英語という「教科」から、英語という「言葉」へ
英語と日本語の世界観の違い

「置き去り」にされ続けてきた感覚

久しぶりに記事を書きます。今回は「英語と日本語の違い」について、です。

「階段」から落ちるのと、「馬」から落ちるのは、感覚が違う

さて、これは昔のことです。ネイティブに、「階段から落ちる」ことを英語で表現しようと思ったのです。

私はこう言いました。

I fell down the stairs when I was a child.

そう、これで何の問題もありません。相手に伝わりました。

しかし、私はふと疑問に思ったのです。というのも、「fall off」という表現も、どこかで見たことがあったからです。

日本語だと一緒です。「階段から落ちる」のも、「馬から落ちる」のも。

しかし、ネイティブに聞くと、

I fell off the horse.

と、声を揃えて言うのです。馬の場合は、「down」ではない、と。そして、階段は「off」ではなく、「down」だと。

なぜ、馬になったら「down」ではなく、「off」を使うのだろう。

では、「穴」に落ちたら何だろう。「ハシゴ」だったら?「イス」から落ちたら?

そこに何の違いがあるのだろう。

そう、この度に私は思うのです。

「何にも英語を学んできていなかったな」と。

日本の英語教育の「大きな忘れ物」

日本の英語教育で「置き忘れられたもの」は、数え上げるとキリがありません。もう、何から何まで時代に即していません。褒められるところが何ひとつない。

聞けなくても話せなくてもよかった「明治時代の英語教育」から、コンセプトが何も変わっていないのですから、その道をどれだけ極めても、話者になれなくて当然です。なったら、逆におかしい。

そして、その大きな誤ちの一つは、「英文を日本語に訳せたら、点が取れてしまう」という、とんでもない欠陥システムです。

そう、これが訳せれば問題が解けてしまうのです。これはセンター試験です。

つまり、「I fell down the downstairs.」も「I fell off the horse.」も、「私は階段から落ちた」「私は馬から落ちた」と訳せれば、それでいいのです。点が取れてしまう。

どうでもいい。階段だろうが、馬だろうが、穴だろうが、ハシゴだろうが。なぜなら、「日本語ではどうでもいい」からです。

しかし、問題は「受験が終わった後」です。

今まで、習ってきた英語は「英語を日本語の感覚に注ぐ」という勉強だったのに、今度は「英語の感覚に揃えていく」という作業を、ゼロからスタートさせないといけないのです。

しかし、それをどこで習うのでしょうか。「階段から落ちるのと、馬から落ちるのは、感覚が違うよ」と。

恐らく、どこにもありません。ネイティブも日本人がここにつまずいていることを気づいていないのです。日本人しか分かりません、この違和感は。

私がこの数年間、日本語訳ではなく、イメージで呟いているのは、そのためです。

「down」の感覚

こうして、継続して下っていくのが、「down」の感覚です。この階段(stairs)との関係性が「down」です。

そのため、落ちれば「fall down the stairs」になります。継続して落ちていく感覚です。

「off」の感覚

しかし、馬は違うのです。落馬した時、「継続した動き」がないからです。

ポロンと、接触が外れる感覚です(on/off)。これを「down」を使うと、「長い馬を滑り落ちていくようだ」とネイティブは言います。何だそりゃ、です。

そして、この「on/off」は、着けていたメガネを外す感覚と似ています。

He took off his glasses.

そう、この感覚の違いは、「日本語にないもの」です。

つまり、「英文を日本語に訳し続けていく、英語を日本語に溶かし続けていく教育」をどれだけ延長したとしても、彼らのような感覚を掴むことは、永久にできません。

ということは、何を意味するか。

それは、この学び方では、「彼らのような英語を話せるようになることなど、永久に不可能」だということです。

なぜなら学校では、英語の作り方は「英作文」しか、習っていないからです。

そう、元にする日本語が「階段から落ちる」「馬から落ちる」と、感覚が一緒なのです。では、そこから紡がれる英語も、「同じ言葉になる」のは、当然でしょう。

こうして日本人は書店に行き、イメージを使った教材などを買い揃えて、何度も何度もやり直しています。

しかし、何をやっても一緒です。また、そこに書いてある英文を見て、日本語に訳している。そして、英語を話そうとする時も、また日本語から紡いでいる。

そう、日本語に訳せさえすれば、点が取れてしまう英語教育は、とんでもない「欠陥システム」です。少なくとも「話せる」にいくまでに、何度も「やり直し」が入る。

「英語で考える翼」をもいでしまう、丸暗記方法

さて、そうすると、日本人が次に取る行動は何でしょうか。それは、沢山のパターンを丸暗記して覚えようとする、です。

fall down the stairs=階段から落ちる
fall down the horse=馬から落ちる

そう、熟語帳みたいなものを買ってきて、またこうやって「テスト勉強」みたいに「英:日」のペアで暗記しようとする。

しかし、これは、オススメしません。

というのも、これをしていると、応用が効かなくなる、からです。

そう丸暗記した場合、「穴」から落ちたらどうなのでしょうか。「ハシゴ」だったら?それに答えられますか?そこに答えが書いてなかったらどうしますか?

