10、「逆転満塁ホームラン」
ついに新学期が始まった。夏休みを境に、辞めた生徒もいるが、幸い同じ数ほどの新入生も入ったので、何とか私は営業成績をキープすることができた。
そして九月になると、塾に大きな変化が出る。そう、部活を辞めた中学3年生たちが、学校終わりにそのまま塾に来て、自習をし始めるのだ。毎年その姿を見ると、気が引き締まる思いになる。
そしてそんな中、私は花塚中学の生徒から、「嫌な噂」を聞いた。そう、四葉が学校で、塾を辞める、と言っているそうなのだ。
それを聞いた時、私はビックリして、慌ててちーちゃんに確認しのだが、どうやら何も聞いていなかったらしい。恐らくだが、二人の仲はもう、完全に冷えてしまっているのだろう。やはり四葉自身、クラスの中でもいまだに浮いた存在になっているに違いない。
そしてあれ以来、私は有紀さんのLINEの連絡先を聞き、色々と相談に乗ってもらうようになった。もちろん、自分の英語学習についてのアドバイスを貰うのが当初の目的だったのだが、次第に四葉のことも聞くようになった。
「そのパターンは、塾を辞める確率が高いですよ、今までの経験上」
有紀さんらしく、率直な意見が返ってきた。
「恐らく初回の授業で、説得できるかどうか、でしょうね。今、その子はきっと『ここに通っても意味がない、英語なんか勉強しても話せるようにならない』と思っているはずです。そこを覆して、希望を抱かせることができるかどうか。それが全てだと思いますよ」
厳しいが、その文面に温かさも満ち溢れていた。
私はどうすれば希望を抱かせられるか、も尋ねようと思ったが、それは自分で考えないといけないと思い直し、そこで切り上げた。そう、四葉の先生は、私なのだ。
そしてひとまず私は今後、例の「子供用の英語辞書」を、授業中に使うことに決めた。幸いなことに、今学期から四葉の授業の日は、笠原さんのオフと重なったので、授業中にバレることはないだろう。

もちろん、四葉と違うテキストを使っている、という噂が広まるかもしれないが、ひとまず先生にだけ口止めをしておけば、そんなに早く知れ渡ることもないはずだ。もしもバレたら、その時は言い訳をして、何とか誤魔化せばいい。
何とかそこまでシミュレーションして、私は今日の授業を待った。そう、今日が新学期の、四葉の授業の初日である。そして隣に座るのは、もちろん菜純ちゃんだ。
「よっちゃん、今日は来るかなあ」
いつだって四葉のことを心配している菜純ちゃんが、たまらなく愛おしい。そう、本来、この子は塾に来なくても、一人で勉強できるのだ。それでもここに通っているのは、四葉と一緒に勉強したいからである。
「あれ? 先生、それ何?」
ふと菜純ちゃんが、私の持っていた子供用辞書に気付いた。
「あ・・・うん、今日からこれ、四葉と一緒に使おうと思っていて。見る?」
私が菜純ちゃんに辞書を渡すと、
「これ・・・うちの学校の友達も持っていた」
「え?」
「その子、英語ペラペラ喋れる」
「えっ!?」
ビックリした。もしかしてその子は、有紀さんの塾の生徒かもしれない。
「先生、もう今までのテキストは使わないの?」
「あ、うん。多分、四葉にはこれがちょうどいいかな、と思って。ほら、これ音声CDもついているの。あとは、この本かな」
そう言って、私は菜純ちゃんに「英語辞典」を見せた。フルカラーで、絵に全て英単語が載っているものだ。

すると菜純ちゃんは、「あ、これも持っていた、その子」と、その辞典にも飛びついた。うん、絶対その子は、有紀さんの塾生だ。
正直、これらを使い、授業でどう教えていくか、今はハッキリと見えないが、ひとまず有紀さんに言われたことを伝えていこう。そう、私は葵ちゃんのとっての、「桜木先生」になるのだ。
ふと、時計を見た。もう、授業が始まって10分が経過しているが、まだ四葉の姿は見えない。ちゃんと来るだろうか。どんなにプランを立てても、塾に来なければ、何もできない。
