「絵×音×口頭反復練習」で英語話者の道へ
「話せる」に向けた英語の学び方

英語を「訳して理解すること」の違和感

「リスニングはどうやって勉強すればいいんですか?」

さて、これは、私が高校生だった時のことです。何限目かは忘れましたが、外が明るかったそのシーンを、私は鮮明に覚えています。

英語の授業中、教室の誰かが手を挙げて、先生に質問をしたのです。

「先生、リスニングってどうやって勉強すればいいんですか?」

「おっ」

その時、授業をボーッと聴いていた私は、先生の答えを興味津々に待ちました。

というのも、それは私も聞きたかったことなのです。そう、私もリスニングが苦手でした。

そしてその時の先生の答えを、私は生涯忘れません。それほど、私の頭に「違和感」として残ったのです。

その先生は何と答えたか。

「リスニングはな、頭からポンポンと場面をイメージして理解するんだ」

他のみんなはどう思ったか、分かりません。

しかし、私は「え?」となったのです。その違和感が、未だに何十年経っても、記憶として残り続けています。

どうして違和感を覚えたか。

それは、彼は今までの授業の中で、一度も「イメージしろ」なんて、言ったことがなかったからです。

全て黒板の上で、文字と日本語だけで完結してきました。

読解はイメージではなくて「日本語訳」で理解。

しかし、リスニングになったら「イメージ」で理解しろ。

なんだ、これ。

こうして私は、リスニングができないまま、大学受験を終えました。英語を聞くと、文字と日本語で、頭の中がぐちゃぐちゃになっていました。

そして今、その先生と同じ年代になり、英語を教える立場になって、私は初めて、あの先生のことが分かりました。

「きっとあの先生、英語が聞けなかったのだろうなあ」と。

なぜなら、言っていることが矛盾しているからです。

正しいものは何だったのか。

それは、「読解もリスニングも、イメージで理解しろ」でした。

時代遅れの「英語の美学」

さて、こういう文章があります。

My grandfather grows potatoes in this field every year.

訳せば、「私の祖父は毎年、この畑でじゃがいもを育てます」でしょう。

それで丸はもらえます。学校では、「そうやって訳せ」と指導されます。

そして、テストに和訳問題が出た時、頭が回る生徒は「ポテト」とは書きません。「じゃがいも」と書き直すでしょう。

というのも、問題が「訳せ」となれば、極力、日本語色を出さないといけないからです。「ポテト」では減点が来るかも、と勘繰る。「じゃがいも」に切り替えた方が無難です。カタカナ語を減らす。学習塾でもそう指導するはずです。

極力、「日本語色」を出す。それこそが美徳。そして、先生もこれを評価する。これが、日本で長年、行なわれてきた英語

「英語力=英語を、日本語っぽく作り変える能力」です。

そして、これを「私の祖父は育てます、じゃがいもをね、この畑でね、毎年ね」と英語の語順通りに書くと、もちろんバツか減点になるでしょう。

なぜなら「日本語の文として、拙いから」です。しっかり「てにをは」を使え、となる。

「訳せ」という問題の出し方は、「英語を崩せ、語順の概念もバラせ」という指示と変わらない。

こうして意味も語順も並び替え、完璧な和訳をする。これが100年以上、教えられてきた、日本人の「英語との出会い方」です。

この理解方法は一見、何も問題がないように思えるかもしれません。

しかし、重大な欠陥があります。

何か。

それは、このやり方は、英語が「紙に文字として書かれていないと、通用しない」のです。

そう、高速に流れてくる英語の「音」を、頭から順に理解するのに、和訳は通用しません。後ろから前に戻って読む、「返り読み」ができないからです。

そのため、これに慣れ親しんでは将来、確実に絶対に限界が来ます。そしてこれは「もしなる」でも書きましたが、今後、後遺症となって残り続けます

日本人が一番やられているのは、「話す」ではなく、本来、「聞く」です。聞けないから、英語への門戸が、狭くなってしまっている。

黒板にチンタラチンタラ英語の文字を書き、日本語順に並び替える理解方法を取っていたら、このビデオを字幕なしで楽しめる日が、いつか来るのでしょうか?

