頭ん中しとんのやろな。みんな天才ちゃうか」

「ネイティブの頭の中、か・・・」

私はその瞬間、何か「真実に触れた」ような気がした。まるでスコップで土を掘っていたら、「ガツン」と宝箱に当たったような。そしてそれは、今までのダンジョンの中で、まだ「見たことがない道」だった。

その時、不意に松尾さんが「そうだ!」と大声を上げたので、私はビクリとなった。

「ど、どうしたんですか、松尾さん、いきなり」

「いや、今、気付いた。こんなことなら、初めっから、アイツに聞いておけばよかったんだ」

「え? アイツ? 誰のことですか?」

「うちの昔のスタッフだ。もう辞めて、今は英会話教室で働いている。多分、アイツなら、『納得できる答え』を持っているんじゃないかな。もう、英語だってペラペラになっているはずだし」

「へー、そんな人がいるんですか」

正直なところ、誰に聞いたところで一緒だと思う。どうせ、あのホワイトボードに書かれた一つを挙げるくらいの程度だろう。迷探偵が一人、増えるだけで、ダンジョンにいる私たちを、救い出せるわけでもない。

ー「ちなみにソイツが『聖典』の制作者だ」

「はい?」

私の声が裏返った。

「だから、全校舎に回っている教務マニュアルがあるだろ? それを作った張本人だ」

「え? あれって、教務部全体で作ったんじゃないんですか?」

「違う。あれは教務部は全く関与していない。全部、ソイツが作ったんだ」

「えええ! あんな膨大な量を・・・た、たった一人で、ですか?」

そんな馬鹿な。確か『聖典』は、100ページ以上あったはずだ。それをたった一人で、しかも教務部ではない、一校舎スタッフが作ったなんて。普段の業務や研修だけでも、いっぱいいっぱいなはずなのに。

「ある日、『これ、作ってみたんで、よかったら共有して下さい』って、研修終わりに、ポンと提出されたらしい。黒川さんがそれを読んで、えらく感心してな。その翌月には全校舎に配布となった」

何と、あのプライドの高い黒川さんが、一スタッフの意向を聞いたのか。いや、でも、その気持ちも分かる。それくらい、あの「聖典」はクオリティが高い。全教科の教え方のパターンが網羅されている。

しかし、そんなすごい人が、うちの会社にいたとは。私は途端に、その人に興味が湧いてきた。

「なあ、由璃。今日、これから時間があるか?」

「え? あ、はい。今日は、直帰の許可が出てるんで」

「なら、今からソイツに会いに行ってみないか? 話していたら、私も久しぶりに会いたくなってきた。そういえば、ここ数年、会っていないしな」

「え! そんな、いきなり行って、会えるんですか?」

「ああ。向こうも多分、喜ぶと思うぞ。そういう奴だ。それに私はアイツに『貸し』がある。何を言っても大丈夫だ。どうだ、行くか? 場所もここから電車一本で行ける。30分くらいだ」

「あ、はい・・・それじゃあ、是非。お話を聞けるのであれば」

まさか、あの「聖典」の制作者に会えるなんて。一体、どんな人なんだろう。私はゴクリと唾を飲み込んだ。

松尾さんは「よし、じゃあ決まりだ」と言って、立ち上がり、出口へ向かった。こういう時の松尾さんの行動は速い。

私は二人分のトレーと飲み残しを返却口に戻し、松尾さんの後を追った。外に出ると、先程より若干気温が下がっている気がした。

するとふと、「あ、そう言えば」と、松尾さんが振り返った。

「今からそいつに会いに行くことを、笠原にだけは絶対に言うんじゃないぞ」

「え? 笠原さんに? どうして、ですか?」

「だから、初めに言っただろう? 笠原の下にはその昔、『ゴールデン・ルーキー』がいて、そいつは学期の途中に退職した、って」

「え・・・え・・・? まさかその人が、『英語の教え方』について悩んで辞めたっていう、『希望の星』ですか?」

「そうだ、今から会いに行くのは、ソイツだ。だから、笠原はソイツのことを心の底から憎んでいる。英語についてアドバイスをもらいに行ってきました、なんて言ったら、機嫌を悪くするのは目に見えている。だから、名前も口にするなよ」

私は松尾さんが言いたいことが分かった。もしも私がその人と接触したのを知ると、笠原さんは色々と詮索してくるだろう。どうして会ったか、何を話したか、誰が紹介したか。そうすると、きっと松尾さんとの関係もこじれるかもしれない。直属のブロック長でもないのに、勝手な真似をして、と。

うん、ここは、私が黙っていた方が無難だ。私は「分かりました、気を付けます」と返した。

すると松尾さんは、「よし、じゃあ、行くぞ」と、再び歩き始めた。

「あ、でも何なんですか、さっき言った『貸し』って?」

「いや、ちょっと会社にはオフレコでな。数年前、ある中学校の先生のテストを渡したんだ。何に使ったかは聞いてないがな」

へー、妙な貸しがあるものだ。

「それで、何とおっしゃるんですか。その人のお名前は?」

ー「有紀」

「え?」

「名前は、葛城有紀。みんなからは、『有紀君』と呼ばれていた」

「葛城、有紀・・・有紀君」

ーその瞬間だ。

まるで見計らったように、私たちの間を、一陣の風がサーッと走り抜けた。魔法で彩られているかのように強くて、それでいて、しなやかな風だった。何かが、動く。私はすぐ目の前に、「運命の扉」のようなものを感じた。

第1部『英語が話せない遺伝子』完

次回第2部「1、一昨日来やがれ!」に続く。前作「もしなる」と話が繋がります)

日本人が学んできた「英語」とは何だったのか?


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