すると、その時だった。
「すまん、由璃ネエ。遅れたわ」
ハッと後ろを振り返ると、そこには約二ヶ月ぶりくらいの、四葉の姿があった。
「四葉!」
「よっちゃん!」
若干、背が伸びたようだ。髪も伸びて、以前よりもグッと大人っぽく見えた。
「元気しとったか? あれ? なずも背が伸びたか?」
そう言って、四葉はいつものように、ドカリと私の隣に座った。
「ちょ、ちょっと! 久しぶりじゃないの、四葉。あなたこそ、元気だった? 全然顔見せないんだもん、心配だったんだよ」
「だって、うち夏期講習取ってないやん。ここに来る理由、あらへんやろ。来たって、他の生徒の邪魔にもなるし」
「そ・・・そんな、邪魔ってことはないけど・・・でも、ずっと何をやっていたの? 夏休みの間」
そう言えば、砂ちゃんが以前、こんなことを言っていた。
「あと、俺・・・先週、駅前で、四葉ちゃんを見ましたよ」
「その、・・・髪を染めて、ちょっとガラが悪い奴らと一緒にいました。声、掛けられなかったッスけど」
私はマジマジと四葉の髪色を確認した。しかし、色は真っ黒で、染めた跡が見えなかった。
「何やねん、ジロジロと。うちの髪の毛に、猫でも付いとるんか?」
「いや・・・その、、、夏の間、髪を染めていたって、誰かから聞いたから・・・」
「何や? 染めたら何か悪いんか? ええやん、そんなん。うちの勝手やろ?」
隠さず、いきなり認めたのでビックリした。しかし、これが四葉の性格でもある。
でも、やはり染めていたのか。どうやら砂ちゃんが言っていたのは、本当のことだったか。ということは、ガラの悪い奴らとも一緒にいたのも、恐らく間違いないだろう。
「何やねん、由璃ネエ。ここ、塾やろ? 生活指導室ちゃうで」
言葉の節々から、四葉との「心の距離」を感じる。
「言葉というものは、『その人の全て』が出るんです。生まれた場所、育ってきた家庭環境、どう生きてきたか、いつも何を思っているか、どう感じるのか。その人の『生き様の全て』が言葉なんです」
有紀さんの言う通りだ。言葉の一音一音から、今の「四葉の全て」が滲み出ている。
「その・・・夏の間、英語の勉強はしてたの?」
意を決し、私は四葉に尋ねた。その返しが、とても怖かった。
「は? 英語? そんなん、全部忘れたわ(笑)」
笑いながら放たれたその一言が、私の体を一瞬で凍らせた。
「復習、・・・何にもやっていないの?」
「だって、やったって無駄やん(笑)ほら、由璃ネエだって覚えとるやろ? うち、全然英作文できへんかったやん? ほんで学校でも、笑い者になって。もうあれで、心が折れてもうたわ。根本からポッキリや。どうせ無理やねん、うちには英語なんて」
「そっ、そんなことないでしょ? ここに来たときは、be動詞も分かんなかったじゃない?」
「でもうち、頭悪いから無理やねん。単語だって全然覚えられへん。ウエンズデーのスペルも、もう書けん。中に入っとんの、bやったっけ、dやったっけ? 入れる場所も忘れてもうた。ほんまアホや。それなんに、表現集みたいなやつを覚えられるわけないやん。文字ばっかりや」
ううん、違う。日本人はみんな表現集が覚えられていないの。あなただけじゃないの。
「単語もできん、表現集もできん、文法もできん、英作文もできん、聞いても何にも分からん。英語に関しては、うち、何もできへん。やること、もう何にもない。だから、そもそもながら、英語学ぶ資格ないねん。うちみたいな、頭パッラパーは、どんだけやっても無理やねん。まあ、あの親父の子供やからな。カエルの子は所詮、カエルや。だから、もう打ち止めや。全部辞めることにした」
「ぜ、全部・・・って?」
「今日で辞めるわ、ここも」
「! ・・・」
心臓がドクンと脈打った。隣の菜純ちゃんも、思わず手で口を塞いだ。