無理なのは、小学生でも分かるでしょう。絶望的に無理です。

これは竹槍で鉄砲に向かっているのと、何ら変わりません。もう、今世は英語は諦めた方がいいレベルです。来世、生まれ変わるしかない。

また、ポテトを「じゃがいも」に変換することに、今の時代、何の意味もないでしょう。学ぶのは日本語ではなく、英語のなのですから。ポテトはポテトのままでいい。むしろ、「potato」の発音を気にした方が、話者に近づけます。

言語を変換する、頭の作業を増やす必要はありません。それは「何度も読める読解問題」なら別にいいのですが、「一度しか聞けないリスニング」では首を絞めてきます。

だから、あの時先生は「リスニングは、頭からポンポンイメージしろ」と言ったのです。

そう、それしか英語を聞ける方法はないのですから。

彼は教壇の上で、自白したのです。「和訳では、リスニングに太刀打ちできない」と。

「俺の授業は、紙に書かれている英語にしか通用しないぞ、聞けなくなるかもしれないぞ」と。

どうして、「読解の段階」からポンポンと頭からイメージしろ、と教えてくれなかったのでしょうか。

それに日々慣れておかないと、いざリスニングになって、ポンポンとイメージできるわけがないでしょう。それではただの、「理想論」です。

そして今思うのですが、きっとあの先生は、そこまで深くは考えていなかったのでしょう。流してしまった。どうせリスニングの配点も少ないわけですから。メインの「読解」にフォーカスを当てたのです。

My grandfather grows potatoes in this field every year.

      🔈

これで良かったのに。読解も。

そもそもながら、他言語を学ぶのに、母国語を入れるのは不純でしょう。

「英語を学ぶ」ということは「訳を学ぶ」のではなく、「考え方を学ぶ」こと

なぜ、一つ一つ日本語に変換して、「てにをは」をつけ、語順を並び替えさせられてしまっていたのか。

正直なところ、憤りを感じます。なぜなら、大人になっても自分自身、未だにリスニングに苦しんでいるからです。

そしてよく、大人になってから「完璧に和訳しなくてもいいんですか?」と不安になって聞いてくる人がいますが、それは、この時の教育方法が頭を蝕んでいます。それは英語を理解するのに、美徳でもなんでもありません。

英語を脱色している、と考えてください。

本来ですが、日本の英語教育は「リスニング」が導入された時点で、理解方法を劇的に変えるべきでした。

なぜなら、「返り読み」が通じないのですから。なぜ誰も止めなかったのか。

そして怖いのは、この教え方が、まだ続いていることです。この時代になっても、まだ。英語が国家レベルで聞けないのは、当然のことです。国中で、今でも指導者や大人は誤魔化し続けています。

私が「子供はインターナショナルスクールに預けた方がいい」と言うのはそういうことです。彼ら(ネイティブ)は、絶対にそんなことをさせません。日本人の大人だけがそうさせる。自分が学生時代、そう習ったから。周りの日本人が、そうやっているから。

そのため、完璧な和訳や、返り読みを強制させる人には、英語を習わない方がいいと思います。きっとその指導者は「聞く・話す」ことを、何一つ考えていません。英語のゴールが「受験だけ」になっている。

そのため、例えば「something to eat」は「食べるための何か」ではもうこの時代、ダメなのです。後ろから戻り読みしていますし、ただの文字和訳で終わります。

聞くときにワンテンポ遅れると同時に、実生活で気付けなくもなるます。結局使えない英語になり、何度も大人になってから、やり直しが入ります。

something to eat

      🔈

これでいい。絵を見て、ガッチリと何かがハマったでしょう。それは「感覚がついた」ということです。

これで初めて、教え方の「筋が通る」。矛盾がありません。これで「聞いたら、ポンポンとイメージしろ」はできる。

だから、指導者は「something to eat」に当たるものを、見せないと。探させないと。学習者は、見ないと。自分でも発音して、音を刻まないと。

そこまでしないと、「言葉」として機能しない。テストのためだけの英語になる。

皆さんも英語を勉強していて、「抱いた違和感」がきっとあるはずです。日本語と英語は、背負ってきたものが全く違うのですから。ない方がおかしいのです。

「be=です、ます」と習ったのに「I like baseball.=私は野球が好きです」にはなぜbe動詞がないのだろう。

宿題が終わったのは”I have finished my homework.”と、どうして「have」が入るのだろう。なぜ過去形じゃダメなんだろう。

英語を勉強してきて「ん?」となったところは、とても大事です。むしろ、そこを突き詰める。そうすると、「あ、英語ってそういう考え方なんだ、面白い」となるはずです。そこには文化の違いがある。そこを突き詰めましょう。

そして、何度も口を動かす。「理解+運動」が話者への道です。ここまでがセット。

正直、私はあの時の先生の名前を忘れてしまいました。顔も出てきません。覚えておく価値のカケラもなかったのでしょう。

ただですが、あの時、誤魔化さず、しっかりと真実を語ってくれたのであれば、私はきっとその先生の名前や顔を生涯、忘れることはなかったはずです。

もう、やめにしましょう。世界の最底辺を走るのは。

日本人が学んできた「英語」とは何だったのか?


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