そう、こうして全パターンを「丸暗記」していかないといけないのです。熟語帳みたいなものがどんどん増えていき、答えを貰い続けることになる。

そうではなく、「この場合は『off』かな、いや『down』かな。だって、こうだもん」と考える力を育まないといけない。

そう、丸暗記で済ませていたら、この大事な「考える力」が丸々削がれてしまうことになります。将来続いていく、子供の英語人生にとっても、よくない。

この「思考力、想像力の翼」がもがれてしまうと、この人は永久に英語を使えるようにはならないでしょう。永久に間違い続け、表現集の前につぶれ、そのうち、英語自体、諦める運命しかありません。

私が「日:英」の丸暗記をお勧めしないのは、こうした「英語発想の殺害」を食い止めたいからです。

まず「見て」、感覚を掴まないといけません。それが、基本です。

どうでしょうか。アリスは穴(hole)からポロンと外れたのでしょうか。「holeとの関係性」はどうなのでしょうか。

「階段」のように、「hole」を継続的に下っていませんか?

そう、”She fell down the hole.”なのです。

では、ハシゴ(ladder)はどうでしょう?

普通なら「fall off the ladder」と、発想します。ポロンと外れた。「down」なら、ズドドドと継続的な落ち方になってしまう。このハシゴはそんなに長いものでもない。

では、「イス」ならどうでしょう。「坂」なら?「自転車」なら?

「形状」や「落ち方」を見ないと。その都度、考えて英語を紡がないと、正確に伝わりません。

本来、ここを思い巡らすことが「英語の勉強」ではないでしょうか? 「日本語にはない感覚を揃える作業」です。

結局ですが、その都度その都度、伝えたい内容に沿って、英語を紡いでいかないといけません。

そしてこれは、英作文や表現集の丸暗記では、「届かない領域」です。

また、これはTOEICの得点にも現れてこないものです。なぜなら、TOEICも「英語を高速に日本語訳したら、点が取れてしまう試験」だからです。

結局、こうした、「大事な英語感覚(ニュアンス)」が放置され続けてきたのが、今の日本の英語教育です。

「英文を日本語に切り替えるだけの教育」を受けられた方は、そういう指導者に出会ってしまったことに、「運が悪かった」と思ってください。

本来ですが、そういったものを教室の中で、たっぷりと学ばないといけませんでした。そしてもちろん、そこには「音」も溢れていないといけなかった。

そして、これと「話せる」は別です。「理解」と「話す」は別個で考えないといけません。ここを一緒にしてしまうから、話がまた面倒なことになっている。

「音を出す」と「理解」は、別作業です。「音を聞く」と「理解」も別作業です。

そのため、使える英語身に付けたい方は、どうかご自分で「本当の英語の勉強、練習」を始めてください。そして、保護者の方は、この時代に即した方向に、子供の手を引いてやって下さい。

そして、今回、英語の民間試験導入が延期されました(2019,11/1)。

元々、システム事態に「無理」や「欠陥」が多々あったので、これは当然の結果だと思います。

恐らく、ホッとされた受験生や保護者も多いことでしょう。教育の現場でも、胸を撫で下ろしている方も多いはずです。なぜなら、「今までの延長作業でいい」のですから。変化を加える必要がないのは、「楽」なはずです。

ただ、民間試験を導入しようとなったのは、子供たちを「話せる」ようにさせたかった人が、少なからずいたからでしょう。今までの「訳読教育」だけではない、「スピーキングが組み込まれた民間試験」を導入して、英語を話せる日本人を作りたかった。世界に通用する、人材を育てたかった。

私は、その考えや危機感は、評価されるべきだと思っています。日本の英語に「劇的な変化」をもたらそうとしたのですから。そう、やはり英語教育の中身は変わらないといけないのです。これは間違いありません。今のままでは、やはりダメなのです。世界に敵わない。相手にされていない。

しかし、そこを民間業者に丸投げし、「試験にスピーキングを入れれば、話せるようになるだろう」と、受験料や受験システムを全く考慮せず、ただ安易に考え、周りの業者に踊らされ、自分たちの利益のことばかり考え、無駄に現場に混乱を招いてしまったところは、糾弾されるべきでしょう。

しかし、ここで一つ、確実に言えることは、「英文を日本語に訳せたら、点が取れてしまう教育」が今後も続くことになり、それが日本のガラパゴス化を更に延長させてしまった、という「最悪な一面」も、やはり見過ごしてはいけないということです。

恐らく向こう何年も、英語教育は劇的な変化はないでしょう。

そう、「英語を話せない日本人が、大量に生産され続けること」が事実上、決まってしまったのです。せっかくのチャンスだったのに。世界の底辺を走り続けることは確実です。

本来、メスを入れるのは、「日頃の学び方」だったのです。「テスト」ではなく、「教室」の方だった。ここが致命的なミスでした。発想があまりにも安易すぎた。数人の意見だけで決めてしまった。日本人が英語を話せないのは、「スピーキングテスト」を導入すれば解決するような、そんな単純な話ではありません。

どうか、自分で深く考え、英語と向き合っていって下さい。英語を学んで、何をしたいのか。何をさせたいのか。「国が全く信用できない」のは、もう明白になりました。

後で後悔だけはしないように。いずれ、今までやってきたことは、まるでブーメランのように、自分に綺麗に跳ね返って来ますから。

日本人が学んできた英語は「言葉」だったのか?


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