「もちろん、由璃ネエには感謝しとるで。会えてよかったと思うとる。でもうち、所詮無理やってん、英語を話すなんて。だって英語がそんなに得意な由璃ネエでさえ、話せんのやろ? そんなん、うちにできるわけあらへん。単語も文法もできんヤツは、英会話のステージにまで、辿り着けるわけないねん」
「でっ、でも!」
「授業料のことやろ? 安心せえ。踏み倒したりはせえへん。溜まっとったものやったら、ATMから毎月、振り込むわ。もうここには、来づらいからな。あっ、ちなみに今月分は、今日までにしといてもらうこと、できるか?」
「ちっ、違うの! お金のことじゃなくて、」
「すまんな由璃ネエ、出来の悪い生徒で。今までえらい迷惑かけてもうたわ。70点も取れへんで、ホンマにすまん。あんだけ補講もしてもろうたのに、申し訳なくて、もう合わす顔すらないわ。ホンマ、うちがアホすぎたねん。ほんで、なずもすまんかったな、ずっと勉強の邪魔してきて。うちと喋っとったら、アホが移るから、一緒におらん方がええねん。これからは、授業中、由璃ネエにもっと色々聞き。まあ、恋愛相談だけは、違う先生にしたほうがええけどな」
カッカッカッと笑って、四葉はガタッと立ち上がった。
「四葉!」
「よっちゃん!」
恐らくだが、この子は授業の初めに、こう切り出すことを、ずっと決めていたのだろう。今の謝罪の言葉だって、ずっと考えてきたに違いない。でも、なかなか踏ん切りが付かなかったので、きっと授業にも遅れてきたのだ。
しかし、違うのだ。私はこの子に、こんなことを言わせたいんじゃないのだ。そう、この子に言わせたいのは、「由璃ネエのおかげで、英語が話せるようになったわ。ありがとうな」なのだ。
「手続的なことはこれでええか? それとも何か、やっぱり書かなあかんのか?」
無造作に、ポケットからペンを取り出した四葉に、
「ねえ・・・諦めるの、四葉?」
「はあ?」
「たかが一年やってダメだったからって、もう諦めちゃうの?」
「だからええって、もう。英会話の本の著者とか見てみいや。みんな東大卒とかハーバード卒とか、ええとこの大学ばっかりや。うちとスペックが、もともとちゃうねん。うちなんて、英語はいつも1か2や。ハナから無理ゲーやん、そんなん。そういや、前にエリートにも言われたわ。もしもお前が英語話せるようになるんなら、犬や猫も会話し始めるわって」
グッと私は、拳を握った。たとえ冗談だとしても、それはない。そうやって、心のない言葉を掛け続けることで、この子は自分のことをバカだ、英語は無理だ、と思い込んでしまったのだ。
「言葉って、本当に怖いんですよ。時には、事実すら曲げてしまうことがありますからね。つまり、『暗示効果』です」
やはり、有紀さんの言葉を思い出した。そう、この「暗示」は私が解かないと。
「それに将来、完璧な翻訳機もできるんやし、だったらもうそれでええやん。今、英語真剣に勉強したって、青春の無駄使いやわ(笑)」
その瞬間、だ。ふと私の体に「何か」がすうっと、乗り移ったような気がした。
「ねえ・・・心は、あるのかな? 翻訳機に」
「はあ?」
「四葉は確か、将来英語を使って、人と分かり合いたい、とか言ってなかったっけ? 世界中に友達を作るんじゃなかったっけ?」
「何や、どうしたんや、いきなり。真面目な顔して」
「機械を通して伝わったものって、心がないでしょう? ただ、文字を変換しただけみたいな。声だって、機械音じゃない? そんな翻訳機に頼って、本当の友達ができるの? 四葉だって、日本に来た外国人が日本語を覚えようとしなくて、ずっと翻訳機に頼っていたら、やっぱり嫌じゃない? こいつとは別にもういいやってならない?」
「な・・・何やねん、由璃ネエ。なんか、いつもとちゃうやん」
四葉は眉間に皺を寄せて、「この後、友達と遊ぶ約束しとるから、もう帰ってええか?」とぶっきらぼうに言った。
いや、ダメだ。ここで今、真剣に向き合ってあげないと。そうしないと、この子は一生を台無しにしてしまう。この子の将来に手を差し伸べられるのは、世界で「私だけ」だ。

「ねえ、四葉はさっきから、自分の頭が悪いから、英語が話せるようにならないって何回も言うけど、だったら英語圏の人はみんな頭がいいわけ?」
「はあ?」
「だって、向こうは誰でも英語を話せるよね? それこそ、小さい子供でも。ってことは、『頭のいい悪い』は関係ないんじゃないかな、『英語を話せる』って」
「・・・」
私は自分の人差し指を見せて、
「例えばこれ、何? 日本語で」
「なんや。人差し指がどうしてん?」
「ねえ、どうして四葉は『人差し指』って言葉を言えるの? 頭がいいから? 『人差し指』って漢字が書けるから? 国語の成績が4や5だから? 英語でその名称を知っているから?」
「はあ? ちゃうやろ。そんなん、誰でも知っとるやん(笑)」
「じゃあ、どうやって覚えた? 人差し指は」
「そんなん・・・忘れたわ。でも、誰かが言うとってんの、聞いて真似したんやろ、どうせ」
「でしょ? ノートに漢字を書いて、勉強したんじゃないよね?」
「・・・」
「でね、この指はね、『index finger』っていうの、英語だったら」
四葉は再び眉間に皺を寄せた。

「さあ、私に続いて、言ってみて。『index finger, index finger, index finger,』」
「はあ? 何でやねん」
「言って、ほら。『index finger』って。ほら、『index finger, index finger,』」
「嫌や。そんなん、アホらしい。もううち、帰んねん。英語なんてもう、大っ嫌いなんや」
食いさがる私に、かなり苛立っているのが、見て分かった。こうなると、四葉はますます頑固になる性格だ。どうすれば私の言うことを、聞いてくれるだろう。
しかし、その時だった。背後から、可愛い声で「インデックスフィンガー、インデックスフィンガー」という声が聞こえてきた。ハッと振り返ると、菜純ちゃんが、自分の人差し指を見ながら「インデックスフィンガー、インデックスフィンガー」と繰り返していた。その目が、涙で盛り上がっている。
「な、菜純ちゃん・・・」
「ねえ、よっちゃんも私と一緒に言おう? ほら、インデックスフィンガー、インデックスフィンガー」
「なず・・・」
その姿を見て、さすがの四葉も申し訳なくなったのか、「わーったよ」と言って、私の人差し指を見ながら、「index finger, index finger,」とぶっきらぼうに、20回ほど繰り返した。良かった、これで繋がった。ありがとう、菜純ちゃん。よし、でもこれできっと、四葉のインプットはOKだ。
「はい、じゃあ、これなーんだ?」
そう言って私は、今度は四葉の人差し指に触れた。
「何って・・・だから、『index finger』やろ?」
「ほら、覚えられたじゃない、単語。こんな一瞬で。1分くらいでしょ」
「・・・あっ」
四葉の瞳に、一閃の光が差したような気がした。ここだ、突破口は。
「なーんだ、全然、馬鹿じゃないじゃん、四葉。私、もっともっと、お馬鹿だと思ってた。何回口にしても、何にも覚えられないような子だって」
「な・・・何やねん、由璃ネエ。それは、失礼ちゃうか」
「何やねんって、今、証明したんじゃない、四葉は全ッ然、馬鹿なんかじゃないって。だって、知らないよ、みんな。これを『index finger』って言うんだって。明日学校行ってから、聞いてみなよ。もしかして、エリート先生も知らないんじゃないかな。いや、絶対に知らないよ。だって、試験には出てこないもん」
「そっ・・・それが何やねん、偉いんか?」
「偉いよ。だって、ネイティブがみんな知ってて、ほとんどの日本人が知らないことを知っているんだよ? こうやって、ただ単に、ネイティブが知っている言葉を一つずつ口にして、覚えていけばいいんでしょう? 『英語を話せる』って」
「・・・」
「頭のいい悪い、は関係ないの。勉強だと思うから駄目なの。単に、繰り返して言うだけの話なんだから。日本語だって、何度も繰り返し言ってきたから、覚えられたんでしょう? 言葉はね、『音と場面の記憶』なの」
言った瞬間、自分でも驚いた。これは確か、有紀さんが言っていた言葉だ。もしかすると、先ほど私にすうっと乗り移ったのは、あの人か。そうか、いるのか、あの人が、ここに。

ふと、足元からみるみると、力が漲ってきたように思えてきた。うん、いける。あの人がここにいるなら、私はこの子の気持ちを、ひっくり返せる。絶対。
「ねえ、四葉。私と勝負しない?」
「はあ? 勝負? 何のや」
「私、あなたを英語話者にさせる」
「はあ!?」
「絶対に、させる。だから、ここを辞めないこと。これが条件。そして、もしも話せるようにならなかったら、私が授業料を全額返す」
「はああああああ!?」
四葉の目が、真ん丸になった。
「どう、受けてみない、この挑戦? その代わり、メチャクチャ課題を出すけど、やれる?」
「や、やれる? って・・・でも、うち、無理やで。頭悪いんやぞ? エリートからも、お前は日本語からやり直せって、」
「だーかーらー、向こうの人は日本語ができるの? アメリカ人は日本語ができるから、英語を話せるの?」
「い・・・いや、全然できへんと思うけど・・・」
「じゃあ、そもそも要らないんじゃないの? 英語を話せるようになるには、日本語なんて」
「でっ、でも、エリートが、」
「じゃあ、間違っているんじゃないの? エリート先生が」
「はあ?」
「だって、エリート先生だって、英語が話せないんでしょう? それなのに、英語を話せるようになるためには、って言っているの、なんか矛盾していない? 本当に正しいの? エリート先生の言っていることが」
「でっ、でも・・・うち、スペルだってまともに、」
「ハッ、要らないでしょ、スペルなんて(笑)向こうだって、スペルが書けないのに、ペラペラ話している人、いっぱいいるじゃん! それに日本人だって、漢字が書けるから話せているわけじゃないでしょ? 例えば四葉は、『檸檬』って漢字書ける? 書けないでしょう? でも、『れもん』って言えるでしょう? 『憂鬱』って漢字もあなた、書けないでしょう? でも『ゆううつ』は、会話で使えるじゃない? スペルだってそれと一緒! だから、『Wednesday』が書けなくたって、今はどうでもいいの。それよりかはまず、ちゃんと発音できること。スペルはその後でいい。そもそも英語圏だって、そうなんだもの。いい? 言葉はまず『音』なの、『文字』じゃない。順番を間違えないで」

「で、でも、学校じゃ、スペルを正しく書けんと、」
「だから、学校教育で誰も話せるようになっていないんじゃないの。あれはね、そもそも『話者にさせよう』って教育じゃないんだから! 受験のための英語。そして言葉として、大事なものを、置き忘れちゃっているの。だから、大人は受験の後に全員、やり直して挫折ばっかり繰り返しているの。それは先生だって、気付いてないの。そしてたとえ気付いていたって、知らんぷりしているの。だってあの人たちは、『話す』よりも、受験しか見ていないんだから。評価するために英語を教えてんの。だから、大人が英語が話せなくて苦しんでいても、ずっと黙ってんの」
「でっ、・・・でも、うち、文法もできへんで?」
「そんなの、話しながら覚えていけばいいじゃない? 四葉だって、国語の文法0点なのに、日本語が話せているでしょう? 格助詞とか接続助詞とか知らなくても、『てにをは』を間違ったりしないでしょう? 英語もそれと一緒。同じ『言葉』なんだもん。いい? 日本人はね、文法ができるのに、全く話せないの。だから文法と『話せる』とは別。大事なのは、文法を使って、声に出していくこと。そして、やっていれば、そのうち分かるようにもなるから。でも、一番ダメなのは、諦めちゃうこと。それをやっちゃったら、今までしてきた努力が、全部無駄になっちゃうの!」
「でっ、でも、」
「でも、って何度も言わないの! あなた、ここに入った時、『将来、英語を話せるようになる』って私たちに宣言したじゃない? 忘れたの? それにソフトボールだって、予告ホームランして、実際に打ったんでしょう? それなのに何で英語になった途端、簡単に諦めちゃうのよ。自分の言ったことに、責任持ちなさいよ!」
「でっ、でもうち、英作文も全然できへんかったんやで?」
「そんなの、できなくて当然なの! 大人だって、ほとんど失敗しているんだから。できないのは、あなただけじゃないのよ。それにね、あるの! 英作文ができなくても、英語を話せるようになる方法が! だから、それをこれから、あなたに教えていく! 教材だって、指示だって、宿題だって、全部変える! だから、だから・・・お願いだから、そんな、辞めるとか、すまんな、とか、自分のこと、出来の悪い生徒だとか、頭パッパラパーとか、そんなこと、そんなこと、絶対に言わないでよ・・・そんなこと言ったら、あなたが、四葉が可哀想じゃない! そんなこと、もうしないでよ。そんなこと言っていたら、それがこれからのあなたを作っていってしまうから・・・」
「ゆ、由璃ネエ・・・」
涙で化粧がグチャグチャになっているかもしれないけど、もうそんなのどうなっていい。今日ここで止められなかったら、もう二度とこの子に英語を教えるチャンスはない。そうなれば、私は絶対、一生後悔する。
「ねえ、よっちゃん、先生、これから、これ使うって」
ふと、横から菜純ちゃんが四葉に、子供用の辞書を渡した。
「な・・・何やねん、これ?」

「ほら、見て。日本語がないでしょ? イラストと英語だけしかないよ。それで、このまま音を聞いて、言って、覚えていくの。かっちゃん、これで英語ペラペラになったよ」
「かっちゃん? ああ、お前の好きな男の子か」
かっちゃん!? え、もしかして、あのかっちゃん? え、菜純ちゃんが好きで、さっき言っていた友達って、あの有紀くんの教室の?
「ねえ先生、私もここで英語取ってもいい? 私もこれを使って勉強したい。ねえ、よっちゃんも一緒にやろうよ。絶対、・・・絶対に、楽しいから!」
「な、なず・・・」
何て子だ。この子、至って普通の顔をしながら、今、涙を必死に堪えている。何て強くて、そして何て、何て友達思いなんだろう。
「ねえどう、四葉? 私の勝負、受けてみない? 別に今、結論を出さなくてもいいから。今日、これを持って帰って、一旦冷静に考えてみて。ほら、これはCDもついているから。音を聞いて、繰り返し声に出して練習していくの。勉強っていうより、さっきの『index finger』みたいな、練習ね。でも四葉、さっき一瞬で、単語を覚えられたでしょう? だから、普通に、話せるようになる。いや、むしろ四葉は音を真似するのが上手いから、他の人よりも絶対に上手くなる。私が保証する。あなたは全然馬鹿なんかじゃない! 誰よりもセンスがあるの、あなたは」
「ゆ、由璃ネエ・・・」
「どう? もう一回だけ。もう一回だけ、私のことを信じてみて。私、あなたのために頑張るから。だからもう一回だけ、私にチャンスをちょうだい! お願い!」
そして私は四葉に向かって、音声CDを差し出した。うん、今、言えることはもう全部言った。あとは、この想いが、言葉が、四葉の心に届いたかどうかだ。

長い沈黙があった。
そしてずっと下を向いていた四葉だったが、、、数十秒だ。ふとその左手がゆっくりと動き、私が持っていたCDを、ふわりとかすめ取った。
ありがとう、有紀さん。どうやら私、勝ったみたいよ。
第4部「日本英語教育の失敗」完
(次回第五部「タイトル未定」に続く)